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第14話 白鳥澪は記録する



 黒羽の間へ入る女は、華やかであってはならない。


 ナナセは、そう言った。


 作業部屋の窓の外では、夜明け前の街が灰色に沈んでいた。まだ電車の音も少ない。遠くの幹線道路を走る車の低い響きだけが、古い建物の壁を震わせている。


 机の上には、黒宮ゆゆの衣装が畳まれていた。


 黒と白の布。


 小さなリボン。


 泣きそうで泣かない女の仮面。


 それは昨夜、御影宗一郎の前で問いを置いた。


 名前を守ることと、名前を消すことは、どう違うのか。


 その問いは、配信の記録に残った。コメントにも残った。御影は笑っていたが、あの一瞬の沈黙は消えない。


 だが、黒宮ゆゆでは黒羽の間へ入れない。


 御影は、ゆゆを見た。


 桐生も、ゆゆを覚えた。


 次に黒宮ゆゆが黒い扉の前に立てば、向こうは確実に待っている。


 だから、次の仮面が必要だった。


 ナナセは、ホワイトボードに新しい名前を書いた。


 白鳥澪。


 その文字を見た瞬間、玲央は少し眉を寄せた。


「白鳥?」


「黒羽に対して、白鳥」


「分かりやすいな」


「分かりやすい名前は、本人の印象が薄ければ残らない」


 ナナセは、いつものように淡々と言った。


 白鳥澪。


 三十二歳。


 文化財保存記録の外部スタッフ。


 現場で声を張らない。


 余計な質問をしない。


 作品そのものより、記録の抜けや管理番号の不一致に目が行く。


 落ち着いた女性。


 薄いグレーのジャケット。


 髪は後ろで低くまとめる。


 眼鏡。


 必要以上に美しくも、地味すぎもしない。


 記録係として場にいても、会議が終われば誰も顔を細かく思い出せない。


 そういう女だった。


 アヤメは、ホワイトボードの前で腕を組んでいた。


「黒宮ゆゆの次が、白鳥澪。振れ幅が大きいわね」


「だから効く」


 ナナセが答える。


「御影は、玲央がまた感情で動く仮面を使うと思うかもしれない。華やかな女、泣きそうな女、場を乱す女。だから今回は、場を乱さない女にする」


 玲央は、白鳥澪の設定資料を手に取った。


 職業、口調、歩き方、視線の置き方、筆記具の持ち方、記録中に人の会話へ割り込むタイミング。


 細かい。


 だが、派手な設定はない。


 白鳥澪は、物語の中心に立たない女性だった。


 中心ではなく、端にいる。


 端にいて、すべてを見る。


「この仮面で、黒羽の間へ入る」


 玲央が言うと、ナナセは頷いた。


「氷見沢さんの保全確認に同行する記録補助として入る。名目は、黒の翼と黒羽の間の管理状況の記録。咲良さんは、あなたが誰か分かったうえで入れる」


「刑事が怪盗を連れていくのか」


「刑事が記録係を連れていく。表向きは」


 アヤメが言った。


「氷見沢さん、よく許したわね」


「許したわけじゃない」


 ナナセは端末を見ながら答える。


「条件つき。盗まない。触らない。単独行動しない。記録は共有する。違反したら、その場で拘束する」


「分かりやすい」


 玲央が言うと、ナナセは視線だけを上げた。


「笑ってる場合じゃない」


「笑ってない」


「少し笑ってた」


 玲央は返事をしなかった。


 咲良は信用していない。


 こちらも信用しきってはいない。


 だが、御影を止めるために、同じ部屋へ入る必要がある。


 そのための限定的な協力。


 それが今の関係だった。


 ナナセは、白鳥澪の衣装を机の上に並べた。


 薄いグレーのジャケット。


 白に近いブラウス。


 膝下丈の落ち着いたスカート。


 低い靴。


 細い腕時計。


 黒い革の記録用ファイル。


 化粧は薄い。


 髪は暗めの茶色で、低い位置にまとめる。ウィッグというより、実際の髪を整えたように見える自然なものだった。固定も強いが、もし触れられても大きくずれない。髪型が多少乱れても、記録係の女性が仕事中に髪を直しただけで済む。


 白鳥澪には、見せるための華がない。


 しかし、壊されにくい。


「桐生はまた触ってくるかもしれない」


 ナナセが言った。


「髪、名札、眼鏡、肩、ファイル。何かを直すふりで距離を詰める」


「白鳥澪は?」


「仕事上の理由で拒む」


 ナナセは、紙に短い台詞を書いた。


 “記録汚染防止のため、記録者への接触はご遠慮ください。”


 玲央はそれを読み上げた。


 声は低め。


 感情を入れない。


 白鳥澪の声。


「冷たいな」


「冷たくていい。澪は好かれる必要がない」


 アヤメが少し笑った。


「好かれなくていい女。新しいわね」


「必要なのは信頼性。愛想じゃない」


 ナナセは言った。


「澪は、会場で誰よりも弱く見える必要も、強く見える必要もない。ただ、正確であればいい」


 玲央は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 正確であればいい。


 白河レイカは美しくある必要があった。


 佐伯真理は地味に紛れる必要があった。


 三枝真澄は資料に向き合う必要があった。


 早乙女ミレイは視線を受け止める必要があった。


 七瀬リコは軽さで場を動かす必要があった。


 黒宮ゆゆは問いを置く必要があった。


 白鳥澪は、正確であればいい。


 それは、玲央にとって奇妙に難しい仮面だった。


 感情を見せないことではない。


 感情を消すことでもない。


 感情があっても、記録を歪めないこと。


 それが白鳥澪だった。


     *


 変装は、静かに進んだ。


 ナナセは、玲央の顔から黒宮ゆゆの残像を消していった。目元の強さを抑え、肌の色を少しだけ落ち着かせる。唇の色は控えめ。眉はやや柔らかくするが、頼りなさは出さない。


 白鳥澪は、泣きそうに見えない。


 笑いもしない。


 ただ、仕事をする女だった。


 玲央は鏡を見た。


 そこにいるのは、会場で誰かの視線を奪う女性ではなかった。ホテルの会議室、資料館の閲覧室、保存処理の現場、警察の立ち会い記録。そういう場所に一人はいてもおかしくない女性。


 視線を集めない。


 だが、手元に残す記録は後で効く。


「声」


 ナナセが言う。


 玲央は、白鳥澪として答えた。


「白鳥澪です。本日の保全確認記録を担当します」


「もう少し短く」


「白鳥です。記録を担当します」


「いい」


「御影に父の名前を出されたら?」


「白鳥澪は反応しない」


「反応しないのは難しい」


「反応はしてもいい。記録係として反応する」


 ナナセは、別の台詞を出した。


 “発言者、御影宗一郎氏。黒瀬暁人氏の名を提示。発言内容を確認します。”


 玲央は、少し息を止めた。


 父の名を出されても、感情ではなく記録にする。


 それは残酷な訓練だった。


 だが、必要だった。


 御影は必ず黒瀬暁人の名前を使う。


 父の名を餌に、玲央を黒瀬玲央へ戻そうとする。


 その瞬間に白鳥澪が崩れれば、終わる。


 だから、父の名も記録しなければならない。


 玲央は、鏡を見ながら言った。


「発言者、御影宗一郎氏。黒瀬暁人氏の名を提示。発言内容を確認します」


 声が、少しだけ震えた。


 ナナセは何も言わなかった。


 もう一度。


「発言者、御影宗一郎氏。黒瀬暁人氏の名を提示。発言内容を確認します」


 今度は、震えなかった。


 アヤメが、少し離れたところで聞いていた。


 彼女は今日、会場内部へは入らない。


 桐原麗奈として近くまでは行くが、黒羽の間の保全確認には同行しない。御影はアヤメを警戒している。月沢の名も、月城の名も、桐原の仮面も、今は危険だった。


 だから、彼女は外側で待つ。


 それが不満なのは、顔を見れば分かった。


「私も行けたらいいんだけど」


 アヤメが言う。


「御影が待ってる」


 玲央は答えた。


「あなたも待たれてるわよ」


「白鳥澪は待たれてない」


「そう願うしかないわね」


 アヤメは、近づいてきて、玲央の襟元を少し見た。


 手は触れない。


 最近、三人の間ではそれが当然になっていた。


 誰かの仮面に不用意に触れない。


 それは単なる礼儀ではなく、互いの境界だった。


「似合ってるわ」


「何度目だ」


「でも、今回はいつもと違う」


「どう違う」


「消えてるのに、逃げてない」


 玲央は、鏡の中の白鳥澪を見た。


 消えている。


 だが、逃げていない。


 確かに、そうかもしれない。


 白鳥澪は、黒瀬玲央を隠している。


 しかし、黒瀬玲央が見たものを記録するために存在している。


 逃げ場所ではない。


 道具でもない。


 証言者に近い仮面だった。


     *


 御影財団別館は、前日の配信イベントの名残をまだ少し残していた。


 入口には、ミライアート・ライブのポスターが外されずに残っている。若いアーティストたちの写真、明るい色のロゴ、御影財団の清潔なスローガン。


 未来へ、美をつなぐ。


 その下を、白鳥澪は通った。


 玲央の隣には、氷見沢咲良がいる。


 黒いスーツ。


 いつも通りの冷静な表情。


 その後ろに森塚。


 さらに、所轄の担当者と保存管理の外部確認員が数名。


 表向きには、昨夜の黒の翼に関する管理不備、黒羽サロン内の非公開展示物の確認、そして御影財団が保有する関連資料の保全確認。


 咲良は、歩きながら小さく言った。


「白鳥さん」


「はい」


 玲央は、澪の声で答えた。


「今日、あなたは記録係です。怪盗ではありません」


「承知しています」


「承知していない動きをした場合、その場で止めます」


「承知しています」


「同じ返事で逃げないでください」


 少しだけ、咲良の声が低くなる。


 玲央は、白鳥澪として前を見たまま言った。


「逃げません。記録します」


 咲良は横目で見た。


「よろしい」


 その言い方は、教師のようでも、刑事のようでもあった。


 別館の中は、配信イベントのときとは違って静かだった。スタッフの数は減り、廊下には消毒液と機材の冷えた匂いが残っている。床は磨かれているが、どこか急いで片づけられたような気配があった。


 黒羽サロンの前には、桐生芹奈が立っていた。


 白いスーツではなく、今日は濃い藍色のジャケットだった。落ち着いた色合いだが、表情はいつも通り柔らかい。


「氷見沢刑事。お待ちしておりました」


「立ち会いに感謝します」


 咲良は短く答える。


 桐生の視線が、白鳥澪へ移った。


「そちらの方は?」


「記録補助です」


 咲良が答える。


 桐生は、玲央を見た。


 まっすぐに。


 だが、すぐには気づかない。


 白鳥澪は、早乙女ミレイでも七瀬リコでも黒宮ゆゆでもない。髪も、目元も、姿勢も、声も違う。何より、視線を返さない。


 白鳥澪は、桐生芹奈という人間に興味を持ちすぎない。


 ただ、記録対象として見る。


「白鳥澪です。記録を担当します」


 玲央は名乗った。


 桐生は微笑む。


「よろしくお願いします。記録でしたら、こちらの財団スタッフが行いますが」


「警察側記録です」


 咲良が言う。


「双方の記録があるほうが、後の誤解を防げます」


「誤解などないよう、当方も努めます」


「期待しています」


 咲良と桐生の会話は、柔らかい刃物同士が触れるようだった。


 黒羽サロンの扉が開く。


 中は、昨日見た通りだった。


 低い照明。


 黒い羽根を抽象化した壁面装飾。


 協賛者向けのラウンジらしい落ち着いた家具。


 その奥に、黒い扉。


 翼の印。


 黒羽の間。


 玲央は、白鳥澪のままファイルを開いた。


 扉位置。


 翼印。


 照明状態。


 立会者。


 発言者。


 すべてを記録する。


 感情より先に、記録。


 御影宗一郎は、黒い扉の前に立っていた。


 昨日と同じように、穏やかに。


 だが、今日は配信の画面越しではない。


 慈善晩餐会の華やかな場でもない。


 静かな黒羽サロンの奥で、御影は待っていた。


「氷見沢刑事。よくお越しくださいました」


「確認に来ました」


「もちろんです。黒の翼の件では、ご迷惑をおかけしました」


「展示台の可動部に落ち込んでいたという説明でしたね」


「はい。機構上の問題です」


「その機構も確認します」


「どうぞ」


 御影の視線が、白鳥澪へ移った。


 玲央は、ファイルに目を落としている。


 見返さない。


 御影は、しばらく見ていた。


「そちらの記録係の方は?」


「白鳥さんです」


 咲良が答える。


「美術品の記録に詳しい方ですか」


 御影の問い。


 咲良が答える前に、白鳥澪が言った。


「私は、本日の保全確認における状況記録を担当します。作品評価は行いません」


 短く、正確に。


 御影は、少しだけ笑った。


「慎重ですね」


「記録係ですので」


「記録とは、時に人を縛ります」


「記録がない場合、より多くの人が縛られます」


 言った瞬間、玲央は自分でも少し危ないと思った。


 しかし、白鳥澪の言葉としては成立している。


 記録係が、記録の必要性を述べた。


 御影は、目を細めた。


 咲良は表情を変えない。


 桐生は白鳥澪を見ている。


 少し長く。


 だが、まだ確信には至っていない。


 御影は、黒い扉へ手を向けた。


「では、黒羽の間をご覧いただきましょう」


 桐生が鍵を操作する。


 重い音。


 黒い扉が、ゆっくり開いた。


 冷たい空気が流れてきた。


 白鳥澪は、最初に温度を記録した。


 空気の冷たさ。


 乾いた匂い。


 低い機械音。


 そして、奥にある光。


 黒羽の間は、思っていたより狭く、思っていたより深かった。


 壁は黒に近い濃紺で、光を吸い込むような質感をしている。床は灰色の石材。足音が小さく反射する。天井の照明は絞られ、中央の展示ケースだけが淡く照らされていた。


 その中に、硝子の女神があった。


 高さは、胸ほど。


 透明な硝子で作られた女性像。


 宗教的な聖像にも見えるが、具体的な神の姿ではない。顔の輪郭は曖昧で、目も口もはっきりとは彫られていない。両手を胸の前で重ね、背中には羽根とも衣の襞とも見えるものが広がっている。


 光を受けると、像の内側に細い線が走った。


 ただの装飾ではない。


 記録だ。


 玲央は、息を止めそうになった。


 白鳥澪は、息を整える。


 記録する。


 中央展示ケース。


 透明硝子像。


 背部に羽根状装飾。


 内部に微細線。


 台座前面、無銘。


 咲良が、静かに言った。


「これが、硝子の女神ですか」


 御影は頷いた。


「そう呼ばれています」


「所有記録は?」


「御影財団所蔵です」


「来歴は?」


「複雑です。現在整理中です」


 咲良の目が細くなる。


「整理中のものを、なぜ非公開の黒羽の間に保管しているのですか」


「保存環境のためです」


「公開できないからではなく?」


「刑事さんは、疑うのがお仕事ですからね」


 御影は穏やかだった。


 咲良は展示ケースを見た。


「黒の翼は?」


 桐生が、別の小型ケースを示した。


 黒の翼は、そこにあった。


 昨夜、展示台から消えたように見えた小さなブローチ。


 今は黒羽の間の中で、硝子の女神から少し離れた位置に保管されている。


 黒い翼。


 影に名前を出した鍵。


 玲央は、白鳥澪として記録する。


 黒の翼、小型ケース内。


 中央に三本線印。


 保存状態、外見上損傷なし。


 手は伸ばさない。


 触れない。


 記録するだけ。


 御影が言った。


「白い星、緋の冠、青の涙、黒の翼。四つが揃うと、この女神は本来の姿を見せると言われています」


 咲良が問う。


「四つの鍵が必要だと認識しているのですね」


「伝承として」


「白い星と緋の冠の所在は?」


「存じません」


 嘘だ。


 玲央は、内側で思った。


 だが、白鳥澪は顔に出さない。


 記録する。


 発言者、御影宗一郎氏。


 四つの鍵の存在を認識。


 白い星、緋の冠の所在について「存じません」と回答。


 青の涙について、咲良が言った。


「《青衣の女》の眼部素材は、現在保全確認中です。青の涙と呼ばれるものとの関連も調査します」


 御影は、少しだけ笑った。


「警察は、美術品の詩的な呼称まで調査されるのですか」


「人が消えているので」


 咲良の声は冷たかった。


「黒瀬暁人さん、沢絵里さん。月沢英司さんの名も関係資料にあります」


 御影は黙った。


 ほんのわずか。


 その沈黙を、白鳥澪は記録する。


 御影氏、約二秒沈黙。


 桐生の視線が、ファイルへ落ちた。


 彼女は、白鳥澪が何を書いているのかを見たがっている。


 近づいてくる。


「白鳥さん」


 桐生の声。


「記録内容を確認しても?」


 玲央は、ファイルを閉じなかった。


 だが、相手へ向けもしない。


「警察側記録のため、確認は氷見沢刑事を通してください」


 桐生は笑った。


「少しだけで構いません。誤解があるといけませんので」


「誤解防止のため、手続きに従います」


「慎重ですね」


「記録係ですので」


 同じ言葉。


 白鳥澪は、相手の誘いに乗らない。


 桐生がさらに一歩近づいた。


「名札が少し曲がっています」


 手が伸びる。


 名札。


 胸元ではなく、ジャケットの上部に留めた小さな名札。


 触れる口実。


 玲央は半歩下がった。


「記録汚染防止のため、記録者への接触はご遠慮ください」


 声は平らだった。


 桐生の手が止まる。


 咲良が、桐生を見た。


「桐生さん。接触の必要はありません」


「失礼しました」


 桐生は手を引いた。


 だが、その目には苛立ちがあった。


 また触れられなかった。


 三枝真澄。


 早乙女ミレイ。


 七瀬リコ。


 黒宮ゆゆ。


 そして白鳥澪。


 桐生は何度も触れようとし、何度も境界で止められている。


 その苛立ちは、いずれ別の形で来る。


 玲央は、そう思った。


     *


 黒羽の間の確認は続いた。


 咲良は、展示ケース、台座、壁面、保管台帳の提示を求めた。御影は表向き協力的だったが、核心に近づくたびに言葉を濁した。


 硝子の女神の来歴。


 サワとの関係。


 沢絵里の調査記録。


 黒瀬暁人の修復記録。


 月沢英司が残した照合資料。


 どれも、御影は「確認中」「古い記録」「不確定」と答える。


 白鳥澪は、それをすべて記録した。


 断定しない答え。


 濁された語尾。


 質問を受けてから返答までの間。


 御影が見せたわずかな間合い。


 記録係としては、それで十分だった。


 証拠は、物だけではない。


 言葉の逃げ方も記録になる。


 咲良が言った。


「展示ケースを開けてください」


 空気が変わった。


 御影は、穏やかな笑みを浮かべたまま言う。


「それはできません。保存環境が乱れます」


「外部確認員がいます」


「硝子の女神は、非常に繊細です」


「では、外側から確認可能な範囲で照明角度を変えてください」


「それも保存上の問題が」


「昨夜、黒の翼を晩餐会場で展示していましたね」


 咲良の声が低くなる。


「あの場では保存上の問題はなかったのですか」


 御影の笑みが薄くなる。


「短時間でしたので」


「では、短時間の照明角度変更は可能ですね」


 沈黙。


 御影は、咲良を見た。


 咲良は引かない。


 やがて、御影は桐生へ視線を向けた。


「短時間だけ」


 桐生が操作盤へ向かう。


 照明がわずかに変わった。


 硝子の女神の内部線が、浮かび上がる。


 白鳥澪は、記録用端末を構えた。


 正面から。


 斜めから。


 影。


 反射。


 内部に走る細い線。


 女神像の胸元に、文字のようなものが見えた。


 肉眼では読みにくい。


 だが、端末の画面に拡大されると、一部だけ浮かんだ。


 KEEPER。


 GATE。


 NAMES.


 守る者。


 門。


 名前。


 玲央の指が止まりそうになる。


 白鳥澪は、止まらない。


 記録する。


 さらに、台座の下部に細い傷があった。


 傷ではない。


 文字だ。


 A.K.


 黒瀬暁人の修復印。


 父の印。


 玲央の喉が詰まった。


 だが、白鳥澪は声を出さない。


 端末で記録する。


 咲良が気づいた。


「台座下部。文字のようなものがあります」


 御影が静かに言った。


「保存時の傷でしょう」


「白鳥さん、記録を」


「記録済みです」


 玲央は、澪の声で答えた。


 御影の視線が、少しだけ玲央へ向いた。


 今の返事。


 感情を消しすぎたか。


 いや、白鳥澪としては自然だ。


 咲良が続ける。


「A.K. と読めます」


「偶然でしょう」


「黒瀬暁人さんのイニシャルとも読めます」


 御影は笑った。


「刑事さんは、何でも黒瀬暁人に結びつけたいようですね」


「事実が結びついています」


 咲良は言った。


 御影は、その場の全員を見渡した。


 そして、ゆっくり白鳥澪を見た。


「記録係さん。あなたはどう思いますか」


 来た。


 玲央は、ファイルから目を上げた。


 白鳥澪として。


「私は意見を述べる立場にありません」


「記録者にも、目はあるでしょう」


「見たものを記録します。解釈は担当者が行います」


「では、見たものとして、A.K. は何に見えましたか」


 御影の声は柔らかい。


 だが、質問の形をした罠だった。


 父の印を、玲央に言わせようとしている。


 黒瀬暁人の名を、白鳥澪の口から。


 玲央は、息を整えた。


「台座下部に、A.K. と読める刻印状の痕跡を確認しました。以上です」


 御影は、静かに笑った。


「黒瀬暁人とは言わないのですね」


 白鳥澪は、ファイルに視線を戻した。


「発言者、御影宗一郎氏。黒瀬暁人氏の名を提示。発言内容を記録します」


 言えた。


 父の名を、感情ではなく記録として扱えた。


 その瞬間、咲良がわずかにこちらを見た。


 ナナセの声は通信に入らない。黒羽の間では通信が不安定になる可能性があるため、今は記録端末だけが頼りだった。


 だが、玲央には聞こえた気がした。


 よく止まった。


 ナナセなら、そう言う。


 御影の笑みが、少しだけ薄くなった。


 彼は、玲央が揺れると思っていたのだろう。


 白鳥澪は揺れなかった。


 いや、揺れていた。


 だが、記録を歪めなかった。


     *


 確認作業の途中で、黒羽の間の照明が落ちた。


 完全な暗闇ではない。


 非常灯が淡く点く。


 しかし、中央の展示ケースを照らしていた光は消え、硝子の女神は黒い影になった。


 機械音が低く変わる。


 森塚がすぐに動く。


「何ですか」


 桐生が操作盤を見る。


「保存環境の警告です。照明角度変更の影響かもしれません」


 咲良が言った。


「扉を開けてください」


「環境が安定するまで、開閉は推奨されません」


「推奨ではなく、開けてください」


 桐生は御影を見た。


 御影は落ち着いていた。


 落ち着きすぎていた。


 玲央は、白鳥澪のまま周囲を確認する。


 黒羽の間の中には、咲良、森塚、御影、桐生、外部確認員、白鳥澪。扉側に所轄警察官がいたはずだが、照明低下で位置が見えにくい。


 閉じ込める気か。


 それとも、何かを見せる気か。


 御影の声がした。


「少しお待ちください。すぐに復旧します」


 暗い部屋の中で、その声だけが妙にはっきり聞こえた。


 咲良は、御影から目を離さない。


「偶然ですか」


「機械の警告に意図はありません」


「人が設定した機械なら、意図は入ります」


「刑事さんらしい」


 そのとき、硝子の女神の内部が淡く光った。


 照明ではない。


 像の内側から、細い線が浮かび上がる。


 非常灯の角度と、黒の翼のケースから落ちる影が重なったのかもしれない。あるいは、最初からそうなるように設計されていたのか。


 女神の胸元に、文字が現れた。


 白鳥澪は、端末を向けた。


 手が震えそうになる。


 だが、震えない。


 A. KUROSE


 NOT KEEPER


 WITNESS


 黒瀬暁人。


 保管者ではない。


 証人。


 玲央の呼吸が止まった。


 父は、保管者ではなかった。


 証人。


 何の証人か。


 御影の罪か。


 硝子の女神の記録か。


 サワの名が消されたことか。


 さらに文字が浮かんだ。


 E. SAWA


 WITNESS


 E. TSUKIZAWA


 WITNESS


 SAWA ELIZA


 ORIGIN


 M. MIKAGE


 KEEPER


 RAVEN ROOM


 GATE


 名前と役割。


 黒の翼の影で見えたものが、硝子の女神の内部でさらに整理されていた。


 白鳥澪は、端末で記録を続けた。


 咲良も見ている。


 森塚も見ている。


 御影も、当然見ている。


 しかし、御影の顔には焦りがなかった。


 むしろ、どこか満足げだった。


 玲央はそれに気づいた。


 なぜ。


 これは御影にとって不利なはずだ。


 御影が保管者だと示されている。


 黒瀬暁人、沢絵里、月沢英司が証人だと示されている。


 なのに、なぜ御影は焦らない。


 答えは、すぐに来た。


 御影が言った。


「黒瀬暁人は、証人でした」


 部屋の空気が凍る。


 御影は、白鳥澪を見ていた。


 いや、黒瀬玲央を見ていた。


「彼は、この部屋で見たものを証言するはずだった。ですが、証言しなかった」


 咲良が低く言う。


「どういう意味ですか」


「そのままです。黒瀬暁人は、証人でありながら、最後に沈黙を選んだ」


 玲央の内側で、何かが軋んだ。


 父が沈黙を選んだ?


 そんなはずはない。


 父は手帳を残した。


 名前を追った。


 サワを、沢絵里を、月沢英司を守ろうとした。


 御影は続ける。


「彼は、記録を公にすれば壊れるものがあると知った。だから、逃げた」


 咲良が御影を睨む。


「根拠は」


「記録があります」


「提示してください」


「この部屋の記録です」


 御影は、硝子の女神を見た。


「女神は、名前だけでなく、選択も残します」


 白鳥澪は、記録する。


 発言者、御影宗一郎氏。


 黒瀬暁人氏について「証言しなかった」「沈黙を選んだ」と発言。


 根拠として「この部屋の記録」と発言。


 玲央は、手元の文字を追う。


 A. KUROSE


 WITNESS


 その下に、まだ薄い行がある。


 照明が不安定で読めない。


 端末の感度を上げる。


 ぼやけた文字。


 LAST ENTRY


 ARK BELOW


 DO NOT TELL LEO


 玲央の手が止まった。


 方舟の下。


 玲央に知らせるな。


 父の手帳と同じ言葉。


 追えば壊れる。


 御影の声が遠くなる。


 玲央は、白鳥澪でいなければならなかった。


 しかし、その文字は、白鳥澪では受け止めきれないほど深く刺さった。


 方舟の下。


 父は、そこへ行ったのか。


 黒羽の間ではなく、その先。


 硝子の女神は、墓ではない。


 入口。


 黒羽の間は、扉。


 その下に、方舟がある。


 玲央の呼吸が乱れかける。


 咲良が、静かに言った。


「白鳥さん。記録を続けてください」


 その声で戻った。


 白鳥澪。


 記録係。


 感情で止まるな。


 玲央は、端末を持ち直した。


「記録中です」


 声は、かろうじて澪だった。


 御影は、わずかに笑った。


「優秀な記録係ですね」


 その言葉に、咲良の目が鋭くなった。


 おそらく、咲良は気づいた。


 御影が白鳥澪の奥に誰を見ているのか。


 だが、彼女は玲央の名を呼ばない。


 それが今の場を守っていた。


 桐生が操作盤を動かした。


 照明が戻る。


 硝子の女神の内部文字は、急速に薄れていった。


 消える。


 だが、記録は残った。


 白鳥澪の端末に。


 咲良の目に。


 森塚の記憶に。


 そして、玲央の中に。


 方舟の下。


 玲央に知らせるな。


     *


 黒羽の間を出たとき、玲央は膝から力が抜けそうになった。


 だが、白鳥澪は崩れない。


 廊下に出て、扉が閉まる。


 黒い翼の印が、視界から消える。


 咲良は、御影に向き直った。


「本日の記録は、すべて保全対象とします。映像、発言、照明異常、内部表示。資料提出を求めます」


「もちろん、法に従って」


 御影は答えた。


「黒羽の間は、当面こちらの管理下で封鎖確認を行います」


「財団所有の施設です」


「事件性があると判断します」


「判断は慎重にお願いします」


「慎重に行います。だから封鎖します」


 咲良は引かなかった。


 御影は、笑みを崩さない。


 だが、その目は玲央を見ていた。


 白鳥澪を。


 いや、黒瀬玲央を。


「白鳥さん」


 御影が呼んだ。


 玲央は振り返る。


「はい」


「今日の記録を、大切にしてください」


「職務ですので」


「記録は、人を救うこともあれば、壊すこともあります」


「記録をどう使うかによります」


「その通りです」


 御影は微笑んだ。


「黒瀬暁人も、最後にそれを理解しました」


 白鳥澪は、ファイルを閉じた。


「発言内容は記録済みです」


 それだけ言った。


 御影の笑みが、ほんの少し変わった。


 玲央はもう、父の名だけでは崩れない。


 少なくとも、今この場では。


 桐生が近づいてきた。


「白鳥さん。お疲れさまでした」


「お疲れさまでした」


「またお会いするかもしれませんね」


「必要があれば」


 桐生は、玲央の顔を見た。


 長く。


「あなた、どこかでお会いしたことがありますか」


 玲央は、白鳥澪として答えた。


「記録上、初対面です」


「記録上?」


「私の確認できる範囲では」


 桐生は笑った。


「面白い方ですね」


「よく言われます」


 嘘だった。


 白鳥澪は、あまりそう言われない。


 今の返しは、少し玲央に近かった。


 桐生の目がわずかに鋭くなる。


 玲央は、すぐに視線を落とした。


「失礼します。記録整理がありますので」


 それ以上話さず、咲良の後ろへ下がる。


 危なかった。


 桐生は、何かを拾いかけた。


 長く会話すると、白鳥澪の輪郭が揺れる。


 だから、仕事へ戻る。


 記録係は雑談しない。


 別館を出るまで、玲央は一度も振り返らなかった。


     *


 車に乗った瞬間、咲良が言った。


「白鳥さん」


「はい」


「今から五分だけ、白鳥澪を続けてください」


 玲央は、少し驚いて咲良を見た。


「なぜですか」


「急に崩すと、あなた自身に負荷がかかります」


 咲良の声は、刑事というより、観察者のものだった。


「柊さんから聞いたわけではありません。見ていれば分かります」


 玲央は、白鳥澪のまま目を伏せた。


「承知しました」


 車は走り出した。


 御影財団別館が後ろへ遠ざかる。


 咲良は、端末を確認しながら言った。


「方舟の下、という文字がありましたね」


「ありました」


「心当たりは」


「白鳥澪としてはありません」


「黒瀬玲央としては?」


 玲央は黙った。


 咲良は、それ以上急かさなかった。


 しばらく、車内に沈黙が流れる。


 やがて玲央は、白鳥澪の声を少しだけ落とした。


「父の手帳に、似た言葉があります」


「方舟?」


「直接ではありません。でも、玲央に知らせるな、という言葉はありました」


「追えば壊れる、ですか」


 玲央は、咲良を見た。


「知っているんですか」


「推測です。黒瀬暁人さんは、あなたを遠ざけようとしていた。北園家、月沢古美術、硝子の女神。これだけ危険なものに関わっていたなら、息子に知らせるなという記録を残していても不思議ではありません」


「正しいですね」


「父親としては」


「でも、息子としては腹が立つ」


「それも正しい」


 咲良は、あっさり言った。


 玲央は返事に詰まった。


 咲良は続ける。


「黒瀬さん。今日、あなたは黒羽の間で盗まなかった。触れなかった。記録した。それは重要です」


「刑事としての評価ですか」


「はい」


「人としては?」


「少しだけ、信頼材料が増えました」


 玲央は、疲れたように笑った。


「少しだけ」


「十分でしょう」


 確かに。


 咲良にとっては、それでも大きいのかもしれない。


 五分が過ぎた。


 咲良は言った。


「もう、白鳥さんを解いて構いません」


 玲央は、深く息を吐いた。


 白鳥澪の背筋が、少し崩れる。


 声も、少し戻る。


「疲れました」


「でしょうね」


「黒羽の間に、父の名前がありました」


「はい」


「証人、と」


「はい」


「でも御影は、父が沈黙を選んだと言った」


「御影の言葉を、そのまま信じる必要はありません」


「分かっています」


「でも刺さった」


「刺さりました」


 咲良は窓の外を見た。


「だから、次は方舟の下を探すことになります」


「咲良さんも来るんですか」


「当然です」


 玲央は目を閉じた。


 方舟の下。


 そこに父の最後の足跡がある。


 あるいは、父が隠したものがある。


 もしかすると、父自身がいる可能性もある。


 その考えを、玲央はすぐに打ち消そうとした。


 期待は危険だ。


 だが、完全には消せなかった。


 父は死んだとは限らない。


 咲良が以前そう言った。


 黒羽の間の記録も、父を「証人」と呼んだ。


 死者ではない。


 少なくとも、記録の上では。


     *


 作業部屋に戻ると、ナナセとアヤメが待っていた。


 扉を開けた瞬間、ナナセが立ち上がる。


 いつもなら、まず衣装の状態を見る。


 ウィッグのずれ、メイクの崩れ、服の乱れ。


 だが、今日は最初に玲央の顔を見た。


「大丈夫?」


 玲央は、少し迷ってから答えた。


「分からない」


 ナナセは頷いた。


「座って」


 玲央は椅子に座った。


 白鳥澪のファイルと端末を机に置く。


 ナナセはすぐにデータを確認し始めた。アヤメは、玲央の向かいに座る。


「見たのね」


「ああ」


「硝子の女神」


「あった」


 玲央は、ゆっくり話した。


 黒羽の間。


 硝子の女神。


 黒の翼。


 照明の変化。


 内部に浮かんだ名前。


 A. KUROSE — WITNESS。


 E. SAWA — WITNESS。


 E. TSUKIZAWA — WITNESS。


 SAWA ELIZA — ORIGIN。


 M. MIKAGE — KEEPER。


 RAVEN ROOM — GATE。


 そして。


 LAST ENTRY。


 ARK BELOW。


 DO NOT TELL LEO。


 話し終えると、部屋は静まり返った。


 アヤメは、月沢英司の名が「証人」として出たところで目を伏せた。怒りではない。悲しみでもない。もっと複雑な、長く閉じていた箱を開けたような顔だった。


 ナナセは、端末の映像を拡大していた。


 文字は荒い。


 だが、読める。


 方舟の下。


 玲央に知らせるな。


 ナナセの手が止まった。


「方舟」


 彼女が呟く。


「心当たりがあるのか」


 玲央が聞く。


 ナナセは首を振った。


「直接はない。でも、御影財団の資料に、方舟という単語があった気がする」


「どこで」


「過去の保管施設リスト。正式名ではなく、通称だったかもしれない。湾岸の地下保管区画。災害対策用の旧施設を改装したもの」


 玲央は、顔を上げた。


「湾岸」


 アヤメも反応する。


「旧湾岸倉庫群。最初にアヤメと会った場所に近い?」


「可能性はある」


 ナナセは端末を操作する。


「御影は、美術品を保管するだけじゃなく、災害時の文化財退避事業にも関わっていた。方舟という名前は、そこから来ているのかもしれない」


 方舟。


 守るために載せる船。


 しかし、御影が使うと、その言葉は別の意味を帯びる。


 守ると言いながら、隠す。


 保管と言いながら、消す。


 玲央は、父の手帳を開いた。


 ページの端に、これまで見落としていた細い線がある。


 方舟。


 直接の文字はない。


 だが、黒い羽根のような簡単な印が、いくつか描かれている。


 その横に、短い文字。


 “下へ行くな。”


 玲央は、息を止めた。


 今まで、汚れか走り書きだと思っていた。


 しかし、黒羽の間を見た後では違う。


 下へ行くな。


 方舟の下。


 玲央に知らせるな。


 父は、何を見た。


 何を隠した。


 なぜ、玲央には知らせるなと書いた。


 アヤメが静かに言った。


「次は、方舟の下ね」


「ああ」


 玲央は頷いた。


「でも、御影は待ってる」


 ナナセが言う。


「黒羽の間を見せたのも、方舟へ誘導するためかもしれない」


「分かってる」


「本当に?」


「今度は分かってる」


 玲央は、白鳥澪のファイルを見た。


「でも、行く。父の最後の記録がそこにあるなら」


 ナナセは、しばらく黙った。


 やがて、静かに言った。


「次の仮面を作る」


 アヤメが少し笑う。


「また女?」


 ナナセは頷いた。


「たぶん。方舟が湾岸の旧施設なら、警備や保管スタッフ、清掃、医療、記録、案内。華やかな女では入れない。今度は、もっと現場に近い女性」


 玲央は、疲れた顔で言った。


「白鳥澪ではだめか」


「白鳥澪は御影に見られた。次に使えば危険」


「なら、また別の女か」


「必要なだけ」


 その言葉に、玲央は笑った。


 少しだけ。


 以前なら、仮面が増えることは、自分が薄くなることだと思っていた。


 今は違う。


 仮面が増えるたびに、守るべきものへの近づき方が増えている。


 白鳥澪は、黒羽の間を記録した。


 次の女は、方舟の下へ入る。


 その先に、黒瀬暁人の真実がある。


 あるいは、玲央が壊れるほどの記録がある。


 どちらでも、もう戻れない。


 玲央は、白鳥澪のウィッグを外した。


 髪が軽くなる。


 鏡の中に、黒瀬玲央が戻る。


 顔色は悪い。


 だが、目は逸らしていない。


 机の上には、黒瀬暁人の手帳。


 月沢古美術の帳簿。


 北園家資料の写し。


 黒の翼の影の映像。


 黒羽の間の記録。


 そして、新しい言葉。


 方舟の下。


 玲央は、その文字を見つめた。


「父さん」


 小さく呟いた。


 返事はない。


 だが、今度は手がかりがある。


 黒羽の間は、墓ではなかった。


 扉だった。


 硝子の女神は、飾られた女神ではなかった。


 消された名前たちの記録装置だった。


 そして方舟は、まだ下にある。


 玲央は、静かに言った。


「次は、下へ行く」


 ナナセも、アヤメも、止めなかった。


 ただ、それぞれの顔で頷いた。


 夜明けが近づいていた。


 窓の外の空が、黒から青へ変わり始めている。


 白鳥澪はもういない。


 けれど、彼女が残した記録は、机の上で確かに光っていた。


 それは、盗品ではない。


 証言だった。


 黒瀬玲央は、初めて怪盗ではなく、証人の息子として次の扉へ向かおうとしていた。


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