第九話 一番上とは、どこか
鐘は、朝のうちに鳴った。
紙をめくる音を朝まで聞いていたので、わたくしは寝ていなかった。窓が白みはじめた頃に、中庭のほうから最初の一つが届いた。
一つ。二つ。三つ。
起き上がって上着を羽織り、階段を数えながら下りた。
七つ。八つ。
止んだ。
玄関に、門番の大男が立っていた。
外套を着ている。峠から戻ったときと同じものだ。肩の雪はもう乾いていた。
その人は、わたくしに気づくと頭を下げた。
「奥様」
「はい」
「玄関、拭いておきました」
昨日と同じことを言った。それだけ言って、扉のほうを向いた。
わたくしは何も言えなかった。名を呼んではいけない。行かないでくださいと言えば、それはこの人を数に入れることになる。
扉が開いた。開けたのはミルカだった。両手で押していた。
敷石に朝の光が入って、床が白く曇った。
門番の大男は敷居をまたぐとき、一度だけ立ち止まった。
「奥様。あの門は、内からも開きません」
「はい」
「閂を打ったのは、俺です」
言い終えてから、その人は少しだけ首を傾けた。何か付け足すかどうか、迷ったように見えた。
「春に抜く者が、いります」
「はい」
「油は、玄関の棚の右下に置きました。凍らせないでください」
それが、最後だった。
わたくしは、はい、と答えた。答えることしかできなかった。
それから、雪へ出ていった。
振り返らなかった。斜面の途中で足を滑らせもしなかった。歩幅が最後まで一定で、兵の歩き方というものを、わたくしは初めて見たのかもしれない。
木立に入って、見えなくなった。
ミルカが扉を閉めた。両手で押して、閂ではなく掛け金を下ろした。金具が合う音が、玄関に高く響いた。
「奥様。中、入りましょう」
「はい」
「風邪ひきます」
その子はわたくしの背に手を添えた。触れたのは一瞬で、すぐ離した。触れてよかったのかどうかを、自分でも決めかねている手つきだった。
玄関の棚の右下を見た。油の壺があった。蝋で封じた口が、そのままになっている。
春に抜く者がいる。
わたくしは壺を少しだけ動かして、竈のある側の壁に寄せた。凍らない場所に置いておくことなら、できる。
昼、書庫へ行った。
書庫の方は机に向かっていた。羽根ペンは持っていない。紙も広げていない。ただ座っていた。
「奥様」
「はい」
「今日は、書けません」
「はい」
わたくしは向かいの椅子に座った。座ってから、聞くべきことを一つに絞った。
「伺ってもよろしいですか」
「はい」
「名簿は、下から進むのですね」
その方が顔を上げた。
「そうです」
「五十年おいでの方が最初でした。次が、四日前の方。今朝の方が三人目」
「はい」
「みな、下から順に」
「はい。古い方から順に、です」
わたくしは指を組んだ。
「では、いちばん上は」
書庫の方は、少しのあいだ黙った。
それから、言った。
「奥様。一番上は、最後なんです」
窓の枠が、風でかたりと鳴った。
「最後」
「はい。この土地の帳面は、上に書き足していきます。だから、いちばん上がいちばん新しい。新しい方ほど、この土地に数えられて日が浅いので、後になります」
わたくしは自分の指を見ていた。
組んだ指の関節が白くなっている。それに気づいて、緩めた。
「例年でしたら、下から八人か九人で冬が明けるとおっしゃいました」
「はい」
「では、上の二人か三人は」
「残ります。春に、名簿から外れます」
春に、名簿から外れる。
その言葉を、わたくしは二度、口の中で置き直した。
書庫の方が、初めて笑った。笑うというより、口の端が少し動いただけだった。
「奥様は、お帰りになれます。ふつうなら」
「ありがとうございます」
「あの、僕がお礼を言われるようなことでは」
その方は羽根ペンを取り、それからまた置いた。書けないと言ったことを思い出したらしい。
書庫を出て、廊下の窓の下でしばらく立っていた。
一番上とは、最初に行く場所ではなかった。
わたくしは春まで生きる。八人目の娘として、七人と同じように帰される。継母が鞄に一枚多く畳んで入れた夏のものを、わたくしは着ることになる。
そう思ったとき、指の先が痺れた。冷えていたのだと気づくのに、少しかかった。
厨房から、酢の匂いが上がってきていた。壺が四十二、樽が十一。春まで持たせる支度の匂いだ。
その匂いの中に、わたくしの分も入っている。誰も口には出さないけれど、皿は十一枚のままだった。
昼のあいだ、わたくしは館の廊下を二度、端から端まで歩いた。数えるためではなかった。歩いていたかっただけだ。
夜、中庭を見に行った。
旦那様が、鐘楼の脇に立っておられた。
雪はもう柱の半ばまで来ている。膝の上だ。あの方は上着一枚で、素手で刻みをなぞっていた。
なぞって、止まる。もう一度なぞる。
二度目のほうが長かった。
柱を離れ、館のほうへ歩いてくる。わたくしは廊下の窓から離れずにいた。
しばらくして、旦那様が廊下に上がってこられた。
手に、小さな帳面を持っておられた。
すれ違うとき、その帳面が開いたまま脇に挟まれているのが見えた。数字が並んでいた。上から下へ、年が並んでいる。年の横に、それぞれ数がひとつ書いてある。
八。
九。
八。
八。
九。
年は五十ほども並んでいた。上のほうは字が古くて薄い。同じ手で書かれたものではなかった。何代かにわたって書き継がれた帳面だ。
どの年も、数は八か九だった。ときどき七がある。十が二度あった。
いちばん下の行にだけ、まだ墨が乾いていない字があった。
十一。
「あなた様」
旦那様が足を止めた。
「今年の数は」
答えはなかった。
振り返りもしなかった。廊下の奥へ、そのまま歩いていかれた。帳面を閉じる音だけが、絨毯の上で小さく鳴った。
わたくしは窓のところに残された。
廊下の端で、燭台の火がひとつ落ちた。誰かが消しに来たわけではない。蝋が尽きただけだ。
春に、名簿から外れます。書庫の方はそう言った。あの方は嘘をついていない。例年の話をしただけだ。
例年でしたら。良いことです、ふつうは。届かないんです。
あの方は一度も、今年のことを言わなかった。
名簿には十一人おります。
下から八人か九人で、例年は冬が明けます。
今年は、十一。
一番上とは、最初に行く場所ではございませんでした。
全員を見送ってから、わたくしが行くのでございます。




