第十四話 なんでもございません
アンネがわたくしの部屋の前に立っていたのは、五日後の夜だった。
扉を開けたとき、その人は手を上げかけていた。叩こうとして、まだ叩いていない。そういう形で止まっていた。
「奥様」
「どうかなさいましたか」
「いえ」
洗濯場の女は、抱えていた籠を持ち直した。中に畳んだ布が入っている。上着の裏地を直してもらったものだ。針子の女が三日と言って、三日で仕上がった。
「お届けにまいりました」
「ありがとうございます」
受け取ると、布から石鹸の匂いがした。洗って、乾かして、それから畳んである。
その人は帰らなかった。
廊下の燭台が、二人のあいだで揺れていた。この人の目の下にも隈がある。旦那様のものとは違う。眠っていないのではなく、眠りが浅い人の隈だ。
「奥様」
「はい」
アンネは籠の縁を握った。
握って、少し口を開けた。息を吸う音が聞こえた。
言葉が出てこなかった。
わたくしは待っていた。この館では、待つよりほかにできることが少ない。
それでも、この人が何を言おうとしているのかは、たぶん分かっていた。
名簿の順は下から進む。ヨナス、グレゴール、マルテと来て、次はこの人だ。そのあとに針子の女がいて、厨房の子がいて、それから小さな娘が来る。
母親のほうが、先に行く。
アンネの唇が動いた。
「あの子は」
そこで止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。籠を握る指の関節が白くなって、それから緩んだ。
この人は分かっている。
あの子を頼みます、と言えば、その言葉は自分をまだ在る者として数に入れることになる。頼んだ相手に、自分を覚えさせることになる。
覚えられたら、数が狂う。
狂えば、この館の誰かの順番が早くなる。それは、あの子の順番かもしれない。
アンネが息を吐いた。
「……いえ。なんでもございません」
わたくしは頷かなかった。頷けば、聞き取ったことになる。
「布を、ありがとうございました」
「はい」
「石鹸の匂いがいたします」
「灰を多めにしております。冬は、そのほうが落ちますので」
その人は籠を抱え直して、頭を下げた。下げた頭が、いつもより長かった。
廊下を歩いていく背中を見送った。角を曲がるときに、一度だけこちらを見た。
見ただけだった。
部屋に戻って、直った上着を広げた。
裏地が新しくなっている。元の布とは色が少し違うので、当てたところが分かる。継ぎ目の縫い目が細かかった。針子の女の仕事だ。
袖を通してみると、腕の通りが元に戻っていた。
この上着は、雪に膝をついた日に濡らしたものだ。あの日、洗濯場の女は布を一枚、雪の上に置いて寄越した。手渡しにしない距離だと、あのときは思った。
今夜、その人はわたくしの部屋の前まで来た。
距離は、変わっていたのだと思う。変わっていたから、言おうとして、言えなかった。
翌朝、洗濯場へ行った。
アンネは桶の前にいた。娘が足元で木の匙を握っている。
母親は、その子の髪を結っていた。
櫛を使って、上から順に梳いている。梳いてから、三つに分けて編む。編み上げるのに、ずいぶん時間をかけていた。二度ほどけて、二度とも初めからやり直した。
娘はじっとしていた。六つの子が、あれだけ動かずにいるのは珍しい。
「かあさま。きつい」
「そう」
「もっと、ゆるく」
「これでいいの」
母親は結び目を確かめた。指で二度、押さえた。
それから、櫛を桶の縁に置いた。
鐘が鳴ったのは、そのすぐあとだった。
一つ。二つ。三つ。
娘が母親の膝に手を置いた。何が始まったのかは分かっていない。ただ、大人が動きを止めたから、止めただけだ。
六つで、止んだ。
洗濯場が静かになった。桶の湯気だけが上がっている。
わたくしは戸口に立ったまま動けなかった。動いたところで、できることが一つもない。
アンネは立ち上がって、前掛けを外した。
外套は、桶の陰に置いてあった。いつから置いてあったのかは分からない。昨夜からかもしれない。
袖を通す。紐を結ぶ。手が震えていなかった。
娘が見上げた。
「かあさま、どこ?」
返事はなかった。
アンネは裏口のほうへ歩き出した。娘がついていこうとして、二歩で立ち止まった。
わたくしはその子の前にしゃがんだ。
肩に手を置いたのは、追いかけさせないためだ。抱いたわけではない。抱けば、この子を数に入れることになる。
「かあさま」
娘がもう一度呼んだ。
アンネは振り返らなかった。
裏口の扉が開いて、冷えた空気が入ってきた。灰と獣脂の匂いが、その風で薄くなった。
扉が閉まった。
娘は扉のほうを見ていた。しばらく見ていて、それから、わたくしの顔を見た。
「おくさま」
「はい」
「かあさま、かえってくる?」
わたくしは口を開けた。
開けて、閉じた。
帰ってくると言えば、嘘になる。帰ってこないと言えば、この子の前でその人を数から外すことになる。
どちらも、言ってはいけない言葉だった。
この土地の作法には、六つの子に何と言えばいいかが書かれていない。
娘は答えを待っていた。
こういうとき、実家では誰かが嘘をついた。母が死んだとき、乳母はわたくしに、遠くへ行かれたのですと言った。四つだったから信じた。信じて、待った。
嘘をつく人がいる家のほうが、たぶん優しい。
娘は待って、待って、それから、木の匙を握り直した。
柄に刻みが六つ入っている。誕生日ごとに、母親がひとつずつ入れたものだ。
七つ目を入れる人が、この館にいなくなった。
その子を、洗濯場の隅の椅子に座らせた。
湯が冷めるので、桶に湯を足した。足しながら、この仕事をこれから誰がやるのかを考えた。針子の女がやるのかもしれない。厨房の子かもしれない。
どちらも、そのうちいなくなる。
「おくさま」
「はい」
「これ、みっつ」
娘が桶の縁を三度叩いた。前にも同じことをした子だ。
「みっつでございますね」
「うん」
その子は四度叩いた。
「よっつ」
「はい」
五度、六度と叩いた。数を覚えたてらしい。六までは言えて、その先が出てこなかった。
わたくしは、七、と言わなかった。
夕食のとき、旦那様に申し上げた。
「洗濯場の子を、しばらく預かってもよろしいでしょうか」
「好きにしろ」
「六つでございます」
「知っている」
この方が館の子の年を知っていることに、わたくしは少し止まった。
「あの子は、まだ数を六までしか言えません」
旦那様は匙を置かれた。
「言えなくていい」
「はい」
「その先を教えるな」
「なぜでございましょう」
返事はなかった。
しばらくして、この方は席を立たれた。立ち際に、卓の端の椅子を少し引いた。わたくしの席ではない。空いた席のほうだった。
引いてから、元に戻された。
夜、皿を数えた。五枚。
名簿は六。厨房に一人。洗濯場に一人。針子部屋に一人。厩に一人。書庫に一人。五人。旦那様とわたくしを入れて、七人。
あの人が何を言おうとしたのか、わたくしには分かりませんでした。




