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第12話 七瀬リコは翼の影を撮る



 七瀬リコは、ホテル・アステリア東京のロビーを歩いていた。


 少し明るい色のジャケット。


 大きめのアクセサリー。


 軽い足取り。


 早乙女ミレイの落ち着いた華やかさは、もう薄れている。ドレスの上から印象を変え、髪を下ろし、声のテンポを変えただけで、周囲の視線は別の意味を持ち始めていた。


 先ほどまでのミレイは、晩餐会の招待客だった。


 今のリコは、イベント関係者に近い。


 配信チーム、広報補助、若手スタッフ、招待客とスタッフの中間にいるような存在。大広間の中心ではなく、ロビーや控室、撮影エリアを動き回っても不自然ではない。人に話しかけても軽く流される。逆に、少し派手で明るいぶん、相手は油断しやすい。


 玲央は、七瀬リコとして笑った。


「すみませーん、ここ通りますね」


 軽く声をかける。


 ホテルスタッフが道を空ける。


 リコは、少し会釈して通り過ぎる。


 その動きの奥で、玲央は会場全体を見ていた。


 大広間の入口。


 黒の翼の展示台。


 御影宗一郎の位置。


 桐生芹奈の姿。


 月城亜紀から、イベントスタッフ風へ印象をずらしたアヤメの動き。


 そして、カメラ。


 ナナセの声が耳元に入る。


「リコ、右前方の撮影ブース」


「見えてる」


「そこに公式記録用のカメラがある。黒の翼がステージ側から映る角度」


「そこを使う?」


「使う。でも触らない。カメラの位置を少し誘導するだけ」


「了解」


 玲央は、リコの足取りで撮影ブースへ向かった。


 そこには、御影財団の広報スタッフと、外部の映像会社らしきスタッフがいた。チャリティ・ガラの記録映像を撮っている。会場の雰囲気、招待客、スピーチ、展示品。それらを後日、財団の広報動画や支援者向け資料に使うのだろう。


 御影は、自分の善意を映像に残したがる。


 ならば、その映像の中に、隠したものも映る可能性がある。


 ナナセは、そこを見ていた。


 黒の翼は、ただのブローチではない。


 御影が「人の名を開く鍵」と言った以上、何らかの読み取り方がある。白い星、緋の冠、青の涙の欠片と同じ印を持つなら、単純な装飾品ではない。


 だが、触れれば罠に落ちる。


 ならば、触れずに見る。


 光、影、角度、映像。


 修復師が作品の表面を壊さずに内部を読むように、怪盗もまた、盗らずに読み取る方法を探す。


 玲央は、リコとして撮影スタッフに近づいた。


「すみません、広報補助の七瀬です。ここ、黒の翼も背景に入る感じで撮れますか? めっちゃ映えそうで」


 撮影スタッフは、少し面倒そうに振り返った。


「黒の翼ですか?」


「はい。あれ、今日の目玉ですよね。ステージと一緒に入ったら、後でショート動画にも使いやすいと思うんです」


 軽い言葉。


 だが、狙いは明確だった。


 黒の翼そのものではなく、黒の翼の影を撮る。


 ナナセが通信で言う。


「リコ、少し左。照明を背にする角度へ誘導」


 玲央は、ブースの横に立ち、手でフレームを作るふりをした。


「今の角度だと、翼がちょっと小さいかも。こっちからだと、照明で影も入ってかっこいいと思うんですけど」


 スタッフがカメラの画面を覗く。


「ああ、確かに」


「ですよね。黒い翼の影が壁に映るの、テーマっぽくないですか?」


「ちょっと試します」


 カメラが少し動く。


 照明の角度と、黒の翼の位置が画面の中で重なる。


 ステージ脇の白い壁に、黒の翼の影が薄く映った。


 玲央の呼吸が止まりかける。


 ただの羽根の影ではなかった。


 影の内側に、細い線があった。


 羽根の隙間に見えるはずのない、文字のような切れ込み。


 肉眼では分かりにくい。だが、カメラの拡大画面では、影の中に記号が浮かび上がっていた。


 ナナセの声が鋭くなる。


「映った。リコ、画面を見すぎない」


 玲央は、七瀬リコとして明るく言った。


「わ、いい感じですね。これ、少し寄れます?」


「寄ると画質が荒れますよ」


「雰囲気重視で。後で使えたらラッキーくらいで」


 スタッフは、軽く頷いてズームを調整した。


 影が大きくなる。


 文字のようなものが、少しだけ読める。


 SAWA。


 ELIZA。


 E. SAWA。


 A. KUROSE。


 E. TSUKIZAWA。


 KITAZONO。


 玲央は、リコの表情を保った。


 内側で、黒瀬玲央が大きく揺れる。


 父の名がある。


 黒の翼の影の中に。


 A. KUROSE。


 黒瀬暁人。


 月沢英司。


 沢絵里。


 サワ、エリザ。


 北園。


 黒の翼は、名前を開く鍵だった。


 御影が言った通りだ。


 ただし、それは御影が見せたい意味とは違う。


 黒の翼は、隠された人名の索引を影として映す。


 サワの名。


 沢絵里の名。


 黒瀬暁人の名。


 月沢英司の名。


 北園家の名。


 御影が消そうとした名前たち。


 それらが、翼の影として壁に浮かぶ。


 ナナセが低く言った。


「録画されてる?」


「公式カメラが回ってる」


「なら、映像記録に残る」


「御影が消すかもしれない」


「だから、別角度も必要」


 玲央は、リコのまま撮影スタッフに笑いかけた。


「これ、スマホでも撮っていいですか? 広報用の確認で」


 スタッフは少し迷った。


「うーん、公式素材はこっちで管理するので」


「ですよね。じゃあ、広報の桐生さんに確認します」


 桐生の名前を出す。


 玲央は、あえてそうした。


 桐生を呼ぶためではない。


 撮影スタッフに「七瀬リコは広報側の人間らしい」と思わせるためだ。


 スタッフは、面倒を避けるように言った。


「一応、短くなら」


「ありがとうございます」


 玲央は、スマホを取り出すふりをした。


 実際には、ナナセが用意した記録用端末だった。通信で映像をナナセへ送るだけのものだ。特別なことはしない。ただ、見えているものを撮る。


 黒の翼の影。


 名前。


 証拠。


 玲央は、リコとして小さく歓声を上げた。


「わ、これめっちゃ雰囲気ありますね」


 軽い声の裏で、指は震えないようにしていた。


 A. KUROSE。


 父の名を撮っている。


 盗むのではなく。


 壊すのでもなく。


 影として現れた名前を、記録する。


 それは、今の玲央にとって、盗みより重い行為だった。


 そのとき、背後から声がした。


「七瀬さん」


 桐生芹奈だった。


 玲央は、リコの顔で振り返る。


「はい?」


 桐生は、柔らかく微笑んでいた。


 灰色のコートではない。今夜は黒いドレスに近いスーツを着ている。晩餐会にふさわしい落ち着いた装いだが、目は北園家のときと同じだった。


「こちらで何を?」


「広報用の確認です。黒の翼の影、すごく雰囲気があったので」


「あなた、広報スタッフでしたか」


 桐生の声は柔らかい。


 だが、確実に疑っている。


 玲央は、リコとして軽く笑った。


「あ、外部の配信補助です。今日だけ入ってます」


「名簿を確認しますね」


「はい、お願いします」


 焦らない。


 リコは、少し軽いが、怪しいことをしている自覚はない人物だ。


 桐生は、玲央の顔をじっと見た。


 早乙女ミレイと七瀬リコ。


 顔立ちは似ている。


 当然だ。


 中身は同じ玲央なのだから。


 だが、髪、服、小物、声、態度が違う。ミレイを探している目には、リコはずれて見える。完全に隠せるわけではない。だが、一瞬の判断を鈍らせるには十分だった。


 桐生は一歩近づいた。


「先ほど、早乙女様にもお会いしました。あなたと少し雰囲気が似ていますね」


「そうなんですか? きれいな方ですよね、早乙女さん。似てるって言われたら嬉しいです」


 玲央は、軽く返した。


 否定しすぎない。


 否定しすぎると、かえって怪しい。


 似ていると言われたら、単純に喜ぶ。


 リコならそうする。


 桐生は、笑みを崩さない。


「髪を少し直しても?」


 まただ。


 玲央は、内心で冷たく笑った。


 髪。


 ウィッグ。


 変装の入口。


 桐生は、会うたびにそこへ手を伸ばす。


 しかし、七瀬リコは三枝真澄とも早乙女ミレイとも違う。


 リコは、軽くかわす。


「え、やばいですか? 自分で直します。ありがとうございます」


 そう言って、玲央は小さな鏡を取り出し、髪を直す。


 桐生の手はまた届かない。


 しかし、桐生は引かなかった。


「七瀬さん。少し控室へ来ていただけますか。スタッフ確認があります」


 ナナセの声が通信で入る。


「行かない。人目のある場所に残る」


 玲央は、リコとして少し困った顔をした。


「あ、今この撮影確認中で。終わったらでもいいですか?」


「今、お願いします」


「桐生さん、急ぎですか?」


 玲央は、少し声を大きめにした。


 周囲のスタッフがこちらを見る。


 桐生の表情が、わずかに硬くなる。


 人目が増えた。


 リコは、無邪気に人目を味方にする。


 早乙女ミレイなら上品に断る。


 三枝真澄なら境界を示す。


 七瀬リコなら、少し困った顔で周りを巻き込む。


「私、なんかやらかしました?」


 玲央は軽く笑って言った。


 撮影スタッフが気まずそうに口を挟む。


「あの、今ちょうど黒の翼のカットを確認していて」


 桐生は、撮影画面を見た。


 そこに黒の翼の影が映っている。


 文字が、薄く。


 桐生の目が変わった。


 気づいた。


 玲央は、すぐに画面から視線を外した。


 リコは、文字に気づいていない。


 ただ「映え」を見ているだけ。


 桐生は、撮影スタッフへ言った。


「この映像は使わないでください」


「え?」


「照明の具合がよくありません。公式素材としては不適切です」


「でも、雰囲気は」


「使わないでください」


 声は静かだったが、命令だった。


 撮影スタッフが黙る。


 桐生は、玲央へ向き直った。


「七瀬さん。あなたの端末も確認します」


 空気が変わった。


 今度は、桐生も人目を気にしていない。


 玲央は、リコの笑顔を少しだけ引っ込めた。


「それ、どういう意味ですか?」


「財団の展示品を無断撮影された可能性があります」


「撮影スタッフさんに確認して、短くだけ撮りましたけど」


「端末を見せてください」


 ナナセの声が低くなる。


「見せても問題ない。送信済み。端末内には表向きの動画だけ」


 準備済みだった。


 玲央は、少し不満そうなリコとして端末を差し出した。


「分かりました。でも、削除するなら理由をくださいね」


 桐生は端末を受け取り、画面を確認する。


 動画は残っている。


 だが、影の文字はぼやけている。ナナセへ送った映像は、すでに別経路で保存されている。端末に残るのは、ただの雰囲気映像に見えるものだけだった。


 桐生の目が細くなる。


 証拠はない。


 だが、疑いは消えていない。


「この動画は削除します」


「えー、広報確認用なのに」


「財団判断です」


「じゃあ、削除した記録を残してください。後で確認されると困るので」


 玲央は、リコらしい軽さを保ちつつ言った。


 桐生が一瞬黙る。


 記録。


 それを言われると、彼女も無茶はしにくい。


 周囲には撮影スタッフがいる。


 玲央は、少しずつ場を公開の方向へ引っ張っていた。


 そのとき、アヤメが明るい声で近づいてきた。


「七瀬さん、ロビー側のコメント撮り、まだですか?」


 イベントスタッフ風のアヤメ。


 彼女は場の空気を読み、リコを自然に連れ出す役を取った。


 桐生がアヤメを見る。


「あなたは?」


「外部制作の補助です。時間押してるので、七瀬さん借りますね」


 アヤメは、軽い調子で玲央の腕には触れず、進行表だけを見せた。


 触れない。


 ここでも、ナナセの設計が効いている。


 相手の身体を無断で動かさない。


 関係性を演じるときも、距離を守る。


 だから自然に見える。


 玲央は、リコとして桐生に軽く頭を下げた。


「じゃ、確認ありがとうございました。削除の件、あとで共有お願いしますね」


 桐生は、止めなかった。


 止められなかった。


 ただ、彼女の目は冷たかった。


 玲央とアヤメは、ロビー側へ移動した。


 角を曲がった瞬間、アヤメが小声で言う。


「撮れた?」


「ナナセへ送った」


「文字は?」


「父の名前があった」


 アヤメの足が、一瞬だけ止まりかけた。


 だが、すぐに動き続ける。


「月沢の名前も?」


「あった。E. TSUKIZAWA」


 アヤメは、目を伏せた。


「父の名も、翼の影に」


「ああ」


「御影が消した名前を、御影の晩餐会で映したわけね」


「そうなる」


 アヤメは、少しだけ笑った。


「皮肉としては上出来」


 しかし、その笑いは長く続かなかった。


 ナナセの声が入る。


「二人とも、まだ終わってない。御影が動いた。黒の翼の展示台に変化」


「何?」


「展示台から黒の翼が消えた」


 玲央は足を止めた。


「消えた?」


「今、会場映像では展示台が空。周囲がざわついてる」


 アヤメの表情が変わる。


「こちらが盗ったことにされる」


 その直後、会場のほうからざわめきが広がった。


 誰かが叫ぶ。


「黒の翼がない!」


 空気が一気に変わる。


 招待客の笑い声が消え、スタッフが走る。警備員が出入口へ向かう。ホテルのロビーにも緊張が広がる。


 玲央は、リコのまま立っていた。


 逃げれば怪しい。


 だが、残れば捕まる。


 ナナセの声が鋭くなる。


「動かない。今逃げたら終わる」


「分かってる」


「リコとして驚いて」


 玲央は、周囲のスタッフと同じように驚いた顔を作った。


「え、黒の翼って、さっきの展示品ですよね?」


 軽い声に、少し本物の驚きを混ぜる。


 アヤメも、イベントスタッフとして周囲に声をかける。


「出入口を塞がないでください。お客様をロビー中央へ」


 彼女は、場を整える側へ回った。


 逃げない。


 むしろ、混乱を抑える側に立つ。


 それが、疑いを薄める。


 しかし、御影はそれも読んでいるかもしれない。


 桐生が、ロビーへ戻ってきた。


 彼女の手には、小さな黒い布袋があった。


 その視線は、玲央のバッグへ向いている。


 玲央は、即座に理解した。


 仕掛けられる。


 すでに仕掛けられているかもしれない。


 ナナセの声が低くなる。


「リコ、バッグは開けない。自分から触らない」


 桐生が近づく。


「七瀬さん。念のため、お荷物を確認させていただきます」


 玲央は、リコとして眉をひそめた。


「え、私ですか?」


「先ほど、黒の翼を撮影していましたね」


「撮影確認してただけですけど」


「展示品がなくなりました。ご協力ください」


 周囲の視線が集まる。


 これが狙いだ。


 人前で荷物を確認し、そこから何かが出る。


 黒の翼そのものか、あるいは似たものか。


 そうなれば、リコは終わる。


 七瀬リコが終わるだけではない。


 玲央にも線が伸びる。


 アヤメが動こうとした。


 玲央は、わずかに視線で止めた。


 ここでアヤメがかばいすぎると、二人がつながる。


 ナナセの声。


「警察立ち会いを求めて」


 玲央は、リコの軽さを少し引っ込め、はっきり言った。


「確認するなら、警察かホテル責任者の立ち会いでお願いします。私、外部スタッフなので、後で揉めたくないです」


 桐生の目が冷える。


「やましいことがなければ」


「やましくないから、ちゃんとした形でお願いします」


 リコは、軽いが馬鹿ではない。


 それがナナセの設定だった。


 桐生は一歩近づく。


「今すぐ必要です」


「では、ホテル責任者を呼んでください」


 周囲のスタッフがざわつく。


 桐生の強引さが、少し目立ち始めた。


 そのとき、低い女性の声がした。


「その確認、私が立ち会います」


 氷見沢咲良だった。


 玲央は、振り返りそうになり、堪えた。


 リコは、咲良を知らない。


 少なくとも、表向きは。


 咲良は、警察手帳を示してロビーに入ってきた。黒いスーツ。髪をまとめ、表情は冷静。森塚も後ろにいる。


 桐生の表情がわずかに変わる。


「氷見沢刑事。こちらは財団内部の確認です」


「展示品が消えた以上、内部では済みません」


 咲良は、玲央を見た。


 一瞬だけ。


 その目は、七瀬リコの奥にいる黒瀬玲央を見ていた。


 だが、名は呼ばない。


「荷物確認をするなら、ここで、本人の同意と第三者の立ち会いのもと行います。誰がいつ触れたかも記録します」


 桐生は黙った。


 玲央は、リコとして少し不安そうに言った。


「私、確認されても大丈夫です。ただ、勝手に触られるのは困ります」


「分かりました」


 咲良は頷いた。


 玲央は、バッグを机の上に置いた。


 自分から開ける。


 桐生には触らせない。


 咲良とホテル責任者が見ている前で、中身を一つずつ出す。


 小さなメモ帳。


 リップ。


 ハンカチ。


 予備のバッテリー。


 名札。


 そして、見覚えのない黒い羽根型の小物。


 ロビーの空気が凍った。


 桐生が静かに言う。


「それは?」


 玲央は、リコのまま目を見開いた。


 演技ではない。


 本当に入っている。


 黒の翼に似ている。


 ただし、展示台にあったものとは微妙に違う。小さい。軽い。中央の印もない。


 偽物。


 仕込まれたものだ。


 ナナセの声が、鋭く冷静に入る。


「触らない。知らないと言って」


 玲央は、息を整えた。


「知りません。私のものじゃないです」


 桐生が言う。


「偶然、黒い翼の小物が入っていたと?」


「入れた覚えはありません」


「苦しいですね」


 咲良が、桐生を見た。


「桐生さん。この方のバッグに、あなたか財団スタッフが触れた記録はありますか」


「ありません」


「本当に?」


「少なくとも私は」


「先ほど、あなたはこの方の端末を確認しましたね」


 桐生の顔がわずかに硬くなる。


 咲良は続ける。


「その際、バッグの近くにいましたか」


「端末を受け取っただけです」


「撮影スタッフ、確認できますか」


 撮影スタッフが呼ばれる。


 彼は緊張した様子で答えた。


「桐生さんが端末を確認している間、七瀬さんのバッグは椅子の上にありました。近くには何人かいました」


「誰が触ったか見ましたか」


「はっきりとは……ただ、財団スタッフの方が近くを通ったのは見ました」


 咲良は、黒い羽根型の小物を見た。


「これは展示品そのものではありません」


 桐生が言う。


「似た形状です。共犯者への合図かもしれません」


「可能性だけでは断定できません」


「では、展示品が消えた説明は?」


 そのとき、森塚が咲良に近づき、小声で何かを伝えた。


 咲良の表情がわずかに変わる。


「展示台の下から、黒の翼が見つかりました」


 ロビーにざわめきが広がる。


 桐生の顔から、初めて表情が消えた。


 咲良は言った。


「展示品は盗まれていません。台座の可動部に落ち込んでいたとのことです。もちろん、なぜそうなったかは調べます」


 玲央は、内心で息を吐いた。


 御影は、黒の翼を本当に失わせるつもりではなかった。


 消えたように見せ、こちらに疑いをかける。


 そしてバッグから偽物を出させる。


 怪盗レオナが盗んだと印象づける。


 そのための芝居だった。


 だが、咲良の介入で崩れた。


 咲良は、黒い羽根型の小物を証拠袋に入れさせた。


「これがどこから来たかも調べます」


 桐生は、穏やかな表情を戻した。


「それは助かります。財団としても、混乱の原因を知りたいので」


「ええ。詳しく調べます」


 咲良の声は冷たかった。


 玲央は、リコとして小さく言った。


「あの、私、もう行っていいですか」


 咲良は少しだけ玲央を見る。


「連絡先を控えます。後で事情を伺う可能性があります」


「分かりました」


 リコは、怯えた外部スタッフとして頷く。


 玲央は、バッグを受け取り、ゆっくりロビーの端へ下がった。


 逃げない。


 走らない。


 ただ、巻き込まれて疲れた女性スタッフとして距離を取る。


 アヤメが、少し離れて玲央を見ていた。


 彼女の目には、怒りがあった。


 御影に対する怒り。


 桐生に対する怒り。


 そして、玲央のバッグに何かを入れられたことへの怒り。


 だが、アヤメも動かなかった。


 動けば、御影の思うつぼだった。


     *


 騒ぎが収まりかけたころ、玲央はホテルの裏手に近い廊下で咲良と向き合っていた。


 表向きには、事情聴取。


 実際には、情報交換だった。


 リコの姿のまま、玲央は壁際に立っている。咲良は少し離れた位置に立ち、森塚はさらに外で人払いをしている。


「七瀬リコさん」


 咲良は、あえてその名前で呼んだ。


「はい」


 玲央もリコの声で答えた。


「黒の翼の影を撮りましたね」


 玲央は、少しだけ笑った。


 リコではなく、黒瀬玲央の笑いだったかもしれない。


「見えていましたか」


「あなたが黒の翼ではなく、影を見ていたので」


「さすがですね」


「褒めなくていいです」


 咲良は静かに言った。


「映ったものは?」


「名前です。サワ、沢絵里、黒瀬暁人、月沢英司、北園。御影が消そうとした名前」


 咲良の表情が変わる。


「記録は?」


「あります。ただし、今すぐ全部渡すとは言えません」


「でしょうね」


「でも、青の涙と北園家資料の保全には使えるはずです」


「黒の翼そのものを押収できる根拠にもなります」


 玲央は咲良を見た。


「押収できますか」


「今夜の偽装騒ぎで、展示品管理に重大な不審点が出ました。あなたのバッグに入っていた偽物も含めて、黒の翼の管理状況を調べる必要があります」


「俺を疑う材料にもなる」


「当然です」


「正直ですね」


「あなたも、そろそろ慣れたでしょう」


 玲央は、少しだけ息を吐いた。


 咲良は続ける。


「黒瀬さん。今夜、あなたは黒の翼に触れなかった」


「触れたら御影の罠でした」


「分かっていても、触れると思っていました」


「俺も、少し前なら触っていたと思います」


 咲良は、その言葉を聞いて玲央を見た。


 七瀬リコの顔。


 軽い服装。


 明るい髪。


 その奥にいる黒瀬玲央。


「変わりましたね」


「そう見えますか」


「はい」


「いいことですか」


「捜査対象としては、少し厄介です」


 玲央は苦笑した。


 咲良は、表情を変えずに続けた。


「人としては、悪くないと思います」


 その言葉に、玲央は返事ができなかった。


 刑事にそんなことを言われるとは思っていなかった。


 咲良はすぐに仕事の声へ戻る。


「黒の翼の映像を、後で共有してください」


「条件があります」


「何ですか」


「黒の翼を、御影に戻さないでください」


「法的に可能な範囲で努力します」


「それ、便利な言い方ですね」


「刑事なので」


 玲央は頷いた。


「分かりました。ナナセ経由で送ります」


「柊さんを経由するのは危険です」


「でも、必要です」


「あなたたちは、彼女に頼りすぎです」


「分かっています」


「本当に?」


 ナナセのような言い方だった。


 玲央は、思わず少し笑った。


「最近、同じことをよく言われます」


「なら、本当に分かってください」


 咲良は、廊下の奥へ視線を向けた。


「御影は、あなたの変装を壊そうとしているだけではありません。あなたの周囲を壊そうとしている。柊さん、月沢さん、北園家、沢絵里さんの記録。全部です」


「分かっています」


「黒の翼は、人の名を開く鍵。なら、次に御影が狙うのは、開かれた名前をもう一度消すことです」


 玲央は、リコの軽い表情を消した。


 黒瀬玲央として頷く。


「守ります」


「盗まずに?」


「できるだけ」


「そこは、はっきり言ってほしかったですね」


「努力します」


「あなたも便利な言い方を覚えましたね」


 二人は、短く視線を交わした。


 完全な協力ではない。


 信頼でもない。


 だが、敵対だけでもない。


 奇妙な線が、二人の間に引かれていた。


     *


 作業部屋に戻ったころには、深夜を過ぎていた。


 玲央は、七瀬リコのジャケットを脱ぎ、椅子に沈み込んだ。


 ナナセはすぐに端末を確認している。


 黒の翼の影を撮った映像。


 名前の列。


 薄いが、確かに読める。


 アヤメは、机の横に立ち、画面を見つめていた。


 E. TSUKIZAWA。


 月沢英司。


 彼女の父の名。


 サワ。


 沢絵里。


 黒瀬暁人。


 北園。


 そして、最後にもう一つ、途中で切れかけている文字列があった。


 M. MIKAGE。


 御影。


 玲央は身を乗り出した。


「御影の名もある?」


 ナナセが映像を拡大する。


 文字は薄い。


 だが、確かに見える。


 M. MIKAGE。


 そして、その下に、短い語があった。


 KEEPER。


 アヤメが眉を寄せる。


「キーパー?」


「守る者。管理者。保管者」


 ナナセが言う。


「黒の翼は、名前と役割を示しているのかもしれない」


 玲央は、画面を見た。


 SAWA ELIZA。


 E. SAWA。


 A. KUROSE。


 E. TSUKIZAWA。


 KITAZONO。


 M. MIKAGE — KEEPER。


 御影は、保管者。


 何を保管している?


 硝子の女神か。


 それとも、罪か。


 ナナセは、映像のさらに下を確認した。


 影の端に、もう一行あった。


 ほとんど潰れている。


 だが、一部だけ読めた。


 RAVEN ROOM。


 アヤメが低く言う。


「黒羽の間?」


「たぶん」


 ナナセはホワイトボードに書いた。


 RAVEN ROOM=黒羽の間?


 玲央は、父の手帳を開いた。


 黒の翼。


 硝子の女神。


 御影は、美を保存しているのではない。罪を保存している。


 もし黒羽の間が、硝子の女神の置かれた場所なら。


 もし御影が、その保管者なら。


 四つの鍵は、そこへ入るためのものではない。


 そこに隠された名前を読むためのものかもしれない。


 ナナセが言う。


「黒の翼はまだ手元にない。でも、影の情報だけでかなり進んだ」


「咲良には?」


「共有する。ただし、全部ではなく、保全に必要な範囲から」


 アヤメが、画面の父の名を見たまま言った。


「御影は、名前を消しているつもりだった。でも、黒の翼は名前を残していた」


「皮肉だな」


 玲央が言う。


「ええ」


 アヤメは、静かに笑った。


「でも、その皮肉が一番効く」


 玲央は、鏡の前へ行った。


 七瀬リコのメイクが、まだ少し残っている。


 明るい髪。


 軽い印象。


 その奥で、黒瀬玲央が疲れた顔をしていた。


 今日は、早乙女ミレイになった。


 七瀬リコになった。


 黒宮ゆゆは使わなかったが、いずれ必要になるだろう。


 女性の仮面は増えている。


 だが、それは以前のように黒瀬玲央を消すためだけではない。


 それぞれの仮面が、違う場所で、違う名前を守った。


 三枝真澄はサワの資料へ辿り着いた。


 月沢葵は父の名を名乗った。


 早乙女ミレイは黒の翼に近づいた。


 七瀬リコは翼の影を撮った。


 玲央は、洗面台で顔を洗った。


 リコが流れていく。


 水の下から、黒瀬玲央が戻る。


 以前より、その瞬間が怖くなかった。


 作業部屋へ戻ると、ナナセが言った。


「次は、黒羽の間」


 アヤメも頷く。


「御影が保管者なら、そこに硝子の女神がある」


 玲央は、画面の文字を見た。


 M. MIKAGE — KEEPER。


 RAVEN ROOM。


 黒羽の間。


 最後の扉が、少しだけ見えた。


 しかし同時に、御影もまたこちらを見ている。


 黒の翼に触れなかった玲央。


 盗まずに影を読んだ玲央。


 女性の仮面を重ねて罠を抜けた玲央。


 御影は、次に何を仕掛けてくるのか。


 その答えは、まだ分からない。


 だが、玲央は一つだけ分かっていた。


 もう、怪盗レオナという一つの仮面だけでは足りない。


 これからは、多くの女性の仮面を使い分けることになる。


 華やかな社交家。


 明るいギャル系スタッフ。


 地雷系配信者。


 落ち着いた研究者。


 名を背負う古美術商の娘。


 それぞれの仮面が、それぞれの真実へ通じている。


 そして、そのどの仮面の奥にも、黒瀬玲央がいる。


 逃げるためではなく、守るために。


 盗むためではなく、暴くために。


 硝子の女神へ辿り着くために。


 夜の作業部屋で、黒の翼の影が画面に揺れていた。


 その影は、羽ばたく鳥ではなく、消された名前たちの墓標のように見えた。


 玲央は、静かに言った。


「黒羽の間を探す」


 ナナセが頷いた。


「そのために、次の仮面を作る」


 アヤメが、少しだけ笑った。


「今度は、どんな女になるのかしらね」


 玲央は、疲れた顔で返した。


「必要なだけ、だろ」


 ナナセは、珍しく少しだけ笑った。


「分かってきたね」


 その夜、三人は初めて同じ方向を見ていた。


 黒羽の間。


 硝子の女神。


 御影宗一郎。


 そして、まだ消されていない名前を守るために。


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