第三話 嘆いてはならない
それから二日、書斎の光は夜ごとに灯った。
名前を言ったことを内緒にしてくれとミルカに頼まれてから、わたくしは館の者に何も尋ねないようにしていた。尋ねれば、誰かに口を塞がせることになる。あの子が指の隙間から漏らした短い声を、わたくしはまだ覚えている。
だからその朝、リネン室でドロテアと二人になったとき、聞くならこの人しかいないと思った。
「奥様。畳み方が違いますよ」
ドロテアは白布を取り上げ、四つに折り直してみせた。皺の伸ばし方まで決まっているらしい。糊と、乾いた麻の匂いがした。
「教えていただきたいことがございます」
「なんなりと」
「この館では、なぜ名前を呼ばないのでございますか」
ドロテアの手は止まらなかった。布を積み、角を揃え、また次の一枚を取る。
「お嘆きになってはいけないからでございます」
「嘆く」
「泣く、と申し上げてもよろしゅうございます。声を上げる。名を呼ぶ。墓を立てる。花を供える。そういったこと一切を、この土地ではいたしません」
「弔わない、ということでございますか」
「弔えないのでございますよ」
ドロテアは初めて手を止めて、こちらを見た。
「奥様。人を嘆くというのは、その人をまだ数に入れている、ということでございます」
窓の外で、庇の雪が滑り落ちた。どさりという鈍い音が、部屋の中まで届いた。
「数に、入れる」
「はい。この土地は、いる人の数を数えております。数えて、養える分だけを養う。養えない分は、森がお引き取りになる」
「森が」
「二百年前からそういう決まりでございます。飢饉の年に、初代様がお結びになったと聞いております」
ドロテアは白布をもう一枚取った。
「もう森を渡られた方を、まだいるものとして数える者がおりますと、土地はその方をまだ在るものとして勘定なさいます。数が一人ぶん増えるのでございますよ」
「増えると、どうなるのでございましょう」
「養えない分が、一人増えます」
わたくしは、自分の指が布の端を握っているのに気づいた。
「つまり、誰かが嘆きますと」
「次のお迎えが、早うなります」
ドロテアの声は、朝の献立を告げるときと少しも変わらなかった。
「ですから、お嘆きになってはいけません。ご自分のためではございません。残る方々のためでございます」
畳まれた布が、ドロテアの手元で四角い山になっていく。角と角がぴたりと合っていて、崩れる気配がない。
わたくしはその山を見ていた。
人が消えても泣いてはならない。名を呼べば、その人がまだいることになってしまう。花を供えれば、供えた分だけ誰かが減る。
筋は通っている。通りすぎているほどだった。
この土地の人々は、二百年のあいだ、そうやって誰も弔わずに冬を越してきたのだろう。憎むべき誰かがいるわけではない。飢えて全員で死ぬか、順を決めて幾人かを差し出すか。二百年前の誰かが後者を選び、その選択の上に、今この部屋の布の山がある。
「奥様。手が止まっておいでですよ」
言われて、わたくしは布を折った。角が合わなかった。
昼、広間へ行った。
名簿は昨夜と同じ場所に貼られている。近くで見ると、墨がまだ乾ききっていない字もあった。
上から順に読む。二番目のエミル・フォスは書庫の若い方。ミルカは厨房の娘。リーゼというのが、洗濯場のあの子だろう。アンネはその母親。
テオという名には見当がつかなかった。ハンナも分からない。マルテは、たぶん食事を運んでくるあの料理人だ。グレゴールは門番の大男。ヨナスは、裏で薪を割っている老人だろう。
顔と名前を、ひとつずつ結びつけていく。三度読むと、順に思い出せるようになった。
いちばん下に、ドロテアの名前があった。
背後で足音がして、当のドロテアが盆を持って通りかかった。わたくしの視線の先を見て、それだけで察したらしい。
「一番下でございますね」
「はい」
「わたくしがこの家でいちばん古うございますから」
平然としていた。老いた人が自分の膝の具合を話すような調子で、その人は続けた。
「五十年おります。先代様のお子様がたも、わたくしが襁褓を替えました」
「一番下ということは」
そこで言葉が途切れた。どう聞けばいいのか分からなかった。一番下と一番上、どちらが先なのか。わたくしはまだ、この紙の読み方を知らない。
ドロテアは待っていたが、わたくしが黙ったままでいると、ではこれで、と会釈をして行ってしまった。
夜、部屋で燭台に火を入れた。
嘆いてはならない。泣いてはならない。名を呼んではならない。
思い返してみて、わたくしは妙なことに気がついた。
母が死んだとき、わたくしは泣かなかった。四つだったから覚えていないのだと長く思っていたけれど、そうではない。継母が来た日も、妹に部屋を譲った日も、婚礼の朝に父から礼を言われたときも、泣いていない。
泣き方を知らないわけではないのだと思う。ただ、泣いたところで椅子は増えなかった。声を上げれば、うるさいと言われる。黙って数えていれば、少なくとも自分の場所がどこにないかは分かる。
この土地の作法は、わたくしにとって新しいものではなかった。
むしろ、生まれてからずっと守ってきたもののように思えた。嘆かない。名を呼ばない。数だけを、静かに勘定する。ラウレント家の食卓で覚えたことと、ヴァルドレンの冬の作法は、驚くほどよく似ている。
違うのは、あちらでは誰も減らなかったということだけだ。
蝋燭の芯がぱちりと鳴って、炎が細く傾いた。
中庭のほうで、雪を踏む音がする。窓に寄って外を見ると、誰かが鐘楼の下を歩いていた。灯りを持たずに歩いているので、輪郭しか見えない。
背の高い人だった。鐘楼の脇に立てられた細い柱の前で足を止め、しばらく動かずにいる。柱には目盛りが刻んであるらしく、その人は屈み込んで、雪の面のあたりを指でなぞっていた。
やがて立ち上がり、館のほうへ戻ってくる。
三階の窓に、ひとつ灯りがともった。
鐘は鳴らなかった。
わたくしは寝台に戻り、目を閉じてから数えた。厨房に二人、洗濯場に二人、針子部屋に一人、厩に一人、門に一人、書庫に一人、薪割り場に一人、リネン室に一人。十人。旦那様とわたくしを入れて、十二人。
名簿は十一。まだ、十一。
鐘が鳴らない夜は、誰も減っていない。それだけは、確かなことだった。
名簿のいちばん下にある名前を、口の中でだけ思い浮かべた。声には出さなかった。
それが作法だと、今朝教わったばかりだった。




