第五話 椅子
蝋燭は、三晩続けて十一本あった。
置きに来る者を捕まえようとして、わたくしは扉を細く開けたまま待ってみた。二晩やって、二晩とも取り逃がした。うとうとしている隙に置かれているらしい。籠の跡が卓に薄く残っているだけで、足音も聞いていない。
三晩目は起きていた。それでも駄目だった。
夜半に廊下を確かめに出て、戻ったときには並んでいる。数えると十一本。わたくしが部屋を空けたのは、階段を下りて上がるまでのあいだだけだった。
誰かが、わたくしの動きを見ている。
そう考えるのが筋だけれど、この館でわたくしを見ている者がいるとは思えなかった。皆が目を合わせない。奥様、と呼ぶときも、たいてい床のあたりを見ている。
朝、厩に行った。
馬を見に行ったのではない。館の中を歩き尽くしてしまって、行っていない場所がそこだけになっていた。
藁と、馬の汗の匂いがした。厩の奥で、小柄な人影が桶を運んでいる。
「奥様」
振り向いたのは、少年だった。十三か、そのくらい。頬に藁のかけらがついている。
「おはようございます」
「え。あ、おはようございます」
少年は桶を置いて、慌てて手を前掛けで拭いた。それから、こちらを見上げた。
「奥様。ちょっと、いい?」
「はい」
「これ、なんて書いてある」
差し出されたのは、木の札だった。飼葉桶に下げるもので、墨で二行書いてある。
「上が、朝の量。下が、夕の量でございます」
「量って、どのくらい」
「上が二すくい、下が一すくい半と書いてございます」
少年は札を受け取って、しばらく眺めていた。
「二と、一と半」
「はい」
「おれ、ずっと三すくいずつやってた」
「どなたにも教わらなかったのですか」
「札は読めって言われた。読めるかどうかは、聞かれなかった」
少年は札を桶に掛け直した。掛け方は慣れている。読めないだけで、仕事は覚えているらしい。
「あなたのお名前は」
言ってから、しまったと思った。
けれど少年は、指で藁を払いながら答えた。
「テオ」
「言ってはいけないのでは」
「奥様が先に聞いたし」
理屈が通っているのかいないのか、判じかねた。名簿の三番目にあった名前だ。
「テオ。読めるようになりたいですか」
少年は桶の縁を握った。
「なる」
それだけだった。ならなくてもいい、とも、教えてくれ、とも言わなかった。
わたくしは札の一行目を指で示して、その日は三つの字だけ教えた。二、と、朝、と、夕。テオは指を舐めて、藁の上に同じ形を書いた。書いたそばから消えるので、何度も書き直していた。
「明日も来る?」
「参ります」
「ほんとに」
「参ります」
テオは桶を持ち上げて、それから思い出したように振り返った。
「奥様。おれ、字が読めるようになったら、あの紙も読める?」
あの紙、というのが何を指すのか、聞かなくても分かった。広間の壁に貼ってある紙のことだ。
「読めます」
「そっか」
少年は馬房のほうへ行ってしまった。読めるようになったら何が書いてあるのかを、この子はまだ知らない。知らないほうがいいのかどうか、わたくしには判断がつかなかった。
昼、食堂に行くと、椅子の数が変わっていた。
十一脚。昨日まで十二脚あった。
わたくしは卓の脇を見た。余りの椅子は積まれていない。運び出されたのだ。
厨房の入口からミルカが顔を出した。
「奥様、お食事はもう少しかかります」
「椅子のことを伺ってもよろしいですか」
「椅子ですか」
「昨日まで十二脚ございました」
ミルカは食堂を見回して、それから小さく口を開けた。
「ほんとだ。減ってる」
「どなたが運ばれたのでしょう」
「厩の子か、門の人か……いえ、門の人は昨日から峠のほうへ行ってて」
ミルカは前掛けの端を指に巻きつけた。
「奥様。椅子って、減るものなんです」
「減る、と申しますと」
「そういうものなんです。冬は」
言ってから、自分の言葉が足りなかったと思ったらしい。ミルカは慌てて付け足した。
「あの、悪い意味じゃなくて。片付けるとき楽だし」
言えば言うほど、その子の顔は困ったものになっていった。わたくしは、それ以上聞かないことにした。
その日はそれきりになった。
夕方、書庫へ本を返しに行った。
書記の若い方は今日も机に向かっていて、紙をめくる音だけが返事のようだった。声をかけると肩が跳ねるので、棚に本を戻して黙って出た。
帰りに、食堂の前を通った。
扉が半分開いていて、隙間から橙色の光が細く伸びている。中で、椅子を引きずる音がした。木の脚が敷石を擦る、低く長い音だった。
覗くと、旦那様が椅子を持ち上げているところだった。
外套を脱いで、袖をまくっている。手袋はしていない。椅子を一脚抱えて壁際まで運び、そこに伏せて置いた。それから卓に戻り、残りの椅子の間隔を直していく。端から順に、指の幅で測るような手つきだった。
わたくしは動けずにいた。
旦那様は最後に、卓の端の椅子を少し引いた。わたくしの席だった。座りやすい角度に、わずかに斜めにしてある。
顔を上げて、こちらに気づいた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
「使用人がおりますでしょう」
「数が合わないと、気になる」
「わたくしが直しても」
「いい」
旦那様は袖を下ろし、外套を取った。
「君は、数を数えるだろう」
息が止まった。見られていたのだと分かった。
「はい」
「数えるな、とは言わん」
「はい」
「ただ、合わない数を数えるのは、疲れる」
それだけ言って、旦那様は食堂を出ていった。すれ違うとき、羊毛と、冷えた墨の匂いがした。
わたくしは一人で、椅子を数えた。十一脚。それから、わたくしの席の椅子に触れてみた。座面が冷えていない。運ばれてから、まだ間がないのだと分かった。
ラウレント家の食卓では、椅子はいつも足りなかった。誰かが減らしていたのではない。誰も増やさなかっただけだ。わたくしは廊下で数えて、足りないと分かると、厨房で立ったまま食べた。そのほうが早いからだと言って、そういうことにしていた。
この館では、椅子の数が人の数と合っている。
合わせている人が、いる。
わたくしはその晩、蝋燭を数えなかった。数えなくても、十一本あることが分かっていた。
鐘は鳴らなかった。
三日前に十回鳴ってから、中庭の鐘楼は静かなままだ。次に鳴るときは、九回になる。
わたくしはそれを、数えなくても知っている。




