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第三十話 嘆いていい冬

森へ行く道は、順番の来た者にしか見えないのだそうです。


 わたくしには、見えました。


 裏口を出て、北の斜面に立った。三月前、料理人を追いかけて膝をついた場所だ。あのときは白いだけだった。


 今日は、幅の狭い筋が続いている。そこだけ雪の締まり方が違う。


 歩き出した。沈まなかった。


 肩に二百年ぶんの写しを下げている。外套の内側に、蝋燭が一本と、刻みが六つの木の匙と、三つの字を書いた紙。


 旦那様は玄関に立っておられた。出るときに一度だけ目が合った。何も言われなかった。止めることは、わたくしを数に入れることになる。


 木立に入ると、雪解けの音が途中でぱたりと消えた。風もない。鳥もいない。自分の足が雪を踏む音だけが、耳のすぐ近くで鳴っている。


 やがて木がまばらになって、開けた場所に出た。


 何もなかった。


 雪の面が広がっている。人の姿も、建物も、足跡もない。ここまで来た人が十人いるのに、どこへ行ったのかは分からなかった。


 束を下ろし、麻紐を解いた。


 二百年ぶんの名前を、わたくしは読み上げた。


 声に出した。この土地で名を呼ぶのは、してはいけないことだ。三月のあいだ、一度もしなかった。


 いちばん古い一枚から読んだ。四十七の名。誰かの祖父で、誰かの子で、誰かの姉だった人たちだ。


 途中で声が掠れた。掠れても続けた。二百年ぶんある。


 最後の一枚に来た。


 今年のものだ。十一の名。


 ドロテア。ヨナス。グレゴール。マルテ。アンネ。ハンナ。ミルカ。リーゼ。テオ。エミル・フォス。


 十人。


 わたくしは一人ずつ、名を呼んだ。


 嘆いてはいない。泣いてもいない。いないものを、いると数えてはいない。


 いた、と数えている。


 まだ在ると数えるのと、いま、ここにいると数えるのは違う。三月かかって、それを覚えた。


 たしかに、いた。それも、数だ。


 外套の内側から、三つの字を書いた紙を出して雪の上に置いた。炭が濃い。何度も重ねて書いたので、線が太い。


 刻みが六つ入った木の匙を、紙の隣に置いた。七つ目を入れる人はいない。


 火をつけていない蝋燭を、匙の隣に置いた。奥様の部屋は十本と決まっている。ある晩から十一本になって、それきり戻らなかった。


 それから、束を開いた。


 二百年ぶんのどの年にも、書かれていない家がある。


 わたくしはその家の名を言った。それから、厨房の裏で寝ている人のことを言った。名前を知らないので、厨房の裏にいる人、と。


 この土地に、いる。二百年、誰にも数えられずに、いる。


 その人たちを、数に入れてください。


 風はないのに、雪の表面がわずかに沈んで、また戻ったように見えた。


 やがて、足元の雪が緩んだ。溶けている。わたくしの立っているところから円く水が滲み出して、置いた紙と匙と蝋燭のところまで来た。


 紙が濡れた。炭の字は滲まない。何度も重ねて書いた字は、水に強い。


 来た道を戻った。木立を抜けると、雪解けの音が戻ってきた。


 裏口の扉は開いていた。閉めずに出たのではない。誰かが開けたのだ。


 厨房を通った。釘に前掛けが二枚。階段を上がった。十七段、踊り場、十七段。


 書斎の扉が開いていた。


 旦那様が机に向かっておられた。今年の冬名簿が広げてある。


 わたくしが扉のところに立つと、この方が振り返った。立ち上がるまでに少し間があって、椅子が床を擦る音がした。


 わたくしの顔を見て、それから、手に何も持っていないことを見た。


「戻った」


「はい」


「戻るのか」


「戻りました」


 この方は机の端を握った。手袋をしていない手だ。骨のかたちが浮いた。


 机の上の紙。いちばん上の名は、削られたところが白くなっている。その名に、線が引かれていない。


 わたくしは机まで歩いた。


「あなた様」


「なんだ」


「勘定を、数え直していただきました」


「誰にだ」


「森に」


 この方は答えず、床に積んだ紙の束のほうを見た。八年ぶんと、その下に十四年前の一枚。


 わたくしはその束から、いちばん下の一枚を抜いて机に置いた。


 十一の名。いちばん上は削られ、家名の最後の一文字だけが残っている。二番目の欄が、乱暴に削られている。


「この方は、どなたでございますか」


 旦那様は紙を見ておられた。しばらく、見ておられた。


 この方の唇が動いた。音にならなかった。もう一度、動いた。


「アデーレ」


 かすれていた。十四年、一度も使っていない言葉だった。


「姉だ」


「はい」


「十八だった。一番上だった」


 この方は紙の端を握った。折る癖がある。今日は握るだけだった。


「あの年も、十一だった」


 わたくしは何も言わずに待っていた。


 旦那様は紙を見たまま動かなくなった。肩が下がっている。三月のあいだ、この方の背中はいつも丸かった。長く同じ姿勢でいる人の背中だと思っていた。違ったのだと思う。


 呼べば嘆くことになる。嘆けば数が狂う。だから呼ばずにいた。その十四年ぶんが、いま、この部屋にある。


「数が」


 この方が言った。


「数が、狂う」


「狂いません」


 わたくしは机の向こうへ回って、この方の前に立った。


「数え直していただきました。合っております」


「合っている」


「はい」


 旦那様は手で目のあたりを押さえた。


 わたくしは、この方の肩に手を置いた。抱いた。


 この土地で人を抱くのは二度目だ。一度目は泣いている六つの子で、抱いても数は狂わなかった。


 この方の肩が揺れた。声は出さなかった。十四年、声を出さない練習をしてきた人の泣き方だった。


 夜が明けた。鐘は鳴らなかった。その次の日も、鳴らなかった。


 七日目に、峠が開いた。


 閂を抜くのに二人がかりで半日かかった。油の壺の蝋の封を割ると、中身は凍っていない。金具に差すと、閂は動いた。


 春に抜く者が要ると、あの人は言った。


 抜きました、と、わたくしは声に出して言った。


 書記官長は、来なかった。


 三日後、村から知らせがあった。ケラー家の帳面が書き換えられたという。二百年ぶんの名簿に、書かれていなかった家の名が書き足された。


 書いたのは、あの方だ。誰も命じていないし、誰も咎めていない。


 次の冬から、あの家の者も名簿に載る。載れば、順が来る。二百年来なかったものが、これから毎年来る。


 この土地では、死んだ者は嘆かれない。あの方の家の者は、誰にも嘆かれずに消えていく。二百年、あの方が他人にしてきたとおりに。


 わたくしは一言も言わなかった。


 厨房の裏の人は、雪解けの半月後に亡くなった。森へは行かず、寝床で朝を迎えなかった。名を旦那様に伺うと、ご存じだった。


 名を呼んで、埋めた。この土地で二百年ぶりの墓だ。旦那様が石を運ばれた。手袋をしないので、手が切れていた。


 夏に、王都から次の冬の割り当てを聞きに人が来た。旦那様は、くじは引かないと答えられた。


 秋になった。館には新しく雇った者が四人。旦那様とわたくしを入れて、六人。


 数えると、名前が浮かぶ。浮かぶ名前のほうが、ずっと多い。


 ドロテア。ヨナス。グレゴール。マルテ。アンネ。ハンナ。ミルカ。リーゼ。テオ。エミル・フォス。


 この人たちは、いない。いないけれど、いた。


 いたことを数えるのは、嘆くことではない。


 初雪が降った。広間に冬名簿が貼られた。紙は新しい。四隅が破れていない。


 上から順に数えた。三つあった。例年は八人か九人だと聞いていた。


 いちばん上に、わたくしの名前はなかった。


 鐘が鳴った。三つ。止んだ。


 誰も動かなかった。皆が数えていた。数えていることが、顔で分かった。


 わたくしの隣に、旦那様が立っておられた。


「三人だ」


「はい」


「減った」


「はい」


 この方は名簿を見ておられた。それから、こちらを見た。


「泣いていいぞ」


 三つの名前は、村の家のものだった。この秋に雇った者ではない。


 わたくしは、その三つを覚えた。


 覚えて、それから、泣いた。


 この土地で、二百年ぶりのことでございました。

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