第十一話 勘定というもの
書記官長は、四日後の朝に来た。
村から来たと聞いていたので、馬か橇で着くのだろうと思っていた。実際には、歩いてきたらしい。玄関で外套の雪を払う音がして、それから、書庫のほうへ人が通る気配があった。
館の様子が、少し変わった。
厨房のミルカが、いつもより早く朝の片付けを終えた。洗濯場の女は子どもを部屋へ戻した。誰も慌ててはいない。ただ、それぞれが自分の持ち場から出なくなった。
三月ぶりに人が来た館としては、静かすぎた。
その男には、数を数えさせるな。
旦那様の言葉を、わたくしは四日のあいだに何度も置き直していた。置き直しても、意味は割れないままだった。
わたくしが書庫の扉を開けたとき、その方は机の前に座っていた。
痩せた人だった。黒い上着は袖の擦り切れまで手入れがしてある。指の関節にインクの染みがあって、それは洗っても落ちない種類の染みだった。
書庫の方は、壁際に立っていた。座っていない。自分の机なのに、立っている。
「奥様でいらっしゃいますな」
その人は帳面を開いたまま、そう言った。
「はい」
「オズヴァルト・ケラーと申します。この領の書記官長を務めております。ご挨拶が遅れまして、なにぶん冬は道が悪うございますので」
「こちらこそ」
「お掛けください。長くなりますので」
長くなると自分で言う人に、わたくしは初めて会った。
椅子に掛けた。書庫の匂いはいつもと同じで、紙と、埃と、インク。そこに、この方の上着から来る古い煙草の匂いが混じっていた。
机の上には帳面が三冊、重ねずに並べてある。厚みも綴じ方も違う。いちばん右のものは革が黒く変色していて、角が丸くなっていた。
わたくしはそれを見て、それからケラーの手を見た。
指が帳面の上に置かれている。ページを繰るとき、親指の腹だけを使う。紙を痛めない繰り方だった。長く同じものを扱ってきた人の手つきだ。
「帳面をご覧になりたいと伺いました」
「はい」
「閣下から聞いております。お断り申し上げました」
断ったのはこの方だったらしい。旦那様は、帳面は私のものではないとだけ言われた。
「理由を伺ってもよろしいですか」
「もちろんでございます」
ケラーは帳面のうえで指を組んだ。
「奥様は、よく数えておいでだと聞いております。館の者から」
「癖でございます」
「よい癖でございますな。ですが、数えることと勘定することは、まるで別のものでしてな」
わたくしは指を組み直した。
「どう違うのでございましょう」
「数えるのは、今そこにあるものを見て、いくつあるかを言うことでございます。誰にでもできる。子どもにもできる」
「はい」
「勘定と申しますのは、今そこにないものを含めて、合っているかどうかを見ることでございます。去年何人おったか。一昨年は何人減ったか。この土地が何人を養える年であったか。それを五十年ぶん並べて、初めて今年の数が出るのでございますよ」
その方は帳面の縁を指でなぞった。
「奥様がお数えになるのは、今日の館でございます。私が勘定いたしますのは、二百年のヴァルドレンでございます」
窓の外で、雪の塊が庇から落ちた。書庫の方が、その音に肩を動かした。
「では、二百年ぶんの勘定が合っていることは、どなたが確かめるのでございますか」
「私が」
「ほかには」
「おりません」
言い切る調子に、迷いはなかった。
「私の家は、二百年この帳面を書いております。読める者がおらんようになれば、その冬から名簿は作れません」
「名簿が作れないと、どうなりますか」
「順番がなくなります」
ケラーは初めて、少しだけ声を落とした。
「奥様。順番のない冬というものが、どういうものかご存じない。森は数を取るだけでございます。誰から取るかまでは決めてくれません。朝、起きて、隣に寝ておった者がおらん。次の朝は、自分の子が。順が決まっておらんというのは、そういうことでございます」
言葉が途切れた。
「二百年前に、この土地はそれを一度やっております。飢饉の年でございました。あの年に何人減ったかは、いちばん古い帳面に書いてございます」
「何人でございますか」
「申し上げません。奥様が今夜お眠りになれなくなる」
わたくしは何も返せなかった。
この方の言っていることに、間違いが一つも見当たらない。順番があるほうがましだという話は、確かにそのとおりだ。帳面を書ける家が絶えれば困るというのも、そのとおりだ。
言い負かす言葉を、わたくしは持っていなかった。
持っていないというより、そもそも言い負かすべき相手なのかどうかが分からなかった。
この方は嘘をついていない。人を騙してもいない。二百年前に誰かが選んだ道を、書き継いできただけだ。
わたくしが数えるのは、この館の十一人。この方が勘定するのは、二百年のヴァルドレン。並べてみれば、たしかに別のものを指している。
「では、わたくしが帳面を見ましたら、何がいけないのでしょう」
「いけなくはございません」
「では」
「ただ、奥様は勘定をご存じない。ご存じない方が数字をご覧になると、たいてい、数え直しをなさりたくなる」
ケラーは帳面を閉じた。
「数え直しは、してはならんのです。やり直しますと、その年の勘定が最初からになりますのでな」
「最初からになると」
「増えます」
それだけ言って、その方は立ち上がった。
わたくしはそこで気がついた。
この方は、話しているあいだ一度も顔を上げなかった。挨拶のときも、二百年の話をしたときも、目線は帳面の上にあった。
立ち上がった今も、こちらを見ていない。
「奥様。ご心配は要りません。例年でしたら、上まで届きませんので」
「今年は、十一と伺いました」
外套に袖を通す手が、止まらなかった。止まらないまま、その方は言った。
「どなたから」
「帳面に書いてございました」
「さようで」
ケラーは扉のところで一礼した。首から上を、少しだけ動かす礼だった。
「では、そのとおりでございましょう」
扉が閉まった。
書庫の方は、まだ壁際に立っていた。座っていいとは言われていないらしい。
「奥様」
「はい」
「あの、僕、何も申し上げてません」
「存じております」
その方は自分の机に戻り、椅子を引いた。引いてから、座るまでに間があった。
夕方、広間の名簿を見に行った。
三つの名前に線が引かれている。いちばん下から順に、三本。線の間隔が揃っていた。定規を当てて引いたものだと、今なら分かる。
あの手つきで引いたのだろうと思った。紙を痛めない親指の腹で押さえて、まっすぐに。
部屋に戻ってから、あの方の言ったことを一つずつ並べ直した。
順番がなければ、森は無作為に取る。そのとおりだ。
帳面を書ける家が絶えれば、名簿は作れない。そのとおりだ。
数え直しをすれば、その年の勘定は最初からになる。増える。
ここだけが、わたくしには確かめようがなかった。増えると言われて、増えなかった例をわたくしは知らない。知らないものを、疑うことはできない。
鐘は鳴らなかった。名簿は八のまま。
あの方のおっしゃることは、何ひとつ間違っておりませんでした。




