↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/30

第二十二話 いま、ここにいる

五日、鐘は鳴らなかった。


 抱いた夜も、その翌晩も、その次も。わたくしは毎晩、燭台の前に座って待った。四晩目には座るのをやめた。五晩目には、待っていることを忘れていた。


 狂わなかった。


 朝、洗濯場の板を洗いながら、そのことを考えていた。


 覚えていれば狂う。針子の女のときは、五日で狂った。あのときわたくしは、いなくなった人をまだ在るものとして数えていた。


 今度は、抱いた。名も呼んだ。泣くのを止めなかった。


 狂っていない。


 湯の中で手を動かしながら、二つを並べてみた。


 針子の女を、わたくしは数に入れていた。あの人はもういないのに、いることにしていた。五人を六人と数えた。


 リーゼは、いる。


 抱いたとき、この子は腕の中にいた。熱かった。髪が濡れていた。泣き声が肩のところで大きくなった。


 わたくしは、この子がいると数えた。いないものをいると数えたのではない。いるものを、いると数えた。


 板を洗う手が止まった。


 湯が冷めていくのが、指から分かった。


 まだ在る、と数えるのと、いま、ここにいる、と数えるのは、違う。


 誰も教えてくれなかった。ドロテアも、針子の女も、書記官長も、旦那様も。この土地の人は皆、嘆くなとだけ言った。嘆くのと、いる人を数えるのを、分けて言った人はひとりもいない。


 分けていないから、この土地では誰も人を抱かない。


 抱けば数が狂うと思っている。だから触らない。名を呼ばない。目も合わせない。


 二百年、そうやって守ってきたのだと思う。守り方として、間違ってはいない。嘆けば本当に狂うのだから。


 ただ、少し広く取りすぎている。


 嘆くなという決まりが、生きている人に触れるなというところまで広がっている。広がったぶんだけ、この土地の人は誰にも触られずに減っていった。


 薪割り場の人は、四度目にようやく三つ喋った。


 門の人は、玄関の床を拭きながら行った。


 厨房の人は、皿の枚数を引き継いでから行った。


 誰も、抱かれていない。


 昼、書庫へ行った。


 書庫の方は写しの束を広げていた。わたくしが入ると隠そうとして、途中でやめた。手が止まって、そのままになった。


「奥様」


「はい」


「あの、五日、鳴りませんでした」


「はい」


「あれ、おかしくないですか」


 その方は羽根ペンを置いた。


「僕、ずっと数字を見てるので分かるんです。狂ったときは、必ず早く鳴ります。前は五日でした。今度は狂ってないってことに」


「わたくしも、そう思いました」


「じゃあ、抱いても大丈夫ってことですか」


「分かりません」


 わたくしは椅子に掛けた。


「ただ、まだいる人を数えるのは、いけないことではないのかもしれません」


 その方はしばらく黙っていた。


 それから、束の上に手を置いた。


「奥様。僕、変なことに気がついてるんです」


「はい」


「帳面が、合わないんです。ずっと」


 窓の外で、庇の雪が落ちた。今日は音が鈍い。雪が湿ってきている。


「合わない、と申しますのは」


「言えません」


 その方は束を引き出しにしまった。しまう手が速かった。


「すみません。言えないんです。家族が村にいるので」


 わたくしは何も聞かなかった。


 聞けば、この人が困る。この館では、聞かないことが親切になる。


 書庫を出て、廊下を歩いた。


 この館は広い。人が三人しかいないので、余計に広い。廊下の端から端まで歩いても、誰ともすれ違わない日がある。


 厨房の前を通った。釘に前掛けが二枚掛かっている。板の数字は、ここ数日わたくしが書いている。


 針子部屋の前を通った。扉は開けたままにしてある。閉めておくと、中に誰かがいるように思えてしまうからだ。


 薪割り場の前を通った。斧はもうない。切り株だけが雪に埋まっている。


 歩きながら、数えていた。


 いない人を数えているのではない。いた人を、いたと数えている。それが違うことなのかどうかは、まだ確かめていない。


 夕方、鐘が鳴った。


 三回。


 わたくしは洗濯場にいた。リーゼが桶の前に座って、木の匙を握っている。柄の刻みは六つのままだ。昨日、旦那様が卓の端へ寄せたものを、わたくしがこの子に返した。


 三つで、止んだ。


 その子が顔を上げた。


「おくさま」


「はい」


「リーゼ?」


 わたくしはしゃがんだ。


 この子は自分の順番を知っている。三番目だと数えられる子ではないけれど、鐘が鳴るたびに残りが減ることは分かっている。


「はい」


「そっか」


 リーゼは立ち上がった。上着の裾が二寸出してある。袖はまだ長い。


 外套は洗濯場の隅に置いてあった。誰が置いたのかは分からない。母親のものを詰めて直したもので、丈が合っていた。


「おくさま。ぬがせて」


「はい」


 わたくしは上着を脱がせて、外套を着せた。紐を結ぶとき、この子はじっとしていた。髪を結ってもらうときと同じ顔だった。


「かあさま、いる?」


「わかりません」


「うん」


 その子は木の匙をわたくしに差し出した。


「これ、おくさまの」


「よろしいのですか」


「うん。リーゼ、かぞえられるから」


 六つまでなら、この子は数えられる。数えるのに匙は要らない。


 わたくしは受け取った。


 外へ出るとき、リーゼは扉を両手で押した。両手でないと重い扉だ。


 それから、振り返らなかった。


 北の斜面を、小さな外套が上がっていく。途中で一度、袖口が長すぎて足に絡んだ。転ばずに立て直して、また歩いた。


 木立に入って、見えなくなった。


 わたくしは扉を閉めた。


 手の中に、木の匙がある。


 柄の刻みを、指でなぞった。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ。


 あの人は、これを言おうとしたのだ。


 部屋の前で言いかけて、やめた人がいた。あの子は、と言って、そこで止まった。頼めば自分を数に入れることになるから、頼まなかった。


 頼まなかったけれど、あの人は毎年ひとつ、この匙に刻みを入れていた。


 この子を数に入れてやってください。


 言えなかった言葉が、六つの刻みになって手の中にある。


 夜、皿を並べた。三枚。


 名簿は三。厩に一人。書庫に一人。二人。旦那様とわたくしを入れて、四人。


 匙は、引き出しにしまった。火をつけていない蝋燭の隣に置いた。


 狂わなかった。


 いま、ここにいる人を数えるのは、いけないことではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。