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第十五話 数えないでください

リーゼは、五日のあいだよく眠った。


 わたくしの部屋の隣を空けて、そこに寝かせている。夜中に一度起きて、廊下の暗いほうを見ていることがある。母親を探しているのではなく、音を聞いている顔だった。


 鐘が鳴るかどうかを、この子はもう知っている。


 朝は洗濯場へ連れていった。仕事を教えるためではない。あの場所に行かないと、この子が落ち着かないからだ。


 桶の前に座らせて、木の匙を持たせておくと、しばらくおとなしくしている。


「おくさま」


「はい」


「かあさまの、におい」


 その子は前掛けの布を鼻に当てていた。灰と獣脂の匂いは、洗濯場の匂いだ。誰の匂いでもない。


 わたくしはそれを言わなかった。


 言えば、この子から匂いを取り上げることになる。


 昼、針子部屋へ行った。


 繕い物を渡すためだった。リーゼの上着の袖が擦り切れている。子どもの服は、どこかしら傷んでいる。


 部屋には二人いた。針子の女と、その妹。


「奥様」


 ミルカが立ち上がった。休みの時間らしい。厨房を出て、姉のところへ来ている。


「その子、寝ました?」


「よく眠っております」


「そうですか。よかった」


 その子は言ってから、口を押さえた。よかった、が余計だったと思ったらしい。この館では、よかったと言うことにも決まりがあるのかもしれない。


 針子の女は膝の上で針を動かしていた。手元を見たまま、こちらへ会釈をした。


「上着でございますね。お預かりします」


「袖だけで結構です」


「裾も出しておきましょう。この時期の子は伸びますので」


 女は上着を広げて、縫い目を指でさぐった。


 わたくしは椅子を借りて座った。針の音が規則正しい。布を刺して抜く音が、糸の長さのぶんだけ間を置いて繰り返される。


「奥様」


「はい」


「あの子のこと、お手数をおかけします」


「いいえ」


「本当は、うちで預かるところなんですが」


 そこで手が止まった。


 止まってから、また動いた。


「うちは、あと二人でございますので」


 あと二人。


 名簿の順で言えば、この人が先で、妹が後だ。二人とも、この冬のうちに順番が来る。


 ミルカが姉の袖を引いた。


「姉さん。そういうこと言わないで」


「言わないと分からないでしょう」


「分かるよ。分かってるってば」


「じゃあ、おやめ」


 姉のほうが短く切った。ミルカは口を閉じて、それから、わたくしのほうを見ないようにした。


 針の音が戻ってきた。


 しばらくして、女がこちらへ顔を上げた。この人が手を止めて顔を上げるのを、わたくしは初めて見た。


「奥様。ひとつ、お願いがございます」


「はい」


「わたしのことは、明日から数えないでください」


 部屋が静かになった。


 ミルカが姉を見た。姉は妹を見なかった。


「順が来ましたら、それきりにしてくださいまし。名前も、顔も」


「なぜでございますか」


「奥様は、覚えておいでですから」


 女は針を布に刺したまま、そこで止めていた。


「この館で、覚えている方は奥様おひとりでございます。ほかの者は、覚えないやり方を知っております」


「覚えていては、いけませんでしょうか」


「いけません」


 言い切った。


「覚えている方がおいでですと、その人がまだいることになります。いることになりますと、勘定に入ります」


 わたくしは膝の上で指を組んだ。


「では、あなたのことは」


「明日から、いないものと」


「明日から」


「はい。今日は、まだよろしゅうございます」


 それだけ言って、女はまた針を動かし始めた。


 ミルカが立ち上がって、部屋を出ていった。走らずに出ていって、廊下の角で足音が速くなった。


 わたくしは針子部屋に残された。


 この人が言ったのは、作法のことだけではない。


 覚えている者がいると勘定に入る。ドロテアも同じことを言った。嘆くとは、その人をまだ数に入れていることだと。


 わたくしは嘆いていない。泣いてもいない。名も呼んでいない。


 ただ、覚えている。


 薪割り場の人が四度目に返した言葉を、順番に思い出せる。門の人が油の壺を棚のどこに置いたかを知っている。厨房の人が竈の左は火が強いと言ったことも、皿を明日から六枚にすると言ったことも、覚えている。


 覚えていることは、数に入れることなのだろうか。


 誰も、そこを教えてくれなかった。


 針の音が続いていた。この人は明日から数えるなと言い、今日はまだよろしいと言った。今日と明日の境目を、この人は自分で決めている。


 決められるのなら、覚えることにも境目があるのかもしれない。


 あるのかもしれない、と思っただけで、それがどこなのかは分からなかった。


 厨房に寄ると、ミルカが竈の前に立っていた。


 背中を向けている。鍋の中を見ているのではなく、火を見ていた。


「ミルカ」


「はい」


「お姉様は」


「まだ縫ってます」


 その子は火掻き棒で薪を寄せた。寄せる必要のない薪だった。


「奥様。あたし、姉さんに怒られました」


「そうですか」


「口が軽いって。名前を言っちゃうから」


「はい」


「でも、あたし、奥様に名前言ってよかったと思ってます」


 わたくしは板の数字を見ていた。壺の欄が一つ増えている。この子が今朝書いたものだ。


「なぜでございましょう」


「だって、呼んでもらえたので」


 それきり、その子は火のほうを向いた。


 夕方、上着が仕上がって届いた。袖が新しくなって、裾が二寸出してある。


 リーゼに着せると、袖の先が指の付け根まで来ていた。


「ながい」


「伸びますので」


「いつ?」


「そのうちでございます」


 その子は袖を振ってみせた。布が余っているのが面白いらしい。二度、三度と振って、それから、こちらを見上げた。


「おくさま。おくさまは、いなくならない?」


 わたくしは、その場に座った。


 嘘をつく人がいる家のほうが優しいのだと、五日前に考えたことがある。


 考えたのに、わたくしは嘘をつかなかった。


「いなくなります」


「いつ?」


「いちばん最後でございます」


 リーゼは袖を振るのをやめた。


「じゃあ、リーゼのほうが、さき?」


 この子は数を六まで言える。


 順番という言葉も、たぶん知っている。この土地の子は、それを先に覚える。


「はい」


「そっか」


 それだけ言って、その子はまた袖を振り始めた。


 夜、皿を数えた。五枚。名簿は六。


 厨房に一人。洗濯場に一人。針子部屋に一人。厩に一人。書庫に一人。五人。旦那様とわたくしを入れて、七人。


 明日から数えないでください、と言われた。


 わたくしは、まだ承知しますと答えていない。

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