第二十二話 いま、ここにいる
五日、鐘は鳴らなかった。
抱いた夜も、その翌晩も、その次も。わたくしは毎晩、燭台の前に座って待った。四晩目には座るのをやめた。五晩目には、待っていることを忘れていた。
狂わなかった。
朝、洗濯場の板を洗いながら、そのことを考えていた。
覚えていれば狂う。針子の女のときは、五日で狂った。あのときわたくしは、いなくなった人をまだ在るものとして数えていた。
今度は、抱いた。名も呼んだ。泣くのを止めなかった。
狂っていない。
湯の中で手を動かしながら、二つを並べてみた。
針子の女を、わたくしは数に入れていた。あの人はもういないのに、いることにしていた。五人を六人と数えた。
リーゼは、いる。
抱いたとき、この子は腕の中にいた。熱かった。髪が濡れていた。泣き声が肩のところで大きくなった。
わたくしは、この子がいると数えた。いないものをいると数えたのではない。いるものを、いると数えた。
板を洗う手が止まった。
湯が冷めていくのが、指から分かった。
まだ在る、と数えるのと、いま、ここにいる、と数えるのは、違う。
誰も教えてくれなかった。ドロテアも、針子の女も、書記官長も、旦那様も。この土地の人は皆、嘆くなとだけ言った。嘆くのと、いる人を数えるのを、分けて言った人はひとりもいない。
分けていないから、この土地では誰も人を抱かない。
抱けば数が狂うと思っている。だから触らない。名を呼ばない。目も合わせない。
二百年、そうやって守ってきたのだと思う。守り方として、間違ってはいない。嘆けば本当に狂うのだから。
ただ、少し広く取りすぎている。
嘆くなという決まりが、生きている人に触れるなというところまで広がっている。広がったぶんだけ、この土地の人は誰にも触られずに減っていった。
薪割り場の人は、四度目にようやく三つ喋った。
門の人は、玄関の床を拭きながら行った。
厨房の人は、皿の枚数を引き継いでから行った。
誰も、抱かれていない。
昼、書庫へ行った。
書庫の方は写しの束を広げていた。わたくしが入ると隠そうとして、途中でやめた。手が止まって、そのままになった。
「奥様」
「はい」
「あの、五日、鳴りませんでした」
「はい」
「あれ、おかしくないですか」
その方は羽根ペンを置いた。
「僕、ずっと数字を見てるので分かるんです。狂ったときは、必ず早く鳴ります。前は五日でした。今度は狂ってないってことに」
「わたくしも、そう思いました」
「じゃあ、抱いても大丈夫ってことですか」
「分かりません」
わたくしは椅子に掛けた。
「ただ、まだいる人を数えるのは、いけないことではないのかもしれません」
その方はしばらく黙っていた。
それから、束の上に手を置いた。
「奥様。僕、変なことに気がついてるんです」
「はい」
「帳面が、合わないんです。ずっと」
窓の外で、庇の雪が落ちた。今日は音が鈍い。雪が湿ってきている。
「合わない、と申しますのは」
「言えません」
その方は束を引き出しにしまった。しまう手が速かった。
「すみません。言えないんです。家族が村にいるので」
わたくしは何も聞かなかった。
聞けば、この人が困る。この館では、聞かないことが親切になる。
書庫を出て、廊下を歩いた。
この館は広い。人が三人しかいないので、余計に広い。廊下の端から端まで歩いても、誰ともすれ違わない日がある。
厨房の前を通った。釘に前掛けが二枚掛かっている。板の数字は、ここ数日わたくしが書いている。
針子部屋の前を通った。扉は開けたままにしてある。閉めておくと、中に誰かがいるように思えてしまうからだ。
薪割り場の前を通った。斧はもうない。切り株だけが雪に埋まっている。
歩きながら、数えていた。
いない人を数えているのではない。いた人を、いたと数えている。それが違うことなのかどうかは、まだ確かめていない。
夕方、鐘が鳴った。
三回。
わたくしは洗濯場にいた。リーゼが桶の前に座って、木の匙を握っている。柄の刻みは六つのままだ。昨日、旦那様が卓の端へ寄せたものを、わたくしがこの子に返した。
三つで、止んだ。
その子が顔を上げた。
「おくさま」
「はい」
「リーゼ?」
わたくしはしゃがんだ。
この子は自分の順番を知っている。三番目だと数えられる子ではないけれど、鐘が鳴るたびに残りが減ることは分かっている。
「はい」
「そっか」
リーゼは立ち上がった。上着の裾が二寸出してある。袖はまだ長い。
外套は洗濯場の隅に置いてあった。誰が置いたのかは分からない。母親のものを詰めて直したもので、丈が合っていた。
「おくさま。ぬがせて」
「はい」
わたくしは上着を脱がせて、外套を着せた。紐を結ぶとき、この子はじっとしていた。髪を結ってもらうときと同じ顔だった。
「かあさま、いる?」
「わかりません」
「うん」
その子は木の匙をわたくしに差し出した。
「これ、おくさまの」
「よろしいのですか」
「うん。リーゼ、かぞえられるから」
六つまでなら、この子は数えられる。数えるのに匙は要らない。
わたくしは受け取った。
外へ出るとき、リーゼは扉を両手で押した。両手でないと重い扉だ。
それから、振り返らなかった。
北の斜面を、小さな外套が上がっていく。途中で一度、袖口が長すぎて足に絡んだ。転ばずに立て直して、また歩いた。
木立に入って、見えなくなった。
わたくしは扉を閉めた。
手の中に、木の匙がある。
柄の刻みを、指でなぞった。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ。
あの人は、これを言おうとしたのだ。
部屋の前で言いかけて、やめた人がいた。あの子は、と言って、そこで止まった。頼めば自分を数に入れることになるから、頼まなかった。
頼まなかったけれど、あの人は毎年ひとつ、この匙に刻みを入れていた。
この子を数に入れてやってください。
言えなかった言葉が、六つの刻みになって手の中にある。
夜、皿を並べた。三枚。
名簿は三。厩に一人。書庫に一人。二人。旦那様とわたくしを入れて、四人。
匙は、引き出しにしまった。火をつけていない蝋燭の隣に置いた。
狂わなかった。
いま、ここにいる人を数えるのは、いけないことではなかった。




