第三章 はじめての恋
第三章 はじめての恋
二月。
冷たい風の中にも、少しだけ春の匂いが混ざり始めていた。
春山桜は、放課後になると音楽室に通うようになっていた。
古いアップライトピアノ。
少し埃っぽい空気。
夕焼けに染まる窓。
そこが、今の桜にとって一番落ち着く場所だった。
ギターを抱え、歌詞を書く。
誰もいない音楽室で、小さく歌う。
すると決まって、ドアが静かに開く。
「またいた」
水瀬結衣だった。
「……今日も来たの?」
「うん」
結衣は笑いながら、窓際の席に座る。
その時間が、桜は好きだった。
無理に話さなくてもいい。
ただ同じ空間にいるだけで、心が落ち着く。
昔の自分には、考えられないことだった。
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「新しい曲、できた?」
結衣が聞く。
桜は少し迷ったあと、ノートを見せた。
タイトルは――『春を待つ』
結衣は静かに歌詞を読む。
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“明日が怖くてうつむいてた
それでも誰かの声で歩けた”
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結衣の指が、その一文で止まった。
「……これ、私?」
桜の顔が一気に熱くなる。
「ち、違……いや、ちょっとは……」
結衣は吹き出した。
「ふふっ、なにそれ」
桜は恥ずかしくて顔を伏せる。
でも結衣は嬉しそうだった。
「ねえ、歌ってよ」
「今?」
「うん。聴きたい」
桜はゆっくりギターを構えた。
窓の外では、夕日が沈みかけている。
オレンジ色の光の中で、桜は歌い始めた。
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“君が笑うだけで
世界は少し優しくなる”
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歌っている途中で、桜は気づく。
この歌は、“誰か”に向けた歌じゃない。
結衣に向けた歌だ。
歌い終わると、音楽室は静かだった。
結衣は少しうつむいている。
「……どうだった?」
桜がおそるおそる聞くと、結衣は小さく笑った。
「ずるいなあ」
「え?」
「そんな歌、好きになるに決まってる」
その瞬間。
桜の心臓が止まりそうになった。
「……え?」
「私、桜くんのこと好きだよ」
時間が止まったみたいだった。
風の音だけが聞こえる。
桜は何も言えなくなる。
昔の自分なら、
誰かに好きと言われても信じられなかった。
でも今は違う。
この気持ちを、ちゃんと大事にしたいと思った。
桜は震える声で言った。
「俺も……結衣のこと、好き」
結衣は少し目を丸くして、
それから優しく笑った。
その笑顔を見た瞬間。
桜の中にあった孤独が、少し溶けていく気がした。
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帰り道。
二人は並んで歩いていた。
いつもと同じ道なのに、景色が違って見える。
「なんか変な感じ」
結衣が笑う。
「……うん」
「彼氏彼女って感じしないね」
桜は照れながら言う。
「そのうち慣れるよ、多分」
すると結衣が小さく手を差し出した。
「……手、つなぐ?」
桜は一瞬固まった。
そして恐る恐る、その手を握る。
温かかった。
本当に、人の手ってこんなに温かいんだ。
桜は胸の奥で思う。
――生きててよかった。
その感情に、自分自身が一番驚いていた。
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数日後。
桜は駅前で路上ライブをしていた。
以前より立ち止まる人は増えている。
SNSに動画を上げてくれる人もいて、
少しずつ名前が広まり始めていた。
演奏が終わると、一人の男性が近づいてくる。
三十代くらい。
黒いコートを着た男性だった。
「君、オリジナル?」
「……はい」
「面白い声してるね」
男性は名刺を差し出した。
そこには、小さな音楽事務所の名前が書かれていた。
桜は目を見開く。
「今度、うちのライブイベント出てみない?」
突然の出来事に、頭が追いつかない。
夢みたいだった。
でも同時に、不安も押し寄せる。
本当に自分なんかでいいのか。
失敗したらどうしよう。
そんな桜の横で、
結衣が嬉しそうに笑った。
「桜くん、夢に近づいてるね」
桜は名刺を握りしめる。
昔は未来なんて真っ暗だった。
でも今は違う。
怖いけれど、
進みたいと思える。
歌いたい。
もっと、自分の言葉を届けたい。
夜空の向こうに、小さな春の星が光っていた。




