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第二話 名前

翌朝、旦那様を探した。


 名簿に載っていない人がこの館にひとりだけいるのなら、その方に聞くのがいちばん早い。そう思って書斎の扉を叩いたけれど、返事はなかった。厩にも、広間にも、食堂にもいらっしゃらない。


 厨房を覗いたのは、そのついでだった。


 湯気と、炒めた玉葱の匂いが顔にぶつかってきた。竈の前に赤い頬の娘が立っていて、こちらを見るなり鍋の柄を放り出しそうな顔をした。


「奥様!」


「おはようございます」


「あの、あたし、」


 娘は前掛けで手を拭き、それから思い切ったように背筋を伸ばした。


「あたし、ミルカです。覚えてくださいね」


 言い終わった瞬間、娘は両手で自分の口を塞いだ。指の隙間から、あ、という短い声が漏れた。


「ミルカ」


 わたくしが繰り返すと、娘は首を横に振った。何度も振った。


「おやめ」


 奥から出てきた年配の料理人が、短くそう言った。叱るというより、火の始末を注意するような言い方だった。


「すみません」


「奥様の前でやることじゃない」


「はい」


 ミルカは俯いて、鍋に向き直った。柄杓が鍋の縁に当たって、かん、と鳴った。


 わたくしにはまだ、何がいけなかったのか分からなかった。


 洗濯場では、女がひとり湯気の中で立ち働いていた。


 女はわたくしに気づいて、会釈をした。足元に小さな娘がまとわりついている。五つか六つくらいで、片手に木の匙を握っていた。


「奥様。ご用がおありでしたら、そこの子に言いつけてくださいまし」


「そこの子、と申しますと」


「うちの末でございます」


 女は娘の名を言わなかった。娘のほうも、母親を、かあさま、とだけ呼んだ。


 娘がわたくしの裾を引いた。


「おくさま。これ、なあに」


 木の匙を差し出してくる。柄のところに、小さな刻みが並んでいた。数えると、六つある。


「刻みでございますね」


「かあさまが、たんじょうびに、ひとつずつ」


 六つ。この子は六つになる。


 母親が娘の肩を抱いて、こちらへ小さく頭を下げた。桶の湯気で、その人の額が濡れている。灰と獣脂の匂いがした。


「奥様。あんまり、この子の相手をなさいませんように」


「なぜでございましょう」


「……冬でございますから」


 それきり、女は洗濯板に向き直った。木を擦る音が、また規則正しく始まった。


 昼のあいだ、わたくしは館の中を歩いて回った。


 誰も、互いを名で呼ばない。厨房の、門の、洗濯の、針子の。そうやって役だけで呼び合っている。呼ばれたほうもそれで振り向く。不便そうな様子はどこにもなかった。


 わたくしは奥様と呼ばれた。名を呼ばれたのは、朝の一度きりだ。


 書庫の前を通ったとき、若い男が机に向かっているのが見えた。二十を少し過ぎたくらいで、指がインクで汚れている。目が合うと、慌てて立ち上がった。


「あ、奥様。その、失礼しました」


「何を書いておいでですか」


「帳面の、写しです。書記官長のお言いつけで」


「あなたのお名前は」


 男の手が止まった。羽根ペンの先から、机に一粒だけ墨が落ちた。


「……申し上げないほうが、よろしいかと」


「なぜでございますか」


「僕には、その、うまく説明できないんです。すみません」


 男は座り直して、また書き始めた。背中が固かった。


 わたくしは、名簿の二番目にあった名前を思い出していた。エミル・フォス。書庫にいるのは、書記の見習いだと聞いている。


 夕食の席で、旦那様に尋ねた。


 卓の端と端は遠い。声を張らねば届かないので、聞きたいことを短くまとめる必要があった。


「この館では、なぜ名前を呼ばないのでございますか」


 パンを裂く手が止まった。


「呼ばない習わしだ」


「習わしには、たいてい理由がございます」


「あるものもある」


「これには」


「ある」


 それきり、旦那様は口を開かなかった。


 肉が運ばれてきて、皿が置かれる音だけが続いた。今日も皿は十二枚だった。数えるまでもなく、目でそう分かるようになっている。


 食事が終わって席を立つとき、旦那様が背を向けたまま言った。


「覚えないほうが、楽だ」


「何をでございますか」


 返事はなかった。廊下へ出ていく足音が、絨毯の上で急に小さくなった。


 夜、眠れなかった。


 寝台の中で目を開けていると、この館がどれほど静かか分かる。雪の降る音というものを、わたくしは初めて知った。降っている音ではなく、外の音がすべて吸い取られていく、その気配のことだ。


 起き上がって、廊下へ出た。


 燭台を持って階段を上がる。数えながら上がるのは、これも癖だった。十七段。踊り場を挟んで、また十七段。


 三階の突き当たりに、旦那様の書斎がある。


 扉の下から、細い光が漏れていた。


 中で、紙をめくる音がする。一枚めくって、少し置いて、また一枚。急いでいる音ではない。何かを探しているというより、同じところを行ったり来たりしているような、そういうめくり方だった。


 時折、ペンが紙を擦る音が混じる。書いているらしい。書いて、また止まる。


 それから、こすれるような、乾いた音がした。


 紙の上を、何かで擦っている。書いたものを消しているのだと気づくまでに、少しかかった。


 書いて、消して、また書く。同じことが三度続いた。


 わたくしは扉の前に立っていた。


 叩けばよかったのだと思う。名簿に載っていないのはあなただけです、と申し上げればよかった。けれど手を上げかけて、そのままにした。


 覚えないほうが楽だ、と言われた言葉が、扉の前で急に重くなった。


 あの方は、何かを書いては消している。消せる立場にあるということは、書ける立場にあるということでもある。


 燭台の蝋が指に垂れて、熱かった。それでも動かずにいると、中の音がふいに止んだ。


 こちらの気配に気づかれたのかもしれない。わたくしは足音を殺して階段を下りた。


 部屋に戻って、蝋燭を吹き消した。闇の中で、また数を数えた。十七段、踊り場、十七段。三階まで上がるのに、三十四段。


 朝、廊下に出ると、雪明かりで館の中が白く見えた。夜のあいだに、ずいぶん積もったらしい。


 三階を見上げる。


 扉の下の光は、まだそこにあった。


 昼になっても、消えなかった。


 厨房でミルカとすれ違ったとき、あの子は小声で言った。


「奥様。あたし、名前を言ったこと、内緒にしてくださいね」


 どうして、と聞く前に、ミルカは薪を抱えて走っていってしまった。


 その日も、鐘は鳴らなかった。


 昨夜と同じく、この館には十二人いる。名簿の十一と、載っていないおひとり。


 三階の光だけが、数に入らないまま灯り続けていた。

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