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第十七話 どちらが正しいか

ケラーが来たのは、三日後の昼だった。


 二度目である。前と同じように歩いてきて、前と同じ黒い上着で、前と同じ席に座った。書庫の方は、また立っていた。


 この三日、わたくしはよく眠れていない。


 リーゼの熱は下がったけれど、夜中に一度は起きる。起きて、廊下のほうを見る。鐘が鳴らないことを確かめてから、また眠る。六つの子がそういう眠り方を覚えるのに、ひと月かからなかった。


 わたくしのほうは、鳴らないことを確かめても眠れなかった。


 厨房裏の板に炭で数字を書くのが、日課になっている。壺の数、樽の数、薪の残り。書いて、翌日また書く。数字が並んでいくのを見ていると、少し落ち着いた。


「奥様。ご機嫌よろしゅう」


「こちらこそ」


「お預かりのお子は、いかがでございますか」


 わたくしは椅子に掛けた。


「熱を出しましたが、下がりました」


「それは何より。冬の子どもは、熱が出ると早うございますのでな」


 早い、というのが何を指すのかを、わたくしは聞かなかった。


 ケラーは帳面を開いた。三冊のうち、いちばん薄いものだ。


「今年の残りを確かめにまいりました」


「はい」


「五人でございますな」


 わたくしは指を組んだ。


「六人ではございませんか」


 ページを繰る手が、止まらなかった。


「五人でございます」


「わたくしが数えましたところ、六人でございました」


「さようで」


 その方は帳面から目を離さなかった。


「いつ、お数えになりました」


「三日前の夜でございます」


「では、そのときは六人でおいでだった」


「はい」


 ケラーは羽根ペンを取り、何かを書き足した。書き足してから、こちらへ顔を上げずに言った。


「奥様。数がお好きでいらっしゃる方に、ひとつ申し上げておきます」


「はい」


「感情で数えますと、数は増えるものでございます」


 書庫の窓が、風でかたりと鳴った。


「増える」


「はい。減ることはございません。必ず増えます」


「なぜでございましょう」


「忘れられぬからでございますよ」


 ケラーは帳面の縁を親指でなぞった。紙を痛めない繰り方をする指だ。


「人は、いなくなった者を勘定から外すのが下手でございます。とくに、よくしてもろうた相手は外せません。ですから一人、また一人と足していく。気がついたときには、生きておる者より死んだ者のほうが多い勘定になっております」


「わたくしは、嘆いておりません」


「嘆いておいでとは申しておりません」


 その方は初めて、少しだけ言い方を変えた。丁寧さは同じで、速さだけが落ちた。


「覚えておいでだと申し上げております」


 わたくしは、返す言葉を探した。


 探して、見つからなかった。


 この方はいつも正しい。正しさの方向が、こちらの立っている場所と違うだけだ。二百年の帳面を守る人にとって、覚えている者は勘定を狂わせる原因でしかない。


 狂わせているつもりはない。


 つもりの話をしても、数は動かない。


 この方の言っていることに間違いがない。わたくしは覚えている。薪割り場の人が四度目に返した四つの言葉も、門の人が油の壺を置いた場所も、厨房の人が皿を明日から六枚にすると言ったことも。


 覚えているものを、数から外す方法を、わたくしは知らない。


「では、伺います」


「はい」


「三日前の夜、この館に何人おりましたか」


 ケラーは帳面を閉じた。


「五人でございます」


「帳面には、そう書いてございますか」


「書いてございます」


「どなたが書かれましたか」


「私が」


「では、それは数えたものではなく、書いたものでございますね」


 部屋が静かになった。


 書庫の方が、壁際で身じろぎした。


 ケラーは帳面の上に手を置いたまま、しばらく動かなかった。それから、初めて口の端を動かした。笑ったのかどうかは分からない。顔を上げていないので、こちらからは見えなかった。


「奥様は、面白いことをおっしゃる」


「申し訳ございません」


「いえ。帳面と、お数えになった数と、どちらが正しいかというお話でございますな」


「はい」


「では、こういたしましょう」


 その方は立ち上がった。


「次に鐘が鳴りましたときに、何回鳴るかをお聞きになってください」


「はい」


「四回鳴りましたら、私の帳面が合うております。五回鳴りましたら、奥様がお正しい」


 外套に袖を通す。


「どちらでも、私は困りません。帳面は直せばよろしいので」


 扉のところで、いつもの礼をした。首から上を少しだけ動かす礼だ。


「ただ、奥様は困られるかもしれませんな」


 扉が閉まった。


 書庫の方は、まだ立っていた。


「奥様」


「はい」


「あの、僕」


「はい」


「……いえ。なんでもありません」


 この館で、なんでもありませんと言う人を、わたくしはもう二人見ている。


 夕方、館を歩いて回った。


 歩きながら、数えないようにしようとした。


 数えないようにするというのは、数えるより難しい。人を見れば目が数える。厨房の前を通れば、中に何人いるかが分かってしまう。分かってしまったものを、無かったことにはできない。


 厨房にミルカ。洗濯場にリーゼ。厩にテオ。書庫にあの方。


 四人。


 針子部屋の前で足が止まった。


 扉は閉まっている。開けなかった。開ければ、数が分かってしまう。


 分かってしまえば、どちらが正しいかも分かってしまう。


 わたくしは廊下に立っていた。


 扉の向こうに人がいるなら、五人。いないなら、四人。


 開ければ済む。手を伸ばして押せば、それで終わる。


 伸ばしかけて、下ろした。


 この館へ来てから、わたくしは自分の目で見たものしか数えてこなかった。人から聞いた数は信じない。それが癖であり、たぶん、意地だった。


 その意地が、今日は逆に働いている。見なければ、まだどちらでもいられる。


 夜、部屋に戻って燭台に火を入れた。


 蝋燭は十一本ある。この数だけは、誰が減っても変わらない。


 鐘は鳴らなかった。


 次に鳴るのが四回なのか五回なのかを、わたくしはもう、知りたくなかった。


 知りたくないと思ったのは、この館へ来て初めてだった。


 数えるのは、自分の席があるかどうかを確かめるためだった。数えておけば、少なくとも足りないことは分かる。分からないまま座ろうとして立たされるより、ずっとましだ。


 今は違う。


 数えれば、間違っていたことが分かる。間違っていたなら、そのぶん誰かがどうかなる。


 初めて、数えないほうが楽な場所に立っている。

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