第二十話 代わりに
厨房から、音がしなくなった。
柄杓が鍋の縁に当たる音も、火掻き棒で薪を寄せる音も、あの子の声もない。パンはわたくしが焼く。焼き方は釘に掛かった二枚の前掛けの下、板に書いてある数字が教えてくれる。
四日、鐘は鳴らなかった。
その四日で、わたくしは一度も数えなかった。
数えないでいると、館の広さが分からなくなる。廊下を歩いても、どこに誰がいるのかが頭に浮かばない。浮かばないことに、慣れなかった。
パンは、三度失敗した。
一度目は焦がした。二度目は生焼けだった。三度目でようやく食べられるものになった。板に書かれた数字には、粉と水と塩の割合しか書いていない。竈の火加減は、書きようがない。
あの子は数字だけなら書けた。書けない部分は、口で教わるしかなかった。教わる相手が、もういない。
リーゼは焦げたパンも食べた。六つの子は、味の文句を言わないことがある。言っても仕方がないと知っている子は。
五日目の朝、書斎の扉を叩いた。
叩いたのは初めてだった。
返事はなかったけれど、しばらくして扉が開いた。
旦那様が立っておられた。目の下の隈が、いつもより深い。手袋はしていない。
「なんだ」
「お願いがございます」
「言え」
わたくしは廊下に立ったまま申し上げた。中へ入れとは言われなかったし、入りたいとも思わなかった。
「わたくしが、代わりに行きます」
旦那様の手が、扉の枠にかかったまま止まった。
「洗濯場の子は、次でございます。あの子の代わりに、わたくしが先に参ります」
返事はなかった。
「順は変えられないと伺いました。ですが、順のなかで前へ出ることはできるのではございませんか。わたくしは、いちばん上でございます。上から下りていくのなら」
「できない」
短かった。
「なぜでございますか」
「土地が数えるのは順番だ」
旦那様は初めて、わたくしの顔を正面からご覧になった。
この方が正面から人を見るのを、わたくしは一度しか知らない。洗濯場の女が行った日、玄関の廊下で目が合ったときだ。
「意思ではない」
「はい」
「君が行きたいと思っても、土地はそれを読まない。読むのは、この土地に数えられて何年経ったかだけだ」
「では、何をしても」
「何をしても、順は動かない」
わたくしは自分の指を見ていた。
「動いたではございませんか」
言ってから、言うべきではなかったと思った。
旦那様は答えなかった。
「わたくしが数を間違えたときには、動きました。悪いほうへは動くのに、良いほうへは動かないのでございますか」
「そうだ」
言い切られた。
「増えるほうにしか動かない。二百年、そういうものだ」
扉の枠を握る手に、力が入っていた。骨のかたちが浮いている。
「あなた様は、それをご存じで」
「知っている」
「では、なぜ」
そこで、わたくしは言葉を止めた。
なぜ、と聞いても、この方は答えない。この一月半で、それだけは分かっている。
旦那様は扉を閉めなかった。閉めずに、しばらくそこに立っておられた。
「奥様」
また、奥様だった。三度目になる。
「はい」
「あれは、君のせいではない」
わたくしは廊下の床を見ていた。
「わたくしが数えたからでございます」
「数えたのは君だ。狂わせたのは、この土地だ」
「同じことでございます」
「違う」
声が低くなった。怒鳴られたわけではない。むしろ静かになった。
「君が数えなければ、あの娘は死ななかった。それは事実だ。だが、数えたら人が死ぬ仕組みを作ったのは君じゃない」
旦那様はそこで一度、言葉を切った。
「二百年、誰も直していないだけだ」
それだけ言って、扉が閉まった。
廊下に残されて、わたくしはしばらくそこに立っていた。
二百年、誰も直していないだけだ。
この方は、そう言った。
直せるものだと思っているのだ、と気づくのに少しかかった。直っていないと言うのは、直る余地があると考えている人の言い方だ。
毎晩、書斎で紙をめくる音がする。書いて、消して、また書く音が。
あれは、直そうとしている音なのかもしれない。
昼、館を歩いた。
洗濯場にリーゼ。厩にテオ。書庫にあの方。
三人。
数えてしまった。数えるなと言われた日から、もう十日以上経っている。あの言いつけがいつまでのものだったのか、確かめていない。
厨房の前を通ると、静かだった。
この館は、来たときから静かだった。誰も名を呼ばず、誰も嘆かない。それでも音はあった。柄杓と、火掻き棒と、洗濯板と、斧と、針の音。
今、鳴っているのは風だけだ。
厩へ寄った。
テオが馬の脚を拭いていた。手つきが慣れている。この子はもう三年、この仕事をしている。
「奥様」
「はい」
「厨房の人、行った?」
「はい」
「そっか」
少年は布を絞った。桶の水が濁っている。
「奥様。おれ、まだ三番目だよね」
「はい」
「じゃあ、まだ大丈夫」
言い方が明るかった。慰めようとしているのだと分かるまでに、少しかかった。
この子は自分の順番を数えて、それを安心の材料にしている。三番目なら、まだ二人ぶんの猶予がある。
わたくしは、その二人が誰かを知っている。
夕方、リーゼが桶の縁を叩いていた。
「ひとつ」
「はい」
「ふたつ」
三つ、四つ、五つ、六つ。
そこで止まる。
「おくさま。つぎは」
わたくしは、その子の前にしゃがんだ。
七、と言えば、この子は七まで数えられるようになる。数えられるようになれば、館に何人いるかも数えられる。
その先を教えるな、と言われている。
理由を、わたくしはまだ聞いていない。聞いていないけれど、たぶん、こういうことなのだと思う。
数えられるようになった者から、数を抱える。
「つぎは、ないのです」
「ない?」
「六つで、おしまいでございます」
リーゼは桶を見て、それから、自分の指を見た。片手の五本と、もう片手の一本。
「そっか」
その子は桶を叩くのをやめた。
夜、皿を並べた。
四枚。わたくしと旦那様と、洗濯場の子と、厩の子と、書庫の方。五人いる。
五枚のはずだった。
数え直して、棚からもう一枚下ろした。
間違えたのは、これで二度目だ。一度目は五日ぶん多く数えて、人がひとり早く行った。今日のは少なく数えた。少ないぶんには、誰も減らない。
減らないと分かっていても、手が止まった。
鐘は鳴らなかった。名簿は四。
この館で笑う人は、もういない。




