第二十九話 二百年ぶんの写し
書庫の方に呼ばれたのは、翌朝だった。
「奥様。これを、お持ちください」
机の上に、束が置いてあった。
紙が重なっている。角を揃えて、麻紐で二か所を縛ってある。厚みが、わたくしの手のひらの幅ほどあった。
「二百年ぶんでございますか」
「はい。昨日の夜、写し終わりました」
その方は指を見た。真っ黒だった昨日より、さらに黒い。爪の際が割れている。
「三年かかりました」
わたくしは束に触れなかった。触れる前に、聞くべきことがあった。
「これを渡して、あなたは大丈夫でございますか」
「大丈夫ではないです」
その方は言い切った。
「でも、僕、たぶん今日か明日なので」
束のいちばん上に、指を置いた。
「奥様。僕、口では言えません。ずっと言えませんでした。言うと、村の家族が困るので」
「はい」
「でも、写しなら」
その方は束を押した。机の上を、わたくしのほうへ。
「写すのは、僕の仕事です」
わたくしは束を受け取った。
思っていたより重かった。紙は一枚では軽いのに、二百年ぶん重ねると腕にくる。
「読んでも、よろしいのですか」
「はい。読んでください」
その方は椅子に座り直した。座って、羽根ペンを取って、それから置いた。書くものが、もうない。
わたくしは窓際の机に束を置いて、麻紐を解いた。
いちばん上が今年のものだ。十一の名。上から順に、セリカ・ラウレント、エミル・フォス、テオ、リーゼ、ミルカ、ハンナ、アンネ、マルテ、グレゴール、ヨナス、ドロテア。
その下が去年。九つの名。
その下が一昨年。八つ。
めくっていった。
九、八、八、九、七、八、十、八、九。
年ごとに人数が違う。雪の深さで変わるのだと聞いた。十が二度あって、十一は今年だけだ。
名前を読んだ。
どの年にも、知らない名前が並んでいる。誰かの祖父で、誰かの子で、誰かの姉だった人たちだ。二百年ぶんの、この土地の人の名前。
読みながら、わたくしは指を折っていた。
数えているのではない。名前を読むと、指が動く。三月で身についた癖だ。
二百年ぶんの名を全部数えることはできない。数えたら、何日かかるか分からない。それでも、めくるたびに何人かは数えていた。
九人。八人。八人。九人。
この土地は、毎年これだけの人を差し出して、二百年続いてきた。
差し出さなければ、二百年前に終わっていた。ケラーはそう言うだろう。言われれば、たぶんそのとおりだ。
半分ほどめくったところで、手が止まった。
止まったのは、何かを見つけたからではない。
見つからないからだ。
わたくしは初めから読み直した。
今年。去年。一昨年。その前。十年前。二十年前。五十年前。
ケラー、という名が一つもない。
百年前。百五十年前。
ない。
いちばん下の一枚まで来た。角が丸くなって、紙が硬い。二百年前のものだ。名前の数が多かった。数えると、四十七あった。
その四十七の中にも、ケラーはいない。
わたくしは束を閉じた。
閉じてから、書庫の方を見た。
「これでございますね」
「はい」
「二百年、一度も」
「一度もです」
その方は椅子の背に体を預けた。三年、毎晩書き写して、今日それを渡した人の姿勢だった。
「僕、三年前に気づきました。五十年ぶんを写してるときに、あれ、と思って」
「はい」
「それで、古いのも見ました。触るなって言われてたやつです」
「はい」
「見たら、やっぱりなかったんです」
わたくしは束の角を揃えた。
「あの方は、ご存じでございますか」
「知ってます」
即答だった。
「一回だけ、聞いたことがあります。二年前です。うちの家は書く側だから、と言われました」
「それだけでございますか」
「それだけです。怒られもしませんでした」
書庫の方は窓のほうを見た。
「たぶん、悪いと思ってないんです。二百年そうやってきて、そのあいだこの土地は無くなってないので」
わたくしは束を膝に載せたまま、しばらく座っていた。
書いていない家がある。
書く側だから、と言われたそうだ。書く側の家は書かれない。理屈になっていないけれど、二百年、誰もそれを理屈でないと言わなかった。
厨房の裏で寝ている人が、その家の縁者だ。
あの人は名簿にない。順が来ない。冬になっても呼ばれない。誰にも数えられていないから、土地はあの人を数に入れていない。
土地は、人の勘定を写している。
ドロテアが言った。この土地はいる人の数を数えている、と。数えているのは土地ではなく、人だ。人が数えたものを、土地が受け取っている。
だから、人が数え落とせば、土地も数え落とす。
二百年、この土地の勘定は、少なく見積もられてきた。
昼過ぎに、鐘が鳴った。
一つ。
止んだ。
一回。
わたくしは書庫にいた。その方も、そこにいた。
二人とも、数える必要がなかった。
「奥様」
「はい」
「僕、外套取ってきます」
その方は立ち上がって、部屋を出ていった。しばらくして戻ってきた。外套は使い込まれていて、袖口が擦り切れている。
机の上を片付けた。羽根ペンを筆立てに戻し、墨壺の蓋を閉め、椅子を机の下へ入れた。
引き出しを開けて、中を確かめた。何も残っていない。写しは全部わたくしに渡してある。
「奥様」
「はい」
「あの、僕」
その方は言葉を探した。三月のあいだ、いつもそうだった。
「数字が合わないと、眠れないんです」
「はい」
「ずっとです。子どもの頃から」
それだけ言って、扉のほうへ歩いた。
わたくしは裏口までついていった。
外は明るい。雪が緩んで、地面が見えているところがある。三月ぶりに見る土の色だった。
その方は扉を押した。押してから、こちらを振り返った。
「奥様。合わせてください」
「はい」
「僕、たぶん、それで眠れます」
北の斜面を上がっていく。歩き方が速かった。この人はいつも早口で、歩くのも速い。
木立に入って、見えなくなった。
わたくしは扉を閉めた。
館に、三人。旦那様と、わたくしと、厨房の裏の人。
名簿は一。
わたくしの名だけが、線を引かれずに残っている。
部屋へ戻って、引き出しを開けた。
火をつけていない蝋燭。刻みが六つの木の匙。三つの字を書いた紙。
全部を、外套の内側に入れた。
束は重いので、麻紐を掛け直して肩から下げた。
玄関で、油の壺を手に取った。冬の初めに棚の右下へ置かれたものを、凍らないよう竈の側へ移してあった。蝋の封は、まだそのままだ。
春に抜く者が要ると、あの人は言った。
わたくしは壺を棚に戻した。
外套を着た。
鐘は、あと一回でございます。




