第十六話 まだ六人
五日のあいだ、わたくしはあの頼みに答えなかった。
答えないままでいれば、明日は来ないような気がしていた。針子の女は毎日わたくしの顔を見て、毎日、催促をしなかった。
その五日で、館の様子は少し変わった。
リーゼが洗濯場に慣れた。母親のいた場所に、この子はまだ毎朝行く。行って、桶の縁を叩いて数を言う。六まで言って、そこで止まる。
厩のテオは、自分の名前を書けるようになった。三つの字を、藁の上でなら書ける。紙の上ではまだ書いたことがない。
書庫の方は写しを続けていた。指の汚れが日ごとにひどくなる。
鐘が五回鳴ったのは、六日目の朝だった。
一つ。二つ。三つ。
わたくしは針子部屋の前にいた。上着を返しに行くところだった。畳んだ布を抱えたまま、廊下で数を聞いた。
四つ。五つ。
止んだ。
扉が内側から開いた。
その人は外套を着ていた。
部屋の中が片付いている。針箱の蓋が閉まっていて、糸巻きが色ごとに並べ直してあった。鋏は布の上に置かれている。刃を閉じて、柄をこちらへ向けて。
次に使う人が取りやすいように置いてある。
繕いかけの布が一枚もなかった。この人はいつも何かを膝に載せていた。載せていないところを、わたくしは初めて見た。
「奥様」
「はい」
「上着は、いただいてよろしゅうございますか」
わたくしは布を差し出した。返しに来たものを、そのまま渡した。
「いえ、置いていってくださいまし。妹が着ますので」
その人は受け取らずに、卓を指した。
わたくしは布を置いた。
廊下の奥から、足音がした。走ってくる音だ。この館で走る人はひとりしかいない。
「姉さん」
ミルカが角を曲がってきた。前掛けのまま、手に何も持っていない。
「およし」
「まだ何も言ってない」
「言おうとしてる」
二人は少しのあいだ向かい合っていた。妹のほうが先に目をそらした。
「……はい」
「戸締りは、あんたの仕事になる。北の窓は建て付けが悪いから、下から押し上げて閉める」
「うん」
「あと、糸は色ごとに戻して。混ざると探すのに時間がかかる」
「うん」
姉のほうは、それだけ言って歩き出した。
ミルカは追いかけなかった。廊下に立って、姉の背中が階段を下りていくのを見ていた。それから針子部屋に入って、卓の前に座った。
鋏を持ち上げて、また同じ場所に置いた。柄をこちらへ向けて。
わたくしは戸口に立っていた。
入っていいのか、立ち去るべきなのかが分からなかった。この館では、人が減ったあとの部屋に誰が入っていいのかも決まっている気がする。決まりを、わたくしはまだ全部は知らない。
「奥様」
ミルカが顔を上げずに言った。
「はい」
「北の窓って、どこですか」
「二階の、階段を上がって左手だと思います」
「そっか。ありがとうございます」
その子は立ち上がって、糸巻きを一つ取った。色ごとに並べてあるうちの、赤いものだった。
「これ、姉さんがいちばん使ってました」
「そうですか」
「あたし、縫えないんですけど」
糸巻きを卓に戻して、少し位置を直した。並びが元どおりになった。
わたくしはその日、館の中を歩かなかった。
リーゼが熱を出した。子どもの熱は急に上がる。額に手を当てると、思っていたより熱かった。
湯を沸かして、布を絞って、額に置いた。乾くとすぐに取り替えた。夕方まで、そればかりしていた。
厨房と部屋を何度も往復した。階段を数える余裕がなかった。数えずに上り下りしたのは、この館へ来て初めてだったかもしれない。
途中で書庫の方が湯を運んでくれた。
「あの、これ、沸かしてきました」
「ありがとうございます」
「熱、高いですか」
「下がってまいりました」
「そうですか。よかった」
その方は桶を置いて、それから、置いた場所を少しずらした。扉に近すぎると蹴るからだと言った。気がつく人だ。
夜になって、熱は下がった。
その子は眠っている。袖の長い上着を着たままで、寝返りを打つたびに布が余っているのが分かった。
わたくしは自分の部屋に戻った。
燭台に火を入れて、蝋燭を数えた。十一本。引き出しの一本は数えない。
それから、いつものように人を数えた。
厨房に一人。ミルカ。
洗濯場に一人。リーゼ。
針子部屋に一人。
厩に一人。テオ。
書庫に一人。エミル。
五人。旦那様とわたくしを入れて、七人。
名簿は六。
指を折りながら数えて、六本目のところで止まった。
止まって、それから、そのまま数え終えた。
まだ六人いる。
わたくしはそう思って、燭台の火を吹き消した。
寝台に入って、目を閉じた。
隣の部屋で、リーゼが寝返りを打つ音がした。袖の余った上着を着たままだ。脱がせようとして、嫌がったので、そのままにしてある。
あの上着の袖と裾を直したのは、今朝いなくなった人だ。
この五日、眠りが浅い。リーゼが夜中に起きるからでもあるし、そうでない日も浅かった。
瞼の裏が熱を持っている。布を絞りすぎて、指先の皮が白くふやけていた。
明日から数えないでください、とあの人は言った。
今日は、まだよろしゅうございます、とも。
今日というのは、あの日のことだ。あの日から数えて、今日は六日目になる。あの人が言った今日は、もう五日前に終わっている。
それでもわたくしは、まだ承知しますと答えていない。
答えていないのだから、数えていていいのだと思う。
いいのだと思いたかっただけかもしれない。
あの人の顔を、わたくしはまだ思い出せる。膝の上の黒い布も、赤い糸巻きも、柄をこちらへ向けて置かれた鋏も。
思い出せるものを、忘れる方法を知らない。
思いながら、指が動いた。布団の中で、もう一度数えていた。
厨房に一人。洗濯場に一人。針子部屋に一人。厩に一人。書庫に一人。
五人。
名簿は六。
合っている。
合っていると思って、わたくしは眠った。
夜半に一度、目が覚めた。
廊下で音がした気がした。起き上がって扉を開けたけれど、誰もいない。三階の書斎の下から、細い光が漏れているだけだった。
紙をめくる音がする。書いて、消して、また書く。
この館で、いちばん長く同じことを続けている人だ。
わたくしは扉を閉めて、寝台に戻った。
まだ六人いる。
その数を抱えたまま、朝まで眠った。




