第二十三話 もうひとり
この館に何人いるかを、わたくしは知っているつもりでいた。
厩に一人。書庫に一人。旦那様とわたくし。四人。名簿は三。
五日前からその数で、変わっていない。
変わっていないのだから確かめる必要もないのだけれど、わたくしは五日目の朝に館を歩いて回った。歩いて回るのが習慣になっている。することが、ほかにあまりない。
厨房を通った。誰もいない。
洗濯場を通った。誰もいない。
針子部屋、薪割り場、門番の詰所。誰もいない。
厩にテオがいた。書庫にあの方がいた。
二人。
それで終わりのはずだった。
厨房の裏に、勝手口へ抜ける短い廊下がある。薪と塩の樽を置く場所で、天井が低い。わたくしは樽の数を確かめるために、そこへ入った。
樽は九つ。壺は三十一。板に書いた数と合っている。
合っていることを確かめて、出ようとしたとき、奥の戸が半分開いているのに気づいた。
物置だと思っていた。
覗くと、寝床があった。
藁を積んで、その上に毛布を敷いてある。使われている寝床だった。毛布に皺があって、端が捲れている。
人が寝ていた。
老人だった。ずいぶんな年に見える。壁のほうを向いて横になっていて、こちらには気づかない。呼吸の音がしていた。長く、浅い。
わたくしはそこに立っていた。
部屋の中は暖かかった。厨房の竈の壁が、この部屋の背にあたる。火を落とさなければ、朝まで熱が残る場所だ。
枕元に椀があった。中に粥が少し残っている。乾いていない。今朝、誰かが運んだものだ。
運んだのは、たぶんわたくしではない。厩の子か、書庫の方か。
どちらかは知らないけれど、この五十日、誰かが毎日ここへ粥を運んでいた。
この人を、わたくしは一度も見たことがない。
この館へ来て五十日以上になる。廊下を数え、部屋を数え、人を数えてきた。数えたことのない人が、厨房の裏で寝ている。
見ていないものは、数えられない。
自分の目で見たものしか数と呼ばないというのが、わたくしの意地だった。人から聞いた数を信じない。帳面に書いてある数も、自分で数え直す。
その意地は、見えない場所には届かない。
わたくしは五十日、この館を数えてきたつもりでいた。数えていたのは、わたくしが歩く廊下から見える範囲だけだった。
戸を閉めて、書庫へ行った。
「厨房の裏に、どなたかおいでですね」
書庫の方が羽根ペンを落とした。落として、拾って、また落とした。
「あの、それは」
「ご存じでしたか」
「はい」
「どなたでございますか」
「書記官長の、ご縁者です」
その方は羽根ペンを机に置いた。今度は落とさなかった。
「僕がここへ来る前からいらっしゃいます。もう歩けないので、出てこられません」
「何年おいでですか」
「分かりません。たぶん、ずっと」
わたくしは椅子に掛けなかった。掛けずに、扉のところに立っていた。
「名簿には」
「ありません」
声が小さかった。
「初めからありません。僕が写した二百年ぶんの、どの年にも」
その方は口を閉じた。閉じてから、こちらを見ないようにした。
わたくしは書庫を出た。
昼、ケラーが来た。
四度目である。前と同じ黒い上着で、前と同じ席に座った。冬のあいだ月に何度か来ると聞いていたが、この人は思っていたよりよく来る。
「奥様。残りは三人でございますな」
「四人でございます」
羽根ペンが止まらなかった。
「三人でございます」
「厨房の裏に、どなたかおいででございます」
書き続けている。線を一本引いて、それから数字を書き足した。
「あの者は、帳面にございません」
「おいででございます。わたくしは、見ました」
「見たものが帳面にあるとは限りませんのでな」
その方は羽根ペンを置いた。置いてから、初めて手を止めた。
「奥様。奥様のお数えになったものは、四人でございますか」
「はい」
「帳面は三人でございます」
「では、どちらかが違っております」
「さようで」
ケラーは帳面の縁を親指でなぞった。
「では、奥様の数え違いでございましょう」
言い方に力はなかった。押しつけてもいない。当たり前のことを言った人の言い方だった。
「なぜでございますか」
「奥様は、一度お間違えになっております」
わたくしは何も言えなかった。
この方の言うとおりだ。わたくしは五日ぶん、人をひとり多く数えた。多く数えて、あの子の順を早めた。
「間違えた者の数と、二百年の帳面と、どちらを取るかというお話でございます」
「はい」
「私は帳面を取ります。奥様も、そうなさいませ」
その方は立ち上がった。外套に袖を通す。
「あの者のことは、お忘れくださいまし」
「忘れる」
「はい。数えなければ、それで済みます」
扉のところで、いつもの礼をした。首から上を少しだけ動かす礼だ。
最後まで、こちらを見なかった。
厩へ寄った。
テオが飼葉を量っていた。朝二すくい、夕一すくい半。教えた札のとおりにやっている。
「テオ」
「はい」
「厨房の裏に、粥を運んでいるのはあなたですか」
少年は手を止めた。
「うん」
「いつからでございますか」
「おれが来たときから。前は厨房の人がやってた」
「あの方は、どなたでございますか」
「知らない」
その子は桶を置いた。
「名前も知らない。誰も言わないから」
「あなたは、あの方を数に入れておいでですか」
テオは少し考えた。考えるとき、この子は口を尖らせる。
「数えたことない」
「なぜでございましょう」
「あの人、名簿に載ってないから。載ってない人は、数えなくていいんだと思ってた」
載っていないから数えない。
この館の子は、そう覚えて育つ。
夕方、厨房の裏へ戻った。
戸は半分開いたままだった。老人は同じ向きで寝ている。呼吸の音が、朝より少し浅い。
わたくしはそこに立って、数えた。
厩に一人。書庫に一人。この裏に一人。三人。旦那様とわたくしを入れて、五人。
名簿は三。
合わない。
二百年、どの年の帳面にもない人が、この館の裏で寝ている。
夜、皿を並べた。三枚。
並べてから、棚をもう一度開けた。四枚目を下ろして、布で拭いた。
置く場所がない。この人は食堂へ来ない。
拭いた皿を、わたくしは棚の下の段に置いた。使わない皿を、使わないまま数に入れておく。
鐘は鳴らなかった。
あの方は、一度も顔をお上げにならなかった。




