第二十五話 おれの名前
読めなかった名前のことを、わたくしは四日のあいだ考えていた。
十四年前の冬名簿。十一の名。いちばん上は当主の名で、削られていた。その下の二番目に、もうひとつ削られた名がある。
あの一枚は、この方が最初に書いた名簿ではない。すでに誰かが書いたものに、この方が自分の名を書き足したのだ。書き足す場所は、いちばん上と決まっている。
ということは、それまで一番上だった名が、二番目に押し下がる。
その名が、削られている。
削り方が違った。当主の名は、迷いながら何度も削られていた。二番目のほうは、往復が乱暴だった。
わたくしは、あの晩以来、書斎へ行っていない。
行けば、聞くことになる。聞けば、あの方は答えないか、答えたくないことを答えることになる。
十四年前の名簿に十一の名があった。今年と同じ数だ。この土地でも珍しい年だと、あの一枚を見たときに思った。
珍しい年に、二番目の欄にいた人がいる。
当主が自分の名を書き足すまでは、その人が一番上だった。一番上は最後に行く。例年なら届かない。
届いた年だったのだと思う。
その年、この方は十二だった。
朝、厩へ行った。
テオが飼葉桶の前に立っていた。手に紙を持っている。厩に紙があるのは珍しい。
「奥様」
「おはようございます」
「これ、見て」
差し出されたのは、書庫で使う紙の切れ端だった。角が斜めに切ってある。書庫の方が捨てたものを拾ったのだろう。
炭で、三つの字が書いてあった。
この子の名前だ。
「書けました」
「うん」
「藁じゃなくて、紙に」
テオは紙を裏返して、また表に戻した。裏にも同じものが書いてある。何度も練習したらしい。線が重なって、字が太くなっていた。
「奥様。おれ、これで読める?」
「読めます」
「じゃあ、いく」
その子は紙を持って歩き出した。厩を出て、館へ入って、廊下を進んでいく。
わたくしは後をついていった。
広間に着いた。
壁に、冬名簿が貼ってある。三月前と同じ紙だ。四隅が破れて、毛羽立っている。八つの名前に線が引かれていた。
テオは名簿の前に立った。
背が届かない。名簿は大人の目の高さに貼ってある。この子は爪先立ちになって、それでも足りずに、少し後ろへ下がった。
下がって、上から順に見ていった。
「これ、奥様」
「はい」
「これが、書庫の人」
「はい」
三番目のところで、指が止まった。
テオは自分の持ってきた紙を、目の高さに上げた。名簿の字と、自分の書いた字を見比べている。
紙のほうが太い。何度も重ねて書いたからだ。
「同じだ」
その子はそう言った。
「おれの名前だ」
三月かかって覚えた三つの字が、そこにあった。
この子は今日まで、その紙を読めなかった。読めないまま、毎朝そこを通っていた。
三月前、飼葉の札が読めなくて、三すくいずつやっていた子だ。上が二すくい、下が一すくい半と教えたのが最初だった。次に「三」を教えた。それから自分の名前を教えた。
藁の上に書いて、書いたそばから消えるので、何度も書き直していた。
紙に書けるようになるまで、三月かかった。
「三番目」
「はい」
「知ってた。でも、読んだのは初めて」
テオは紙を下ろした。
それから、こちらを見上げた。
「奥様。おれ、字が読めるようになったら、あの紙も読めるって言ったよね」
「はい」
「読めた」
「はい」
この子は笑わなかった。泣きもしなかった。ただ、紙を二つに折った。折り目をつけて、もう一度開いた。
鐘が鳴ったのは、そのときだった。
一つ。二つ。
止んだ。
二回。
テオは名簿のほうを見なかった。数えるまでもなかったのだと思う。この子は自分が三番目だと知っていて、鐘が二回鳴れば、残りが二人だと分かる。
三番目の者は、もういない。
「おれだ」
「はい」
その子は紙を差し出した。
「これ、奥様が持ってて」
「よろしいのですか」
「うん。おれ、もう覚えたから」
わたくしは受け取った。炭の粉が指についた。
拭かずにおいた。
テオは厩へ戻って、外套を取ってきた。着るのに手間取っていた。この子の外套は大人のものを詰めたもので、袖の折り返しが厚い。
「奥様」
「はい」
「馬、水やっといて。朝二すくいと、夕一すくい半は飼葉のほうだから。水は好きなだけでいい」
「はい」
「あと、栗毛のやつ、左の後ろ足に触るとよける。前に痛めてる」
「はい」
少年は裏口の扉を押した。
両手で押した。リーゼも両手で押していた。この扉は子どもには重い。
敷居をまたぐとき、一度だけ立ち止まった。
「奥様」
「はい」
「短かった」
何のことか、すぐには分からなかった。
分かったのは、その子が出ていってからだ。
三つの字は短い。この子は前にも同じことを言った。藁の上に書いて、消して、短い、と言った。
北の斜面を、小さな外套が上がっていく。
途中で一度、立ち止まって、袖の折り返しを直した。それから、また歩いた。
木立に入って、見えなくなった。
わたくしは扉を閉めた。
手の中に、紙がある。
二つに折った跡がついている。炭の字が三つ。何度も重ねて書いたので、太くなっている。
夜、厩へ行った。
馬に水をやった。桶を持つと、思っていたより重い。この子は毎朝これを運んでいた。
栗毛のものは、左の後ろ足に触らないようにした。触らないでいると、この馬はおとなしかった。教わらなければ、わたくしは触っていた。
厩は藁と馬の汗の匂いがする。三月前、初めてここへ来たときと同じ匂いだ。
飼葉桶に、木の札が下がっている。上が二すくい、下が一すくい半。
この札を、もう誰も読まない。読める者は、三月かけて読めるようになった翌日に行った。
部屋に戻って、引き出しを開けた。
火をつけていない蝋燭が一本。刻みが六つ入った木の匙が一本。
その隣に、紙を置いた。
名簿は二。
書庫に一人。厨房の裏に一人。二人。旦那様とわたくしを入れて、四人。
名簿と、数が合わない。
厨房の裏で寝ている人は、二百年、どの年の帳面にも載っていない。載っていないから、誰も数えない。数えないから、順も来ない。
あの人だけが、この土地で減らずにいる。
合わないまま、冬が終わろうとしている。




