第十話 十一人の名前
全員を見送ってから、わたくしが行く。
そう分かってから四日のあいだ、鐘は鳴らなかった。
その四日で、わたくしは決めたことが一つある。
名簿の十一人を、顔と名で覚える。
書庫の方が言うには、この土地の帳面は上に書き足す。だから上が新しく、下から進む。順番はもう分かった。分かったところで動かせない。
動かせないものを前にして、できることが数えるほかにないのなら、正しく数える。
朝、厨房に行った。
マルテが塩漬けの樽の口を布で拭いていた。ミルカが横で数を書きつけている。書けるのは数字だけだと、この子は前に言っていた。
「奥様、おはようございます」
「おはようございます。お邪魔してもよろしいですか」
「どうぞ。何もないですけど」
わたくしは竈の脇に立った。
この二人が、名簿の五番目と八番目。ミルカとマルテ。上から数えて五と八。下から数えれば、七番目と四番目。
マルテが顔を上げずに言った。
「奥様。手はいりません」
「見ているだけでございます」
「見ても面白くない」
この人は口数が少ないけれど、ヨナスとは違う。返事はいつも二つか三つ返ってくる。塩の量を言い、鍋の火を言い、皿の枚数を言う。数のことしか言わない人だ。
わたくしはそれを、数のことしか言えない人ではないのだろうと思っている。
樽の口を拭く布を、この人は三度替えた。一度で済ませないのは、塩が布に移るからだと後でミルカが教えてくれた。教えてくれたということは、この人が誰かに教えたということだ。
「マルテさん」
役ではなく、名で呼んでみた。
布を持つ手が止まった。止まっただけで、顔は上げなかった。
「奥様。それは、およしなさい」
「はい」
「叱ってるんじゃない」
「はい」
それだけだった。この人は樽に向き直り、四枚目の布を取った。
昼、洗濯場に行った。
湯気の中で、女がひとり布を絞っていた。足元に小さな娘がいる。木の匙を握って、桶の縁を叩いていた。
名簿の七番目と、四番目。母と、その子。
「おくさま」
娘がこちらを見上げた。
「はい」
「これ、みっつ」
匙で桶を三度叩いてみせた。数えたつもりらしい。
「みっつでございますね」
「うん」
母親がこちらへ頭を下げた。灰と獣脂の匂いが、湯気に混じって濃くなっている。
「奥様。この子が、失礼を」
「いいえ」
「……あんまり、覚えてやらないでくださいまし」
女は絞った布を桶に落とした。水が跳ねて、床に黒い染みができた。
「覚えると、どうなりますか」
わたくしが聞くと、その人は少し黙った。
「わかりません。ただ、覚えると、こちらが困ります」
こちらが、と言った。その子が、とは言わなかった。
夕方、書庫へ寄った。
書庫の方は名簿の二番目。エミル・フォス。
机の上に、写しかけの紙が伏せてあった。わたくしが入ると、その方は伏せたままの紙を手のひらで押さえた。押さえてから、押さえたことに自分で気まずくなったらしい。
「あの、これは、その」
「見ておりません」
「見てもいいんですけど、見せると、その」
「では、見ません」
「すみません」
その方は紙を引き出しにしまった。しまうとき、束の厚みが見えた。ずいぶんある。書記官長の言いつけだと前に聞いたけれど、あれを一冬で写しきるつもりなら、毎晩やってもらわないと合わない。
厩へ寄った。厩の少年は名簿の三番目。テオ。
テオは飼葉の札の前に立っていた。教えた三つの字を、指でなぞっている。
「奥様。おれ、次のやつ知りたい」
「どれでございましょう」
「おれの名前」
わたくしはその場にしゃがんだ。藁の上に、少年の名を書いた。三つの字だ。
テオがなぞる。一度目でうまくいかず、二度目で形になった。
「これが、おれ」
「はい」
「短い」
少年は自分の字を見下ろしていた。それから足で藁をかき混ぜて、消してしまった。
「まだ覚えらんない。明日また書いて」
「はい」
「明日も来る?」
「参ります」
同じやり取りを、この子とはもう三度している。三度とも、テオは同じことを聞いた。約束を一度で信じないのは、破られたことがあるからだろう。
厩を出るとき、少年が背中に言った。
「奥様。おれの名前、忘れないでね」
振り返ると、もう馬房のほうを向いていた。
夜、食堂で旦那様に申し上げた。
「お願いがございます」
新聞が下りた。この方が食事のあいだに新聞を下ろすのは、これが初めてだった。
「言え」
「冬名簿の帳面を、見せていただけませんか」
「必要ない」
「わたくしは、必要でございます」
「なぜだ」
わたくしは皿の縁に指を置いた。
「数が合っているかどうかを、確かめとうございます」
旦那様は答えなかった。しばらくのあいだ、卓の向こうで何も動かなかった。
「帳面は、私のものではない」
「では、どなたの」
「書記官長のものだ」
初めて聞く言葉だった。この館に、そういう役の方がいるとは知らなかった。
「その方は、どちらに」
「村にいる。冬のあいだ、月に何度か来る」
旦那様は新聞を畳んだ。畳み方が乱れていた。この方が紙を乱暴に扱うのを、わたくしは初めて見た。
「奥様」
君、ではなかった。
「はい」
「その男には、数を数えさせるな」
意味が取れなかった。取れないまま、はい、と答えた。
「あなた様」
「なんだ」
「数を数えるのは、その方のお仕事ではございませんか」
旦那様は扉のところで一度止まった。
「そうだ」
「では」
「だから言っている」
それきりだった。
旦那様は席を立って、出ていかれた。
部屋に戻ってから、その言葉を何度か置き直してみた。
数を数えるのは、書記官長の仕事のはずだ。帳面を持っているのはその方だと、今しがた聞いたばかりだった。
仕事を持っている人に、その仕事をさせるなという。
考えられることは二つある。数え方が信用ならないのか、数えられること自体が困るのか。
どちらであっても、旦那様はそれを八年ご覧になってきたことになる。八人の娘を迎えて、七人を春に帰した八年だ。
その男には、数を数えさせるな。
鐘は鳴らなかった。名簿は八のまま。厨房に二人、洗濯場に二人、針子部屋に一人、厩に一人、書庫に一人。七人。旦那様とわたくしを入れて、九人。
書記官長。名前を、わたくしはまだ知らない。




