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第10話 蒼い目を運ぶ女たち


 黒瀬玲央は、自分の名前で刑事と話していた。


 それは、奇妙な感覚だった。


 白河レイカでもない。佐伯真理でもない。瀬尾圭一でもない。朝倉紘一でも、神崎遥でもない。


 黒瀬玲央。


 父が呼んでいた名前。


 氷見沢咲良が地下で呼んだ名前。


 そして今、玲央自身が電話口で名乗った名前だった。


「青の涙を、御影に移させないでください」


 電話の向こうで、咲良は沈黙していた。


 長い沈黙ではない。けれど、玲央には長く感じられた。刑事に頼んでいる。怪盗が、盗みに入るのではなく、警察に美術品の保全を求めている。


 滑稽だと思う一方で、それ以外の道が見えなかった。


 御影は、玲央が盗みに来ることを待っている。


 アヤメが無理に奪いに来ることも読んでいる。


 青の涙を含む《青衣の女》は、ただの鍵ではない。サワという女性の名と、沢絵里の調査と、黒瀬暁人の失踪につながる作品だった。壊してはいけない。奪えばいいというものではない。


 だから、御影の手から一度離す必要があった。


 警察の保全という形で。


 咲良の声が返ってくる。


「黒瀬さん。あなたがその言葉を言う意味は分かっていますか」


「分かっているつもりです」


「警察に連絡した時点で、あなたの居場所や交友関係を調べる根拠が増えます」


「それでも、青の涙を壊されるよりはいい」


「あなたが作品を守る側に立つとは、少し意外です」


 玲央は、父の手帳を見た。


「俺が守るわけじゃない。父が守ろうとしたものを、俺が壊すわけにはいかないだけです」


 通話の向こうで、咲良の呼吸がわずかに変わった。


「黒瀬暁人さんの手帳を持っていますね」


 玲央は答えなかった。


 答えなくても、ほとんど認めたようなものだった。


 ナナセが机の向こうで、静かに首を振る。


 言いすぎるな。


 アヤメは椅子に座ったまま、月沢古美術の帳簿を見つめていた。彼女もまた、黙って玲央の通話を聞いている。


 咲良は続けた。


「こちらが青の涙の移送を止めるには、作品に犯罪の証拠性、または不適切な管理の疑いがあると示す材料が必要です。単に怪しいだけでは止められません」


「《青衣の女》の眼部には、通常の顔料ではない素材が入っている。白い星と緋の冠にあった欠片と同じ系統のものです」


「白い星と緋の冠の欠片を、あなたは見たのですね」


 玲央は、奥歯を噛んだ。


 咲良は一つの情報から、すぐ次の情報へ手を伸ばしてくる。


「見た、とだけ言っておきます」


「持っているとは言わない」


「言いません」


「正直ですね」


「嘘をついても見抜くでしょう」


「努力はします」


 咲良の声は冷静だった。


 その冷静さが、玲央にはかえって信用しやすかった。咲良は、優しい言葉で釣ろうとはしない。こちらを完全に信じるとも言わない。逮捕しないとも言わない。


 だからこそ、話せる範囲が見えた。


「沢絵里を探しています」


 玲央は言った。


 咲良の声がわずかに硬くなる。


「どこまで分かりましたか」


「《青衣の女》の共同調査者。父と一緒に御影財団の所蔵品調査をしていた。沢家資料と、肖像画の女性サワに関係している可能性がある」


「情報源は」


「言えません」


「月沢古美術ですか」


 アヤメの目が上がった。


 ナナセも、わずかに反応した。


 咲良は本当に早い。


 玲央は沈黙した。


 咲良は、それを肯定と受け取ったようだった。


「分かりました。深くは聞きません。ただし、御影側もそこに気づいている可能性が高い。月沢古美術の関係者が危険です」


「もう危険です」


 玲央の声に、少しだけ怒りが混じった。


 咲良は何も言わなかった。


 その沈黙は、否定ではなかった。


「青の涙の移送は明日二十二時ですね」


 玲央が言う。


「はい。御影財団は保全処理のための移送と説明しています。こちらは、作品管理上の不審点と、五年前の失踪事件との関連を理由に確認を入れます」


「止められますか」


「確約はできません」


「刑事でも?」


「刑事だから、できないことがあります」


 その答えは、玲央には少し意外だった。


 咲良は続ける。


「ただ、移送の場に立ち会うことはできます。御影が作品に不自然な処置を加えようとすれば、止めます」


「では、こちらは北園家へ向かいます」


 ナナセが小さく息を吸った。


 言った。


 咲良に、こちらの行き先を一部明かした。


 咲良はすぐに返す。


「北園家資料館ですか」


「そこまで分かっているんですね」


「沢絵里さんの足跡を追えば、候補に上がります。黒瀬暁人さんも、そこへ向かった可能性がある」


「なら、俺たちが行く必要はない?」


「あります」


 咲良の答えは早かった。


「警察が正面から動けば、御影に先回りされる。あなたたちは危険ですが、御影が予測しきれない動きをする」


「それは褒めていますか」


「評価です。褒めてはいません」


 玲央は、少しだけ笑いそうになった。


 咲良は続けた。


「ただし、犯罪行為はしないでください。資料館で何かを盗めば、私はあなたを庇えません」


「庇う気があるんですか」


「ありません。ただ、御影を利する形であなたを捕まえる気もありません」


 アヤメが小さく言った。


「この刑事、本当に厄介ね」


 咲良には聞こえていないはずだった。


 玲央は電話を握り直した。


「こちらが北園家で何かを見つけたら、連絡します」


「その代わり、青の涙の移送についてはこちらから共有します」


「取引ですね」


「仮の協力です」


「信用は?」


「していません」


「同じです」


「それで十分です」


 咲良は、そこで一度言葉を切った。


 そして、少しだけ声を低くした。


「黒瀬さん。御影は、あなたが父親の真実を求めて動くことを利用しています。怒りで動かないでください」


「それは、ナナセにも言われました」


「柊さんは正しい」


 ナナセが、通信越しでもないのに少し嫌そうな顔をした。


 玲央は電話を切った。


 作業部屋に沈黙が戻る。


 ナナセが最初に口を開いた。


「言いすぎ」


「分かってる」


「でも、必要なことは言えた」


「そこは褒めるのか」


「評価」


 アヤメが笑った。


「咲良さんと同じ言い方」


「やめて」


 ナナセは即座に返した。


 玲央は、机の上の帳簿と手帳を見た。


 青の涙は咲良に任せる。


 自分たちは北園家へ向かう。


 それは、怪盗としては妙な分担だった。


 けれど、今はそれでいい。


 盗むだけでは、父には届かない。


 壊さずに知るためには、別の動き方が必要だった。


     *


 北園家資料館は、長野県北部の山沿いにある。


 かつて貿易と製糸で財を成した旧家が、戦後に一部の所蔵資料を公開するために設けた小さな資料館だという。現在は予約制で、郷土資料、明治期の海外渡航記録、旧家文書などを保管している。


 そこに、沢家資料が残っている可能性がある。


 沢絵里は、五年前にそこへ向かったかもしれない。


 黒瀬暁人も、彼女を追った可能性がある。


 そして、御影はその事実を隠したがっている。


 行くしかなかった。


 問題は、どう行くかだった。


 ナナセは、ホワイトボードに「北園家」と書き、その下に三つの項目を並べた。


 身分。


 目的。


 退路。


「普通に予約して行く」


 玲央が言うと、アヤメが片眉を上げた。


「怪盗が言うと新鮮ね」


「今回は盗みに行くんじゃない」


「そうね」


 ナナセは頷いた。


「正面から行く。ただし、御影側が見張っている可能性がある。だから、玲央は女性変装に戻す」


 玲央は、少し意外そうにナナセを見た。


「ここで?」


「ここで」


「御影は女性変装を警戒している」


「だから、以前のような“完璧な女”ではなく、生活感のある女性にする」


 アヤメが興味深そうに身を乗り出した。


「どういう役?」


「地方資料を調べに来た女性研究者。名前は、三枝真澄。年齢は三十四。大学の非常勤研究員。専門は近代の日欧交流史。服装は落ち着いた長めのコート、低い靴、短めのウィッグ。体型補正は最小限。胸や腰を強調するのではなく、肩の線と首元で印象を変える。声も高くしすぎない」


 玲央は、ナナセの説明を聞きながら、胸の奥が少しざわつくのを感じた。


 女性に変装する。


 久しぶりではない。むしろ、これまで何度もやってきた。


 だが、白河レイカや佐伯真理とは違う。


 今度の女性は、隠れ家ではない。


 自分から逃げるための女ではない。


 調べるための女。


 作品と資料に向き合うための女。


 壊されても残る女。


「三枝真澄は、派手な人じゃない」


 ナナセは続ける。


「研究疲れしている。人付き合いは丁寧だけど、資料を見ると周囲を忘れる。性別で見られることには慣れているけれど、あまり意識していない。だから、もし御影側に髪や化粧を崩されても、派手な正体暴きにはならない」


「つまり、白河レイカみたいな作り込みはしない」


「しない。変装の完成度は高くする。でも、完成度を見せない」


 アヤメが言った。


「私は?」


「あなたは同行者ではなく、別行動」


「また待機?」


「違う。あなたは月沢家の関係資料を調べるため、古物商の娘として行く。名前は月沢葵」


 アヤメの顔が止まった。


「月沢を使うの?」


「使うかどうかは、あなたが決めていい」


 ナナセの声は静かだった。


「でも、北園家には月沢古美術の記録が残っている可能性がある。月沢の名を使えば、扉が開くかもしれない」


 アヤメは黙った。


 月沢。


 捨てた名前。


 父が離れさせようとした名前。


 御影が掘り返すなと脅した名前。


 それを、自分から名乗る。


 アヤメは、短い髪に触れた。


「月城アヤメでも、月島葵でもなく?」


「必要なら」


 ナナセは答える。


「ただし、無理はしなくていい。別名でも行ける方法は考える」


 アヤメは、しばらく考えた。


 そして、小さく言った。


「月沢葵で行く」


 玲央は、彼女を見た。


「いいのか」


「よくないわ」


 アヤメは、少しだけ笑った。


「でも、父の帳簿を見たあとで、月沢をずっと避けるのも違う気がする」


 ナナセは頷いた。


「分かった。じゃあ、二人は別々の立場で北園家へ入る。玲央は三枝真澄。アヤメさんは月沢葵。互いに初対面ではないが、親しくはない。資料館で偶然会う形にする」


「女性二人で資料調査か」


 玲央が呟く。


「正確には、女性研究者と古美術商の娘」


 ナナセは、机の引き出しから二つのファイルを出した。


「女性変装を増やしたいなら、ただ見た目を女性にするだけじゃ弱い。女性として何を背負っている人物かを作る。三枝真澄は、研究の場で軽く見られないように丁寧さを鎧にしてきた人。月沢葵は、家の名前を避けてきたけれど、必要なら名乗る覚悟をした人」


 アヤメが、ナナセを見た。


「私のほう、かなりそのままじゃない?」


「だから強い」


 ナナセは言った。


「遠い仮面だけじゃなく、近い仮面も使う。二人とも、その段階に来てる」


 玲央は、三枝真澄という名前を頭の中で繰り返した。


 三枝真澄。


 女性研究者。


 資料を見る人。


 真実を壊さずに扱う人。


 その人物を演じることは、白河レイカになることより難しいかもしれない。


 白河レイカは、玲央から遠かった。


 三枝真澄は、少し近い。


 父の資料を追う玲央に近い。


 だから、逃げ場所ではない。


 向き合うための仮面だった。


     *


 夜まで、準備は続いた。


 ナナセは、三枝真澄のために落ち着いた女性用の衣装を組んだ。濃い緑のロングスカート、動きやすい低い靴、襟元の詰まったブラウス、やや大きめのカーディガン。華やかさはない。だが、地味すぎてもいない。資料館で数時間過ごしても不自然でなく、移動しても疲れにくい服装だった。


 ウィッグは短めの栗色。


 白河レイカの黒髪ほど作り込まれていない。佐伯真理の短髪ほど地味でもない。額に少し髪がかかり、眼鏡との相性で研究者らしい印象を作る。固定は強すぎず、万一乱れても「疲れた髪」として成立するよう調整されていた。


 メイクも薄い。


 輪郭を大きく変えず、目元と肌の質感で印象を変える。頬にわずかな血色を足し、唇は色を抑える。女性らしさを強調するのではなく、年齢と職業に合った生活感を作る。


 玲央は鏡の前に座っていた。


 ナナセが髪を整える。


 アヤメは少し離れて見ている。


「また女に戻るのね」


 アヤメが言った。


「戻るという言い方は違う」


 玲央は、鏡を見ながら答えた。


「三枝真澄になる」


「真面目」


「役の問題だ」


「でも、前より落ち着いてる」


 玲央は黙った。


 確かに、以前より落ち着いている。


 女性変装をするとき、玲央はいつも完成度に意識を向けていた。どれだけ女に見えるか。どれだけ違う人物に見えるか。どれだけ黒瀬玲央を消せるか。


 今は違う。


 三枝真澄が資料館でどう椅子に座るか。


 どう古い紙に触れるか。


 北園家の職員にどう質問するか。


 沢絵里の名前を聞いたとき、どの程度反応するか。


 そういうことを考えている。


 女に見えることは前提であって、目的ではない。


 ナナセが、玲央のウィッグの横を軽く押さえた。


「触られたら?」


「慌てて押さえない。髪が乱れた女性として直す」


「メイクが崩れたら?」


「体調不良か移動疲れとして処理する」


「声が落ちたら?」


「三枝真澄はもともと声が低め。問題ない」


「体型を見られたら?」


「大きく作っていないから崩れない」


「よし」


 ナナセは満足そうではなく、確認を終えた職人の顔で頷いた。


 次に、アヤメの準備が始まった。


 月沢葵。


 こちらは変装というより、名前を戻す作業に近かった。


 ナナセは、アヤメに長いウィッグを渡さなかった。短い地毛を整え、やや柔らかいシルエットのジャケットを合わせる。古美術商の家の娘として、派手ではなく、品があるが、どこか距離を置く服装。


 アヤメは鏡の前で、少しだけ落ち着かなさそうだった。


「これ、変装になってる?」


「なってる」


 ナナセが言う。


「ほとんど私のままじゃない」


「だから変装になる」


「意味が分からない」


「あなたは、月城アヤメとして人を支配する目を使う。でも、月沢葵は、それを抑える。見られる前に見返さない。相手の反応を奪いにいかない。そこが変装」


 アヤメは黙った。


 ナナセは続ける。


「髪も顔も大きく変えない。変えるのは、相手との距離の取り方」


「難しいわね」


「玲央より難しいかも」


「それは嫌」


 玲央が横から言った。


「なぜ俺を基準にする」


「便利だから」


 アヤメは少しだけ笑った。


 しかし、その笑いはすぐに消えた。


 鏡の中の月沢葵を見る。


 自分の捨てた名前を、もう一度着る。


 それは、ドレスを着るより重いのかもしれない。


 ナナセは、二人の準備を終えると、最後に小さな紙を渡した。


 北園家資料館の予約確認。


 訪問目的。


 調査項目。


 質問していいこと。


 質問してはいけないこと。


 そして、一番下に太字で書かれている。


 “資料を盗らない。壊さない。追われたら逃げるより守る。”


 玲央は、その紙を見て苦笑した。


「俺たちへの信頼がないな」


「信頼してるから書いてる」


「どういう理屈だ」


「信頼してなかったら、行かせない」


 ナナセは、そう言って鞄を差し出した。


「三枝真澄の鞄。中にはノート、筆記具、ハンカチ、予備の眼鏡、化粧直し。怪しいものは入れてない」


「月沢葵の鞄は?」


「帳簿の写しと、古物商の家に残っていた資料の写し。原本は置いていく」


 アヤメが頷く。


「父の帳簿は?」


「私が保管する。持ち出さない」


 ナナセは、月沢古美術の帳簿を丁寧に布で包んだ。


「これは証拠で、遺品でもある。簡単に外へ出さない」


 アヤメは、少しだけ目を伏せた。


「ありがとう」


 ナナセは返事をしなかった。


 ただ、帳簿を金属箱とは別の棚へしまった。


     *


 翌朝。


 玲央とアヤメは、東京駅にいた。


 人の流れが速い。


 通勤客、旅行者、出張の会社員、外国人観光客。大きな駅の中では、人は簡単に紛れる。だが、紛れるということは、誰に見られていても分からないということでもある。


 玲央は、三枝真澄として歩いていた。


 低い靴の音。


 ロングスカートの揺れ。


 肩にかけた鞄の重み。


 ウィッグの感触。


 胸元や腰回りを大きく作っていないぶん、身体の動きは自然だった。けれど、歩幅や手の位置には注意が必要だった。女性らしく見せようとしすぎると不自然になる。三枝真澄は、女性らしさを演じる人ではない。研究の場で資料に向き合う人だ。


 アヤメは、少し離れて歩いている。


 月沢葵。


 短い髪。


 落ち着いたジャケット。


 彼女は、以前のように周囲の視線を集めていない。むしろ、視線を避けている。だが、弱々しくはない。必要なときだけ目を上げる。そのたびに、月城アヤメの鋭さが少しだけ覗く。


 ナナセの声が通信で聞こえた。


「二人とも、今のところ問題なし」


「尾行は?」


 玲央が小声で聞く。


「映像で確認できる範囲では不明。ただ、御影側が駅に人を置いている可能性は高い。自然に」


「了解」


 アヤメが横に並ばず、少し前を歩く。


 その距離感も設定通りだった。


 三枝真澄と月沢葵は、完全な同行者ではない。北園家資料館で同じ資料を見るため、同じ列車に乗る。だが、私的に親しいわけではない。だから、駅でもべったり並ばない。


 新幹線改札を通る。


 ホームへ向かう。


 玲央は、ホームのガラスに映る自分を見た。


 三枝真澄。


 白河レイカより地味で、佐伯真理より芯があり、神崎遥より女性として社会に見られる人物。


 女性変装は、単に隠れるためのものではなくなっていた。


 玲央は、自分が少し変わっていることを感じた。


 以前なら、鏡やガラスに映った姿を見て「黒瀬玲央が消えているか」を確認した。今は、「三枝真澄として無理がないか」を見ている。


 消えるためではない。


 その人として立つために。


 列車が入ってきた。


 乗り込む直前、アヤメが小さく言った。


「見られてる」


 玲央は反応しない。


 三枝真澄は、駅で急に周囲を警戒しない。


「どこ」


「後方、柱のそば。灰色のコートの女」


 女。


 玲央は、ゆっくりとホームの案内板を見るふりをして反射を確認した。


 灰色のコートの女性がいる。


 年齢は三十代後半ほど。短い髪。旅行客に見える。だが、荷物が軽すぎる。視線がこちらへ直接向いていないのに、身体の向きが微妙に合っている。


 御影側か。


 それとも咲良の人間か。


 玲央は判断しない。


 ナナセに伝える。


「灰色のコートの女性。尾行の可能性」


「把握。車両を変えないで。相手が乗るか確認」


 玲央とアヤメは、予定通り乗車した。


 指定席。


 玲央は窓側。


 アヤメは通路を挟んだ斜め前。


 完全に隣ではない。


 数分後、灰色のコートの女性も同じ車両に乗った。


 少し離れた席。


 偶然と言えなくはない。


 だが、偶然として扱うには近すぎる。


 玲央は、窓の外を見た。


 列車が動き出す。


 東京の景色が流れていく。


 青の涙の移送は今夜。


 咲良が動く。


 玲央たちは北園家へ向かう。


 そして、御影側らしき女も同じ列車にいる。


 女に変装した玲央が、女の尾行者に見られている。


 どちらが仮面なのか。


 どちらが素顔なのか。


 境目は、また曖昧になっていく。


     *


 車内で、玲央は資料を読んでいるふりをした。


 実際に読んでもいた。


 北園家資料館についての公開情報。明治期の渡欧記録。沢家文書。日本人女性サワ、欧州名エリザの可能性。資料は少ない。だが、点は増えている。


 アヤメは、膝の上で手帳を開いている。


 月沢葵として、父の帳簿の写しを確認している。


 灰色のコートの女は、離れた席で文庫本を開いていた。


 ページをめくる速度が遅すぎる。


 読んでいない。


 玲央は、彼女を見ない。


 視線で尾行者を確認するのは危険だ。


 代わりに、窓の反射を使う。


 灰色のコートの女は、時折、席を立つ乗客に視線を向ける。警戒対象は玲央だけではなく、アヤメも含まれているようだった。


 ナナセが通信で言う。


「次の停車駅で相手が降りるか確認。降りなければ北園家までついてくる可能性が高い」


「もし御影側なら?」


「資料館で動くかもしれない。相手が女性なのは意味がある。玲央の女性変装を崩すために、女性を当ててきた可能性がある」


 玲央は、手元の資料をめくった。


 女性を当てる。


 白河レイカのとき、咲良に髪を見られた。アヤメにはウィッグを触られた。御影側は、男性の力で剥がしに来るだけではなく、女性の自然な距離感を使うことも学んだのかもしれない。


 女性同士なら、髪や服装の乱れに触れる口実が作りやすい。


 玲央は、三枝真澄としてその可能性を受け止める。


 髪を触られたら?


 押さえ込まない。


 少し嫌がる。


 自分で直す。


 メイクを指摘されたら?


 移動疲れとして流す。


 服の線を見られたら?


 体型補正は最小限だから崩れない。


 ナナセの設計を信じるしかない。


 やがて列車は次の駅に着いた。


 灰色のコートの女は降りなかった。


 玲央は窓の外を見続けた。


 アヤメが、通路を挟んで小さくメモを見せた。


 “確定?”


 玲央は、ペンで資料の端に短く書いた。


 “七割。”


 アヤメは小さく頷いた。


 列車は再び走り出す。


     *


 一方、東京では咲良が動いていた。


 御影財団小展示室の周辺には、すでに警察車両が配置されている。表向きには、美術品移送時の安全確認。実際には、御影が《青衣の女》に不自然な処理を加えるのを防ぐためだった。


 森塚が資料を手に言った。


「御影側は、移送予定を少し早める可能性があります」


「何時」


「二十時台に前倒しする動きがあります」


 咲良は眉を寄せた。


「玲央から連絡があったことを読まれたか」


「盗聴ですか?」


「分からない。ただ、御影は常にこちらより半歩先にいるつもりで動いたほうがいい」


 咲良は小展示室の白い壁を見た。


 あの中に、《青衣の女》がある。


 青の涙がある。


 黒瀬暁人が守ろうとしたもの。


 沢絵里が公開しようとしたもの。


 御影が隠そうとしているもの。


 咲良にとって、それは証拠だった。


 だが、単なる物証ではない。


 人が消えた理由に関わるものだった。


「黒瀬たちは北園家へ向かったと思います」


 森塚が言った。


 咲良は頷いた。


「御影も追わせるでしょう」


「止めますか」


「今からでは難しい。こちらは青の涙を守る」


「怪盗を信じるんですか」


「信じない」


 咲良は即答した。


「ただ、彼らが北園家で何かを見つける可能性はある。なら、こちらはこちらで動く」


「協力ですか」


「限定的な情報交換」


 森塚は苦笑した。


「向こうも同じことを言いそうですね」


「でしょうね」


 咲良は、移送車両の予定表を確認した。


 御影が動く。


 黒瀬が動く。


 アヤメが動く。


 ナナセが支える。


 そして、自分は青の涙を守る。


 誰も完全には信用できない。


 だが、御影を止めるために、それぞれの場所で動くしかなかった。


     *


 北園家資料館の最寄り駅に着くころには、空が薄く曇っていた。


 東京より空気が冷たい。


 駅前は静かで、観光客も少ない。古い商店街を抜けると、山の斜面が見えた。北園家資料館は、その少し上にあるという。


 三枝真澄として、玲央は駅のベンチで地図を確認した。


 月沢葵として、アヤメは少し離れてタクシー乗り場を見ている。


 灰色のコートの女も、同じ駅で降りた。


 確定だった。


 ナナセの声が言う。


「相手はついてきてる」


「資料館で接触してくるか」


「可能性が高い。周囲に人気が少ないから、駅や道中で動かれるほうが危ない。資料館内まで連れていったほうがいい」


「了解」


 玲央は、タクシーではなく路線バスを選んだ。


 理由は単純だった。人目がある。移動経路が共有される。尾行者も乗らざるを得ない。


 バスの中で、玲央は窓の外を見た。


 山が近づく。


 古い家並みが見える。


 アヤメは、前方の席で黙っている。


 彼女は月沢葵として来ているが、その内側には、月沢の娘としての緊張がある。父の帳簿が示した北園家。沢絵里と黒瀬暁人の足跡。そこに何があるのかは、誰にも分からない。


 灰色のコートの女は、バスの後方に座っている。


 やはり文庫本を開いている。


 読んでいない。


 資料館前で降りると、風が冷たかった。


 北園家資料館は、古い屋敷の一部を改装した建物だった。白い蔵と木造の母屋。庭には手入れされた松があり、門の横に小さな看板が出ている。


 北園家資料館。


 予約制。


 玲央は門の前で一度立ち止まった。


 三枝真澄として、ここへ来た。


 だが、奥にあるかもしれないのは黒瀬暁人の痕跡だ。


 父がここへ来たのかもしれない。


 沢絵里がここへ逃げたのかもしれない。


 玲央は、息を整えた。


 門をくぐる。


 受付には、年配の女性職員がいた。


 玲央は丁寧に名乗る。


「予約しておりました、三枝真澄です。近代の日欧交流資料について閲覧をお願いしております」


 アヤメも続いた。


「月沢葵です。月沢古美術の関係資料について、確認させていただければと」


 職員は、月沢の名を聞いた瞬間、わずかに表情を変えた。


 それは驚きだった。


 あるいは、警戒だった。


「月沢古美術の……」


 アヤメは、静かに頷いた。


「月沢英司の娘です」


 その言葉を言った瞬間、アヤメの声がわずかに震えた。


 しかし、彼女は言い直さなかった。


 月沢英司の娘。


 自分から、そう名乗った。


 玲央は、横でそれを聞いていた。


 職員は少しの間、アヤメを見つめた。


 やがて、奥へ声をかけた。


「館長を呼んでまいります」


 玲央とアヤメは、待合室へ通された。


 古い木の椅子。


 壁に掛けられた北園家の家系図。


 展示ケースには、明治期の渡航文書や海外から持ち込まれた器物が並んでいる。


 灰色のコートの女も、少し遅れて資料館へ入ってきた。


 彼女は観光客のように受付でパンフレットを受け取り、展示ケースの前に立った。


 だが、こちらを見ている。


 アヤメが低く言った。


「動くなら、館長が来てからね」


「相手が?」


「ええ。月沢の名前に反応があった。何かを聞かれる前に、邪魔したいはず」


 玲央は、三枝真澄として資料を眺めるふりをした。


 数分後、奥から一人の老人が現れた。


 七十代ほどの男性。背は高くないが、姿勢がよい。白髪をきちんと整え、古い紺の羽織を着ている。


「北園家資料館の館長、北園惣一です」


 老人はそう名乗った。


 そして、アヤメを見た。


「月沢英司さんのお嬢さんですか」


 アヤメは頷いた。


「はい。月沢葵です」


 北園は、長い息を吐いた。


「よく来られました」


 その言葉に、アヤメは何も返せなかった。


 北園は、次に玲央を見た。


「三枝先生。日欧交流資料の閲覧希望とのことでしたね」


「はい。《青衣の女》と呼ばれる肖像画について調べています」


 北園の目が変わった。


 静かな老人の目から、警戒がにじむ。


「その名を、どこで」


 玲央は答える前に、一拍置いた。


「黒瀬暁人氏の調査に関わる資料からです」


 北園の顔に、さらに深い影が差した。


「黒瀬さんの関係者ですか」


 玲央は、三枝真澄として答えようとした。


 だが、声が出る前に、灰色のコートの女が近づいてきた。


「すみません」


 柔らかい声だった。


「こちらの展示について、少し伺ってもよろしいでしょうか」


 職員に向けた言葉のようで、実際には会話を切るための声。


 玲央は、彼女を見た。


 灰色のコートの女は、近くで見ると穏やかな顔をしていた。年齢は三十代後半。化粧は薄く、髪は自然。だが、目が笑っていない。


 御影側だ。


 北園は、来館者として対応しようとした。


 その瞬間、女の手がアヤメの肩に軽く触れた。


「月沢さん、でしたか」


 アヤメの身体が固まる。


 女は笑う。


「懐かしいお名前ですね」


 その指が、アヤメの襟元へ滑りそうになった。


 服を乱すためではない。


 反応を見るためだ。


 月沢葵が、どこまで本物か。


 月城アヤメの仮面がどこにあるか。


 アヤメの目が鋭くなる。


 だが、手は出さない。


 ナナセの声が通信で響く。


「触られても崩れない。葵として対応」


 アヤメは、静かに一歩下がった。


「初対面の方に、家の名を懐かしがられる覚えはありません」


 声は低かった。


 月沢葵の声だった。


 女は、少しだけ目を細めた。


「失礼しました。古いお店を存じていたものですから」


「でしたら、父の名もご存じでしょう」


「ええ。月沢英司さん」


 女は微笑んだ。


「お気の毒でしたね。あのような形で信用を失われて」


 アヤメの指が動いた。


 怒りが出かける。


 玲央は、三枝真澄として間に入った。


「すみません。資料閲覧の予約中ですので、個人的なお話は後にしていただけますか」


 女は玲央を見た。


「あなたは?」


「三枝真澄です。研究者です」


「女性の研究者さん」


 その言い方に、わずかな棘があった。


 女の視線が、玲央の髪、眼鏡、首元、肩へ流れる。


 玲央は受け止めた。


 三枝真澄は、そういう視線に慣れている。


 女として見られ、研究者として軽く見られ、年齢や服装で測られる。だから、動揺しすぎない。少しだけ不快さを見せ、でも言葉は丁寧に返す。


「研究内容に性別は関係ありません」


 玲央は言った。


 女は、笑みを深めた。


「失礼。とても落ち着いた方なので」


 彼女の手が、玲央の髪へ伸びかけた。


 髪に糸くずでもついている、と言うつもりだったのだろう。


 玲央は半歩下がった。


「触らないでください」


 声は強すぎなかった。


 しかし、明確だった。


 三枝真澄としての拒絶。


 女は手を止めた。


 その目に、わずかな苛立ちが走る。


 御影側は、玲央の女性変装を崩すため、女性の自然な接触を使おうとした。


 だが、ナナセの設計はそこを読んでいた。


 三枝真澄は、見知らぬ相手に髪を触らせない女性だった。


 不自然ではない。


 むしろ自然な拒絶だった。


 北園館長が、そこで低い声を出した。


「申し訳ありませんが、予約閲覧の時間です。一般展示をご覧の方は、こちらの職員がご案内いたします」


 女は、まだ笑っていた。


「分かりました」


 だが、その声には冷たさが混じっていた。


 彼女は一歩下がった。


 北園は、玲央とアヤメを奥の閲覧室へ案内した。


 扉が閉まる直前、玲央は灰色のコートの女を見た。


 女は、笑っていなかった。


     *


 閲覧室は、古い木の机と書棚のある静かな部屋だった。


 窓の外には庭が見える。資料保存のため、室内の光は柔らかく抑えられている。壁には、北園家の古い写真が飾られていた。


 北園館長は、扉を閉めると、二人に座るよう促した。


「先ほどの女性は、あなた方のお知り合いではありませんね」


 玲央は答えた。


「ありません」


 アヤメも頷く。


「御影財団の関係者かもしれません」


 北園は、驚かなかった。


 むしろ、予想していたようだった。


「やはり」


「やはり?」


 玲央が聞くと、北園は棚の前に立った。


「五年前も、似たようなことがありました。沢絵里さんと黒瀬暁人さんがここを訪ねたあと、御影財団の関係者が来ました」


 玲央の身体が硬くなる。


「父が、ここへ来たんですね」


 北園は、玲央を見た。


「あなたは、黒瀬さんの」


 玲央は、三枝真澄の仮面を少しだけ外した。


「息子です。黒瀬玲央です」


 アヤメは隣で息を呑んだ。


 ナナセも通信の向こうで黙った。


 玲央は、自分の名前で名乗った。


 北園は、しばらく玲央を見つめた。


 そして、静かに頭を下げた。


「そうでしたか。お父上には、資料を守っていただきました」


 資料を守った。


 玲央は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「父は、ここで何を見たんですか」


 北園は、古い書棚の鍵を開けた。


「沢家文書。そして、サワという女性の記録です」


 アヤメが言った。


「《青衣の女》のモデルですか」


「おそらく」


 北園は、厚い封筒を取り出した。


「サワは、明治期に北園家の支援で欧州へ渡った女性です。表向きは通訳兼家政補助。実際には、ある画家のもとでモデルを務めていたとされています。欧州ではエリザと呼ばれていた」


「なぜ隠されたんですか」


 玲央が聞く。


 北園は、封筒を机に置いた。


「彼女が持ち帰ったものが、問題だったからです」


「持ち帰ったもの?」


「硝子の女神」


 その言葉が、部屋に落ちた。


 硝子の女神。


 四つの鍵の先にあるもの。


 御影が隠す罪の器。


 玲央は、息を止めた。


「硝子の女神は、サワが日本へ持ち帰った?」


 北園は頷いた。


「記録では、そう読めます。ただし、女神像そのものは戦後に所在不明となった。御影財団が探していたのは、その女神像です」


 アヤメが言う。


「でも、御影はすでに硝子の女神を持っているのでは?」


「持っているか、場所を知っているか。そこまでは分かりません。ただ、黒瀬さんと沢さんは、四つの鍵を揃えれば女神像に隠された記録が開くと考えていました」


 玲央は、父の手帳を思い出した。


 白い星。


 緋の冠。


 青の涙。


 黒の翼。


 四つを揃えれば、硝子の女神が開く。


 北園は、封筒の中から一枚の古い写真を出した。


 白黒写真。


 そこには、一人の女性が写っていた。


 和装ではない。欧州風のドレスを着ている。だが、顔立ちは日本人に見える。目は写真では色が分からない。けれど、その表情は、昨日見た肖像画と似ていた。


 サワ。


 泣かない女。


 泣かされている女。


 玲央は、写真を見つめた。


「なぜ、泣かされていると父は書いたんだろう」


 北園は、少し苦しそうな顔をした。


「サワは、自分の意志で肖像画を描かせたわけではないという記録があります」


 アヤメの目が細くなる。


「どういうことですか」


「彼女は、欧州である画家と、その周辺の蒐集家に利用された。美しい異国の女性として扱われ、作品や噂の中で別人のように作り替えられた。青い目も、本来の彼女のものではない」


 玲央は、肖像画の青い目を思い出した。


 サワは日本人女性だった。


 だが、肖像画の目は青く描かれていた。


 泣いていない。


 泣かされている。


 彼女の目ではない青を、後から与えられた。


 誰かの欲望で、別人にされた。


 玲央は、自分の喉が詰まるのを感じた。


 変装とは違う。


 自分で選んだ仮面ではない。


 他人に被せられた仮面。


 それが、青の涙なのか。


 北園は続けた。


「沢絵里さんは、サワの子孫にあたる方でした。彼女は、サワの名と本当の来歴を回復しようとしていた」


「だから御影は隠した」


 アヤメが言う。


「はい。御影財団は《青衣の女》を欧州由来の希少作品として扱いたかった。サワの名が出れば、作品の意味が変わる。そして、硝子の女神の来歴にも触れざるを得なくなる」


 玲央は、写真から目を離せなかった。


 サワ。


 沢絵里。


 黒瀬暁人。


 月沢英司。


 皆、名前を消されかけていた。


 御影は、美術品だけでなく、人の名前を消していた。


 そのとき、閲覧室の外で物音がした。


 北園が顔を上げる。


 アヤメが立ち上がった。


 玲央も、三枝真澄の姿のまま扉を見る。


 ナナセの声が通信で叫ぶ。


「外の女性、移動した。閲覧室の近くにいる」


 灰色のコートの女。


 御影側。


 扉の向こうで、職員の声がした。


「困ります、こちらは予約閲覧中で」


 女の声が返る。


「少し確認したいだけです」


 北園は、資料を封筒に戻そうとした。


 だが、玲央は言った。


「館長。この資料は、御影に渡してはいけません」


「分かっています」


 アヤメが封筒を見た。


「ここで守れますか」


 北園は、答えに詰まった。


 五年前も、御影の人間が来た。


 そして、沢絵里と黒瀬暁人は消えた。


 今回は、同じことを繰り返してはいけない。


 玲央は、三枝真澄の鞄を開けた。


 資料を盗るためではない。


 保全するために。


 だが、持ち出せば盗みに近づく。


 その境界は危うい。


 ナナセの声が低く響く。


「玲央。持ち出すなら、館長の許可を取って」


 玲央は、北園を見た。


「この資料を、一時的に別の場所へ移す許可をください。御影から守るために」


 北園は、玲央を見た。


 そして、アヤメを見た。


「警察には?」


 玲央は答えた。


「連絡します」


 咲良に。


 限定的な協力。


 ここでも必要になる。


 北園は、封筒を両手で持った。


 長い沈黙のあと、彼は言った。


「黒瀬さんのお子さんと、月沢さんのお嬢さんに託します」


 封筒が、玲央とアヤメの前に置かれた。


 その瞬間、扉が強く叩かれた。


「開けてください」


 灰色のコートの女の声。


 もう、穏やかではなかった。


 アヤメは、封筒を受け取った。


 月沢葵として。


 いや、月沢の娘として。


「守ります」


 彼女は言った。


 玲央は、咲良の番号を呼び出した。


 青の涙を守るのは咲良。


 サワの資料を守るのは玲央たち。


 物語は、二つの場所で同時に動き始めていた。


 北園家資料館の閲覧室の扉が、もう一度叩かれる。


 東京では、《青衣の女》の移送時間が近づいている。


 御影は、どちらにも手を伸ばしている。


 そして玲央は、三枝真澄の姿のまま、黒瀬玲央として電話をつないだ。


「氷見沢さん。北園家で、サワの資料を見つけました」


 電話の向こうで、咲良の声が返る。


「こちらも動きます。資料を守ってください」


 それは命令ではなかった。


 だが、玲央には命令のように聞こえた。


 守る。


 盗むのではなく。


 逃げるのでもなく。


 守る。


 女性研究者の仮面を被った怪盗は、初めてその言葉の重さを理解した。


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