第十九話 覚えててくれました?
鐘は、四日後の朝に鳴った。
まだ、鳴るはずのない朝だった。
名簿の順で言えば、次は洗濯場の子だ。あの子はこの館でいちばん新しく数えられた者ではないけれど、残っている五人のなかでは、上から四番目にあたる。順が回ってくるまでには、まだ間がある。
わたくしはそう思っていた。
一つ。二つ。
部屋を出た。廊下に、リーゼが立っていた。上着の袖が長いままの、あの子だ。
三つ。四つ。
止んだ。
四回。
名簿は五だったはずだ。五人残っていて、次に鳴るなら四回になる。それは合っている。
合っているのに、早い。
前の鐘から、十一日しか経っていない。ここまではどの間も、少なくとも十四日は空いていた。
中庭へ出た。
鐘楼の下に人はいない。誰が撞いているのかは、この館の誰も見たことがないという。雪の上に足跡もなかった。
厨房のほうから、扉の開く音がした。
振り返ると、ミルカが立っていた。
外套を着ていた。
わたくしはその場で足を止めた。止めた足が、そこから動かなかった。
「奥様。おはようございます」
「おはようございます」
「今日、パンは焼いてあります。竈の右のほうに置いてあるので、冷める前に」
「はい」
「北の窓、閉めときました。下から押し上げないと閉まらないので、気をつけてください」
その子は前掛けを外した。二つに畳んで、竈の脇の釘に掛けた。
掛けてから、位置を少し直した。
同じ釘に、前掛けが二枚重なった。
わたくしはその釘を見ていた。
マルテのものが一枚。ミルカのものが一枚。二枚とも、二つに畳んで、同じ角度で掛かっている。
教えたとおりにやる子だった。竈の右にパンを置くことも、糸を色ごとに戻すことも、前掛けの畳み方も。
わたくしは書庫へ走った。走ったのは、この館へ来て初めてだった。
ケラーがいた。三度目の来訪だ。机の前に座って、帳面を開いている。
「早うございます」
わたくしは息を整えなかった。整えている時間が惜しかった。
「順が違います」
「さようで」
「洗濯場の子が先のはずでございます。あの子のほうが、こちらに数えられて長うございます」
「そのとおりでございます」
「では、なぜ」
ケラーは羽根ペンを置いた。置いてから、帳面の数字を指でなぞった。顔は上げない。
「勘定が合っただけでございます」
言葉が、耳の中で一度、意味を失った。
「合った、と申しますのは」
「五日ばかり、この館の数が一人ぶん多うございました。多い分は、どこかで返さねばなりません」
その方は帳面をこちらへ向けた。向けたけれど、こちらを見てはいない。
数字が二列ある。左の列と、右の列。左は下へ行くほど減っていて、右も減っている。減り方が、途中で一段ずれていた。
「ここでございますな。五日ぶん」
「わたくしが」
「どなたとは申し上げません」
ケラーは帳面を戻した。
「私は書く者でございます。誰が狂わせたかを書く欄は、この帳面にございません」
そう言って、その方は羽根ペンを取り直した。
「奥様」
「はい」
「お顔の色が悪うございますな」
「大丈夫でございます」
「責めておるのではございません。誰も責めておりません」
その方はページを繰った。親指の腹だけを使う繰り方だ。
「私は五日前に申し上げました。感情で数えますと、数は増えると。増えたぶんは、どこかで合わせられます。それだけのことでございます」
それだけのこと。
この方の口から出ると、本当にそれだけのことに聞こえた。
「順は、繰り上がります。上から数えて、いちばん近い者に」
わたくしは書庫を出た。
裏口に着いたとき、ミルカはまだ外套の紐を結んでいるところだった。指がかじかんでいるらしく、二度やり直していた。
「奥様」
その子はこちらを見て、笑った。
笑ったのだ。
「あたし、走ったの見ました。奥様が走るの、初めて見ました」
「ミルカ」
「あ、名前」
その子は口を押さえた。押さえて、それから手を下ろした。
「もう、いいですよね」
わたくしは何も答えられなかった。
この子は、自分の順番が早まったことに気づいていない。気づいていないまま、笑っている。
ミルカは紐を結び終えて、袖口を直した。
「奥様。あたし、姉さんに謝っときます」
「なぜでございますか」
「名前言っちゃったこと。ずっと怒られてたので」
冷えた空気が、開いた扉から入ってきていた。床の敷石が白く曇っている。
その子は敷居のところまで歩いて、それから振り返った。
この館で振り返った人を、わたくしは初めて見た。
「奥様」
「はい」
「あたしの名前、覚えててくれました?」
風が入ってきた。
わたくしは口を開けた。
覚えていた。この館で最初に名を呼んでくれた人で、呼んでもらえてよかったと言ってくれた人で、竈の左は火が強いと教わったとおりにパンを右へ置く人だった。
覚えている。
覚えていたから、この子の順番が繰り上がった。
はい、と言えば、この子は自分が繰り上がった理由を知ることになる。
いいえ、と言えば、嘘になる。
どちらも言えなかった。
ミルカは待っていた。待って、それから、少しだけ笑い方を変えた。
「いいです。分かってます」
その子は雪へ出ていった。
北の斜面へ向かって、走らずに歩いていった。途中で一度、袖口を直した。かじかんだ指では、うまく直らないようだった。
木立に入って、見えなくなった。
この館で、いちばんよく喋る人がいなくなった。
扉を閉めたのは、リーゼだった。六つの子が、両手で押していた。
「おくさま」
「はい」
「かぞえて」
その子は桶を持ってきていた。縁を叩く癖がある。
「ひとつ」
「はい」
「ふたつ」
三つ、四つ、と叩いていった。
五つ、六つで止まった。その先は言えない。
わたくしは、七、と言わなかった。
言わなかったのに、頭の中では数え終えていた。
数えるなと言われて、数えないでいた夜が一晩あった。一晩だけだった。
癖というのは、そういうものらしい。やめようとしても、目が先に済ませてしまう。
厨房に、もう誰もいない。洗濯場に一人。厩に一人。書庫に一人。三人。旦那様とわたくしを入れて、五人。
名簿は四。
覚えていたことが、この子を殺したのでございます。




