第一話 今年の一番
「今年の一番は、奥様でございます」
朝の廊下で、家政婦頭のドロテアはそう言った。銀盆を胸の前で持ち直しながら、その日の天気を告げるのと変わらない調子だった。
わたくしは足を止めた。
「一番、と申しますと」
「一番でございます」
「何の、でございましょう」
ドロテアはわずかに眉を寄せた。困っているのではなく、こちらの言葉が耳慣れない訛りであるかのような、そういう寄せ方だった。
「冬の、でございますよ。奥様は今年いらしたばかりでいらっしゃいますから、まだ順を覚えておいでではないのでしょう。追い追い、皆が教えてくださいます」
「順、と申しますのは」
「順でございます」
それで話は済んだらしい。会釈をして、階段を下りていく。七十を過ぎているとは思えない、背筋のまっすぐな歩き方だった。
婚礼から三日が経つというのに、わたくしはまだ、この館のどこに何があるのかも覚えていない。
窓の硝子に指を当てると、痺れるほど冷たかった。外は乳を流したように白く曇っていて、昨日まで見えていた山の稜線が、今朝はどこにも見当たらない。
北のヴァルドレンは、王都から馬車で十二日、ケルド峠を越えた先にある山あいの盆地で、わたくしがここへ来ることになったのは、くじに当たったからだった。
毎年ひとり、領内の十二の家から娘が選ばれ、この館へ嫁ぐ。ラウレント家の四女であるわたくしが引いた紙には、隅に小さな印がついていた。継母は胸を撫で下ろし、父は、よくやったと言った。礼を言われたのは、それが初めてだった。
廊下を歩きながら、数える。
厨房に二人。洗濯場に二人。針子部屋に一人。厩に一人。門に一人。書庫に一人。薪割り場に一人。リネン室に一人。十人。それに旦那様を入れて、十一人。わたくしを入れて、十二人。
癖だった。どの部屋でも、入る前にそこにいる人間を数えてしまう。数えておかないと、自分の椅子があるかどうかが分からないからだ。
ラウレント家の食卓には、いつも椅子が足りなかった。誰かが意地悪をしたわけではない。ただ、誰もわたくしを数に入れて椅子を並べなかった。それだけのことだ。
昼、食堂に呼ばれた。長い卓の端に、旦那様が座っていた。ヴィルヘルム・ヴァルドレン辺境伯。黒い髪の、肩の広い方だ。婚礼の夜からこちら、二度目のお目にかかる。目の下に濃い隈があるのは、その晩からずっと変わらない。
わたくしが席につくと、旦那様は新聞から目を上げずに口を開いた。
「この家のことは、何も覚えなくていい」
湯気に羊の脂の匂いを混ぜながら、スープが運ばれてくる。給仕をしたのは料理人らしい年配の男で、皿を置くとき、わたくしの前だけ音を立てなかった。
「はい」
「部屋から出るな、とは言わない。好きにしろ」
「かしこまりました」
「聞きたいことがあるなら、今のうちだ」
わたくしは匙を持ったまま、少し考えた。
「今朝、一番と言われました。冬の一番だと」
新聞をめくる音が止まった。それから、また動いた。
「誰に聞いた」
「家政婦頭の方に」
「そうか」
「何の一番でございましょう」
「気にするな」
「はい」
「食え。冷める」
それだけだった。旦那様は食事のあいだ、一度もわたくしの顔をご覧にならなかった。
わたくしは匙を取り、それから皿を数えた。十二枚。椅子も十二脚で、卓の脇に余りが積まれている様子もない。ちょうど、十二。
数の合っている食卓に座るのは、生まれて初めてだった。
その日の夕方から、綿を千切ったような雪が降り出した。
初雪でございますね、と厨房の娘が言った。まだ十七か十八くらいの、赤い頬をした子だ。名前は知らない。この館では誰も互いを名で呼ばず、厨房の、門の、洗濯の、と役だけで呼び合っている。わたくしのことは、奥様と呼ぶ。
夜になって、広間に人が集まっているのに気づいた。
十人ほどが壁際に立っているのに、誰ひとり喋らず、足音さえ立てない。天井の高いその部屋には、暖炉の薪が爆ぜる音だけがぱちりと響いていた。
人垣の向こうの壁に、紙が一枚貼られている。冬名簿、と書いてあった。
その下に名前が並んでいる。上から順に、十一。墨の色は下ろしたばかりのように黒いのに、紙のほうは何度も貼り直されたらしく、四隅が薄く破れて毛羽立っていた。指で押さえると、糊の乾いた匂いがした。
いちばん上に、わたくしの名前があった。
セリカ・ラウレント。
誰も、こちらを見ない。門番らしい大柄な男が名簿を一度見上げ、それだけで背を向けた。厨房の娘は口を結んでいる。洗濯女は子どもの手を引いて、明日は積もりますね、と話しながら出ていった。
わたくしの隣に、ドロテアが立った。
「一番上でございますね」
「これは、何でございますか」
「冬名簿でございます」
「それは読めます。この名前の方々は」
「今年、森を渡られる方々でございます」
暖炉のなかで、薪が一本、音を立てて崩れた。
「森を、渡る」
「はい」
「渡って、どちらへ」
「さあ。戻られた方がおりませんので、わたくしどもも存じません」
ドロテアは燭台の蝋を親指で削り落としながら、そう言った。手の甲に古い火傷の痕があって、削るたびにその皺が動いた。
「奥様。ひとつだけ、お覚えいただきとうございます」
「はい」
「この紙の前で、お名前をお呼びになりませんように。ご自分のも、他人様のも」
なぜ、と聞く前に、ドロテアは盆を持ち直して離れていった。
わたくしは名簿を上から読んだ。セリカ・ラウレント。エミル・フォス。テオ。リーゼ。ミルカ。ハンナ。アンネ。マルテ。グレゴール。ヨナス。ドロテア。
十一。
もう一度、上から数え直した。人から聞いた数を、わたくしは信じない。自分の目で数えたものしか、数とは呼べない。
やはり十一で、わたくしの名は動かなかった。
そのとき、鐘が鳴った。
中庭の鐘楼だった。雪は音を吸ってしまうので、この館では鐘の音だけが妙によく通る。
一つ。二つ。三つ。
誰も動かなかった。皆が数えている。数えていることは、顔を見れば分かった。厨房の娘は声を出さずに唇だけを動かしていたし、門番の男は右手の指を、一本ずつ丁寧に折っていた。
九つ。十。
十一。
止んだ。
広間の者たちは、示し合わせたわけでもないのに一斉に動き出し、それぞれの持ち場へ戻っていった。挨拶をする者はいない。暖炉の前には、わたくしだけが残された。
貼られた紙の前に立って、もう一度だけ数える。
昨日、この館には十二人おりました。
名簿には、十一人分の名がございます。
載っていないのは、あの方おひとりでございました。




