第十二話 明日から六枚
鐘が七回鳴ったのは、四日後の朝だった。
わたくしはそのとき厨房にいた。皿を数えている最中だった。
一つ。二つ。三つ。
マルテの手が止まらなかった。樽の口を布で拭いていて、その手つきが変わらない。四つ、五つと鳴っているあいだも、拭いていた。
七つで、止んだ。
その人は布を畳んで、樽の縁に置いた。
「奥様」
「はい」
「皿は、明日から六枚だ」
わたくしは棚の前に立ったままだった。今日は七枚ある。数えたばかりだった。
「六枚でございますね」
「そうだ」
「承知いたしました」
マルテは棚を開けて、いちばん上の段から皿を一枚下ろした。自分が使っていたものらしい。木の皿で、縁が欠けている。
それを、ミルカのほうへ差し出した。
「割るな」
「はい」
「あと、竈の左は火が強い。パンは右に置け」
「はい」
「塩の樽は、三月に一度、上下を返す。上のほうから固まるからだ」
「はい」
「肉は、下から使え。上のほうが後まで持つ」
「はい」
「あとは、書いてある」
マルテは棚の裏側を指した。板に炭で数字が書きつけてある。壺の数、樽の数、日ごとの配りの量。字ではなく、数字だけだった。
ミルカが書けるのは数字だけだと、この子は前に言っていた。書ける者に合わせて、書ける形で残してある。
ミルカは前掛けの端を握って、頷きもせずに聞いていた。頷いたら泣くと思ったのかもしれない。わたくしにはそう見えた。
マルテは前掛けを外した。
紐を解いて、二つに畳んで、竈の脇の釘に掛けた。掛けてから、位置を少し直した。
「奥様。数えるのは、頼みます」
それが、わたくしに言われた最後の言葉だった。
裏口から出ていく背中を、わたくしは追いかけた。
外套は着ていた。いつ着たのかは見ていない。厨房を出るまでは前掛け一枚だったはずだ。
「お待ちください」
声が出た。出てから、しまったと思った。
止めることは、数に入れることになる。この土地の作法では、してはいけないことだ。
マルテは止まらなかった。聞こえていないのではなく、返事をしないと決めている止まらなさだった。
わたくしは雪の中へ出た。
斜面は思っていたより急だった。館の裏はゆるやかに見えるけれど、実際に足を置くと、膝から下が沈んで抜けなくなる。二歩でそうなった。
前を行く背中は、沈んでいない。
同じ雪の面を、あの人はふつうに歩いていた。足首より上が埋まっていない。
わたくしは三歩目で膝をついた。手をついた雪が、袖口から入って手首を焼いた。
「お待ちください」
二度目は、届いたと思う。
マルテが一度だけ、こちらを振り向いた。
それだけだった。首を振りもせず、また前を向いて歩いていった。
木立の手前まで来ると、その人の姿は雪に紛れた。紛れたというより、どこを歩いているのか分からなくなった。
道があるはずだった。あの人が歩いているのだから、道はある。
わたくしには、見えなかった。
白いだけだった。木立の輪郭と、そのあいだの白と、それだけだ。歩けそうな場所を探そうとして、探す手がかりが一つもないことに気がついた。
順番の来た者にしか見えないのだと、前に聞いた。聞いたときは、言い伝えのようなものだと思っていた。
膝をついたまま、しばらくそこにいた。
立ち上がろうとして、袖が濡れているのに気づいた。手首から肘まで、雪が溶けて染みている。
背中から声がした。
「奥様」
洗濯場の女だった。籠を抱えて、裏口のところに立っている。
「お召し物を」
「大丈夫でございます」
「濡れたまま入られると、廊下が滑ります」
そう言って、その人は籠から布を一枚出した。差し出すのではなく、雪の上に一度置いてから、こちらへ寄越した。手渡しにしないのが、この土地の距離らしい。
わたくしは袖を拭いた。
「あの方は、道が見えておいででした」
「はい」
「わたくしには、見えませんでした」
「はい」
女は籠を持ち直した。
「見えないうちは、まだよろしゅうございます」
それだけ言って、洗濯場のほうへ戻っていった。足元が沈んでいない。この人も、雪の歩き方を知っている。
厨房に戻ると、ミルカが竈の前に立っていた。
鍋がかかっている。中身が煮えて、蓋がかたかた鳴っていた。誰も火を落としていない。
「ミルカ」
「はい」
「竈の左は、火が強いのだそうです」
「はい」
「パンは、右に」
「……はい」
その子は鍋の位置を右へずらした。ずらしてから、蓋を持ち上げて中を見た。見ただけで、何も言わなかった。
わたくしは棚を開けた。
皿が七枚ある。明日から六枚だと言われた。
一枚を下ろして、布で拭いた。木の皿で、縁が欠けている。棚のいちばん上の段は、背伸びをしないと届かなかった。あの人は届いていた。
拭いた皿を、下の段に移した。
「奥様。それ」
「明日から六枚にいたします」
声が、思っていたより平らに出た。
ミルカが何か言おうとして、やめた。この館では、言いかけてやめる人ばかりだ。
夕食の卓に、皿を六枚並べた。
旦那様が席に着いて、卓の上を見た。見ただけで、何も言われなかった。
六枚。わたくしと旦那様の分が二枚。残り四枚は、まだこの館にいる人のぶん。
数えるのは、頼みます。
あの人はそう言った。頼むという言い方を、この土地の人がすることは珍しい。頼めば、頼んだ者を数に入れることになるからだ。
あの人は、それを承知で言ったのだと思う。
食事のあいだ、旦那様は新聞を開かなかった。
開かずに、卓の上に置いたままだった。読まないのなら持ってこなければいいのに、置いてある。
「奥様」
「はい」
「袖は」
わたくしは自分の手首を見た。乾いてはいるが、布が波打っている。
「濡らしました」
「そうか」
それだけだった。旦那様は席を立ち、扉のところで一度止まった。
「あの斜面は、沈む」
「はい」
「知っている者は、沈まない場所を歩く」
振り返らずに、そう言われた。
知っている者。順番の来た者、とは言われなかった。
夜、部屋の窓から裏の斜面を見た。
わたくしが膝をついた場所に、雪が積もり直していた。跡は残っていない。
鐘は鳴らなかった。名簿は七。
厨房に一人。洗濯場に二人。針子部屋に一人。厩に一人。書庫に一人。六人。旦那様とわたくしを入れて、八人。
数えるのは、これからわたくしの役目になる。




