第二十一話 泣いてない
リーゼが泣いたのは、五日後の朝だった。
洗濯場にいた。この子は毎朝そこへ行く。母親のいた場所の、桶の前に座って、木の匙を握っている。
わたくしは湯を運んでいた。
板を洗う仕事が残っている。誰もやらなくなったので、わたくしがやることにした。手順は見て覚えた。この館の仕事は、たいてい見ていれば覚えられる。
教わったわけではない。教える人が、順に減った。
厨房の火は朝いちばんに起こす。パンは竈の右。洗濯板は湯を使うと布が傷むので、すすぎの最後だけ湯にする。糸は色ごとに戻す。北の窓は下から押し上げる。
どれも、誰かが誰かに言い残した言葉だった。言い残された相手も、もういない。それでも仕事は残っている。
桶に湯を注いだとき、リーゼが言った。
「おくさま」
「はい」
「かあさま、もどってこないの」
わたくしは湯の柄杓を置いた。
この子は一月半、一度もそれを言葉にしなかった。かあさま、どこ、とは聞いた。いつ帰ってくる、とも聞いた。もどってこない、と言ったのは初めてだ。
「はい」
嘘はつかないと決めている。
リーゼは木の匙を見ていた。柄に刻みが六つある。
それから、その子の顔が崩れた。
声が先に出た。息を吸う音と、それから、高い声。六つの子の泣き方だった。堪えることを覚える前の泣き方だ。
洗濯場の外で足音がした。
書庫の方が扉のところに立っていた。走ってきたらしい。
「奥様。いけません」
「はい」
「その子、泣いてます」
「はい」
「泣いてると、その、数が」
その方は言葉を探して、見つからなかった。見つからないまま、扉の枠を握っていた。
わたくしはリーゼの前にしゃがんだ。
この子は泣いている。泣くというのは、いなくなった者をまだ数に入れているということだ。ドロテアがそう教えた。針子の女も同じことを言った。
抱けば、この子を止められる。
止められるけれど、抱くというのは、この子をまだ在る者として抱くことだ。数に入れることだ。
わたくしは手を上げた。
上げたまま、止まった。
この一月半、わたくしは何度も手を止めてきた。書斎の扉の前で。針子部屋の前で。雪の斜面で。止めるたびに、誰かが減った。
止めたから減ったのではない。減るものは減った。
けれど、止めなかった日は一日もない。
「奥様」
書庫の方の声が、遠く聞こえた。
リーゼの肩が震えていた。上着の袖が長い。裾も二寸出してある。縫った人はもういない。
抱かない理由は、いくつも並べられた。
作法だから。数が狂うから。狂えばこの子の順が早まるかもしれないから。一月前に、覚えていたせいで人がひとり行ったから。
並べているあいだも、この子は泣いていた。
わたくしは、その子を抱いた。
腕の中で、体が熱かった。子どもは大人より体温が高い。熱を出した夜に額へ手を当てたときも、下がったと思ってから触り直したくらいには熱かった。
髪から、灰と獣脂の匂いがした。洗濯場の匂いだ。誰の匂いでもない。それでもこの子は、その匂いのするほうへ毎朝行く。
泣き声が、肩のところで大きくなった。
書庫の方が扉の枠から手を離した。何も言わなかった。止めもしなかった。
しばらく、そうしていた。
リーゼの泣き方が、途中で変わった。息が続かなくなって、しゃくり上げる形になった。それから、また声が出た。何度か繰り返して、だんだん間が長くなった。
「おくさま」
「はい」
「リーゼ、ないてない」
わたくしはその子の背に手を置いたままだった。
「ないてないよ」
「はい」
「かあさま、おこる」
この子は泣いてはいけないことを知っている。教わったのではなく、見て覚えたのだと思う。この土地の子は、誰かが泣かないところを見て育つ。
「泣いておいでではございません」
「うん」
「今、ここにおいでなだけでございます」
言ってから、自分でも何を言ったのか分からなかった。
言葉が先に出て、意味が後から追いついてくることがある。追いついてこないこともある。今のは、たぶん追いついてこないほうだった。
リーゼは肩から顔を離した。目のふちが赤い。
「おくさま、ぬれた」
「はい」
「ごめんなさい」
「かまいません」
その子は袖で自分の顔を拭いた。袖が長いので、拭きやすいらしい。
それから、木の匙を握り直した。
「おくさま。かぞえて」
「はい」
「ひとつ」
「はい」
桶の縁を叩く。二つ、三つ、四つ。五つ、六つ。
そこで止まった。
この子は六までしか数えない。教えないでほしいと言われている。
止まったところで、その子はこちらを見上げた。
「おしまい」
「はい。おしまいでございます」
立ち上がると、膝が痺れていた。しゃがんでいた時間が、思っていたより長かったらしい。
書庫の方はもう扉のところにいなかった。いつ行ったのかは分からない。
昼、書庫の方が湯を持ってきた。
「奥様。さっきの」
「はい」
「僕、誰にも言いません」
「ありがとうございます」
「あの、でも」
その方は湯呑を置いて、置いた場所を少しずらした。扉に近いと蹴るからだ。
「もし数が狂ったら、僕のせいにしてください」
「なぜでございますか」
「僕、二番目なので。ちょっとくらいなら」
言い終わってから、その方は自分の言ったことに困ったらしい。羽根ペンを取って、持ったまま何も書かなかった。
夕方、旦那様が食堂に来られたとき、卓の上に木の匙が置いてあった。
リーゼが忘れていったものだ。柄に刻みが六つ入っている。
旦那様はそれを見て、しばらく動かなかった。
「これは」
「洗濯場の子のものでございます」
「刻みがある」
「誕生日ごとに、母親が一つずつ入れたと伺いました」
この方は匙を取らなかった。取らずに、卓の端へ少し寄せた。わたくしの席のほうへ。
「片付けておけ」
「はい」
「なくすな」
それだけ言って、席に着かれた。
夕方、皿を並べた。四枚。
名簿は四。洗濯場に一人。厩に一人。書庫に一人。三人。旦那様とわたくしを入れて、五人。
夜、燭台に火を入れて、待った。
鐘が鳴るなら、今夜だと思った。
抱いた。数に入れた。狂わせた。前と同じことをした。
狂えば、上から数えていちばん近い者に順が繰り上がる。ケラーはそう言った。
いちばん近い者は、隣の部屋で眠っている。
わたくしは燭台の前に座っていた。
蝋燭が短くなっていく。十一本のうち、火を入れているのは二本だけだ。残りは使わずに置いてある。
外は静かだった。雪の降る夜は音が消える。鐘だけがよく通るのだと、初めの晩に思った。
あの晩から、五十日以上が経っている。
夜半を過ぎても、鐘は鳴らなかった。




