第二十七話 覚えていてくれ
四日、鐘は鳴らなかった。
雪が音を立てるようになった。屋根から落ちる音、樋を流れる音、庇の先から滴る音。三月のあいだ、この館では鐘だけがよく通った。今は鐘以外の音がある。
朝、書庫の方が写しを一束、机に積んでいた。
わたくしが入ると、今日は隠さなかった。隠さないまま、指が黒くなるまで書き写している。
「奥様。あと五日くらいですかね」
「峠でございますか」
「いえ。鐘です」
その方は羽根ペンを止めなかった。
「雪が緩むと早いんです。雪の重さで決まるので。緩んだぶん、土地が養える数が増えると思うでしょう。逆なんです」
「逆でございますか」
「溶けた水が沁みて、蓄えが傷むんです。麦も、根菜も。だから緩みはじめが、いちばん減ります」
三月のあいだ、この方はわたくしに数字のことしか話さなかった。今日のこれも数字の話だ。数字の話をするとき、この人は口ごもらない。
「では、あと五日」
「たぶん」
「そのあとは」
羽根ペンが止まった。
止まって、また動いた。
「奥様。僕、二番目なので」
それだけ言って、その方は写しに戻った。
夜、書斎へ行った。
扉を叩いた。今度は返事があった。
「入れ」
中に入ると、旦那様は机に向かっておられた。
紙が広げてある。今年の冬名簿だ。八つの名に線が引かれている。線を引いたのはケラーだろう。定規を当てた線だ。
書き損じの束は、隠されていなかった。
箱に入りきらずに床へ積んだままで、いちばん上の一枚が斜めになっている。前に見たときと同じ場所にある。
「掛けろ」
椅子が一脚あった。この部屋に椅子が二脚あることを、わたくしは前に来たとき気づかなかった。
掛けた。
旦那様は羽根ペンを持っておられた。持ったまま、書いていない。
「残り二人だ」
「はい」
「書庫のあれと、君だ」
「はい」
「雪が緩んだ。あと五日か、六日で、次が鳴る」
わたくしは膝の上で指を組んだ。
「その次は、わたくしでございます」
「そうだ」
この方は隠さなかった。三月のあいだ、この方は一度もわたくしに嘘をつかなかった。答えないことはあったけれど、嘘は一度もない。
「あなた様は、毎晩ここで、わたくしの名を削っておいででした」
「ああ」
「削ったところは、どうなりますか」
「朝には戻っている」
旦那様は羽根ペンを置いた。
「十四年、一度も残らない」
燭台の火が細くなった。この部屋の蝋燭は十一本ある。わたくしの部屋と同じ数だ。誰が置いているのかを、わたくしはもう聞かない。
「あなた様」
「なんだ」
「なぜ、続けておいでですか」
この方は、しばらく答えなかった。
紙の角を、指で折った。折って、伸ばした。癖だ。
「やめると、決めたことになる」
「決める」
「消せないと決めたら、消さなくていいことになる。楽になる」
声が低かった。
「楽になったら、たぶん、次の年も楽だ」
わたくしは何も言わなかった。
やめると決めたことになる。
この方は、決めないために続けている。十四年、毎晩。誰にも見られずに。
実家にいた頃、わたくしは椅子を数えていた。数えたところで椅子は増えなかった。増えないと分かっていて数えていたのは、たぶん、諦めたことにしたくなかったからだ。
似ている、と思った。
似ていると思ったことを、口には出さなかった。
この方は八年、毎年ひとり娘を迎えた。七人は春に帰した。帰した娘の名を、七回削って、七回とも戻した。
削らずに済ませることは、できたはずだ。誰も見ていない。誰も咎めない。
「あなた様は、初めからご存じでしたね」
「何をだ」
「今年は届くと。初雪の日に、雪尺をご覧になっておいででした」
「ああ」
「それでも、わたくしをお迎えになった」
旦那様が顔を上げた。
「迎えなければ、くじは引き直しになる」
「はい」
「引き直せば、別の家の娘が来る」
この方は机の端を指で押さえた。
「誰かは来る。来ないという選択はない」
「はい」
「だから、来た者に、覚えるなと言った」
三月前の婚礼の夜のことを、わたくしは思い出していた。
この方は顔も見ずに、この家のことは何も覚えなくていいと言った。あのとき、突き放されたのだと思った。
「覚えなければ、嘆かない。嘆かなければ、数は狂わない」
「はい」
「君は、覚えた」
「はい」
「一人、余分に死んだ」
わたくしは指を握った。
「はい」
この方はそれを責めるために言ったのではないと、聞いていて分かった。事実を並べる言い方だった。
「それでも」
旦那様が言葉を切った。
切って、しばらく置いた。
「それでも、この三月、私は初めて、この家の者の名を全部知っている」
わたくしは顔を上げた。
「君が数えたからだ」
燭台の火が、机の上で揺れた。
「薪割りの男が三月ぶんの薪を割り置いていったことも、門番が油を棚の右下に置いたことも、料理人が皿を六枚にしろと言ったことも、私は君から聞いた」
「はい」
「十四年、この家で誰かが死ぬたびに、私は何も聞かなかった。誰も言わないからだ」
この方は羽根ペンを取った。取って、また置いた。
「奥様」
距離を置くときの呼び方だった。
置いて、それから、言い直された。
「君」
「はい」
「覚えていてくれ」
わたくしは息を止めていた。
「数えるなと言った。取り消す」
「はい」
「覚えていてくれ。全部だ」
三月前、この方は覚えるなと言った。四十日前には数えるなと言った。今夜、その両方を取り消された。
「それは、どなたのことでございますか」
この方は答えなかった。
答えずに、書き損じの束のほうを見ておられた。いちばん下にある十四年前の一枚。二番目の欄が乱暴に削られている一枚。
わたくしはそこから目を戻した。
「承知いたしました」
それだけ申し上げた。
部屋を出るとき、床に積まれた紙の束が目に入った。
いちばん上の一枚が斜めになっている。前に来たときと同じ角度だ。この方は毎晩ここで書いて削っているのに、束のほうは触っていない。
触らないのは、たぶん、数えたくないからだと思う。
八年ぶんと、十四年前の一枚。数えれば、何年やってきたかが分かってしまう。
わたくしは数えた。数えるのが癖だ。
扉のところで一度振り返った。
旦那様は羽根ペンを持っておられた。
今夜も、書いて、削るのだろうと思った。
鐘は鳴らなかった。名簿は二。
あの方が誰のことをおっしゃっているのか、わたくしはまだ伺っていない。




