第十八話 一、二、三、四、五
四日、鐘は鳴らなかった。
その四日で、わたくしは針子部屋の前を七度通った。七度とも、扉を開けなかった。
開けなければ、どちらでもいられる。
そう思っていたのだけれど、五日目の朝に、リーゼが先に開けた。
その子は糸巻きが欲しかったらしい。赤い糸で人形の腕を縛るのだと言って、廊下を走っていった。追いついたときには、もう扉が開いていた。
中には誰もいなかった。
卓の上に針箱がある。蓋が閉まっている。糸巻きが色ごとに並んでいて、鋏が布の上に置かれていた。刃を閉じて、柄をこちらへ向けて。
五日前と、何ひとつ動いていない。
「おくさま。ないよ」
「はい」
「あかいの、ここにあるって」
「そちらの端でございます」
リーゼは赤い糸巻きを取って、走って戻っていった。
わたくしは部屋の中に立っていた。
誰もいない。当たり前だ。あの人は五日前の朝に外套を着て、鋏の柄をこちらへ向けて置いて、出ていった。わたくしはそれを廊下で見ていた。
見ていたのに、数えていた。
卓に手をついた。天板が冷たい。この部屋は北向きで、日が入らない。
糸巻きの並びを目で追った。白、生成り、灰、黒、それから赤。使う順ではなく、色の濃さの順に並べてある。並べ替えたのは五日前の朝だ。出ていく前に、この人はこれを揃えた。
膝をついた。つく必要はなかったのに、そうなった。
厨房に一人。
洗濯場に一人。
厩に一人。
書庫に一人。
四人。
旦那様とわたくしを入れて、六人。
名簿は五。
一、二、三、四、五。
指を折って数えた。折り終えても、六本目が余らなかった。
五日前の夜、わたくしは六人だと思って眠った。翌日も六人だと思っていた。ケラーに五人だと言われて、六人ではありませんかと言い返した。
五日間、わたくしはあの人をまだ在る者として数えていた。
嘆いたつもりはない。泣いてもいない。名も呼んでいない。
けれど、勘定に入れていた。
この土地でしてはならないことを、わたくしは五日間続けていた。
膝が冷えて、そこから背中まで上がってきた。針子部屋の床は板だ。絨毯が敷いていない。この人は足元が冷えると縫い目が乱れると言って、絨毯を嫌っていた。
そういうことを、わたくしは覚えている。
覚えていることは、数に入れることなのだろうか。
誰も教えてくれなかった問いに、答えが出てしまった。
入れることだ。
しばらく、そのまま床を見ていた。
板の目に、糸くずが落ちている。白いのが二本と、赤いのが一本。掃いても取れない場所に入り込んでいた。
この部屋はまだ、あの人のものの匂いがする。布と、鉄と、指の油。針を扱う人の手には独特の匂いがつくのだと、実家の乳母が言っていた。
匂いは、数に入るのだろうか。
入らないでほしいと思った。思ってから、そう思うこと自体が、たぶんいけないのだと気づいた。
昼、厨房へ行った。
ミルカが竈の前にいた。パンを右に置いている。竈の左は火が強いからだ。教わったとおりにやっている。
「奥様。顔色が」
「大丈夫でございます」
「座ってください。今、湯を」
その子は椅子を引いた。引いてから、袖で座面を拭いた。
わたくしは座った。
「ミルカ」
「はい」
「お姉様は、いつ行かれましたか」
柄杓を持つ手が止まった。
「五日前です」
「朝でございますね」
「はい。鐘が五回鳴って」
五回。
鐘は五回鳴っていた。わたくしはそれを廊下で聞いた。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。数えて、止んだところまで覚えている。
五回鳴ったなら、残りは五人だ。
聞いていたのに、数えていなかった。数えたつもりでいて、数えていなかった。
「奥様」
「はい」
「あの、あたし、変なこと言いますけど」
ミルカは湯呑を置いた。
「姉さん、たぶん怒ってないです」
「なぜでございますか」
「奥様が覚えててくれるの、姉さん、分かってて頼んだと思うんです」
その子は前掛けの端を指に巻きつけた。癖だ。
「無理なこと頼んだって、姉さん分かってました。分かってて頼むときの顔してたので」
「その顔を、あなたはご存じなのですね」
「はい。あたしにも、何回かしました」
「どんなときに」
「泣くなって言うときです」
ミルカは湯を注ぎ足した。注ぎすぎて、少し溢れた。布で拭いてから、また同じことをした。
「あたし、泣いてないです」
「はい」
「ずっと泣いてません。奥様が来る前からです」
わたくしは湯呑を持った。持っただけで、飲まなかった。
湯呑の中で、湯気が細くなっていった。
あの人は、無理なことを頼む顔をしていた。ミルカはそう言った。
無理だと分かっていて頼むのは、頼むほうも苦しい。断られる前提で口に出すのだから、口に出すこと自体が捨て身だ。
わたくしは、承知しますとも、できませんとも答えなかった。答えないことで、いちばん悪いほうへ落ちた。
夕方、旦那様に申し上げた。
書斎の扉は叩かず、廊下ですれ違ったときに言った。
「あなた様」
「なんだ」
「わたくしは、数を間違えました」
旦那様は足を止めた。
「五日のあいだ、六人だと思っておりました。本当は五人でございました」
返事はなかった。
「申し訳ございません」
「誰に謝っている」
わたくしは口を開けて、閉じた。
誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。
旦那様は少しのあいだ、そこに立っておられた。それから、階段のほうへ歩き出した。
「奥様」
君、ではなかった。この方が奥様と呼ぶのは、二度目だ。
「はい」
「今夜は、数えるな」
「はい」
「今夜だけでいい」
足音が遠ざかった。
夜、燭台に火を入れた。
数えるなと言われたので、数えなかった。
数えないでいると、部屋がずいぶん広く感じた。壁と壁のあいだに、寄りかかるものが一つもない。
この癖は、わたくしを助けたことが一度もない。実家の食卓でも、椅子が足りないことを先に知れただけで、椅子は増えなかった。
今日は、助けなかったどころではない。
わたくしは五日間、この館の数を一人ぶん多く抱えていた。抱えていたぶん、どこかで一人ぶん、勘定が合わなくなっている。
鐘は鳴らなかった。
狂った数が、いつ戻るのかを、わたくしは知らない。
戻るのかどうかも、知らない。
次は、誰でしょう。




