第二十六話 お数えになったことが
ケラーが来たのは、四日後の昼だった。
五度目である。前と同じ黒い上着で、前と同じ席に座った。書庫の方は今日も立っていた。三月のあいだ、この人が自分の机に座っているところを、わたくしはこの方の前で一度も見ていない。
「奥様。残りは二人でございますな」
「はい」
わたくしは反論しなかった。
名簿は二だ。書庫の方と、わたくし。それは合っている。
「雪が緩んでまいりました。あと十日ほどで、峠が開きます」
「はい」
「例年でしたら、このあたりで冬が明けます」
ケラーは帳面を開いた。今日はいちばん薄いものだけを持ってきている。
「今年は、明けません」
その方は数字を書き足した。書き足してから、羽根ペンを置いた。
「奥様。三月お世話になりました」
「まだ、明けておりません」
「さようでございますな。失礼いたしました」
言い方に、含みも皮肉もなかった。この方は本当に、そのつもりで言ったのだと思う。
わたくしは椅子に掛けた。
三月のあいだ、この方は五度この部屋へ来た。五度とも同じことを言い、五度とも正しかった。
「伺ってもよろしいですか」
「もちろんでございます」
「二百年前の飢饉の年に、何人減りましたか」
羽根ペンの先が、机の上で止まった。
「申し上げないと、前に申しました」
「はい。ですから、もう一度伺いました」
ケラーは帳面を閉じた。
「奥様。あれは、順番のない冬でございます。誰から取るかが決まっておりませんでした。ですから、数えた者もおりません」
「数えていない」
「はい。数えられる状況ではございませんでした」
その方は帳面の縁を親指でなぞった。紙を痛めない繰り方をする指だ。
「後から、いなくなった者の名を書き出しました。書き出せた分だけが、帳面に残っております」
「書き出せなかった方は」
「おられます」
窓の外で、雪の落ちる音がした。今日は湿った音だ。
「ですから、あの年の数は、正しくございません」
わたくしは、その言葉を置き直した。
二百年の帳面。この方が守ってきたもの。そのいちばん初めの一枚が、正しくない。
「それでも、帳面をお取りになりますか」
「取ります」
迷いがなかった。
「正しくないと分かっているものでも、順は決められます。順が決まっておれば、無作為ではございません。無作為でないというだけで、この土地の者は二百年生きてまいりました」
「はい」
「奥様。私は正しさを守っておるのではございません。順を守っております」
わたくしは膝の上で指を組んだ。
この方の言うことは、今日も間違っていない。
正しさではなく順を守っている。そう言い切れる人を、わたくしは初めて見た。
実家の父も、継母も、正しさの話をしたことがない。この家のためだと言った。家のためだから仕方がないと言った。この方の言い方は、それに似ていて、それより誠実だった。
正しくないと分かっているものを、正しくないと言ったうえで守っている。
三月のあいだ、わたくしはこの方に一度も勝てなかった。勝つ必要があるのかどうかも分からないまま、五度向かい合った。
勝てないのは、たぶん、勝ち負けの話ではないからだ。
わたくしは指を解いた。
「ひとつだけ、伺わせてください」
「はい」
「あなた様は」
ケラーは帳面の上に手を置いていた。顔は上げていない。三月のあいだ、一度も上げていない。挨拶のときも、二百年の話をしたときも、あの子の順が繰り上がったと告げたときも。
「ご自分の目で、数えたことがおありですか」
羽根ペンが、止まった。
書庫の方が、壁際で身じろぎした。
部屋が静かになった。庇の雪も落ちなかった。
わたくしは責めていない。
責めるつもりで聞いたのでもない。この三月、この方はずっと帳面を見ていた。見ていたから、この方には見えていないものがあるはずだと思った。それだけのことだ。
厨房の裏で寝ている人を、この方はご存じだろう。ご縁者だと聞いた。
ご存じで、帳面に書かなかった。
書かなかったのは、数えていないからだ。数えていないのは、見ていないからではない。見ないことにしているからだ。
ケラーは動かなかった。
手も、肩も、指も。帳面の上に置いた手のかたちが、そのままになっていた。
しばらくして、その方は羽根ペンを取った。
取って、何も書かなかった。
それから、机の上の帳面を閉じて、革の紐を掛けた。掛けるのに、いつもより時間がかかっていた。
「奥様」
「はい」
「私は、書く者でございます」
立ち上がって、外套に袖を通す。
「では」
扉のところで、いつもの礼をした。首から上を少しだけ動かす礼だ。
最後まで、こちらを見なかった。
扉が閉まった。
わたくしは椅子に掛けたままでいた。
言い負かしたわけではない。あの方は何も認めていないし、何も撤回していない。帳面も持って帰った。
ただ、答えなかった。
書庫の方が、初めて自分の椅子に座った。座って、羽根ペンを取って、それから置いた。
「奥様」
「はい」
「今の」
「はい」
「僕、ずっと聞きたかったんです」
その方は写しの束を引き出しから出した。今日は隠さなかった。
「あの人、帳面のことは全部知ってます。全部知ってて、一回も数えてないんです。僕、三年見てて、一度も見てません」
「三年」
「はい。僕が来る前から、たぶんずっと」
束の厚みが、三月前より増えている。毎晩やっているのだろうと、初めて見たときに思った。思ったとおりだった。
わたくしは書庫の窓から外を見た。
雪が緩んでいる。屋根から落ちる音が、この五日で増えた。峠が開くまであと十日だと、あの方は言った。
冬の初めに、門番の大男が閂を二重に打った。春に抜く者がいると言い残して行った。
抜く者は、まだ決まっていない。
夕方、厨房の裏へ行った。
老人は同じ向きで寝ていた。呼吸の音が浅い。枕元の椀は空になっている。書庫の方が運んだのだと思う。厩の子はもういない。
わたくしはその人の顔を見た。
この人は帳面にない。名簿にもない。二百年、誰にも数えられていない。
誰にも数えられなければ、順は来ない。
順が来なければ、森へは行かない。
名簿は二。書庫に一人。厨房の裏に一人。二人。旦那様とわたくしを入れて、四人。
鐘は鳴らなかった。
あの方は、お答えになりませんでした。




