第八話 今年は、早い
斧は、翌朝には片付けられていた。
切り株だけが残っている。雪が積もって、刃の跡は見えなくなっていた。
それから四日、鐘は鳴らなかった。
八人。旦那様とわたくしを入れて、十人。この数はしばらく動いていない。
朝、玄関のあたりが騒がしかった。
騒がしいといっても、この館のことだから、人が三人立って荷を確かめているという程度だ。門番の大男が革の腰帯を締め直し、麻縄の束を肩にかけていた。
「奥様。おはようございます」
その人が先に頭を下げた。この館で、こちらから声をかける前に挨拶をよこすのは、この人だけだ。
「どちらへいらっしゃるのですか」
「峠を、閉めに」
「閉める」
「はい。門を落として、閂を打ちます。雪が来る前にやらんと、あとで開けられなくなるんで」
言い方が軍隊のそれだった。前に一度、元は王都の兵だったと聞いたことがある。
「どのくらいかかりますか」
「行きが半日、帰りが半日。閂は一刻」
その人は縄の結び目を確かめ、それから雪の空を見上げた。
「今年は、早い」
「早い、と申しますのは」
「峠が塞がるのが、です。例年は、あと十日ほど後で」
馬が引かれてきた。荷を積んだそりを繋いでいる。門番の大男は鞍にも乗らず、そりの脇を歩いていくつもりらしい。
荷を見た。閂に使う樫の角材が二本、鉄の金具、それに油の壺。壺の口は蝋で封じてあった。
「その油は」
「金具に差します。凍ると閂が抜けなくなるので」
「春に抜くためのものでございますね」
「そうです」
その人はそりの縄をもう一度締め直した。指が太くて、結び目が小さい。
「奥様。峠を見たことは」
「参りますときに、一度」
「あそこは道が一本しかありません。門を落とせば、それで終わりです。回り道はない」
言い方に含みはなかった。ただ、事実を報告する口調だった。
「奥様。お戻りになるまで、門はどなたも開けられません」
「はい」
「春までです」
それだけ言って、その人は歩き出した。
昼を過ぎて、日が傾きはじめてから戻ってきた。
外套の肩に雪が積もっている。玄関で払い落とすと、床がすぐに濡れた。
旦那様が階段の下に立っていた。
「閣下。峠、閉めました」
「ご苦労」
「閂は二重に打っております。春の雪解けまでは、内からも外からも」
「そうか」
旦那様は頷きも返事もせず、それだけだった。門番の大男は一礼して、自分の持ち場へ戻っていった。
わたくしは廊下の柱の陰にいた。
立ち聞きをするつもりはなかった。ただ、そこにいた。旦那様がこちらを見て、見たままにして、階段を上がっていかれた。
閉めました、と報告した人と、ご苦労、と返した人。やり取りは二往復で終わった。この館では、大きなことほど短く済む。
門番の大男が濡れた床を自分で拭いていた。布を絞る音がして、水の匂いが立った。
「奥様。お足元、滑ります」
「ありがとうございます」
「この時期は、玄関がいちばん危ない」
そう言って、その人は膝をついたまま床を拭き続けた。四日前に薪を割っていた人がいなくなったことについては、一言もなかった。
厨房を通ると、ミルカが大鍋の前にいた。塩と、酢の匂いがする。
「奥様、今日から漬け直しなんです」
「漬け直し」
「峠が閉まったら、あるものだけで春まで持たせるので。日持ちしないやつから食べて、残りは全部漬けます」
その子は木べらで鍋の底をさらった。
「あたし、これ好きなんです。数えるの」
「数える」
「はい。壺がいくつ、樽がいくつって。マルテさんが数えて、あたしが書きます。書けるのは数字だけですけど」
ミルカが数を書き、マルテが数える。この館では、数えることが仕事として分けられている。
「今年はいくつでございますか」
「壺が四十二。樽が十一」
樽が十一。
わたくしは口の中で繰り返した。この数はほかのものと関わりがない。それでも一度、耳が拾ってしまった。
夕食のあいだ、誰も峠の話をしなかった。
ミルカは皿を運び、マルテは鍋の火を落とし、洗濯場の女は子どもを連れて先に部屋へ下がった。門が閉まったことを損だと思っている人が、この館に一人もいない。
わたくしだけが、そのことを勘定に入れていた。
実家では、冬に道が塞がるということがなかった。雪の日に馬車が出せない日はあっても、翌週には出せた。出せない道というものを、わたくしは今日まで知らずにいた。
春まで、誰も出られない。誰も入ってこない。
助けを呼ぶ相手がいるわけではない。実家に手紙を出したところで、春には帰るのだからと言われて終わりだ。呼べる相手がいないことと、呼べないことは、違う。
違うのだけれど、どう違うのかを言葉にできなかった。
夜、三階に上がった。
十七段。踊り場。十七段。数えながら上がるので、いつも同じ時間がかかる。
書斎の扉の下から、光が漏れていた。
中で音がする。
紙をめくる音。少し置いて、また一枚。ペンが紙を擦る音。それから、乾いたものを削るような音。
書いて、消している。
わたくしは扉の前に立った。
嫁いできた日から、この音は毎晩している。峠が閉まった夜も、していた。
この扉を叩けば、あの方は開けるだろうか。
開けたとして、何を尋ねればいいのかが分からない。
雪尺のことも、例年でしたらという言葉のことも、聞き方が分からない。この館で何かを尋ねると、たいてい、答えではないものが返ってくる。
尋ねるべきことは、たぶん一つだ。
今年は、届くのですか。
その一言を、わたくしはまだ口の形にできずにいる。
手を上げた。
叩かずに、下ろした。
燭台の火が、扉の隙間の光と混じらずに揺れていた。廊下は冷える。指がかじかんできて、蝋が固まるのが早い。
中の音が、一度止まった。
止まって、また始まった。
わたくしは階段を下りた。十七段。踊り場。十七段。
部屋に戻って、蝋燭を数えた。十一本。引き出しの一本を入れれば十二本になるけれど、それは数に入れない。使わないと決めたものは、数えない。
鐘は鳴らなかった。名簿は九のまま。次に鳴るときは八回になる。
窓の外は、もう峠のほうまで白かった。どこが道でどこが斜面か、上からは分からない。
紙をめくる音は、朝まで続いた。




