第9話 月沢古美術の暗い帳簿
月沢古美術は、もう店ではなかった。
看板は外され、ガラス戸の内側には古い紙が貼られている。かつて商品が並んでいたはずの棚は空で、照明も消え、入口の脇にあった表札の跡だけが壁に薄く残っていた。周囲の商店は代替わりし、隣には小さな珈琲店が入り、向かいの呉服店は貸店舗の札を出している。
街は変わっていた。
だが、アヤメだけは変わっていないものを見ているようだった。
彼女は、通りの向こう側からその空き店舗を見つめていた。
長い黒髪のウィッグはつけていない。短い地毛に、深い色の帽子をかぶっている。服装は地味だった。古書店や古物商を回る客に見える程度の落ち着いたコート。化粧も薄い。月城アヤメではない。月島葵でもない。だが、完全な素顔でもない。
ナナセが作った今日の人物設定は、名前を持たなかった。
「戻ってきた人」。
それだけだった。
過去に触れるための仮面は、名前を持たないほうがいい。ナナセはそう言った。
玲央は、その言葉を思い出しながら、アヤメの横に立った。
彼も今日は派手な変装をしていない。黒瀬玲央の顔に近い。ただ、髪型と眼鏡と服装で印象を変えている。古物資料を調べる大学関係者、あるいは空き店舗を見に来た業者の補助。誰かに強く覚えられない程度の存在。
ナナセは同行していない。
作業部屋で待機している。
通信はつながっていた。
「アヤメさん」
ナナセの声が、耳元で静かに響いた。
「無理なら、今日はやめていい」
アヤメは、少しだけ笑った。
「ここまで来て、それを言う?」
「ここまで来たから言う」
「優しいのね」
「判断材料を出してるだけ」
「それを優しいと言うの」
アヤメは帽子のつばに触れた。
指先は震えていなかった。
けれど、呼吸は浅い。
玲央には分かった。
彼女は、ここに来るまで何度も軽口を叩いた。昔の店なんてたいしたことない、どうせ何も残っていない、御影が全部持っていったはずだ。そう言い続けた。だが、実際に店を前にすると、その言葉はどこかへ消えた。
ここは、彼女の家だった。
月沢古美術。
月城アヤメになる前の彼女がいた場所。
玲央は、軽く息を吐いた。
「行くか」
アヤメは店を見つめたまま答えた。
「ええ」
声は硬かった。
だが、逃げてはいなかった。
三人は事前に確認していた。
月沢古美術の跡地は、現在、管理会社の所有する空き店舗になっている。表向きには賃貸募集中だが、実際には長く借り手がついていない。設備も古く、奥の倉庫部分はほとんど手つかずのままだという。
もちろん、勝手に入るわけにはいかない。
ナナセが手配したのは、内見の予約だった。古物関連の資料保管場所を探している個人事業主という名目で、午前中に管理会社の担当者が鍵を開けに来る。玲央とアヤメは、その立場で中へ入る。
怪盗らしい侵入ではない。
誰かの目を欺くが、無理に扉を開けるわけではない。
今の玲央たちには、そのほうが必要だった。
約束の時間になると、管理会社の担当者が現れた。
四十代ほどの男性で、眠そうな目をしている。古い物件の内見に慣れているのか、過度な愛想はない。淡々と名刺を出し、店舗の説明を始めた。
「こちら、かなり古い物件です。以前は古美術商さんが入っていたそうですが、長らく空いていまして。水回りや電気は確認が必要です。奥に小さな倉庫がありますが、そこも現状渡しになります」
アヤメは、表情を変えずに聞いていた。
玲央は代わりに質問する。
「以前の備品などは残っていますか」
「大きなものは撤去済みです。ただ、古い棚や台は少し残っています。処分は借主様側で相談ですね」
「奥の倉庫も見られますか」
「もちろんです」
担当者が鍵を開ける。
ガラス戸が、低く軋んだ。
その音を聞いた瞬間、アヤメの肩がわずかに動いた。
玲央は見なかったふりをした。
店内に入ると、空気が変わった。
埃、古い木、湿った紙、閉じ込められた時間の匂い。
かつて古美術品が並んでいた棚は、壁際にいくつか残っていた。床には色褪せた跡がある。大きな箪笥か陳列棚が置かれていた場所だろう。天井の照明は一部が切れており、窓から差す午前の光だけが店内を淡く照らしている。
アヤメは、入口のすぐ内側で足を止めた。
彼女の目が、店の奥へ向かう。
そこに何を見ているのか、玲央には分からなかった。
だが、たぶん、今の空き店舗ではない。
商品が並び、客が入り、父が帳簿をつけ、母が奥で茶を淹れ、幼い彼女が店の隅で遊んでいたころの月沢古美術を見ている。
「大丈夫か」
玲央は小声で聞いた。
アヤメは、少しだけ顎を引いた。
「大丈夫」
その言い方は、大丈夫ではない人のものだった。
担当者は店内を歩きながら説明を続ける。
「このあたり、壁に傷がありますね。前の什器を外した跡かと。奥は倉庫です。かなり暗いので足元に気をつけてください」
玲央は適当に相槌を打つ。
アヤメは、棚の前に立った。
指先が、古い木の縁に触れる。
「ここに、陶器が並んでいた」
彼女が呟いた。
玲央は聞き返さなかった。
ナナセも通信の向こうで黙っていた。
アヤメはすぐに手を引いた。
「すみません。古い店の雰囲気を見るのが好きで」
担当者は特に気にした様子もない。
「古物関係の方なら、こういう雰囲気はお好きかもしれませんね。ただ、営業するには少し手を入れないと厳しいです」
「そうですね」
玲央は答える。
奥の倉庫へ向かう。
そこは、店内よりさらに暗かった。窓は小さく、外からの光がほとんど入らない。古い棚、壊れた木箱、丸められた包装紙、錆びた金具。ほとんど空に近いが、完全には片づけられていない。
アヤメが、倉庫の入口で止まった。
「ここ」
小さく言う。
「何かあるのか」
玲央が聞く。
「父が、帳簿を隠すならここ」
「場所は分かるのか」
「分からない。でも、父は目立つ場所には隠さない。捨てるように置く」
担当者が後ろで言った。
「奥は少し危ないので、あまり触らないでください。古い棚が倒れることがあります」
玲央は頷いた。
「確認だけにします」
もちろん、本当に確認だけで済むかは分からない。
ナナセの声が耳元で聞こえる。
「時間は長く取れない。担当者を外に出す理由が必要」
「分かってる」
玲央は担当者に向き直った。
「すみません、電気容量について確認したいんですが、分電盤はどちらですか」
「ああ、表のほうですね。少し見ますか」
「お願いします」
担当者は玲央を表の店内へ案内する。
アヤメは倉庫に残る。
「月島さん、奥の寸法をざっと見ておいてください」
玲央は自然に言った。
アヤメは小さく頷く。
「分かりました」
これで、彼女が倉庫を少し調べる時間ができる。
実用的な侵入ではない。
ただ、内見中に採寸するという自然な行動だ。
玲央は担当者と分電盤の前で話を合わせた。容量、照明、空調、水回り。詳しいことは分からないが、森川怜や朝倉紘一で作った会話の癖が役に立った。知らないことは専門家に確認する。断定しない。相手に話させる。
その間、アヤメは倉庫の中で一人だった。
*
倉庫の奥で、アヤメは膝をついた。
床板は古い。ところどころ沈む。昔、父に「そこは踏むな」と言われた場所を、身体がまだ覚えていた。棚の配置は変わっている。木箱も減っている。だが、倉庫の奥の柱だけは同じだった。
柱の根元に、小さな傷がある。
幼いころ、アヤメが誤って木製の玩具をぶつけた傷だ。父は怒らなかった。代わりに、「古いものは傷を隠すより、傷を記録するほうが大事だ」と言った。
その言葉を、今になって思い出す。
アヤメは、胸の奥が詰まるのを感じた。
父の名前は、月沢英司。
古美術商としては誠実だった。
誠実すぎたのかもしれない。
御影財団から仕事を受けたとき、父は少し誇らしげだった。小さな店でも、目を信じてもらえれば大きな仕事が来る。そう言っていた。母も喜んでいた。アヤメも、何か良いことが起きるのだと思っていた。
けれど、その後に来たのは、疑いだった。
贋作。
不正取引。
鑑定ミス。
父は違うと言った。御影に嵌められたと言った。だが、誰も信じなかった。店から客が消え、電話が鳴らなくなり、母は黙る時間が増えた。
やがて、月沢古美術は閉じた。
アヤメは、そのときから、自分の名前も店の匂いも嫌いになった。
月沢という名を捨て、月城アヤメになった。
女怪盗として人の視線を奪うようになった。
奪われたものを、奪い返すために。
だが、この倉庫に膝をついた瞬間、月城アヤメは少し薄くなる。
ここにいるのは、月沢の娘だった。
アヤメは、柱の傷に触れた。
父ならどこに隠すか。
目立たない場所。
捨てられるように見える場所。
でも、気づく者には分かる場所。
古い棚の下に、壊れた桐箱があった。
普通なら価値のない箱だ。蓋は割れ、角も欠けている。誰かが片づけるなら、最初に捨てるようなもの。だが、アヤメはその桐箱に見覚えがあった。
父は、大事なものほど壊れた箱に入れた。
泥棒は綺麗な箱を開ける。
役人はラベルのある箱を見る。
御影のような人間は、高そうな箱しか見ない。
父はそう言って笑っていた。
アヤメは、桐箱を引き出した。
中は空に見える。
だが、底が少し厚い。
指で押す。
動かない。
箱の角を見る。
小さな隙間。
無理に開ければ壊れる。
アヤメは息を整えた。
乱暴に触らない。
ナナセの声が頭の中で響く。
道具には礼儀が必要。
アヤメは、爪ではなく、持っていた薄いメモ板の端を使い、慎重に底板を動かした。
かすかな音。
底が外れた。
中から、油紙に包まれた薄い冊子が出てきた。
帳簿。
アヤメは、それを見た瞬間、息が止まった。
表紙には、父の字があった。
月沢古美術 非公開控。
手が震える。
泣くな。
アヤメは自分に言い聞かせた。
泣くために来たのではない。
取り戻すために来たのだ。
彼女は帳簿を胸元に抱えた。
そのとき、倉庫の外で玲央の声がした。
「月島さん、寸法は?」
合図だった。
担当者が戻ってくる。
アヤメは、帳簿を持っていることを隠し、桐箱を元の位置へ戻した。
立ち上がる。
月島葵の顔を作る。
「だいたい確認できました」
声が少し震えた。
だが、担当者は気づかなかった。
玲央だけが気づいた。
彼はアヤメの目を一瞬見て、何も聞かなかった。
帳簿を見つけたことは、その目で分かった。
ナナセの声が通信で小さく入る。
「戻って。これ以上は長い」
内見は、そこから数分で終わった。
玲央は適当な質問をいくつかし、検討して連絡すると伝えた。担当者は慣れた様子で頷き、店を閉めた。ガラス戸が再び軋む。鍵がかかる。
月沢古美術は、また空き店舗に戻った。
だが、アヤメはもう手ぶらではなかった。
通りを離れ、二本先の路地へ入ったところで、彼女はようやく立ち止まった。
玲央は聞いた。
「見つけたのか」
アヤメは、コートの内側から油紙に包まれた帳簿を出した。
手が、わずかに震えている。
「父の帳簿」
それだけ言うと、彼女は黙った。
玲央は、帳簿を見つめた。
古い紙。
薄い冊子。
だが、その中に、御影が消したかった名前があるかもしれない。
沢絵里。
黒瀬暁人。
《青衣の女》。
月沢古美術。
そして、御影宗一郎。
「戻ろう」
玲央は言った。
アヤメは頷いた。
*
作業部屋に戻るまで、二人はほとんど話さなかった。
ナナセは部屋で待っていた。
扉が開くと、すぐにアヤメの顔を見て、何かを察したようだった。
「座って」
命令に近い声だった。
アヤメは反論せず椅子に座った。
ナナセは、帳簿を受け取る前に、まず机を片づけた。布を敷き、手袋を用意し、作業灯をつける。古い紙を扱うための最低限の準備だった。
玲央は、その手際を見て、父のことを思い出す。
修復とは、壊さないための作業。
帳簿も同じだ。
真実を取り出すために、乱暴に開いてはいけない。
ナナセは、アヤメに尋ねた。
「開けてもいい?」
アヤメは少し驚いたように見た。
「私に聞くの?」
「あなたのお父さんのものだから」
アヤメは、目を伏せた。
「……開けて」
ナナセは慎重に油紙を開いた。
中から、古い帳簿が現れる。
紙は黄ばんでいるが、状態は悪くない。表紙には、月沢英司の字。
月沢古美術 非公開控。
ナナセは一ページ目を開いた。
日付、品名、依頼者、備考。
通常の取引帳簿ではない。
表に出せない相談、鑑定、来歴調査、預かり品の記録が並んでいる。もちろん、違法なものとは限らない。古美術商には、正式な売買に至る前の確認や、依頼者の名前を伏せた相談もある。
玲央は、ページを追った。
数年前までは、さまざまな名前が並んでいる。
寺社関係、旧家、個人蔵、海外品。
そして、五年前。
御影財団の名が出てくる。
アヤメの呼吸が浅くなる。
ナナセはゆっくりページを進めた。
そこに、あった。
日付。
依頼者:御影財団。
品名:《青衣の女》関連資料一式。
備考:来歴確認。沢家資料照合。黒瀬暁人氏、沢絵里氏と連絡要。
部屋が静かになった。
沢絵里。
黒瀬暁人。
月沢古美術。
三つが同じ行に並んでいる。
玲央は、喉が詰まるのを感じた。
アヤメは、帳簿を見つめたまま動かない。
ナナセは、さらに下の備考を読む。
“肖像女性名、沢サワ。欧州名エリザ。旧沢家資料に一致の可能性。”
「沢サワ……」
玲央が呟く。
「名前がサワ?」
ナナセが頷く。
「沢という姓ではなく、サワという名。欧州名エリザ」
アヤメが低く言った。
「日本人女性が、欧州でエリザと呼ばれていた?」
「可能性はある」
玲央は、父の手帳を開いた。
“名は――”
消された文字。
もしそこに「サワ」と書かれていたなら、父は肖像画の女性の名を知っていたことになる。
ナナセは帳簿の次のページへ進む。
“御影氏、作品の来歴公開に難色。沢絵里氏、公開を主張。黒瀬氏、眼部素材の検査を要望。”
さらに次。
“青色部、単なる顔料にあらず。微細構造あり。黒瀬氏『記録を封じたもの』と発言。”
白い星、緋の冠と同じ。
青の涙も記録媒体の一部。
父はそれに気づいていた。
ナナセは読み続ける。
“沢絵里氏、肖像女性サワは明治期に欧州へ渡った日本人女性と主張。御影氏、根拠薄弱として否定。”
アヤメが言った。
「御影は、サワという名前を消したかった」
「なぜ」
玲央が問う。
ナナセは次のページを見た。
そこには、父の字ではなく、月沢英司の字で、強い筆圧のメモが書かれていた。
“御影氏の求める処理は危険。来歴改変に加担すべきでない。沢氏は追われている。黒瀬氏も危ない。”
アヤメの顔色が変わった。
「父は……分かっていた」
声が震える。
月沢英司は、御影の不正に気づいていた。
そして、黒瀬暁人と沢絵里が危険にさらされていることも。
ナナセは次のページをめくる。
日付は、その数日後。
“御影財団より取引停止通告。贋作鑑定問題発生。関係資料の返却要求あり。応じず。”
さらに次。
“黒瀬氏より連絡。『青の涙だけでは足りない。白、緋、青、黒を揃えれば、硝子の女神が開く』。沢氏、保護必要。”
硝子の女神。
四つの鍵。
白い星。
緋の冠。
青の涙。
黒の翼。
父は、かなり近くまで辿り着いていた。
アヤメの父も、それを知っていた。
そして、沢絵里を守ろうとしていた。
玲央は、机に両手をついた。
「沢絵里は、どこへ行った」
ナナセはページをめくる。
だが、そこで帳簿の記述は大きく乱れていた。
筆跡が震え、日付も曖昧になっている。
“沢氏、北へ。黒瀬氏、追う。御影側、人を出す。私は店を守る。”
北。
それだけだった。
玲央は眉を寄せる。
「北?」
アヤメが小さく言う。
「父は、北と言ったことがある」
「どこだ」
「分からない。けど、うちには昔、東北の旧家との取引があった。沢家資料も、そこから来たのかもしれない」
ナナセは、帳簿の後半を確認する。
だが、その先は取引停止後の混乱した記録だった。贋作問題、返金要求、取引先からの問い合わせ、御影財団側からの圧力。月沢古美術が崩れていく過程が、淡々と記されている。
アヤメは、それを見ていた。
自分の家が壊れていく記録。
父が追い詰められていく文字。
母の名前は出てこない。
アヤメ自身の名前も出てこない。
だが、帳簿の最後のほうに、短い一文があった。
“娘には知らせるな。月沢の名から離れさせる。”
アヤメの目が、大きく開いた。
声は出なかった。
玲央も、ナナセも、何も言えなかった。
父は、娘を切り離そうとした。
守るために。
月沢の名から離れさせる。
だから、アヤメは月城になった。
自分で捨てたと思っていた名前は、父が逃がそうとした名前でもあった。
アヤメは、静かに立ち上がった。
「少し、外の空気を吸う」
ナナセが言った。
「一人では出ない」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
アヤメは何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
玲央が立ち上がる。
「俺が行く」
アヤメは拒まなかった。
二人は、作業部屋の外へ出た。
*
ビルの屋上は、狭かった。
柵の向こうに、低い建物と夕方の空が見える。風は少し冷たい。街の音は遠く、車の音も人の声も、ここでは薄くなる。
アヤメは、柵にもたれず、少し離れた場所に立っていた。
玲央は、彼女の横に並ばない。
少し距離を取る。
近すぎると、言葉が出ないこともある。
しばらく、二人は黙っていた。
やがて、アヤメが言った。
「私は、父に捨てられたと思っていた」
玲央は答えなかった。
「店が潰れて、母が離れて、父は私に何も説明しなかった。月沢の名前を使うな、店のことを話すな、御影に関わるな。そればかりだった。私は、父が恥じたんだと思った。贋作を扱った店の娘でいることを、私に背負わせたくなかったんだって」
「違った」
「ええ」
アヤメは、空を見た。
「守ろうとしていたのね。たぶん」
「たぶんじゃない」
玲央は言った。
アヤメが彼を見る。
「お前の父親は、守ろうとしていた」
玲央の声は静かだった。
「帳簿に残していた。娘には知らせるな。月沢の名から離れさせる。あれは、恥じた言葉じゃない」
アヤメは、少し笑った。
「あなたに言われると、不思議な感じ」
「俺も父に隠されていた」
「そうね」
「だから、分かる。隠された側は腹が立つ。でも、隠した側が何も考えていなかったわけじゃない」
アヤメは目を伏せた。
「それでも、腹は立つわ」
「立てばいい」
「冷たいのね」
「俺も立ってる」
アヤメは、今度は少しだけ本当に笑った。
その笑いは、月城アヤメのものでも、月島葵のものでもなかった。
月沢の娘の笑いだった。
「私、父に言いたいことがたくさんある」
「ああ」
「なぜ話さなかったのか。なぜ一人で抱えたのか。なぜ私を遠ざけたのか。なぜ、もっと早く逃げなかったのか」
「ああ」
「でも、もし父がもういなかったら、その言葉はどこへ行くのかしら」
玲央は、すぐには答えられなかった。
その問いは、自分のものでもあった。
父に会えたら聞きたいことがある。
なぜ消えたのか。
なぜ手帳だけ残したのか。
なぜ玲央には知らせるなと書いたのか。
だが、もし父がもういなかったら。
その問いはどこへ行くのか。
玲央は、ゆっくりと言った。
「御影に向けるしかない」
アヤメの目が細くなる。
「復讐?」
「真実を出す」
「同じようで違うわね」
「違うと思いたい」
アヤメは少し黙った。
「私は、復讐したい」
「知ってる」
「でも、今日の帳簿を見て、少し変わった。父が守ろうとしたものを、私が壊したくないと思った」
玲央は、彼女を見た。
アヤメは続ける。
「緋の冠の欠片を取ったとき、私は壊れてもいいと思っていた。御影から奪えるなら。でも、青の涙は……あの肖像画は、壊したくない」
「俺もだ」
「似てきたわね」
「やめろ」
「嫌そう」
「嫌だ」
アヤメは、また少し笑った。
屋上の風が、彼女の短い髪を揺らした。
長い黒髪のウィッグがなくても、彼女はそこに立っていた。
その姿に、玲央は少しだけ安堵した。
*
作業部屋へ戻ると、ナナセが帳簿の複写メモを作っていた。
原本はできるだけ触らないよう、必要箇所を書き写している。写真を撮ることも考えたが、万一データが漏れた場合に危険が大きい。まずは手書きで要点を整理する。
ホワイトボードには、新しい線が引かれていた。
《青衣の女》
通称:泣かない女
モデル:サワ/欧州名エリザ
眼部:青の涙
調査:黒瀬暁人+沢絵里
協力:月沢英司
御影:来歴公開を拒否
沢絵里:所在不明、北へ
黒瀬暁人:沢を追う
月沢古美術:贋作問題で失墜
玲央は、その図を見て、ようやく全体が少し見えた気がした。
御影は、《青衣の女》の来歴を隠したかった。
沢絵里は、その来歴を公開しようとした。
黒瀬暁人は、青の涙の構造と硝子の女神へのつながりに気づいた。
月沢英司は、資料を守ろうとした。
その結果、沢絵里と黒瀬暁人は消え、月沢古美術は潰された。
そして今、玲央とアヤメがその跡を追っている。
「次は北だな」
玲央が言うと、ナナセは頷いた。
「ただし、範囲が広い。東北か、北海道か、単に東京の北側かもしれない」
アヤメは帳簿の一部を指した。
「旧家との取引記録を見れば、候補が絞れるかもしれない。月沢が扱っていた沢家資料の出所」
「沢家資料」
玲央が言う。
「肖像画のモデル、サワに関する資料か」
「たぶん。沢という家か、サワという女性の資料かは分からない。でも、父はそれを照合していた」
ナナセは帳簿を慎重にめくる。
「沢家資料に関する記録……あった」
三人が覗き込む。
日付は五年前より少し前。
“旧沢家文書、北園家経由。肖像女性サワ、渡欧記録あり。青目加工の由来不明。”
「北園家」
ナナセが読み上げる。
玲央は眉を寄せた。
「北園……北か」
アヤメが頷く。
「父が言っていた北は、地名ではなく北園家のことかもしれない」
「どこにある」
ナナセは端末で公開情報を調べる。
「北園家。旧家。明治期に貿易商として財を成した家系。現在の本家は……長野県北部に資料館を持っている」
「長野」
玲央が呟く。
「北へ」
沢絵里は北へ行った。
黒瀬暁人は追った。
北園家の資料館。
そこに、沢絵里か、父の痕跡があるかもしれない。
そのとき、ナナセの端末が震えた。
咲良からの短いメッセージだった。
ナナセが読み上げる。
「《青衣の女》、明日二十二時に移送予定。行き先不明。御影財団は保全処理と説明」
玲央は拳を握った。
青の涙が移される。
明日の夜。
その前に、北園家の資料館へ行く時間はない。
長野へ向かえば、青の涙の移送には間に合わない。
青の涙を追えば、沢絵里と父の痕跡を探すのが遅れる。
御影は、それを見越しているのかもしれない。
ナナセは、静かに言った。
「選択が必要」
アヤメも顔を上げる。
「青の涙を追うか。北園家を追うか」
玲央は、ホワイトボードを見た。
青の涙は目の前にある。
だが、御影の管理下にある。
北園家には、沢絵里と父の手がかりがあるかもしれない。
しかし、確実ではない。
迷う。
迷っている時間もない。
玲央は、父の手帳を開いた。
白い星。
緋の冠。
青の涙。
黒の翼。
硝子の女神。
その中で、父が最も強く書き残していたのは、鍵そのものではなかった。
人の名前だった。
沢。
消された名前。
彼女は泣いていない。泣かされている。
玲央は、静かに言った。
「北園家へ行く」
アヤメが見る。
ナナセも見る。
「青の涙は?」
「咲良に任せる」
自分で言って、玲央は少し驚いた。
咲良に任せる。
警察に任せる。
怪盗としては、あり得ない判断だった。
だが、今はそれが最善に思えた。
青の涙そのものを追えば、御影の罠に入る可能性が高い。作品を壊さずに保全するなら、警察のほうが動きやすい。咲良は、少なくとも御影より作品を壊さない。
こちらは、沢絵里と父の足跡を追う。
役割を分ける。
「咲良に連絡する」
玲央は言った。
ナナセは、咲良の名刺を机に置いた。
「本当に?」
「ああ」
「逮捕されるかもしれない」
「それでも、青の涙を壊されるよりいい」
アヤメが少し笑った。
「怪盗が、盗品を警察に任せるのね」
「盗品じゃない。証拠だ」
「言うようになったわね」
玲央は名刺を手に取った。
指が少し震える。
ナナセは、止めなかった。
アヤメも、茶化さなかった。
玲央は番号を入力した。
数回の呼び出し音。
やがて、咲良の声が出た。
「氷見沢です」
玲央は、一度だけ目を閉じた。
そして、はっきりと言った。
「黒瀬玲央です」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
咲良は、驚いたのかもしれない。
だが、すぐに冷静な声が返ってきた。
「話を聞きます」
玲央は、手帳を見た。
父の字。
沢絵里。
北園家。
青の涙。
「青の涙を、御影に移させないでください」
怪盗が刑事に頼む。
その瞬間、玲央は、自分がもう以前の怪盗レオナではないことをはっきりと理解した。
仮面は、まだ必要だ。
だが、仮面だけでは辿り着けない場所がある。
咲良の声が、静かに返ってくる。
「条件があります」
「何ですか」
「あなたが知っていることを話すこと」
玲央は、ナナセとアヤメを見た。
二人とも、何も言わなかった。
決めるのは玲央だった。
彼は、ゆっくり息を吐いた。
「全部は話せません」
「でしょうね」
「でも、青の涙を守るために必要なことは話します」
「十分ではありませんが、今はそれで始めましょう」
玲央は、電話を握り直した。
御影の罠から外れる道。
それは、盗むことでも、逃げることでもなく、敵と話すことだった。
黒瀬玲央は、初めて自分の名前で刑事と話し始めた。
外では夜が濃くなっていく。
青の涙は、まだ肖像画の目にある。
北園家には、沢絵里と黒瀬暁人の足跡が残っているかもしれない。
月沢古美術の帳簿は、閉じられていた過去の扉を開けた。
そして玲央は、その扉の向こうへ進むために、怪盗としてではなく、黒瀬玲央として一歩を踏み出した。




