第二十八話 鐘ではない音
屋根の雪が落ちたのは、三日後の朝だった。
どさりという音が、館の壁を伝って響いた。
わたくしは食堂にいた。皿を並べているところで、手が止まった。
三月ぶりだった。この館で鐘以外の大きな音を聞くのは。
窓の外を見ると、庇の下に雪の塊が積み上がっている。落ちたばかりで、表面がまだ崩れていない。
旦那様が廊下から入ってこられた。
「落ちたか」
「はい」
「今年は早い」
その言い方を、わたくしはこの冬に一度聞いている。峠を閉めに行った人が、閂を打って戻ってきた日に言った。
「峠は」
「あと七日か、八日だ」
この方は窓のところに立って、外をご覧になった。手袋はしていない。三月のあいだ、一度もしているのを見ていない。
「開いたら、王都から人が来る」
「はい」
「毎年、春に来る。冬のあいだに何人減ったかを聞いて、帰っていく」
「その方々は、ご存じなのですか」
「知らん」
旦那様は窓から離れた。
「冬に人が減る土地だとは思っている。雪が深いからだと」
それだけ言って、席に着かれた。
皿は二枚だった。この方とわたくしの分だ。書庫の方は書庫で食べる。厨房の裏の人は寝床で粥をとる。
二枚の皿の卓は、広い。
食事のあいだ、雪の落ちる音が二度した。
三月のあいだ、この館で音といえば鐘だった。雪は音を吸う。だから鐘だけが通る。そう思ってきた。
吸っていたのは雪ではなく、冬だったのかもしれない。
昼、館を歩いた。
歩く場所は決まっている。厨房、洗濯場、針子部屋、薪割り場、厩、書庫、厨房の裏。
誰もいない部屋のほうが多い。
部屋の数は変わらない。人だけが減った。同じ広さの館に、四人しかいない。廊下の端から端まで歩いても、誰ともすれ違わない。
わたくしは毎日それを歩く。歩いて、誰もいないことを確かめる。確かめる必要はない。減っていないことは、鐘が鳴らないことで分かる。
それでも歩く。歩かないと、この館に誰がいたのかを忘れそうになる。
厨房の釘に、前掛けが二枚掛かっている。針子部屋の卓に、鋏が柄をこちらへ向けて置いてある。厩の飼葉桶に、木の札が下がっている。上が二すくい、下が一すくい半。
どれも、動かしていない。
動かせないのだと思う。動かしたら、そこに誰かがいたことが分からなくなる。
書庫へ行った。
書庫の方は写しを続けていた。指が真っ黒で、爪のあいだまで入り込んでいる。前掛けにも袖にも墨が飛んでいた。
「奥様」
「はい」
「あの、これ、あと少しなんです」
「二百年ぶんでございますか」
「はい。三年かかりました」
その方は羽根ペンを置いて、両手を見た。
「毎晩やってました。書記官長には、写せと言われてるので。でも」
そこで止まった。
「でも」
「命じられてるのは、五十年ぶんなんです」
わたくしは椅子に掛けた。
「五十年」
「はい。それより古いのは、傷むから触るなと言われてます」
その方は引き出しを開けた。束が二つ入っている。厚みが違う。
「こっちが五十年ぶん。命じられたぶんです。こっちが」
薄いほうを取り出した。
「残りの百五十年ぶんです。誰にも言ってません」
窓の外で、また雪が落ちた。
「なぜ、写しておいでですか」
「数字が合わないからです」
その方は束を膝に置いた。
「僕、数字が合わないと眠れないんです。子どもの頃からです。それで書記になりました」
「合わない、と申しますのは」
羽根ペンを持つ手が動いた。書くつもりではないらしい。持っていないと落ち着かないのだと思う。
「言えません」
「はい」
「すみません。家族が村にいるので」
わたくしは何も聞かなかった。
三月のあいだ、この方は同じことを四度言った。言えない、家族が村にいる。四度とも同じ順で言った。
「あの」
「はい」
「奥様は、僕のこと、数えてますか」
思いがけない問いだった。
「数えております」
「そうですか」
その方は束を引き出しに戻した。
「僕、この館に来て一年です。いちばん新しいので、奥様の次です。それで、その」
言葉が途切れた。
「三月前、奥様が来られたとき、僕、正直、助かったと思いました」
その方は顔を上げなかった。
「僕が二番目になったので」
書庫の中が静かになった。
「すみません」
「いいえ」
「ずっと言おうと思ってました。言わないと、その、変な気がして」
わたくしは立ち上がった。
立ち上がってから、何を言えばいいのか分からなくなった。
この人は正直だ。この館で、いちばん正直なのはこの人かもしれない。誰でも、自分が後になれば助かったと思う。思わないほうがおかしい。
「わたくしも、そう思いました」
その方が顔を上げた。
「一番上は最後だと伺ったとき、春まで生きられると思いました。ほかの方が先だと分かって、そう思いました」
「……はい」
「同じでございます」
その方は羽根ペンを置いた。
「奥様」
「はい」
「あと一日か二日で、鳴ると思います」
夕方、厨房の裏へ粥を運んだ。
この仕事は、今はわたくしと書庫の方で分けている。厩の子がやっていたことだ。その前は厨房の人がやっていた。
老人は同じ向きで寝ていた。呼吸が浅い。
匙で粥をすくって、口元へ運ぶ。飲み込むのに時間がかかる。三口で、首を少し動かした。それで終わりの合図らしい。
名前を、わたくしは知らない。
書庫の方も知らない。厩の子も知らなかった。誰も言わないから、と言っていた。
この土地では、名を言わないのが作法だ。
けれど、この人の場合は違う。作法で伏せられているのではなく、初めから無いのだと思う。二百年どの帳面にも書かれなかった家の人は、名を書かれる機会がなかった。
わたくしは椀を置いた。
置いてから、この人の枕元にしばらく座っていた。
夜、皿を数えた。二枚。
名簿は二。書庫に一人。厨房の裏に一人。二人。旦那様とわたくしを入れて、四人。
鐘は鳴らなかった。
引き出しを開けた。
火をつけていない蝋燭が一本。刻みが六つ入った木の匙。三つの字を書いた紙。
三月で、三つになった。ひと月に一つずつ増えた勘定になる。増え方まで数えてしまうのは、たぶん癖のほうが悪い。
どれも、置いていった人がいる。置いていった人の名を、わたくしは全部言える。
書庫の方の指は、真っ黒でございました。




