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第二十四話 十四年ぶんの紙

わたくしは、扉を開けた。


 三月近く、一度も開けなかった扉である。


 開ける前に、二度立ったことがある。峠が閉まった夜と、針子部屋の人がいなくなった夜。二度とも手を上げて、下ろした。


 三度目に、押した。


 開けようと思って行ったのではない。厨房の裏に粥を運んだ帰りに、階段を上がって、そのまま上がりきってしまった。十七段、踊り場、十七段。数えながら上がる癖が、今夜は足を止めなかった。


 書斎は思っていたより狭かった。


 書棚が二面。窓が一つ。机が一つ。燭台に火が入っていて、部屋の隅までは光が届いていない。


 旦那様が、机に向かっておられた。


 振り返らなかった。入ってきた者が誰かは、たぶん分かっている。この館に立って歩ける人間は、あと三人しかいない。


 机の上に、紙が一枚広げてある。


 冬名簿だった。広間に貼ってあるものと同じ形で、同じ書き方をしている。上から書き足す帳面の書式だ。


 旦那様は羽根ペンを持っておられた。


 背中が丸い。この方は背が高いので、机に向かうと肩が上がる。長く同じ姿勢でいる人の背中だった。


 書いた。


 それから、小刀の背を紙に当てて、書いたところを削った。乾いた音がした。三月のあいだ、扉の外で毎晩聞いていた音だ。


 削り終えて、また書いた。


 書いて、削った。


 わたくしは、扉のところに立っていた。


 止められはしなかった。何をしている、とも聞かれなかった。この方はわたくしがいることを承知したうえで、同じことを続けている。


 机の脇に、紙の束があった。


 箱に入りきらずに、床にも積んである。上のほうは新しい。下へ行くほど黄ばんで、いちばん下の紙は角が丸くなっていた。


 わたくしはその束の前にしゃがんだ。


 上の一枚を取った。


 冬名簿だ。今年のものではない。八人ぶんの名が並んでいて、いちばん上の名前が削られていた。削って、また書いて、また削った跡がある。紙が薄くなって、その部分だけ光が透ける。


 次の一枚も同じだった。


 その次も。


 どれも、いちばん上の名だけが削られている。削られた名は、たいてい女の名だ。


 数えた。八枚ある。


 この方が当主になってから八年になると、書庫の方が言っていた。奥様で八人目だと。


 毎年、この方は「今年の娘」の名を消そうとしていた。


 消して、戻していた。


 七人は春に帰った。帰った娘たちは、自分の名がこの部屋で何度も削られたことを知らない。良縁がついて、たぶん今も知らない。


 わたくしは束の下のほうへ手を入れた。


 紙が硬くなっている。年を経ると紙は硬くなる。実家の帳簿もそうだった。


 いちばん下の一枚を抜いた。


 十一の名が並んでいた。


 今年と同じ数だ。この土地でも珍しい年だったのだと分かる。


 その紙の、いちばん上を見た。


 削られていた。


 削り方が、ほかのものと違った。


 何度も削って、そのたびに書き直している。紙が破れかけていて、裏から別の紙を当てて繕ってある。繕ったうえで、また削られていた。


 削り残しがあった。


 最後の一文字だけが、うっすら残っている。


 その字を、わたくしは読めた。


 この方の家名だ。


「それは、置け」


 声がした。


 振り返ると、旦那様がこちらを見ておられた。羽根ペンを持ったままだった。


 わたくしは紙を持ったまま立ち上がった。


「これは、あなた様のお名前でございますね」


 答えはなかった。


「当主のお名前を、一番上に書かれたのですね」


 答えはなかった。


「書けば、ほかの方は行かずに済むと」


 旦那様が羽根ペンを置いた。


 置いてから、この方は初めて口を開いた。


「十四年前だ」


「はい」


「書いた。三日で消えた」


「消えた」


「私が消したんじゃない。朝になったら、なくなっていた」


 声が低かった。怒鳴っているのではない。この方は感情が動くと、声が静かになる。


「当主の名は載らない。載せれば、勘定の真ん中が抜ける」


「抜けると」


「その冬は、全員だ」


 燭台の火が細くなった。


 わたくしは紙を机に置いた。置いてから、束のほうを見た。八年ぶんと、その下に十四年前の一枚。


「毎晩、なさっておいでですか」


「ああ」


「十四年」


「ああ」


 この方は椅子に掛け直した。掛けてから、机の端を指で押さえた。紙の角を折る癖がある。今日は折らなかった。


「消せば、土地が別の名を書く」


「はい」


「書き直せば、その年の勘定が最初からになる。増える」


「はい」


「何をしても、誰かが余分に死ぬ」


 旦那様は自分の手を見ておられた。手袋をしていない手だ。この冬のあいだ、一度もしているのを見ていない。


「だから、書いて、消す」


「はい」


「三月のあいだ、それだけをしている」


 わたくしはそこに立っていた。


 三月のあいだ、この扉の下から光が漏れていた。紙をめくる音と、書く音と、削る音がしていた。わたくしはそれを廊下で聞いて、聞いたまま部屋へ戻った。


 何をしているのかを、一度も想像しなかったわけではない。


 想像したのは、帳面をつけているとか、書き物をしているとか、そういうことだった。


 同じ紙の同じ場所を、十四年削り続けている人のことは、想像したことがなかった。


 この方は冷酷だと聞いていた。婚礼の夜に顔も見ずに、この家のことは何も覚えなくていいと言った人だ。覚えるなと言い、数えるなと言い、理由は言えないと言った人だ。


 その人が、十四年、毎晩ここにいた。


 誰にも見られずに、書いて、消していた。


 わたくしは机に近づいた。


 今年の冬名簿が広げてある。十一の名。上から三つには線が引かれていない。まだ生きている者の欄だ。


 いちばん上に、わたくしの名がある。


 削った跡があった。


 何度も削られていた。紙が薄くなって、光が透けている。


「あなた様」


「なんだ」


「わたくしの名も、削っておいででしたか」


 返事はなかった。


 燭台の火が、机の上で一度揺れた。


「君は、よく覚えている」


 褒められたのか、咎められたのかが分からなかった。


 この方がわたくしを君と呼ぶのを、久しぶりに聞いた気がした。


 この一月ほど、この方はわたくしを奥様と呼んでいた。書記官長の話をするときと、わたくしが自分を責めているときだ。


 距離を置くときに、奥様と呼ぶ。


 今夜は、置かなかった。


 燭台の脇に、蝋燭が何本か立ててあった。数えると十一本ある。わたくしの部屋と同じ数だった。


「あなた様」


「なんだ」


「蝋燭は、あなた様が」


 返事はなかった。


 返事はなかったけれど、この方は羽根ペンを取り直さなかった。取り直さずに、紙のほうを見ていた。


 夜半を過ぎて、部屋に戻った。


 鐘は鳴らなかった。名簿は三。


 いちばん下の一枚に、もうひとつ、削られた名前があった。


 わたくしの名の下、二番目の欄。


 そこだけ、削り方が乱暴だった。何度も往復して、紙の繊維が毛羽立っている。


 読めなかった。

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