第六話 例年でしたら
椅子を運んでいたのが旦那様だと知ってから、わたくしは書庫へ通うようになった。
あの方に直接お尋ねしても、返ってくるのは三語か四語だ。ならば、書かれたものを読むほうが早い。
書庫の若い方は、わたくしが入っていくたびに肩を跳ねさせた。三度目でようやく、跳ねるだけで立ち上がらなくなった。
「あの、奥様。何をお探しですか」
「冬名簿のことを知りたいのです」
羽根ペンが止まった。
「それは、その」
「書いてはいけないことなら、けっこうです」
「いえ。書いてないことなら、しゃべってもいいと思います。たぶん」
妙な理屈だった。けれどその方は自分の言葉に納得したらしく、椅子を回してこちらを向いた。インクの匂いが動いた。
「毎年、領内の十二の家からくじで娘さんをひとり選んで、こちらへお迎えするんです」
「はい」
「それが、その年の冬名簿のいちばん上になります」
わたくしは指を組んだ。
「毎年」
「毎年です。奥様で八人目だと思います。旦那様が当主になられてから」
八人。
わたくしの前に、七人いた。
「その方々は」
「春に、お家へお帰りになります」
言葉の意味を掴み損ねた。掴み損ねたまま、聞き返した。
「お帰りに」
「はい。例年でしたら、一番上まで届かないんです」
書庫の窓が、風で小さく鳴った。
「届かない、と申しますのは」
「その冬に森を渡られる方の数が、名簿の途中で足りてしまうということです。八人とか、九人とか。それくらいで冬が明けます」
「名簿には十一人おります」
「ええ。ですから、下から数えて八人か九人までで終わって、上のほうの何人かは残るんです。残った方は、春になったら名簿から外れます」
指の組み方を、わたくしは緩めた。
下から数えて。
その言い方が耳に残った。名簿は上から書いてある。それを下から数えるということは、順番は下から進むということだ。
いちばん下には、五十年この家にいた人の名があった。その人は、いちばん先に行った。
いちばん上には、三日前に嫁いできた娘の名がある。
わたくしは書棚のほうを見た。背表紙の並びが揃っていない。背の高い本と低い本が混ざっていて、司書の几帳面さは棚には及んでいないらしい。
「では、上のほうにあるということは」
「はい」
「それは、良いことなのでしょうか」
書庫の方は、答える前に一度、羽根ペンを持ち替えた。
「良いことです。ふつうは」
「ふつうは」
「……ええ」
それ以上は続かなかった。羽根ペンの先が紙に触れて、また離れた。
「くじに当たった娘は、春に帰されるのですね」
「はい。無事にお帰りになれば、良縁がつくと言われています。辺境伯家に縁のあった娘さんですから」
だから継母は胸を撫で下ろしたのだ。
だから父は、よくやったと言ったのだ。
あの人たちは、わたくしを売ったのではなかった。名誉なくじに当たった娘を、名誉なとおりに送り出しただけだった。
書庫を出て、廊下の窓の下で立ち止まった。
八人目。わたくしの前に七人。その七人は皆、春に帰って、良縁がついた。
七回続けて上まで届かなかったなら、それは決まりのようなものだ。八回目だけ違うと考えるほうが、よほど無理がある。
部屋に戻って、寝台の縁に腰かけた。
実家を出る朝のことを思い返してみる。
継母は玄関で泣かなかった。姉たちは部屋から出てこなかった。上の兄は狩りに行っていて、下の兄は寝ていた。父だけが馬車まで来て、窓越しに、体に気をつけろ、と言った。
荷は鞄が二つだった。冬のものと、夏のもの。夏のものを入れるとき、継母が春には帰るのだからと言って、一枚多く畳んでくれた。
あれは、そういう意味だったのだ。
あのとき、誰かが泣いていたら、わたくしはこの土地の作法を破る家から来たことになる。
誰も泣かなかった。あの家もまた、嘆かない家だった。理由は違うけれど。
窓の外が青くなり、それから暗くなった。
夕食のあいだ、旦那様は一度も口を開かなかった。皿は十一枚。椅子は十一脚。わたくしの席の角度は、今日も少しだけ斜めになっていた。
肉が硬かった。塩の効かせ方が強い。冬のあいだ保つように漬けたものだと、ミルカが前に言っていた。
匙を置いたとき、向かいで新聞が畳まれる音がした。
「よく食べる」
「はい」
旦那様はそれだけ言って、席を立った。褒められたのか、量を数えられていたのか、判じかねた。
夜半、廊下の窓から中庭を見た。
人影があった。
鐘楼の脇に、細い柱が立っている。前にも見たものだ。あのときは輪郭しか分からなかったけれど、今夜は月が出ていた。
旦那様だった。
外套を着ずに立っている。雪はもう膝の下まで来ているのに、上着一枚だった。柱には横に刻みが入っていて、雪の面がどの刻みまで来ているかを、指でなぞって確かめておられた。
なぞって、しばらく動かない。息が白く上がって、月明かりの中で消えた。
それから懐から小さな帳面を出し、何か書きつけた。手袋をしていないので、指がかじかむだろうと思った。
柱を離れて、また戻る。同じところを二度なぞった。
二度目のほうが長かった。
三度目はしなかった。柱を離れ、館のほうへ戻ってくる。歩き方が、行きより遅かった。
わたくしは窓から離れた。
部屋に戻ると、蝋燭が並んでいる。数えるまでもなく十一本ある。引き出しには、火をつけていない一本がしまってある。
例年でしたら、と書庫の方は言った。
例年でしたら、一番上まで届かない。
あの言い方には、含みがある。例年でない年のことを知っている者の言い方だ。届く年があるということを、あの方は口に出さずに済ませた。
良いことです、ふつうは。そうも言った。
あの方は毎晩、雪の深さを測っておいでになる。測る必要があるのは、測らねば分からないからだ。
鐘は鳴らなかった。
残りは十。次に鳴るときは九回になる。それは変わらない。
変わらないはずのことを、わたくしはもう一度、指を折って確かめた。
十のうち、下から八人。あるいは九人。
そこで冬が明けるのなら、残るのは二人か、一人。
名簿の上から二番目は、書庫のあの方だ。いちばん上は、わたくし。
良いことです、ふつうは。
あの言葉を、わたくしは寝るまでのあいだに四度、思い返した。




