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第七話 斧

鐘が九回鳴ったのは、四日後の昼だった。


 わたくしはそのとき厩にいた。テオに字を教えている最中で、藁の上に「三」と書いたところだった。


 一つ。二つ。三つ。


 テオが指を止めた。書きかけの字を、指の腹で消してしまった。


 九つで、止んだ。


「奥様。おれ、仕事ある」


「はい」


 少年は桶を持って出ていった。走らなかった。歩く速さも変えなかった。


 わたくしは藁の上を見た。テオが指で消したはずの三の字が、まだ半分残っていた。消しきれていないのに、あの子は行ってしまった。


 馬が一頭、鼻を鳴らした。厩の匂いは冬でも変わらない。藁と、乾いた糞と、馬の汗。


 裏口へ回ると、薪割り場の老人が立っていた。


 名前は知っている。名簿の十番目、ヨナス。けれど、この人とはまだ一度も話したことがない。


 三度、話しかけたことはある。


 一度目は、薪をお運びしましょうかと言った。返ってきたのは、ああ、という音だけだった。二度目は、寒くありませんかと聞いた。寒い、と返ってきた。三度目は何を言ったか忘れた。何も返ってこなかったことだけ覚えている。


 その人が、外套を着ていた。


 わたくしは立ち止まった。


 この土地の作法では、名を呼んではいけない。声をかけていいのかどうかは、まだ教わっていない。


 ヨナスは切り株の上に斧を置いた。刃を上に向けて置く人と、下に向けて置く人がいる。この人は下に向けて置いた。柄の握りが黒く光っていた。


 それから、わたくしのほうを見た。


 目が合った。


 何か言おうとして、口を開いた。開いたまま、少しのあいだ動かなかった。


「……薪は」


 それだけだった。


「薪は」


「裏に、割ってある」


 しゃがれていた。ずいぶん久しぶりに使う声のようだった。


 三度話しかけて三度とも足りなかった言葉が、四度目にようやく形になっている。


「はい」


「三月ぶん、ある」


「はい」


「足りる」


 ヨナスは頷きもせず、雪のほうへ歩き出した。


 厨房のほうから、人が出てきた。ミルカと、料理人のマルテ。二人とも前掛けのまま立ち止まって、それだけだった。誰も声を出さない。


「奥様」


 ミルカが小声で言った。


「なんでしょう」


「あの、行かれるときは、こっちを見ないほうがいいって言われてます」


「どなたに」


「みんなに」


 言いながら、その子は自分の足元を見ていた。マルテは腕を組んだまま、雪のほうを見ている。見ないほうがいいと言った当人が、二人とも見ていた。


 わたくしも、見ていた。


 老人の背中は小さかった。長く薪を割ってきた人の背中は丸くなるのだと、実家の下働きから聞いたことがある。


 斜面の途中で一度、足を滑らせた。


 わたくしは半歩前に出た。出てから、行けないことを思い出した。あの道は、順番の来た者にしか見えない。


 ヨナスは自分で立ち上がって、また歩いた。


 木立に入るまで、誰も何も言わなかった。


 その日の夕方、薪割り場に行った。


 斧が切り株の上にあった。刃を下に向けて。柄の先に、乾いた木屑がついている。


 持ち上げてみると、思っていたより重かった。両手でないと肩の高さまで上がらない。この重さを、あの人は何十年ぶん振り下ろしてきたことになる。


 切り株の面には、無数の刃の跡が重なっていた。新しい跡と古い跡が層になっていて、どこまでが今年のものか分からない。


 裏に回ると、割った薪が壁いっぱいに積んである。積み方が揃っていた。端の一本まで、向きが同じだった。


 わたくしは数えかけて、途中でやめた。


 三月ぶんあると言われたものを数えても、意味がない。三月ぶんあるかどうかを確かめる立場に、わたくしはない。


 それでも壁の高さを目で測ってしまった。癖はこういうときに出る。


 厨房に戻ると、ミルカが竈に薪をくべていた。


「奥様、寒くないですか」


「大丈夫です」


「今日のは、よく燃えるやつです」


「そうですか」


「よく乾かしてあるんです。割ったあと、一年置くんですって。今くべてるのは、去年のぶん」


 ミルカは火掻き棒で薪の位置を直した。火の粉がひとつ跳ねて、床で消えた。


「来年ぶんも、もう積んであります」


「そうですか」


「はい。裏に」


 その子はそれ以上言わなかった。言わないと決めた顔をしていた。


 誰も、あの人の名前を言わなかった。


 夕食の席で、旦那様が短く言った。


「斧は、片付けさせる」


「はい」


「使う者がいない」


 わたくしは匙を置いた。


「割ってある薪は、三月ぶんだそうでございます」


 新聞の端が、指の中で止まった。


「誰が言った」


「ご本人が」


 旦那様は答えなかった。しばらくしてから、新聞をめくる音が一度だけした。


「そうか」


「はい」


「……足りるな」


 その二言だけだった。それきり、食事のあいだは何も。


 わたくしは皿を数えた。十一枚。減っていない。皿の数は、名簿の数ではなく、館にいる人の数で決まるらしい。


 八人。旦那様とわたくしを入れて、十人。


 厨房を出て、廊下でテオとすれ違った。


 この子は昼のあいだ、ずっと厩にいたはずだ。裏口に来なかった。


「奥様」


「はい」


「さっきの、三の字」


「はい」


「もう一回、教えてくれる?」


 わたくしはその場にしゃがんで、廊下の埃の上に指で書いた。テオが同じところをなぞる。二度目でうまく書けた。


「書けました」


「うん」


 少年は自分の指を見た。埃で灰色になっている。


「奥様。おれ、あの人と話したことない」


「はい」


「一回も」


「わたくしは、四回ございました」


 テオは少し考えて、それから立ち上がった。


「じゃあ、奥様のほうが多い」


 そう言って、厩のほうへ戻っていった。


 多い、と言われて、わたくしは廊下に残された。四回。三度は言葉が足りず、四度目でようやく三つ返ってきた。それが多いほうに入るのだと、この館では数えるらしい。


 夜、部屋の窓から薪割り場を見た。


 斧はまだあった。片付けさせると言われたものが、今夜はまだそこにある。雪が薄く積もって、柄の輪郭だけが黒く残っていた。


 三度話しかけて、返ってきたのは二つの言葉だった。


 四度目に、三つ返ってきた。


 薪は。裏に、割ってある。三月ぶん、ある。足りる。


 わたくしはそれを、順番に思い出せる。


 鐘は九回鳴った。次は八回になる。


 名前を言わない土地では、言葉の数を覚えておくよりほかにない。

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