第11話 黒い翼の晩餐会
慈善晩餐会。
その言葉を聞いた瞬間、黒瀬玲央は、自分がまた女になるのだと理解した。
御影宗一郎は、こちらの動きを読んでいる。
白い星。
緋の冠。
青の涙。
三つ目の鍵までは、もう見えている。
そして次は、黒の翼。
最後の鍵。
硝子の女神へ至るために必要な、最後の扉。
御影がそれを「慈善晩餐会」という舞台に置いたのは、偶然ではない。華やかな場所。人の視線が交差する場所。衣装と肩書きと会話が、本人そのものよりも強い意味を持つ場所。
そこでは、誰も素顔だけで立っていない。
実業家は善意の支援者を演じ、財団職員は文化の守り手を演じ、寄付者は理解ある鑑賞者を演じる。偽善も虚栄も、照明と花と銀食器の中で美しく整えられる。
怪盗が女を演じることなど、その中では少しも異常ではない。
むしろ、御影はそれを待っている。
怪盗レオナが、もう一度美しい女として現れることを。
作業部屋のホワイトボードには、ナナセの字で大きく書かれていた。
御影財団慈善晩餐会。
黒の翼。
会場:ホテル・アステリア東京。
招待客:財団支援者、企業関係者、美術関係者、配信関係者、報道関係者。
玲央は、椅子に座ったままその文字を見ていた。
向かいではアヤメが、腕を組んで立っている。長い黒髪のウィッグは、まだ棚の上にある。今の彼女は短い地毛のままで、月沢葵に近い姿だった。だが、目の奥には月城アヤメの鋭さが戻っている。
北園家から戻って以降、彼女は少し変わった。
月沢という名を完全には避けなくなった。
けれど、だからといって柔らかくなったわけではない。
むしろ、刺すべき相手がはっきりした分、静かに鋭くなっていた。
ナナセは、机の上に招待客リストの写しを置いた。
「御影は、明らかに誘ってる」
玲央は言った。
「でしょうね」
ナナセは即答した。
「でも、誘われているから行かない、という選択はない」
「黒の翼があるからか」
「それもある。でも、それ以上に、晩餐会には御影の支援者が集まる。御影財団がどうやって表の顔を作っているかを見る機会でもある」
アヤメが招待客リストを指で押さえた。
「桐生芹奈もいる」
北園家資料館で接触してきた御影財団の外部渉外担当。
灰色のコートの女。
柔らかい声で相手の傷を抉る女。
玲央は、彼女の手が三枝真澄の髪へ伸びた瞬間を思い出した。
女性同士の距離感を使い、変装を自然に崩しに来る。
御影側も、学んでいる。
「氷見沢さんは?」
玲央が尋ねると、ナナセは別の紙を出した。
「表向きの招待客にはいない。ただ、警察は《青衣の女》の保全で御影財団と揉めている。何らかの形で周辺には来ると思う」
「咲良が会場に入れないなら、こちらが外へ情報を出す必要がある」
「そう」
ナナセは頷いた。
「だから、今回は二重に動く」
「二重?」
「一人は会場内部。もう一人は外部、あるいは半内部。さらに、必要なら短時間で別の女性像へ上書きする」
玲央は少し嫌な予感がした。
「また俺が何人にもなるのか」
「必要なだけ」
「その返事、便利に使いすぎだ」
アヤメが笑った。
「今回は華やかな場でしょう。怪盗レオナらしいじゃない」
「その言い方が一番嫌だ」
「なぜ?」
「御影が同じことを考えてるからだ」
アヤメの笑みが薄くなる。
その通りだった。
御影は、怪盗レオナを美しい女として舞台に上げたい。そこを剥がし、崩し、黒瀬玲央の名を晒すことを狙っているかもしれない。あるいは、晩餐会の客たちの前でレオナに黒の翼を盗ませ、犯罪者として切り捨てるつもりかもしれない。
だから、御影の想定通りに美しい女として現れるのは危険だった。
だが、現れなければ黒の翼には近づけない。
ナナセは、ホワイトボードに三つの名前を書いた。
一、早乙女ミレイ。
二、七瀬リコ。
三、三枝真澄。
玲央は眉を寄せる。
「三枝真澄は分かる。北園家で使った女性研究者だ。ほかの二人は?」
「早乙女ミレイは、慈善晩餐会の招待客。表向きは若手美容系企業の広報顧問。華やかな社交家。大人っぽく、視線を集める女性」
ナナセは、次に「七瀬リコ」を指した。
「七瀬リコは、配信者兼イベントリポーター。少し派手で、ギャル寄り。会場の外やロビーで動きやすい。スタッフや若い来場者に紛れやすい」
「地雷系は?」
アヤメが横から聞いた。
ナナセは、少し考えてから別の余白に書いた。
四、黒宮ゆゆ。
「黒宮ゆゆ。地雷系寄りの配信者風。今回は本格投入しないかもしれないけど、御影財団の若者向けチャリティ企画に入り込むなら使える。黒と白、リボン、小さめのバッグ。感情表現は大きいけど、計算している人物」
玲央は、四つの名前を見た。
早乙女ミレイ。
七瀬リコ。
三枝真澄。
黒宮ゆゆ。
全員女性。
だが、まったく違う。
白河レイカのような古典的な美しさではない。
佐伯真理のような事務的な地味さでもない。
女性という枠の中にも、立場、年齢、階層、言葉遣い、視線の受け方がある。
そこを間違えれば、ただの仮装になる。
ナナセは、玲央の顔を見て言った。
「今回、玲央は二段階で動く」
「二段階?」
「最初は早乙女ミレイとして会場に入る。御影が期待している“華やかな女怪盗”に近い像を、あえて見せる」
「危険すぎる」
玲央が言うと、ナナセは頷いた。
「危険。でも、御影の視線をそこに集める必要がある。御影は、早乙女ミレイを怪盗レオナかもしれないと見る。桐生も近づいてくる。そこで、こちらは観察する」
「つまり、囮か」
「囮。ただし、ただの囮じゃない。崩されても壊れないように作る」
アヤメが言った。
「じゃあ、七瀬リコは?」
「途中で印象をずらすための上書き。晩餐会の会場内で早乙女ミレイが注目されすぎたら、ロビーや控室で七瀬リコに変える。華やかな社交家から、少し軽いイベント関係者へ。髪型と上着、小物、声を変える」
玲央は、少し頭を抱えたくなった。
「会場内で女性から女性へ変わるのか」
「そう。男へ戻るより自然な場合がある」
ナナセは、淡々と続けた。
「御影側は、“女装を剥がせば男が出る”と考えるかもしれない。だから、剥がした先にまた別の女性像がある構造にする」
アヤメが、感心したように息を吐いた。
「入れ子の仮面ね」
「そう」
「あなた、本当に怪盗の設計に向いている」
「嬉しくない」
ナナセは即答した。
玲央は、ホワイトボードを見た。
女性変装を増やす。
それは単に衣装を増やすことではない。
御影の見方をずらすこと。
咲良の観察を受けても破綻しないこと。
自分自身が仮面に飲まれないこと。
以前の玲央なら、華やかな早乙女ミレイだけを作り込み、完璧な女として会場に立つことを考えただろう。だが今は違う。完璧な一人では足りない。崩されたときに別の人物へ移れる余白が必要だ。
ナナセは、最後にアヤメを見た。
「あなたは?」
「私?」
「月沢葵で入る?」
アヤメは少し考えた。
「月沢の名は、今回は使わないほうがいい。御影が待ってる」
「同感」
「なら、私は月城アヤメに戻る」
玲央が顔を上げた。
「赤いドレスの女怪盗に?」
「いいえ」
アヤメは静かに笑った。
「月城アヤメではなく、月城アヤメという名を知っている別人になる。御影が“月城アヤメ”を探すなら、その期待を少しずらす」
ナナセは、ホワイトボードに新しい名前を書いた。
月城亜紀。
「落ち着いた財団支援者の代理人。黒いスーツ。短い髪を活かす。月城アヤメの華やかさは抑える」
「私も地味になるのね」
「地味じゃない。抑える」
「同じようで違う?」
「違う」
アヤメは肩をすくめた。
「分かったわ。月城亜紀。いい名前ね」
玲央は、机に置かれた招待状の偽装案を見た。
御影が用意した舞台に入る。
だが、御影の想定した役では動かない。
慈善晩餐会まで、あと二日。
*
準備は、これまでで最も複雑だった。
早乙女ミレイは、華やかな女性だった。
ただし、派手さだけではない。美容系企業の広報顧問という肩書きは、晩餐会で自然に人と話すためのものだった。支援者にも、企業関係者にも、若い招待客にも近づける。美術そのものに詳しすぎる必要はないが、財団の社会貢献事業には関心がある。
ナナセは、玲央に濃紺のドレスを合わせた。
胸元や体型を過度に強調するものではなく、肩と首の線をきれいに見せるデザインだった。動きやすさを残し、座ったときにも崩れにくい。ウィッグは長めの暗い茶色で、ゆるくまとめられるようにしてある。髪を触られても全体が外れないよう、いくつかの固定点に分けていた。
体型補正は、必要最低限。
玲央は鏡の前で首を動かした。
「白河レイカより軽いな」
「軽くした」
「華やかな女なのに?」
「華やかさを胸や腰だけで作る必要はない。姿勢、布、視線、話し方で作る」
ナナセは背後から襟元を整えた。
「御影は、あなたの変装を身体的に崩そうとするかもしれない。だから、崩される部分を少なくする」
「ミレイは、何を守ってる人物だ」
ナナセの手が少し止まった。
最近、玲央は必ずそれを聞くようになった。
その女性が、何を守っているのか。
以前なら、玲央は「どう見えるか」だけを気にした。
今は、「どう生きているか」を聞く。
ナナセは、少し考えてから答えた。
「早乙女ミレイは、軽く見られないために華やかでいる人」
「華やかさが鎧か」
「そう。女性だから、若いから、美容関係だから、と軽く扱われるのを知っている。だから、最初から相手の視線を受け止めて、会話の主導権を握る。派手に見えて、実際はかなり計算している」
アヤメが横から言った。
「あなたに向いてるじゃない」
「俺に?」
「ええ。計算しているのに、感情が漏れるところも含めて」
「褒めてないだろ」
「半分は褒めてる」
玲央は鏡を見る。
早乙女ミレイ。
そこにいるのは、美しい女というより、会場で視線を受けることに慣れた女だった。
以前の怪盗レオナなら、視線を浴びることで自分を消した。
ミレイは違う。
視線を浴びて、その視線を利用する。
「次、七瀬リコ」
ナナセが言った。
ミレイのドレスの上から、印象を変えるためのアイテムが並べられる。明るい短めのジャケット。大きめのアクセサリー。髪を下ろして、サイドを軽く留めるためのピン。小さなショルダーバッグ。リップの色を少し変えるだけで、顔の印象も軽くなる。
「ギャル系といっても、今回は大人のイベント関係者。騒がしくしすぎない。話し方は少し早く、相槌が軽い。人懐っこいけど、核心には触れさせない」
玲央は、ミレイからリコへ声を変える練習をした。
「本日はお招きいただきありがとうございます」
早乙女ミレイ。
落ち着いた声。
次に。
「え、すごいですね。これ、配信で見たら絶対映えますよ」
七瀬リコ。
明るく、少し軽い声。
アヤメが吹き出しかけた。
玲央は睨む。
「笑うな」
「ごめんなさい。思ったより似合う」
「それも嫌だ」
ナナセは真面目に頷いた。
「悪くない。ただ、リコはやりすぎると不自然。ギャル系の要素は、服とテンポに留める。語彙を雑にしすぎない」
「設定が細かい」
「雑にするとただの記号になる」
その言葉は、玲央に刺さった。
女性変装を増やすということは、女性を記号として使うことではない。
華やかな女性。
ギャル系の女性。
地雷系の女性。
研究者の女性。
それぞれを、ただ外見の型として扱えば、薄い仮面になる。
御影や咲良には見抜かれる。
それ以前に、その人物に失礼だ。
玲央は、少し真剣に頷いた。
「分かった」
ナナセは、少しだけ目を細めた。
「今のは、本当に分かってる顔」
「珍しく認めたな」
「珍しいから」
次に、黒宮ゆゆの試作が行われた。
今回は本格投入しない可能性が高い。だが、今後のために作り始める。
黒と白を基調にした服。リボン。小さなバッグ。目元を少し強く作るメイク。声は高すぎず、感情の起伏を大きめに見せる。ただし、内側では冷静に周囲を観察する。
「地雷系配信者風」
アヤメが鏡の中の玲央を見て言った。
「似合うわね」
「お前は何を見ても似合うと言うな」
「面白いから」
「最悪だ」
ナナセは、黒宮ゆゆのメイクを途中で止めた。
「今回はここまで。これは強いけど、扱いが難しい」
「なぜ」
「感情表現を大きくする役は、玲央自身の怒りと混ざりやすい。御影に父の名前を出されたとき、役の感情なのか本人の感情なのか分からなくなる」
玲央は、鏡の中の黒宮ゆゆを見た。
確かに、危ない。
この役は、壊れやすさを武器にする人物だった。
玲央がまだ扱うには、危険かもしれない。
「いずれ使う」
ナナセは言った。
「でも、晩餐会では主役にしない」
「主役はミレイか」
「そう」
アヤメが、自分の衣装を確認していた。
月城亜紀。
黒いスーツ。短い髪。控えめなアクセサリー。女性の代理人として、目立ちすぎず、しかし格下に見られない立ち方。月城アヤメの華やかな挑発を抑えた分、言葉の鋭さが残る。
ナナセは、アヤメにも言った。
「あなたは、人を見るとすぐ支配しようとする」
「嫌な言い方」
「事実」
「否定はしないけど」
「月城亜紀は支配しない。相手に話させる。笑わなくていい。むしろ笑わないほうがいい」
「私から笑顔を取るの?」
「武器を減らす」
アヤメは鏡を見た。
「不安ね」
「だから役になる」
ナナセの言葉に、アヤメは黙った。
それぞれの女性像が、作業部屋に生まれていく。
早乙女ミレイ。
七瀬リコ。
黒宮ゆゆ。
三枝真澄。
月沢葵。
月城亜紀。
名前が増えるたびに、玲央はただ自分を隠すのではなく、自分がどの部分を使ってその人物になるのかを考えるようになった。
それは、以前より疲れる。
だが、以前より嘘が少ないような気もした。
*
晩餐会当日。
ホテル・アステリア東京の大広間は、柔らかな金色の光に包まれていた。
天井には大きなシャンデリア。壁には花。丸テーブルには白いクロスと銀の食器。ステージには御影財団のロゴが映し出され、その横に「文化財保護チャリティ・ガラ」と書かれている。
招待客は、誰もが丁寧な服をまとっていた。
企業関係者、財団支援者、美術関係者、メディア関係者。会場には、上品な笑い声とグラスの音が満ちている。表面だけなら、完璧な慈善の場だった。
早乙女ミレイは、その中を歩いていた。
玲央は、自分が見られていることを感じていた。
だが、今回はそれを怖がらない。
ミレイは見られる女性だ。
見られたうえで、相手より先に微笑む。
視線を受け止め、必要な分だけ返す。
会場の男たちの視線、女性たちの評価、財団職員の警戒、桐生芹奈の探るような目。すべてが、ミレイの上を滑っていく。
玲央は、その視線の中で消えなかった。
消えずに立っていた。
「早乙女様ですね」
財団職員が近づいてくる。
「はい。本日はお招きいただきありがとうございます」
ミレイの声で答える。
落ち着いている。
高すぎない。
柔らかいが、軽くはない。
「御影理事長も、後ほどご挨拶したいと」
「光栄です」
嘘だった。
御影に会うために来たが、光栄ではない。
それでも、ミレイは微笑む。
少し離れた場所には、月城亜紀としてのアヤメがいた。
黒いスーツ姿で、招待客の会話を聞いている。以前の赤いドレスのアヤメなら、入った瞬間に人の視線を奪っただろう。今の亜紀は違う。壁際に立ち、必要な相手にだけ言葉をかける。目立たないが、軽く扱われない。
ナナセは外部待機。
会場近くの別室で、通信と着替え用の予備を管理している。
「玲央、右奥」
ナナセの声が耳に入る。
「見えてる」
右奥の展示台に、小さな黒いブローチが置かれていた。
翼の形をしている。
黒い羽根を広げたような意匠。
宝石ではなく、金属と黒い石を組み合わせた小品に見える。
黒の翼。
最後の鍵。
ただし、展示台の周囲には警備員がいる。監視カメラもある。何より、御影がこの場で玲央にそれを見せている時点で、簡単に近づけるはずがない。
盗るための品ではなく、選ばせるための品だ。
玲央はそう感じた。
白い星は奪い合いだった。
緋の冠は保管庫から欠片を取った。
青の涙は、盗らずに守った。
では、黒の翼は何を求めているのか。
そのとき、会場の照明が少し落ちた。
ステージに御影宗一郎が上がる。
拍手が起きる。
御影は穏やかに微笑み、文化財保護の重要性を語り始めた。
「私たちは、美を未来へつながなければなりません」
玲央は、その言葉を聞きながら、拳を握りそうになった。
美を未来へ。
名前を消してきた男が言う言葉ではない。
サワの名を消し、沢絵里を追い詰め、黒瀬暁人を消し、月沢古美術を潰した男が。
ナナセの声が低く入る。
「ミレイ。拳」
玲央は指を緩めた。
ミレイは怒りを露骨に出さない。
華やかな鎧の下で、怒りを温度として保つ。
御影の挨拶が終わる。
拍手。
御影はステージを降り、招待客と談笑しながら玲央の方へ近づいてきた。
来る。
玲央は、早乙女ミレイとして微笑んだ。
「早乙女さん」
御影が声をかける。
「御影理事長。本日は素晴らしい会にお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。お若い方にも、文化財保護へ関心を持っていただけるのは嬉しいことです」
「美しいものを未来へ残すという理念に、共感いたしました」
「美しいものは、時に人を惑わせます」
御影の目が、玲央の顔を見ていた。
「あなたも、そう思いませんか」
玲央は微笑む。
「美しさそのものより、それを所有したがる人間のほうが人を惑わせるのでは?」
御影の笑みが、少し深くなる。
「面白いことをおっしゃる」
「仕事柄、人が何にお金を出すのかを見る機会が多いので」
「美容関係でしたね」
「はい」
「人は、なりたい自分になるために、いくらでも投資する」
「なりたい自分になれるなら、悪いことではありません」
「では、なりたい自分が偽物だったら?」
御影の声は穏やかだった。
だが、確実に玲央へ向けられていた。
玲央は、ミレイのまま答える。
「偽物かどうかを決めるのは、他人ではないと思います」
「強い」
「そう見せているだけです」
「見せることは大事です」
御影は、黒の翼の展示台へ視線を向けた。
「今夜の目玉をご覧になりましたか」
「翼のブローチですね」
「黒の翼と呼んでいます」
「素敵な名前です」
「ある人が、そう名づけました」
「ある人?」
御影は、玲央の目を見た。
「黒瀬暁人」
玲央の内側が揺れた。
ミレイの微笑みが、ほんのわずかに固まりかける。
だが、崩れない。
ナナセの声。
「呼吸」
玲央は息を整える。
早乙女ミレイは、黒瀬暁人の名に個人的な反応をしない。
「修復師の方ですね。資料でお名前を拝見したことがあります」
「そうですか」
御影は、玲央の反応を見ていた。
「彼は、この黒の翼を最後まで恐れていました」
「恐れていた?」
「ええ。黒の翼は、人の名を開く鍵です」
玲央の背中に冷たいものが走る。
人の名を開く鍵。
御影は、またこちらに選ばせようとしている。
黒の翼を取れば、硝子の女神が開く。
だが、その鍵は人の名を開く。
何の名を。
黒瀬暁人か。
沢絵里か。
サワか。
それとも、御影自身の罪に連なる名か。
御影は続けた。
「早乙女さん。あなたは、美しいものを身につけるのがお好きでしょう」
「仕事柄、見るのは好きです」
「では、黒の翼を近くでご覧になりますか」
罠だ。
玲央は分かっていた。
だが、断れば不自然でもある。
ミレイは、招待客として展示品を近くで見る。
それは自然だ。
「よろしいのですか」
「もちろん」
御影は玲央を展示台へ案内した。
警備員が一歩下がる。
黒の翼が、近づく。
黒い羽根の形をしたブローチ。
中央に、小さな円の中に三本線の印があった。
白い星。
緋の冠。
青の涙。
そして、黒の翼。
間違いない。
最後の鍵だ。
玲央は、手を伸ばさない。
見るだけ。
ミレイとして、感嘆する。
「細工が細かいですね」
「触れても構いません」
御影が言った。
玲央の内側が凍る。
触れろ。
そう言っている。
この場で。
招待客とカメラと警備員の前で。
怪盗レオナに、最後の鍵へ触れさせる。
盗らせるのか。
あるいは、触れた瞬間に何かが起きるのか。
ナナセの声が鋭くなる。
「触らない」
玲央は、ミレイとして微笑んだ。
「いえ。美しいものは、距離を置いて見るほうが好きなんです」
御影の目が細くなる。
「慎重ですね」
「仕事柄」
「残念です」
その瞬間、桐生芹奈が近づいてきた。
「早乙女様、少し髪が」
まただ。
桐生の手が、ミレイの髪へ伸びる。
今度は会場の中。
周囲の視線がある。
玲央が強く拒絶すれば、場がざわつく。
弱く受け入れれば、ウィッグに触れられる。
桐生は、その中間を狙っている。
玲央は、ミレイのまま、笑顔で一歩下がった。
「ありがとうございます。でも、自分で直しますね」
そう言って、手鏡を取り出し、髪を軽く整える。
拒絶ではなく、上品な自己処理。
桐生の手は空を切った。
御影が見ている。
玲央は、鏡越しに桐生を見た。
その瞬間、会場の別の方向で、明るい声が響いた。
「すみませーん、配信チーム通りまーす」
玲央は反射的に見そうになった。
声の主は、見知らぬ若い女性だった。
派手めのジャケット、明るい髪、イベントスタッフのパス。
七瀬リコ。
いや、違う。
玲央はまだミレイの姿だ。
ならば、あれは誰か。
アヤメだった。
月城亜紀として入ったはずのアヤメが、短時間で七瀬リコ系の派手なイベント関係者へ印象を変えていた。ナナセが彼女にも予備を仕込んでいたのだろう。
アヤメは、明るい声でスタッフに話しかけ、会場の視線を一瞬集めた。
その隙に、玲央は黒の翼の展示台から離れる。
御影は、アヤメを見た。
「なるほど」
彼は小さく呟いた。
玲央だけではない。
アヤメも女性の仮面を上書きしている。
御影の視線が揺れる。
その一瞬、ナナセの声が入った。
「玲央、ロビーへ。ミレイを外す準備」
「了解」
玲央は、早乙女ミレイの微笑みを保ったまま会場を離れた。
背後で、御影がまだ見ている。
黒の翼には触れなかった。
だが、見た。
印も確認した。
御影の言葉も聞いた。
黒の翼は、人の名を開く鍵。
その意味は、まだ分からない。
ロビーへ出ると、玲央は深く息を吐いた。
ミレイの仮面は、まだ崩れていない。
だが、内側は熱を持っていた。
御影は父の名前で揺さぶった。
桐生は髪に触れようとした。
黒の翼は目の前にあった。
それでも、触れなかった。
盗らなかった。
ナナセの待つ控室へ向かう途中、玲央は鏡張りの壁に映る早乙女ミレイを見た。
華やかな女。
視線を受け止める女。
軽く見られないために華やかでいる女。
その奥に、黒瀬玲央がいた。
逃げていない。
まだ、立っている。
*
控室では、ナナセが待っていた。
玲央が入るなり、彼女は手早くドレスの上からジャケットを羽織らせ、髪を下ろし、アクセサリーを替えた。リップの色を変え、眼鏡を外し、代わりに小さな髪留めをつける。
早乙女ミレイが薄れていく。
七瀬リコが立ち上がる。
「声」
ナナセが言う。
玲央は息を整え、軽い調子で言った。
「え、今から戻るんですか? まだ撮れ高ありますよ」
ナナセは頷く。
「使える」
「本当にやるのか」
「やる。御影はミレイを見ている。リコは会場の外側を動く」
「黒の翼は?」
「今は盗らない。次にどう動くかを見る」
玲央は頷いた。
控室の外から、アヤメの声が聞こえた。
「こっちも無事」
入ってきたアヤメは、すでに月城亜紀から派手めのイベントスタッフ風へ変わっていた。完全なギャルではないが、明るい髪飾りと軽いジャケットで印象が大きく変わっている。
玲央は言った。
「お前も変わったな」
「あなたほどじゃないわ」
「似合ってる」
玲央が言うと、アヤメは一瞬だけ目を丸くした。
「今、普通に褒めた?」
「役として」
「はいはい」
ナナセが二人を見た。
「次の動き。リコとイベントスタッフ風のアヤメさんで、ロビー側の配信関係者に紛れる。晩餐会の記録映像に黒の翼がどう映っているか確認する。展示台そのものに近づかない」
「記録映像?」
玲央が聞く。
「御影が黒の翼をわざわざ展示したなら、映像にも残したいはず。映像の角度、カメラの位置、黒の翼をどう見せたいか。それが御影の意図を示すかもしれない」
盗るのではない。
見る。
記録を読む。
玲央は、七瀬リコとして頷いた。
「了解です」
軽い声。
だが、内側は冷静だった。
慈善晩餐会は、まだ終わっていない。
黒の翼は、まだ展示台にある。
御影は、まだこちらを見ている。
そして玲央は、早乙女ミレイから七瀬リコへ姿を変え、もう一度会場の光の中へ戻っていった。
華やかな女としてではなく。
軽やかな女として。
その奥に、黒瀬玲央の意志を隠したまま。




