第四話 蝋燭
それから二日が過ぎた晩、ドロテアがわたくしの部屋に蝋燭を置いていった。
「奥様。今夜のぶんでございます」
卓の上に籠を置き、中身を並べていく。細い蝋燭が、燭台の脇に一本ずつ立てられた。
わたくしは数えた。十一本。
この館では蝋燭も薪も、日ごとに量って配られる。三日前に教わったばかりの決まりだった。奥様のお部屋は十本、と、そのときドロテアはそう言った。
「一本、多うございます」
「さようでございますか」
ドロテアは籠を持ち上げ、それだけ言った。数え直しもしなかった。
扉のところで一度立ち止まり、こちらを見た。
「奥様。畳み方は、そのうち慣れます」
それが最後だった。
朝、鐘が鳴った。
わたくしは寝台の中で目を開けていた。夜のうちに雪が止んだらしく、雪明かりが天井まで届いて、部屋がやけに明るい。
一つ。二つ。三つ。
起き上がって、上着を羽織った。
七つ。八つ。九つ。
十。
止んだ。
昨夜は十一だった。
廊下へ出ると、館の者が玄関のほうへ集まっていくところだった。誰も走っていない。誰も声を出していない。厨房から出てきたミルカが、前掛けを外しながら壁際に寄った。
玄関の広い床に、ドロテアが立っていた。
外套を着ている。灰色の、丈の長いものだった。首元の紐は自分で結んだらしく、少し曲がっている。
誰も、止めなかった。
門番の大男が扉を開けた。冷えた空気が入ってきて、床の敷石を白く曇らせた。
「行ってらっしゃいませ」
誰かがそう言った。誰が言ったのか分からない。行ってきますとも、さようならとも、返事はなかった。
ドロテアは敷居をまたいだ。雪が新しく積もっているので、足を上げる歩き方になる。それでも背筋はまっすぐだった。
わたくしは玄関まで出た。
名前を呼びかけて、口を閉じた。呼べば数に入れることになる。今朝教わったばかりの作法が、喉のところで言葉を止めた。
ドロテアは一度も振り返らなかった。
北の斜面のほうへ、外套の灰色が小さくなっていく。雪の白い面の上で、それだけがゆっくり動いていた。やがて木立の陰に入り、見えなくなった。
門番が扉を閉めた。
振り返ると、廊下の奥に旦那様が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。壁に手をついているわけでも腕を組んでいるわけでもなく、ただ立っていた。手袋をしていない手が、外套の裾のあたりで軽く握られている。目の下の隈は、いつもより濃かった。
わたくしは近づいた。
「あの方は、どちらへ」
「森だ」
「森の、どちらへ」
「知らん」
「お戻りには」
「ならない」
短い返事が三つ続いて、それきりになった。旦那様は玄関の扉のほうを見ている。もう誰も立っていない敷石を、しばらく見ていた。
「あなた様は、お見送りにいらしたのですか」
答えはなかった。
それから旦那様は背を向けて、階段のほうへ行ってしまった。足音が、途中で一度だけ止まった。
昼、ドロテアの部屋が片付けられた。
わたくしは廊下から見ていた。針子の女とミルカが入っていって、寝具を運び出し、卓の上のものを籠にまとめている。手際がよかった。初めてではないのだと分かる手つきだった。
誰も、あの人の話をしなかった。
運び出された寝具が廊下を通っていくとき、すれ違った下働きの女が道を空けた。それだけだった。荷を見もしなかった。
わたくしは針子の女を呼び止めた。三十過ぎの、痩せた人だった。
「あの、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「あの方の持ち物は、どちらへ」
「洗って、使えるものは使います」
「ご家族は」
「おりません。五十年こちらでございましたから」
女は籠を抱え直した。指が赤く荒れていて、爪のあいだに糸くずが挟まっている。
「奥様。今は、何もおっしゃらないほうが」
「何かいけませんでしょうか」
「何か言いたそうなお顔をしておいでです」
わたくしは口を閉じた。
「言葉にすると、数に入りますので」
それだけ言って、女は行ってしまった。名乗りもしなかった。名簿の六番目にあったハンナという名前が、その人のものだろうと後になって分かった。
厨房に行くと、マルテが野菜を刻んでいた。まな板の音が規則正しい。
「今日は十一枚だ」
わたくしに言ったのではなかった。ミルカへの指示だった。
「はい」
「明日もだ」
ミルカは棚から皿を出して、一枚ずつ数えた。声には出していない。唇だけが動いていた。
わたくしは竈の脇に立っていた。追い出されもしないが、話しかけられもしない。
「ミルカ」
肩が跳ねた。皿が一枚、危うく傾いた。
「奥様、あの、名前は」
「ごめんなさい」
「いえ、あたしが先に言ったんですし」
ミルカは皿を胸に抱えたまま、少し笑った。笑ったのに、目のあたりが赤い。
「あの人、朝ごはんのとき、あたしのこと厨房のって呼びました。いつも通りに」
「はい」
「いつも通りでした。ほんとに、いつも通りで」
それ以上は続かなかった。ミルカは皿を並べに行ってしまい、背中がしばらくこちらを向いたままだった。
泣いてはいないようだった。この土地の子は、泣き方を教わらないのかもしれない。
わたくしも数えた。厨房に二人。洗濯場に二人。針子部屋に一人。厩に一人。門に一人。書庫に一人。薪割り場に一人。
九人。旦那様とわたくしを入れて、十一人。
昨日は十二人だった。リネン室に、もう誰もいない。
夕方、広間の名簿を見に行った。
いちばん下の名前に、細い線が引かれていた。墨は新しく、線は定規を当てたようにまっすぐで、一本きりだった。消してあるわけではない。名前はまだ読める。
消さないのは、消せないからなのか、消さないと決まっているからなのか。どちらなのかを尋ねる相手は、もうこの館にいなかった。
誰が線を引いたのかも、分からなかった。
部屋に戻ると、卓の上に蝋燭が並んでいた。
わたくしは籠を持ってきた者を見ていない。いつのまにか置かれていた。
数えた。
十一本。
あの人はもういない。それでも、蝋燭は十一本あった。
わたくしは一本を手に取って、火をつけずに引き出しにしまった。使わずにおくことにした。
残りの十本に火を入れると、部屋がずいぶん明るくなった。
窓の外はもう暗い。中庭の鐘楼が、雪明かりで輪郭だけ見えている。
鐘は鳴らなかった。
今夜は誰も減らない。それだけは、確かなことだった。




