第13話 黒宮ゆゆは泣かない
黒羽の間。
その言葉が、作業部屋のホワイトボードの中央に残っていた。
RAVEN ROOM。
黒の翼の影に浮かび上がった文字列。
M. MIKAGE — KEEPER。
御影宗一郎は、保管者。
では、何を保管しているのか。
硝子の女神か。
サワの名か。
沢絵里と黒瀬暁人が追った記録か。
それとも、御影財団がこれまで積み重ねてきた罪そのものか。
黒瀬玲央は、作業部屋の椅子に座り、黒の翼の影を映した画面を見つめていた。映像は荒い。会場の照明、スタッフの動き、カメラの揺れ。その中で、黒い翼の影だけが、不自然なほど意味を持って浮かび上がっていた。
SAWA ELIZA。
E. SAWA。
A. KUROSE。
E. TSUKIZAWA。
KITAZONO。
M. MIKAGE — KEEPER。
RAVEN ROOM。
名前は、そこにあった。
御影が消したがっていた名前。
そして、御影自身の名。
玲央は、画面の中の父の名前から目を離せなかった。
A. KUROSE。
黒瀬暁人。
父は、黒の翼に自分の名を残したのだろうか。
それとも、黒の翼そのものが、関係者の名を記録する仕掛けだったのか。
分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
御影は、黒の翼をこちらに見せた。
見せたうえで、触れさせようとした。
それは、最後の鍵がもうすぐ開くということを意味している。
ナナセは、ホワイトボードの前に立っていた。
腕を組み、無表情で考えている。
彼女の前には、いくつもの付箋が貼られていた。
慈善晩餐会。
黒の翼。
影に出た名前。
RAVEN ROOM。
御影財団メディア事業。
若者向けチャリティ企画。
配信イベント。
玲央は、その最後の単語を見た。
「配信イベント?」
ナナセは頷いた。
「御影財団は、晩餐会の翌週に若年層向けのオンラインチャリティ企画をやる。名称は『ミライアート・ライブ』。若手アーティスト、配信者、モデル、企業広報が参加する」
アヤメが、机の上の資料を見た。
彼女は短い地毛のまま、黒い上着を羽織っている。月城アヤメでも、月沢葵でも、月城亜紀でもない。だが、以前よりその境目に慣れてきたように見えた。
「御影が若者向けに慈善を演出する場ね」
「そう」
ナナセは、資料の一枚を指した。
「問題は、協賛企業向けの案内資料の中に、黒羽という言葉が出てくること」
玲央は資料を受け取った。
そこには、御影財団のメディア展開についての説明があった。
公開ステージ。
配信ブース。
アーティスト交流スペース。
支援者ラウンジ。
そして、小さな文字でこう書かれている。
黒羽サロン協賛者向け特別映像。
「黒羽サロン」
玲央が呟く。
「黒羽の間と同じとは限らない」
ナナセは言った。
「でも、無関係とも思えない。御影は言葉を遊ばせる。RAVEN ROOMを表に出すなら、別の言い方をする可能性がある」
「つまり、黒羽サロンの情報を探る」
「そう」
アヤメが、少し面白そうに笑った。
「それで、次の仮面が必要になるわけね」
ナナセは、机の上に一枚のスケッチを置いた。
黒と白を基調にした衣装。
細いリボン。
小さなバッグ。
目元を少し強く作るメイク。
ただし、派手すぎず、会場の配信者枠に紛れられる程度に整えてある。
名前は、すでに決まっていた。
黒宮ゆゆ。
地雷系寄りの成人配信者。
玲央は、スケッチを見て眉を寄せた。
「これを今使うのか」
「使う」
ナナセは即答した。
「前回は試作で止めた。でも、今回の会場には合う」
「危険だと言ってなかったか」
「危険。だから設計を変える」
「どう変える」
ナナセは、黒宮ゆゆの設定資料を机に広げた。
年齢、二十四歳。
配信者名、黒宮ゆゆ。
ジャンルはアート系雑談とメイク配信。美術に詳しいわけではないが、作品に対して感情的な言葉を使う。黒と白の衣装、リボン、小さなバッグ、少し泣きそうに見える目元。言葉は甘く、反応は大きい。だが、内側では冷静に場を読む。
「泣きそうで泣かない女」。
ナナセは、そこを指で叩いた。
「ここが重要」
玲央は、資料を見た。
「泣きそうで泣かない」
「御影は、サワを『泣かない女』として扱った。実際には、泣かされていた。黒宮ゆゆは、その反対を使う。泣きそうに見える。でも、泣かない。感情的に見える。でも、飲まれない」
アヤメが低く言った。
「御影に向けた皮肉ね」
「そう」
ナナセは頷いた。
「ただし、危ない。玲央自身の怒りと、ゆゆの感情表現が混ざる可能性がある。だから、ルールを作る」
ホワイトボードに、新しい項目が書かれた。
一、泣く演技はしない。
二、怒りを声量で出さない。
三、桐生に触れられそうになったら、怖がるのではなく、配信者として境界を示す。
四、御影に父の名を出されても、黒宮ゆゆは黒瀬暁人を知らない。
五、黒宮ゆゆは「名前を消されること」に反応する。
玲央は、五番目を見た。
「名前を消されること」
「そう」
ナナセは言った。
「黒宮ゆゆは、自分の本名を出さない配信者。だから、名前を守ることには敏感。サワ、沢絵里、月沢英司、黒瀬暁人。彼女は、それらを直接知らなくても、『名前が消されること』に反応できる」
アヤメが頷いた。
「黒瀬玲央として怒るのではなく、黒宮ゆゆとして怒る」
「怒るというより、問いを出す」
ナナセは訂正した。
「配信イベントでは、感情的に問いを出すほうが自然。真正面から追及すると、警備に止められる。でも、ゆゆが『それって、名前をなくされる人がかわいそうじゃないですか』と言えば、場はすぐには止まらない」
玲央は、黒宮ゆゆのスケッチをもう一度見た。
地雷系寄り。
感情の見えやすい女性。
だが、単なる弱さではない。
弱く見えることを、問いに変える人物。
「俺にできるか」
玲央が呟くと、アヤメが少し笑った。
「あなた、最近は何にでもなってるじゃない」
「そういう問題じゃない」
「分かってる」
アヤメは、珍しく茶化しきらなかった。
「でも、黒宮ゆゆは、たぶんあなたに向いてるわ。泣かないところが」
玲央は、彼女を見た。
アヤメは静かに続ける。
「あなた、父親の話になると怒るけど、泣かない。泣かないで、違う仮面を被る。黒宮ゆゆは、その逆。泣きそうな顔をして、泣かずに立つ。似てる」
玲央は、何も言い返せなかった。
ナナセも、否定しなかった。
「今回は、玲央が黒宮ゆゆ。アヤメさんは?」
ナナセが問う。
アヤメは少し考えた。
「私は、グラマラスな社交家系で行くわ」
玲央が眉を上げる。
「自分で言うのか」
「言葉の選び方よ。身体の話ではなく、存在感の話」
アヤメは、涼しい顔で言った。
「御影財団の若者向けイベントには、支援者側の華やかな大人がいる。配信者たちをまとめるスポンサー代理人。名前は、桐原麗奈。少し派手で、場慣れしている女性。桐生芹奈に対抗するなら、同じように柔らかく強い女が必要」
ナナセは、少し考えてから頷いた。
「いい。桐原麗奈。華やかだけど、相手に触らない。笑顔で距離を取る人」
「桐生と逆ね」
「そう」
ナナセは、アヤメ用の衣装案を別に出した。
深い赤ではなく、落ち着いたワイン色のセットアップ。派手すぎないが、会場で埋もれない。短い髪を活かし、アクセサリーは控えめ。視線を集めるが、過去の月城アヤメほど挑発的ではない。
アヤメは、そのスケッチを見て満足そうに言った。
「悪くないわね」
「あなたが暴走しなければ」
「信頼がないわね」
「ある。だから服を作る」
ナナセの返事に、アヤメは少しだけ笑った。
玲央は、黒宮ゆゆの資料を手に取った。
地雷系配信者風。
黒と白。
リボン。
泣きそうで泣かない。
名前を消されることに反応する女。
今度の仮面は、危うい。
だが、黒羽の間へ近づくには必要だった。
*
変装の準備は、これまでとは少し違った。
早乙女ミレイは、視線を受け止める華やかさだった。
七瀬リコは、軽さで場を動かす女性だった。
三枝真澄は、資料に向き合う研究者だった。
黒宮ゆゆは、そのどれとも違う。
彼女は、感情を見せる。
だが、感情に飲まれない。
ナナセは、玲央の目元を作りながら言った。
「ゆゆは、泣きそうに見える。でも、泣かない」
「何度目だ」
「何度でも言う。ここを間違えると危ない」
「泣く演技をしたらだめなのか」
「だめ。あなたが本当に泣けなくなる」
玲央は、鏡越しにナナセを見た。
ナナセは手を止めない。
「どういう意味だ」
「役の中で感情を大きく出しすぎると、本当に出したい感情と混ざる。あなたは、父親のことをまだ泣けていない。そこを黒宮ゆゆで代用すると、あとで戻れなくなる」
玲央は黙った。
ナナセは続けた。
「だから、ゆゆは泣かない。泣きそうな顔で、問いを出す。泣く役じゃない」
アヤメが、横で衣装を合わせながら言った。
「職人というより、もう監督ね」
「衣装は身体だけじゃなく、動きも作るから」
「心まで?」
「そこまで作ったら危ない。だから境界を決める」
ナナセは、玲央のウィッグを調整した。
黒に近い髪。
顔周りに少し影が落ちる長さ。
リボンは小さめ。
衣装は黒と白を基調にしているが、過剰ではない。配信イベントの場にいても浮きすぎず、カメラ映えする。肌の見せ方やラインを強調するのではなく、目元、手元、声の温度で印象を作る。
玲央は、鏡の中の黒宮ゆゆを見た。
これまでの女性変装の中で、最も危うく見えた。
だが、弱いわけではない。
相手が「壊れそう」と思って近づいた瞬間、その弱さを問いに変える人物。
「声」
ナナセが言う。
玲央は息を整えた。
「えっと、黒宮ゆゆです。今日は、御影財団さんのイベントに来ています」
声は少し柔らかい。
だが、高すぎない。
言葉の最後に、少しだけ不安を残す。
ナナセは首を振った。
「かわいくしようとしすぎ」
「そうか?」
「ゆゆは、自分がかわいく見られることを知っている。でも、媚びるだけじゃない。もう少し、内側に冷たさを残して」
玲央は、もう一度言った。
「黒宮ゆゆです。今日は、名前を残すってどういうことなのか、少し考えに来ました」
ナナセは頷いた。
「それ」
アヤメが鏡越しに玲央を見る。
「怖いわね」
「どこが」
「泣きそうなのに、目が冷静」
「褒めてるのか」
「もちろん」
「お前のもちろんは信用できない」
アヤメは笑った。
彼女自身も、桐原麗奈へ変わっていく。
ワイン色のセットアップ。
短い髪を整え、唇の色を少し強める。月城アヤメの挑発的な赤ではない。もっと落ち着いた大人の色。社交家として場を支配するのではなく、支援者側の代理人として相手の言葉を受け流す。
グラマラスという言葉を、アヤメは「存在感」として使った。
身体を強調するのではなく、部屋に入った瞬間に「この人は何かを知っている」と思わせる雰囲気。
桐原麗奈は、そういう女性だった。
ナナセは、二人を見比べた。
「黒宮ゆゆと桐原麗奈。距離感が大事」
「どういう関係?」
玲央が聞く。
「ゆゆは配信者。麗奈はスポンサー代理人。親しくはない。でも、麗奈はゆゆを利用できる若い発信者として見ている。ゆゆは麗奈を少し怖がっているけど、頼れる大人とも思っている」
アヤメが言った。
「私が怖い大人?」
「似合う」
玲央が言うと、アヤメは目を細めた。
「あなた、最近言い返すわね」
「鍛えられた」
「誰に?」
「主にお前とナナセ」
ナナセが淡々と言った。
「責任は半分くらい認める」
そのやり取りで、少しだけ空気が緩んだ。
だが、すぐにナナセは表情を戻した。
「御影は、黒宮ゆゆを見抜こうとする。桐生も来る。地雷系の見た目を利用して、感情的な子として扱ってくる可能性がある」
「子?」
玲央が少し嫌な顔をする。
「成人設定でも、そういう扱いをしてくる相手はいる。『若い配信者だから分からないでしょう』という形で軽く見る」
「ゆゆはどう返す」
「最初は受ける。でも、名前の話になったら返す」
ナナセは、紙に台詞の芯を書いた。
“名前って、消された人のものなのに、消した人が管理するの変じゃないですか。”
玲央は、それを読んだ。
黒宮ゆゆの台詞。
軽いようで、深い。
御影の前で言えば、刺さる。
刺さりすぎるかもしれない。
「使う場面は選んで」
ナナセが言った。
「分かってる」
「これは本当に分かって」
「分かってる」
玲央は、黒宮ゆゆの顔で鏡を見た。
泣きそうで、泣かない。
名前を消された人に反応する女。
この仮面は、御影の喉元へ届くかもしれない。
同時に、玲央自身の傷にも近い。
だから危険だった。
*
ミライアート・ライブは、御影財団の別館スタジオで行われた。
晩餐会の大広間とは違い、会場は明るく、音が多かった。配信用の照明、カメラ、モニター、スタッフの声、若手アーティストの作品展示、協賛企業の小さなブース。高級感よりも、親しみやすさと発信力を重視した空間だった。
壁には、御影財団のスローガンが大きく掲げられている。
「未来へ、美をつなぐ。」
玲央は、黒宮ゆゆとしてその文字を見た。
美をつなぐ。
名前を消しながら。
彼は、喉元に上がってくる怒りを飲み込んだ。
ゆゆは怒鳴らない。
泣きそうな顔で問いを出す。
会場に入ると、スタッフが名札を確認した。
「黒宮ゆゆ様ですね。控室は奥になります。配信は十五時からです」
「ありがとうございます。今日、すごく緊張してて」
玲央は、黒宮ゆゆの声で答えた。
スタッフは笑った。
「大丈夫ですよ。ゆゆさんの枠、若い視聴者さんも多いので、財団側も期待しています」
「名前、間違えないようにがんばります」
「名前?」
「あ、作品名とか、作家さんの名前とか。大事じゃないですか」
スタッフは少し意外そうに頷いた。
「そうですね」
ゆゆは、小さく笑う。
そのまま控室へ向かう。
少し離れて、桐原麗奈としてのアヤメが入ってきた。彼女はスポンサー代理人として受付を通り、スタッフに軽く挨拶している。落ち着いた声。柔らかいが、相手に主導権を渡さない。
ナナセの声が通信に入る。
「二人とも、自然。玲央、今の『名前』の出し方はよかった」
「了解」
「ゆゆのまま返事」
「はーい」
「やりすぎ」
「難しいな」
会場の奥には、協賛者ラウンジへ続く通路があった。
黒羽サロン。
案内図にはそう書かれている。
一般配信者や観客は入れない。協賛企業、財団関係者、特別ゲストのみ。
玲央は、そこをちらりと見た。
黒羽サロン。
RAVEN ROOMへの表の入口かもしれない。
アヤメも気づいている。
彼女は、桐原麗奈として自然にラウンジ側へ近づいた。スポンサー代理人なら、不自然ではない。受付のスタッフが名簿を確認する。
「桐原様ですね。黒羽サロンは十五時半からご利用いただけます」
「ありがとうございます。少しだけ中の導線を確認しても?」
「申し訳ありません。準備中でして」
「分かりました。では、後ほど」
アヤメは無理に押さない。
戻ってくる。
通信で短く言う。
「サロンは実在。中はまだ見えない」
ナナセが返す。
「入れる時間まで、ゆゆの配信枠で情報を拾う」
玲央は、控室で台本を受け取った。
配信内容は、若手アーティストの紹介、視聴者からのコメント読み、御影財団の活動紹介、最後に御影宗一郎との短いトーク。
御影が来る。
やはり。
玲央は、黒宮ゆゆの目元を鏡で確認した。
泣きそうで、泣かない。
御影に父の名を出されても、黒瀬玲央ではなく黒宮ゆゆで返す。
控室の扉がノックされた。
「失礼します」
桐生芹奈が入ってきた。
今日は白いスーツだった。
晩餐会の黒いスーツとも、北園家の灰色のコートとも違う。明るく清潔な印象。若者向けイベントの財団担当者として、柔らかく見える装いだった。
だが、玲央には分かる。
中身は同じだ。
「黒宮ゆゆさんですね」
桐生は微笑んだ。
「はい。よろしくお願いします」
玲央は、ゆゆとして少し緊張した笑顔を作る。
「今日は、御影財団の活動を若い方にも伝える大事な機会です。あまり難しい話にならないよう、明るくお願いしますね」
「はい。でも、作品の名前とか、人の名前はちゃんと伝えたいです」
桐生の目が、わずかに動いた。
「名前?」
「だって、名前を間違えられるのって、悲しいじゃないですか」
ゆゆは、少し首を傾げる。
無邪気に。
だが、意図的に。
桐生は笑みを保った。
「そうですね。ただ、配信ではテンポも大事です。あまり細かい来歴には触れなくて構いません」
「消しちゃっていい名前って、あるんですか?」
空気が止まった。
玲央は、言いながら自分でも危ういと思った。
早い。
切り込みが早すぎる。
ナナセの声が通信に入る。
「玲央、抑えて」
玲央は、すぐにゆゆの表情を少し困ったように変えた。
「あ、すみません。そういう意味じゃなくて。私、配信で名前を読み間違えるのが怖くて」
引く。
問いを出して、すぐに引く。
黒宮ゆゆは、相手を追い詰める記者ではない。
不安そうに本質へ触れてしまう配信者だ。
桐生は、少しだけ玲央を見つめた。
「黒宮さんは、面白い感性をお持ちですね」
「よく、めんどくさいって言われます」
「そんなことはありません」
桐生は近づいた。
「目元のメイク、少し崩れていますよ」
来た。
玲央は内心で身構える。
桐生の手には、白いハンカチ。
メイクを直すふりで触れるつもりだ。
黒宮ゆゆの仮面は、目元が重要だ。そこに触れられれば、崩れる。
だが、ゆゆはどうするか。
怖がる?
泣きそうになる?
違う。
境界を示す。
玲央は、少し後ろへ下がった。
「すみません、自分で直します。人に目元触られるの、苦手で」
声は柔らかい。
だが、拒絶は明確。
桐生の手が止まる。
「失礼しました。親切のつもりでした」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
何度も繰り返してきた。
髪。
眼鏡。
メイク。
桐生は、いつも「親切」の形で触れようとする。
玲央たちは、そのたびに拒む術を学んできた。
黒宮ゆゆも、崩れない。
桐生は、微笑んだまま控室を出ていった。
扉が閉まる。
玲央は、深く息を吐いた。
ナナセの声が少しだけ柔らかくなる。
「よく止まった」
「危なかった」
「うん。早かった。でも戻れた」
アヤメの声も通信に入る。
「桐生、明らかに警戒してる。あなたの問いが刺さった」
「早すぎたか」
「少し。でも、黒宮ゆゆとしては自然だったわ」
玲央は鏡を見た。
ゆゆの目元は崩れていない。
泣きそうで、泣かない。
*
配信が始まった。
黒宮ゆゆは、カメラの前に座った。
照明が眩しい。
モニターにはコメントが流れている。
「ゆゆちゃんだ」
「衣装かわいい」
「御影財団って何してるとこ?」
「アートよくわからんけど見る」
玲央は、ゆゆとして手を振った。
「こんにちは、黒宮ゆゆです。今日は、御影財団さんのミライアート・ライブに来ています。アートってちょっと難しいけど、名前とか、作品の背景とか、知ると急に近くなる気がするので、一緒に見ていけたらうれしいです」
台本より少しだけ、名前の話を足した。
スタッフは止めない。
コメントが流れる。
「名前大事」
「作品名覚えられない」
「ゆゆちゃん今日まじめ」
玲央は、心の中で息を整える。
ゆゆは、視聴者に語る。
御影に語るのではない。
名前を消された人たちに、届くように語る。
若手アーティストの紹介が続く。
玲央は、作品名と作家名を丁寧に読む。
間違えない。
名前を読むたびに、サワのことを思い出す。
泣かない女。
泣かされていた女。
自分の目ではない青を与えられ、別の名前で呼ばれた女性。
黒宮ゆゆは、その話をまだ知らない。
だが、名前が消されることの痛みは知っている。
配信の中盤、御影宗一郎がゲストとして登場した。
コメント欄が少しざわつく。
「理事長きた」
「偉い人?」
「御影財団の人?」
御影は、カメラの前でも穏やかだった。
「黒宮さん、今日はありがとうございます」
「こちらこそ、呼んでいただいてありがとうございます」
玲央は、ゆゆとして少し緊張した笑顔を見せる。
「若い方々に文化財保護を伝えるには、あなたのような発信者の力が必要です」
「私、そんなに難しいことは分からないんですけど」
「難しく考えなくていいのです。美しいものを美しいと感じる心が大切です」
玲央の内側で、黒瀬玲央が冷たく笑った。
美しいものを美しいと感じる心。
御影は、本当にそういう言葉を使うのが上手い。
ゆゆは、少し首を傾げた。
「でも、美しいものって、誰かの名前とか、時間とか、そういうのも一緒に残ってるから美しいんじゃないですか?」
スタッフが少し動いた。
御影は笑みを保つ。
「もちろん、来歴は大切です」
「来歴って、誰が決めるんですか?」
コメント欄が流れる。
「いい質問」
「来歴ってなに?」
「作品の履歴みたいな?」
御影は答えた。
「専門家の調査と、所有者の記録によって整理されます」
「じゃあ、所有者が消したい名前があったら?」
空気が止まった。
ナナセの声が通信で低く入る。
「玲央」
止まれ、という意味ではない。
戻れる位置にいろ、という声だった。
玲央は、黒宮ゆゆとして目を少し伏せた。
「すみません。変なこと聞いちゃったかも。でも、名前って、その人のものなのに、消した人が管理するのって、少し怖いなって」
コメント欄が一気に動いた。
「たしかに」
「ゆゆちゃん深い」
「名前消されるの怖い」
「作品のモデルとか?」
御影は、わずかに沈黙した。
ほんの一秒。
しかし、配信では長い一秒だった。
玲央は、その一秒を見逃さなかった。
御影はすぐに微笑んだ。
「黒宮さんは、感受性が豊かですね。確かに、名前は大切です。だからこそ、財団は正確な記録を守る努力をしています」
「守る」
ゆゆは、繰り返した。
「はい。守る」
御影の目が、カメラではなく玲央を見た。
「時には、未確定な情報が人を傷つけることもあります。だから、表に出すべき名前と、まだ伏せておくべき名前を見極める必要がある」
「伏せておく」
「ええ。守るために」
玲央は、父の手帳の言葉を思い出した。
玲央には知らせるな。
追えば壊れる。
父も、守るために隠した。
御影も、守るという言葉を使う。
だが、その中身は違う。
父は玲央を遠ざけた。
御影は名前を消した。
同じ「守る」ではない。
黒宮ゆゆは、泣きそうな顔をした。
だが、泣かない。
「守るって、難しいですね」
玲央は言った。
「消すことと、似て見えるときがあるから」
御影の笑みが、ほんのわずかに固まった。
コメント欄はさらに流れる。
「それな」
「名言?」
「ゆゆちゃん今日どうした」
「守ると消す、たしかに」
配信スタッフが、進行を急ぐように合図を出した。
御影は、穏やかに話題を変えた。
「では、次は若手アーティストの作品紹介に移りましょう」
玲央は従った。
これ以上押せば、配信が止まる。
黒宮ゆゆは、問いを置いた。
それで十分だった。
少なくとも、視聴者の前で、御影に「名前を守る」と言わせた。
そして、「守ることと消すことは似て見える」と残した。
それは、後で効く。
ナナセの声が小さく入った。
「よく戻った」
玲央は、カメラに向けて笑った。
ゆゆとして。
泣かずに。
*
配信終了後、会場の空気は少し変わっていた。
表向きには、何事もなかった。
だが、スタッフの何人かは、黒宮ゆゆを見る目を変えていた。軽い配信者だと思っていた相手が、御影に微妙な問いを投げた。その違和感が残っている。
それは危険でもあり、成果でもあった。
アヤメが、桐原麗奈として近づいてきた。
「なかなか刺したわね」
「刺しすぎたか」
「少し。でも、配信は止まらなかった」
「黒羽サロンは?」
「十五時半から。私は入れる。あなたは配信者枠として招待されている」
「ゆゆも?」
「ええ。御影が呼んでいる」
玲央は、予想していた。
御影は、配信での問いを見た。
そのうえで、黒宮ゆゆを黒羽サロンへ呼ぶ。
罠だ。
だが、行かない選択はない。
黒羽サロンが、黒羽の間へ続いている可能性がある。
ナナセの声が入る。
「黒羽サロンに入る。ただし、黒羽の間そのものに進まない。まず構造を見る」
「分かった」
「ゆゆの感情を上げすぎない」
「分かってる」
黒羽サロンは、会場奥の通路を抜けた先にあった。
表のイベント空間とは違い、音が急に遠ざかる。照明は抑えられ、壁には黒い羽根を抽象化した装飾がある。支援者向けのラウンジという説明だが、空気は重かった。
中には、数名の協賛者、財団関係者、そして御影がいた。
桐生芹奈もいる。
御影は、黒宮ゆゆを見ると微笑んだ。
「黒宮さん。先ほどの配信、印象的でした」
「変なこと言ってたらすみません」
「いいえ。名前を守ること。大切な視点です」
玲央は、ゆゆとして少し困った笑顔を作る。
「ありがとうございます」
アヤメは、桐原麗奈として横に立つ。
「若い発信者は、ときに本質を突きますから」
御影は、アヤメを見る。
「桐原さん。あなたのような方が、彼女を支えているのですか」
「支えているというほどではありません。良い発信の場を整えるだけです」
「場を整える。いい言葉です」
御影は、壁の奥へ視線を向けた。
そこには、黒い扉があった。
目立たない。
だが、他の扉とは違う。
取っ手の上に、小さな黒い翼の印がある。
玲央の心臓が強く打った。
黒羽の間。
おそらく、その扉の向こう。
ナナセの声が震えないように低く入る。
「見えた?」
「黒い扉。翼の印」
「それ以上近づかない」
「分かってる」
御影は言った。
「黒宮さん。あなたは、名前を消すことと守ることの違いに興味があるようですね」
「はい」
「では、少し特別なものをお見せしましょう」
御影が黒い扉へ歩き出す。
桐生が扉の前に立つ。
アヤメが、玲央の横でわずかに身構えた。
御影は振り返る。
「黒羽の間です」
言った。
あっさりと。
玲央の中で、黒瀬玲央が動きそうになる。
だが、今は黒宮ゆゆだ。
驚く。
怖がる。
でも、逃げない。
「黒羽の間……?」
ゆゆは小さく繰り返す。
御影は微笑んだ。
「名前を守るための部屋です」
黒い扉が、開いた。
中は暗い。
奥に、ガラスのような反射が見えた。
硝子の女神。
玲央は、そう思った。
だが、足を踏み出す前に、ナナセの声が耳元で強く響いた。
「入らない」
玲央は止まった。
御影が見ている。
桐生も見ている。
アヤメも、横で息を止めている。
黒羽の間が開いている。
硝子の女神がそこにあるかもしれない。
父の真実が、そこにあるかもしれない。
入りたい。
入りたい。
今すぐ。
だが、入れば御影の罠の中心だ。
黒宮ゆゆは、黒羽の間へ入る理由がない。
黒宮ゆゆは、配信者だ。
暗い非公開の部屋へ、御影に誘われて一人で入る必要はない。
玲央は、ゆゆとして一歩下がった。
「すみません。私、こういう暗いところ、配信外で入るの少し怖いです」
声は震えていた。
だが、演技だけではない。
本当に怖かった。
御影の目が、細くなる。
「怖い?」
「はい。名前を守る部屋って言われても、誰の名前か分からないまま入るの、怖いです」
黒宮ゆゆは、泣きそうな顔で言った。
「名前って、本人がいないところで守られるものなんですか?」
沈黙。
黒羽サロンの空気が凍った。
御影は、しばらく玲央を見ていた。
やがて、静かに笑った。
「黒宮さんは、本当に面白い」
扉が、ゆっくり閉じられる。
黒羽の間は、また隠れた。
だが、場所は分かった。
扉を見た。
御影がそこを黒羽の間と呼ぶのを聞いた。
中に、ガラスの反射を見た。
それだけで、今は十分だった。
ナナセの声が、わずかに安堵する。
「戻って」
アヤメが、桐原麗奈として御影に会釈した。
「黒宮は、配信後で少し疲れているようです。失礼します」
「ええ。また機会を作りましょう」
御影は、そう言った。
「次は、怖がらずに入れるように」
玲央は、ゆゆとして小さく頭を下げた。
「はい」
嘘だった。
次に入るときは、怖がらないからではない。
準備を整えるからだ。
黒羽の間を出るためではなく、開くために。
*
作業部屋へ戻った玲央は、黒宮ゆゆの衣装のまま椅子に座った。
ナナセは、まず通信機を外した。
次に、玲央の顔を見た。
「大丈夫?」
「分からない」
正直に答えた。
ナナセは、少しだけ頷いた。
「分からないなら、今はそのままでいい」
アヤメも、桐原麗奈の上着を脱ぎながら言った。
「黒羽の間、見えたわね」
「ああ」
玲央は、机の上に置かれた紙に、扉の位置とサロンの構造を書いた。
黒羽サロン。
奥の黒い扉。
翼の印。
中のガラスの反射。
御影の言葉。
名前を守るための部屋。
名前って、本人がいないところで守られるものなんですか。
自分で言った黒宮ゆゆの言葉が、玲央の中に残っていた。
名前を守る。
父は玲央の名前を守ろうとした。
御影は名前を消して、保管していると言う。
その違いは何か。
本人がいない場所で、名前は守れるのか。
それとも、名前を守るには、誰かが表へ出さなければならないのか。
ナナセが、録音と映像を整理する。
「成果を確認する」
彼女はホワイトボードに書いた。
一、黒羽サロンは実在。
二、黒羽の間の扉を確認。
三、御影本人が黒羽の間と発言。
四、内部にガラス状の反射。硝子の女神の可能性。
五、黒宮ゆゆの配信で「名前を守る/消す」の問いを公開記録化。
六、御影は黒宮ゆゆを警戒対象として認識。
「最後は悪い情報だな」
玲央が言う。
「そう」
ナナセは即答した。
「黒宮ゆゆはもう安全な仮面じゃない。次に使うなら、御影は確実に見てくる」
「でも使える」
「使える。強い。でも危険」
アヤメが言った。
「黒羽の間へ入るとき、黒宮ゆゆで行くのは危険ね」
「御影が待ってる」
玲央も頷く。
「なら、別の女になる」
ナナセは、玲央を見た。
「そうなる」
「今度は何だ」
ナナセは少し考えた。
「まだ決めない。でも、黒羽の間へ入るには、御影が“招き入れたい女”ではなく、“入っていても気づかれない女”が必要」
アヤメが言った。
「清掃員?」
「一度使った。御影側も警戒してる」
「財団職員?」
「候補」
「医療スタッフ、音響スタッフ、記録係、通訳」
玲央が挙げると、ナナセは頷いた。
「そのあたり。次は華やかさを消すかもしれない」
玲央は、黒宮ゆゆのリボンに触れた。
地雷系配信者風の仮面は、御影に問いを刺した。
だが、黒羽の間へ入るには、別の仮面が必要になる。
女性変装は増えている。
だが、それぞれ役割が違う。
早乙女ミレイは近づいた。
七瀬リコは影を撮った。
黒宮ゆゆは問いを残した。
次の女性は、扉を越える。
玲央は、鏡の前に立った。
黒宮ゆゆが映っている。
泣きそうで、泣かない女。
その奥に、黒瀬玲央がいる。
今日は、泣かなかった。
怒鳴らなかった。
御影の前で、黒羽の間の入口を見て、入らなかった。
それは、勝利ではない。
だが、敗北でもなかった。
玲央は、ゆっくりメイクを落とした。
黒宮ゆゆが消えていく。
水に流れる目元。
外れるリボン。
静かになる顔。
黒瀬玲央が戻る。
鏡の中の自分は、少し疲れていた。
それでも、以前よりまっすぐ見返せた。
作業部屋の机には、黒羽の間の見取り図が増えている。
黒の翼の影。
青の涙の記録。
北園家資料。
月沢古美術の帳簿。
黒瀬暁人の手帳。
すべてが、少しずつ一つの場所へ向かっている。
黒羽の間。
その奥に、硝子の女神がいる。
そして、消された名前たちが待っている。
玲央は、鏡の中の自分に向かって静かに言った。
「次は、入る」
ナナセが振り返った。
「準備してから」
「ああ」
アヤメが笑う。
「少しは学習したわね」
「何度も言われたからな」
その夜、作業部屋には、黒宮ゆゆの衣装が丁寧に畳まれて置かれた。
使い捨てではない。
また必要になるかもしれない仮面。
泣きそうで泣かない女の仮面。
御影宗一郎が守ると言った黒羽の間を、次に開くための手がかりだった。




