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第15話 雨宮志乃は方舟の下へ降りる


 方舟は、船ではなかった。


 それは海に浮かぶものではなく、東京湾岸の地中に沈んだ保管施設だった。


 御影財団旧湾岸第七保管区画。


 正式名称は、文化財災害退避用一時保管施設。


 災害時に美術品や古文書、寺社の宝物、個人蔵の資料を一時的に避難させるための地下施設。行政、財団、複数の文化団体が関わった事業で、表向きにはすでに役目を終えたことになっている。


 だが、黒羽の間に浮かび上がった文字は、別の名前を示していた。


 ARK BELOW。


 方舟の下。


 黒瀬玲央は、作業部屋の机に広げられた資料を見つめていた。


 白鳥澪として黒羽の間に入り、硝子の女神を見たのは前日のことだ。まだ、身体の奥にあの部屋の冷気が残っている。黒い壁。硝子の女神の内側に浮かんだ名前。父、黒瀬暁人の名に続く「WITNESS」の文字。


 証人。


 父は保管者ではなかった。


 証人だった。


 そして最後の記録には、こうあった。


 ARK BELOW。


 DO NOT TELL LEO。


 玲央に知らせるな。


 玲央は、その言葉を何度も頭の中で繰り返していた。


 知らせるな。


 追えば壊れる。


 下へ行くな。


 父は、何を守ろうとしていたのか。


 それは玲央自身だったのか。


 それとも、玲央が知ることで壊れてしまう別の誰かだったのか。


 ナナセは、ホワイトボードの前に立っていた。


 昨夜からほとんど眠っていない。髪を雑に結び、手元には何枚もの古い施設図面と、御影財団の災害対策事業に関する公開資料がある。


「旧湾岸第七保管区画は、表向きには五年前に閉鎖扱い」


 ナナセは言った。


「でも、電力契約と設備管理は続いてる。名称だけ変えて、地下の一部を使い続けている可能性が高い」


 アヤメが椅子の背にもたれながら、資料を見ていた。


「御影らしいわね。終わった施設の地下に、終わっていない記録を隠す」


「方舟は、守るための名前だ」


 玲央が言った。


「御影が使うと、隠すための名前になる」


「同じ言葉で、意味だけ変えるのね」


 アヤメの声は冷たかった。


 月沢古美術の帳簿。


 北園家資料。


 硝子の女神。


 黒羽の間。


 そこに月沢英司の名が「証人」として出た今、アヤメもまた引き返せなくなっていた。


 ナナセは、ホワイトボードに新しい名前を書いた。


 雨宮志乃。


 玲央は、その文字を見た。


「また女性か」


「そう」


 ナナセは即答した。


「ただし、今度は華やかな女性じゃない。泣きそうな配信者でも、記録係でもない。現場に入る女性」


「現場?」


「文化財災害レスキューの保存処置技師。水害や火災、湿度変化で傷んだ紙資料や木製品を確認する人。名前は雨宮志乃。三十六歳。現場慣れしている。無駄に愛想は振りまかないけど、作業対象には丁寧」


 玲央は、設定資料を手に取った。


 雨宮志乃。


 文化財保存処置の外部技術者。


 小さな修復工房と複数の自治体案件を渡り歩いてきた人物。


 服装は、濃い青の作業ジャケット、黒いパンツ、低い靴。髪は後ろでまとめ、必要に応じて帽子の中へ入れる。化粧は最小限。声は低め。手袋と記録ファイルを持つ。


 白鳥澪が「記録する女」なら、雨宮志乃は「傷みを見る女」だった。


 美術品を飾られたものとしてではなく、濡れる、割れる、黴びる、剥がれる、歪むものとして見る。


 それは、玲央がこれまで使ってきたどの仮面とも違っていた。


「志乃は、何を守っている」


 玲央が聞くと、ナナセは少しだけ目を伏せた。


「名前じゃなくて、残ったもの」


「残ったもの?」


「誰かが必死に残した紙、箱、布、木片、写真。価値があるかどうかを決める前に、まず失われないようにする。志乃は、そういう人」


 アヤメが静かに言った。


「月沢の帳簿を扱うときのナナセみたいね」


「私はそんなに立派じゃない」


 ナナセは短く返した。


 だが、否定しきれてはいなかった。


 玲央は、雨宮志乃の資料を読み込んだ。


 この人物は、見た目で勝負しない。


 人の視線を集めない。


 しかし、現場で「この人に任せれば、資料を壊さずに見てくれる」と思わせる必要がある。


 それは、難しい。


 華やかに振る舞うよりも、ずっと難しい。


「咲良さんは?」


 玲央が聞く。


「同行する」


 ナナセが答えた。


「黒羽の間の記録を受けて、方舟の下について確認する名目は立った。ただし、御影財団が任意で立ち会いを受け入れる形。強制捜査ではない」


「つまり、御影が準備している」


「確実に」


 アヤメが言った。


「罠よね」


「罠だ」


 玲央は頷いた。


「でも、行く」


「言うと思った」


 ナナセは、もう止めなかった。


 代わりに、机の上に雨宮志乃の衣装を置いた。


「条件。盗らない。壊さない。単独行動しない。下へ降りるときは必ず咲良さんと一緒。父親の記録が出ても、その場で走らない」


「走らない」


「本当に?」


「本当に」


「なら、変装を始める」


     *


 雨宮志乃は、鏡の中でゆっくり形を持っていった。


 ナナセは、玲央の顔から白鳥澪の硬さを消し、代わりに現場で疲れた人間の落ち着きを足していった。目元は強くしない。だが、ぼやけさせもしない。肌は少しだけ乾いた質感に見せ、髪は低くまとめる。


 ウィッグは自然な黒。


 長くない。


 邪魔にならないよう結べる長さ。


 作業帽の下に収まる。


 雨宮志乃にとって髪は見せるものではなく、作業の邪魔にならないよう管理するものだった。


 服装も同じだ。


 濃い青の作業ジャケットは、少し使い込まれたように見える。袖口には目立たない補強。ポケットにはメモ帳、細いペン、薄い手袋。靴は低く、歩きやすい。バッグには道具が入っているが、危険なものではない。記録、確認、保護のための道具だけ。


 玲央は、鏡の前で肩を回した。


「軽いな」


「動くための服だから」


「女性に見えるか」


「それは目的じゃない」


 ナナセは即答した。


「雨宮志乃は、女性として見られるために現場へ行くんじゃない。仕事をするために行く。だから、性別を強調しない。けれど、声、手つき、距離感、立ち方で女性として自然に見えるようにする」


 玲央は頷いた。


 最近、ようやく分かってきた。


 女性変装とは、ただ女に見えることではない。


 その人が、そこでどう生きているかを作ることだ。


 早乙女ミレイは視線を受け止める。


 七瀬リコは場を軽く動かす。


 黒宮ゆゆは泣きそうで泣かない。


 白鳥澪は記録する。


 雨宮志乃は、残ったものを守る。


 その違いを間違えた瞬間、仮面は薄くなる。


「声」


 ナナセが言う。


 玲央は、少し低めの声で言った。


「雨宮です。保存状態の確認に入ります」


「硬い。技師としてはいいけど、人と話すときはもう少し短く」


「雨宮です。先に湿度と紙の状態を見ます」


「いい」


「御影に父の名前を出されたら?」


 ナナセは、少し黙った。


 それから、静かに言った。


「志乃は、黒瀬暁人を伝説の修復師として知っている。でも個人的には知らない」


 玲央は、息を整えた。


「黒瀬暁人氏の処置記録があるなら、資料状態と照合します」


「そう」


「父さんとは呼ばない」


「呼ばない」


「怒らない」


「怒ってもいい。でも、作業を止めない」


 雨宮志乃は、怒りを消す女ではない。


 怒っていても、濡れた紙を床に放置しない女だ。


 玲央は、そう理解した。


 アヤメは、今日は別の仮面を準備していた。


 鹿島美緒。


 損害調査員。


 災害保険や文化財保管の損害評価に関わる外部調査員という設定だ。雨宮志乃ほど中へは入らないが、施設の上層部や外部記録には関われる。服装はベージュのトレンチコート、落ち着いたパンツスタイル、短い髪を整え、手元にはタブレット。


 アヤメは鏡を見ながら言った。


「私もどんどん別人になるわね」


「嫌か」


 玲央が聞くと、彼女は少し考えた。


「前は、別人になるほど強くなれると思っていた。今は、少し違う」


「どう違う」


「戻れる場所があるから、別人になれる」


 その言葉に、ナナセの手が一瞬止まった。


 玲央も返事ができなかった。


 戻れる場所。


 この作業部屋。


 ナナセ。


 アヤメ。


 父の手帳。


 月沢の帳簿。


 仮面を外しても、何もなくならない場所。


 だから、また別人になれる。


 玲央は、鏡の中の雨宮志乃を見た。


 以前の自分なら、仮面の完成度だけを見ていた。


 今は、その仮面を外したあと、自分がどこへ戻るのかも考えている。


     *


 午後から雨が降り始めた。


 湾岸へ向かう車の窓に、水滴が細く流れていく。空は低く、ビルの上部が灰色に霞んでいる。海に近づくにつれ、雨の匂いに潮の匂いが混ざった。


 雨宮志乃として、玲央は助手席に座っていた。


 運転は咲良ではない。警察車両では目立つため、外部確認員用の車両を使っている。咲良は後部座席にいる。森塚も同乗していた。


 咲良は、今日の玲央をあまり見なかった。


 見ないようにしている、というほうが正しい。


 黒瀬玲央ではなく、雨宮志乃として扱うためだろう。


「雨宮さん」


 咲良が呼ぶ。


「はい」


 玲央は答えた。


「現場では、私の指示に従ってください」


「承知しています」


「御影側に挑発されても、技師として返してください」


「はい」


「黒瀬暁人さんの記録が出ても」


 咲良の声が、少しだけ低くなる。


「触れる前に、私へ確認を取ってください」


「分かりました」


 玲央は窓の外を見た。


 倉庫群が見えてきた。


 かつてアヤメと対峙した旧湾岸倉庫群にも近い。あの夜、佐伯真理の仮面は崩れかけ、アヤメのウィッグも浮いた。御影の男たちと咲良の追跡が重なり、三人の関係はそこから変わり始めた。


 今は、同じ湾岸へ戻っている。


 だが、目的は違う。


 盗みに来たのではない。


 追われに来たのでもない。


 記録を確かめに来た。


 雨の中、車は古い防災倉庫の前で止まった。


 建物は、外から見ると地味だった。


 低く広いコンクリート造り。


 海風で少し黒ずんだ壁。


 使われていないように見える搬入口。


 しかし、入口の監視は厳しい。


 表の看板には、御影財団の名は小さくしか出ていない。


 「文化財保管協力施設」


 それだけだった。


 アヤメは別車両で来ており、鹿島美緒として外部調査員の受付へ向かった。彼女はこちらを一度だけ見たが、声はかけない。


 雨宮志乃と鹿島美緒は、現場で初対面の外部スタッフ。


 その距離を保つ。


 入口には、桐生芹奈がいた。


 今日は、薄いグレーのレインコートを着ている。雨の中でも乱れない整った姿。柔らかな笑み。


 玲央は、内心で警戒した。


 桐生は、今日も触れてくるかもしれない。


 髪、名札、帽子、手袋、肩。


 どこかを直すふりで。


 だが、雨宮志乃は現場の人間だ。


 触れられそうになったら、作業上の理由で距離を取る。


「氷見沢刑事。雨の中、お越しいただきありがとうございます」


 桐生が言う。


「確認を始めます」


 咲良は短く返した。


 桐生の視線が雨宮志乃へ移る。


「そちらは?」


「雨宮志乃です。保存状態の確認補助に入ります」


 玲央は、低く落ち着いた声で名乗った。


 桐生は一瞬、玲央の顔を見た。


 その目に、微かな探りが宿る。


 だが、すぐには結びつかない。


 雨宮志乃は、白鳥澪ほど整っていない。黒宮ゆゆほど目立たない。七瀬リコほど軽くない。早乙女ミレイほど華やかでもない。


 湿度と紙の状態を見るために来た女。


 それだけに見える。


「よろしくお願いします」


 桐生が近づく。


「帽子に雨が」


 手が伸びかける。


 玲央は、自然に一歩下がった。


「現場に入る前に自分で処理します。資料に水滴を落としたくないので」


 拒絶ではなく、作業上の判断。


 桐生の手が止まる。


「失礼しました」


「お気遣いありがとうございます」


 雨宮志乃は、それだけ言って手袋を整えた。


 咲良が、わずかに横目で見た。


 問題ない。


 そう言われた気がした。


     *


 施設の内部は、外観よりずっと新しかった。


 入口を抜けると、白い廊下が続いている。空気は乾いていて、雨の匂いはすぐに消えた。代わりに、金属、樹脂、消毒液、古い紙を保管する部屋特有のわずかな乾いた匂いがある。


 雨宮志乃は、最初にそれを記録した。


 匂い。


 温度。


 湿度表示。


 床材。


 壁の継ぎ目。


 職員の靴音。


 白鳥澪なら数値と発言を中心に残す。


 雨宮志乃は、物の状態を見る。


 同じ記録でも、視点が違う。


 案内役として、施設管理主任の黒岩という男が同行した。


 五十代半ば。


 無口で、表情が硬い。


 御影の部下というより、施設そのものに長く関わってきた技術者のようだった。


 黒岩は、咲良へ説明する。


「上層部は、災害時の一時退避庫として使われていました。現在は一部のみ保存環境の維持を行っています」


「一部とは?」


「資料種別ごとに、必要な区画だけです」


 咲良が問う。


「下層は?」


 黒岩の言葉が一瞬止まった。


 桐生が代わりに答える。


「下層は現在、使用しておりません。設備点検用の空間です」


「ARK BELOWという表示があります」


 咲良が言う。


 桐生は微笑む。


「古い内部呼称かと思われます」


「確認します」


「安全上、立ち入りは推奨できません」


「推奨でなく、必要性の問題です」


 咲良は引かない。


 雨宮志乃は、そのやり取りを横で聞きながら、壁際の湿度計を見た。


 表示は安定している。


 だが、わずかに違和感があった。


 施設の乾燥具合に対して、床の隅にごく薄い水染みの痕跡がある。新しいものではない。だが、何度か水が上がった場所に見える。


 方舟。


 災害から守るための施設。


 その下に、水の痕跡。


 雨宮志乃は、黒岩へ聞いた。


「下層からの湿気上がりはありますか」


 黒岩が、初めて玲央を見た。


「専門の方ですか」


「紙資料の保全現場を見ています。床際の水染みが気になります」


 黒岩の目が、ほんの少し変わった。


 玲央は、その反応を見逃さなかった。


 彼は何かを知っている。


「古い施設ですので」


 黒岩は言った。


「記録はありますか」


「設備側の記録なら」


「確認したいです。水分履歴がある場合、保管資料への影響を判断する必要があります」


 桐生が口を挟む。


「現在保管している資料には影響ありません」


 雨宮志乃は、桐生を見た。


「影響がないことを確認するために見ます」


 声は静かだった。


 咲良が言う。


「雨宮さんの確認を許可してください」


 桐生は、少しだけ沈黙した。


 やがて頷く。


「黒岩さん、資料を」


 黒岩は、無言で端末を操作した。


 そこに表示された施設図面の一部に、玲央は目を止めた。


 B2。


 保管区画。


 その下に、薄い灰色で書かれた未使用空間。


 B3。


 旧排水調整層。


 そして、その端に小さく表示された文字。


 ARK-B。


 方舟の下。


 玲央の指先が、わずかに冷えた。


 雨宮志乃は、顔に出さない。


「B3の湿度履歴も確認できますか」


「通常は見ません」


 黒岩が言う。


「通常見ない場所が、上層に影響することがあります」


 雨宮志乃として、玲央は言った。


 それは嘘ではなかった。


 資料は、見える場所だけで守れるものではない。


 下から上がる湿気、温度差、空気の流れ。


 見えないところの変化が、紙を歪ませる。


 人の名前も同じかもしれない。


 表の記録だけを見ていても、消された名前は戻らない。


 下を見る必要がある。


 咲良が黒岩に言った。


「B3を確認します」


 黒岩は桐生を見た。


 桐生は、少しだけ笑った。


「御影理事長が、下でお待ちです」


 玲央の心臓が一度、強く打った。


 やはり。


 御影は待っている。


 罠だ。


 それでも、下へ降りる。


     *


 B3へ続く区画は、上層とは空気が違っていた。


 壁の白さが薄れ、コンクリートの地肌が見える。照明は低く、足音が重く響く。海に近い地下特有の冷えがあり、金属の匂いに湿った石の匂いが混ざっている。


 階段を下りるにつれ、雨音は聞こえなくなった。


 代わりに、低い水の響きがどこかから聞こえる。


 排水設備の音だと黒岩は説明した。


 だが、玲央には、それが巨大な船の腹の中にいるような音に聞こえた。


 方舟の下。


 沈んだ船の底。


 咲良が前を歩き、その後ろに森塚、黒岩、雨宮志乃、桐生。御影は下で待っているという。


 アヤメは上層に残っている。


 鹿島美緒として、外部調査員の記録を取りながら、ナナセと連絡を取っているはずだ。


 通信は下層に入ると不安定になった。


 ナナセの声は、もう聞こえない。


 ここから先は、自分で判断するしかない。


 階段の下に、鉄扉があった。


 扉の上に、古いプレートがついている。


 ARK-BELOW。


 その下に、日本語で小さく刻まれていた。


 方舟下層保管区。


 玲央は、その文字を見た瞬間、胸の奥が沈むのを感じた。


 父は、ここへ来た。


 そう思った。


 証拠はまだない。


 だが、身体が先に理解していた。


 扉が開く。


 冷たい空気が流れ出した。


 中は、倉庫ではなかった。


 細長い通路と、小さな保管室が連なる地下区画だった。壁には旧式の配管が走り、ところどころ新しい補修がされている。床は乾いているが、隅には古い水跡がある。照明は控えめで、奥に行くほど暗い。


 最初の部屋には、空の棚が並んでいた。


 二つ目の部屋には、古い保存箱が数個。


 三つ目の部屋の扉に、手書きの古いラベルが残っていた。


 A.K. 処置記録。


 玲央は、足を止めた。


 雨宮志乃としてではなく、黒瀬玲央として。


 だが、すぐに咲良が言った。


「雨宮さん」


 その声で戻る。


「確認してください」


 玲央は頷いた。


「はい」


 扉を開けると、小さな記録室だった。


 棚には、古いファイル、保存箱、ケース。部屋全体は整理されているが、使われなくなってから時間が経っている。空気は乾いているのに、どこか海の匂いがした。


 御影宗一郎は、その部屋の中央に立っていた。


 黒いスーツ。


 濡れた気配はない。


 まるで、最初から地下にいた人間のようだった。


「ようこそ、方舟の下へ」


 御影は言った。


 咲良は冷たく返す。


「なぜ、あなたがここに」


「施設管理者として立ち会っています」


「先に下層へ入った理由は」


「皆様をお待ちしていました」


「準備していた、ということですね」


「そうとも言えます」


 御影は微笑む。


 その視線が、雨宮志乃へ移った。


「雨宮さん。文化財保存の専門家と伺いました」


「保存状態の確認補助です」


「この部屋をどう見ますか」


 玲央は、部屋を見渡した。


 棚。


 保存箱。


 湿度計。


 壁の補修跡。


 床の水染み。


 古いファイルの背。


 黒瀬暁人の名があるかもしれない場所。


 雨宮志乃は、ゆっくり答えた。


「過去に水分影響を受けた痕跡があります。現状は乾いていますが、資料状態は個別確認が必要です」


「では、確認を」


 御影が手を広げた。


 あまりに簡単に許可した。


 咲良が警戒する。


「御影さん。先に確認対象を指定してください」


「もちろん」


 御影は、棚の一角を指した。


 そこには、一つの黒い保存箱があった。


 箱のラベルには、古い字でこう書かれていた。


 LAST ENTRY。


 A. KUROSE。


 玲央の呼吸が止まりそうになった。


 父の最後の記録。


 ここにある。


 御影は、静かに言った。


「黒瀬暁人の最後の処置記録です」


 咲良が言う。


「なぜ、これを今まで提示しなかったのですか」


「必要がなかったからです」


「人が消えている事件の関係資料です」


「関係資料であると、誰が証明しましたか」


「今から確認します」


 咲良の声が硬くなる。


 玲央は、保存箱の前に立った。


 手袋を確認する。


 雨宮志乃は、箱を乱暴に扱わない。


 父の記録だからではない。


 資料だからだ。


 誰かが残したものだからだ。


 ゆっくり蓋を開ける。


 中には、薄いファイルと、小さな記録媒体、そして透明な板のようなものが入っていた。


 硝子片。


 いや、硝子の女神と同じ素材に見える小さな板。


 その表面に、細い線がある。


 咲良が近づく。


「記録してください」


「はい」


 雨宮志乃は、端末で外観を記録する。


 ファイルの表紙には、黒瀬暁人の字があった。


 方舟下層記録。


 沢絵里保護記録。


 玲央は、その文字を見た瞬間、世界が遠くなった。


 沢絵里。


 保護記録。


 死者ではない。


 少なくとも、父がここに書いた時点では。


 咲良も文字を見た。


 森塚が息を呑む。


 御影は、動かない。


 玲央は、ファイルを開いた。


 中には、数ページの記録があった。


 すべて父の字ではない。


 黒瀬暁人の字、沢絵里と思われる字、そして月沢英司の字に似た短いメモ。


 雨宮志乃は、文字を追った。


 “沢絵里氏、方舟下層へ退避。御影財団内部に安全な場所なし。”


 “サワ=エリザの来歴は、硝子の女神に記録されている。”


 “黒の翼は、名前の索引を開く。だが、全記録の開示には四鍵が必要。”


 “御影宗一郎は保管者であり、所有者ではない。”


 “保管者が記録を隠す場合、証人三名の同意により下層記録を分割する。”


 玲央は、喉が詰まった。


 証人三名。


 黒瀬暁人。


 沢絵里。


 月沢英司。


 だから、三人の名が硝子の女神に「WITNESS」として残っていた。


 父は一人で動いていたのではない。


 三人で記録を分けた。


 御影の保管から、名前を守るために。


 さらにページをめくる。


 そこに、短い文があった。


 “玲央には知らせるな。あの子は、まだ仮面を持たない。”


 玲央の手が止まった。


 その言葉は、手帳のものより少しだけ長かった。


 あの子は、まだ仮面を持たない。


 父は、玲央が弱いから知らせなかったのか。


 それとも、仮面なしでこの世界に触れれば壊れると考えたのか。


 今の玲央は、多くの仮面を持っている。


 白河レイカ。


 佐伯真理。


 三枝真澄。


 早乙女ミレイ。


 七瀬リコ。


 黒宮ゆゆ。


 白鳥澪。


 雨宮志乃。


 皮肉だった。


 父が知らせまいとした息子は、仮面をいくつも持って、ここまで来た。


 御影が静かに言った。


「黒瀬暁人は、あなたを守ろうとした」


 雨宮志乃の仮面が、薄く震えた。


 御影は続ける。


「しかし、守ることは、時に消すことと似ている。黒宮ゆゆさんが言っていましたね」


 咲良が御影を睨む。


「御影さん」


 御影は咲良を見ず、雨宮志乃を見ていた。


「雨宮さん。あなたはどう思いますか。知らせないことは、守ることですか。それとも消すことですか」


 玲央は、息を吸った。


 雨宮志乃として答えるべきか。


 黒瀬玲央として答えるべきか。


 ここで崩れれば、御影の思うつぼだ。


 だが、完全に雨宮志乃でいることもできない。


 父の文字が目の前にある。


 玲央には知らせるな。


 あの子は、まだ仮面を持たない。


 玲央は、ファイルから目を離さずに言った。


「現時点で判断できません」


 雨宮志乃の声だった。


 だが、奥に玲央がいた。


「記録をすべて確認してから、判断します」


 御影の笑みが薄くなる。


「慎重ですね」


「残ったものを、先に壊したくないので」


 その言葉は、雨宮志乃のものだった。


 御影はしばらく玲央を見ていた。


 やがて、静かに笑った。


「黒瀬暁人に似てきましたね」


 玲央は、反応しなかった。


 咲良が言う。


「ファイルを保全対象とします」


「どうぞ」


 御影はあっさり言った。


「ただし、その記録だけでは足りません」


「何が足りないのですか」


「沢絵里本人の証言です」


 部屋の空気が変わった。


 アヤメがここにいなくてよかった、と玲央は一瞬思った。


 もし彼女が聞いていたら、動いていたかもしれない。


 咲良の声が低くなる。


「沢絵里さんの所在を知っているのですか」


 御影は答えない。


 代わりに、保存箱の中の小さな記録媒体を指した。


「そこに、最後の音声記録があります」


 雨宮志乃は、手を伸ばす前に咲良を見た。


 咲良が頷く。


「確認します」


 黒岩が古い再生機器を用意した。


 準備は簡単ではなかったが、黒岩は慣れているようだった。おそらく、何度か再生したことがある。


 やがて、部屋に雑音が流れた。


 古い音。


 低いノイズ。


 そして、男の声。


『記録者、黒瀬暁人』


 玲央の胸が強く痛んだ。


 父の声。


 記憶の中の声より少し疲れている。


 だが、確かに父だった。


『方舟下層記録。沢絵里氏を一時退避させる。月沢英司氏の帳簿、北園家資料、硝子の女神内部記録は相互に照合可能。御影宗一郎は保管者であり、所有者ではない。保管者が記録を隠す場合、証人は記録を分割する』


 音声が揺れる。


 遠くで、何かが落ちるような音が入っていた。


『玲央には知らせるな。あの子は、まだ仮面を持たない。真実だけを渡せば、あの子は真実に潰される。だから、もし将来、玲央がここに来るなら……』


 そこで音が途切れた。


 ノイズ。


 玲央は、無意識に一歩前へ出そうになった。


 咲良が小さく言う。


「雨宮さん」


 止まる。


 雨宮志乃。


 まだ崩れるな。


 音声が戻る。


『……もし将来、玲央がここに来るなら、一人で来させるな。あの子の隣に、記録を疑う者と、仮面を直す者がいることを願う』


 玲央の目が熱くなった。


 咲良。


 ナナセ。


 アヤメ。


 記録を疑う者。


 仮面を直す者。


 父は、そんな未来を本当に想定していたのか。


 それとも、ただの偶然か。


 音声は続く。


『沢絵里氏は、水原の名で保護記録へ移す。所在は、青の鍵が開く。月沢氏には知らせる。玲央には、まだ知らせない』


 水原。


 沢絵里は、水原の名で保護された。


 青の鍵が開く。


 青の涙。


 《青衣の女》。


 まだ、すべてはつながっている。


 音声の最後に、父の声が低くなった。


『私は証人として残る。生きて証言できなければ、記録が証言する。だが、願わくば……』


 ノイズ。


 言葉は途切れた。


 そこで音声は終わった。


 部屋は沈黙した。


 雨宮志乃は、記録端末を持ったまま立っていた。


 黒瀬玲央は、その内側で父の声を抱えていた。


 咲良が、静かに言った。


「音声記録を保全対象とします」


 御影は微笑んだ。


「どうぞ」


「沢絵里さん、水原の名で保護されたという発言がありました」


「そうですね」


「あなたは所在を知っていますね」


「私は保管者です」


「質問に答えてください」


「保管者は、すべてを所有しているわけではありません」


 御影の目が、玲央へ向いた。


「黒瀬暁人がそう言ったでしょう」


 玲央は、今度は御影を見返した。


 雨宮志乃として。


「保管と隠蔽は違います」


 言ってしまった。


 咲良がわずかに反応する。


 御影は笑った。


「雨宮さん。あなたは、良い技師ですね」


「技師として言っています」


「ええ。残ったものを壊したくないのでしょう」


 御影は、保存箱を見た。


「ですが、残ったものが、誰かを壊すこともある」


 玲央は、答えなかった。


 その言葉が、父の音声と重なっていたからだ。


 真実だけを渡せば、玲央は真実に潰される。


 父は、そう言った。


 では、自分は今、潰れているのか。


 まだ立っているのか。


 分からない。


 ただ、雨宮志乃はまだ立っていた。


     *


 方舟下層の確認は、そこで打ち切られた。


 咲良は、ファイル、音声記録、硝子片、下層の映像記録を保全対象として扱うよう求めた。御影は表向き協力的だった。あまりにも協力的だった。


 それが、逆に不気味だった。


 彼は、これを見せたかったのかもしれない。


 玲央に父の声を聞かせるため。


 沢絵里が「水原」の名で保護されたと知らせるため。


 そして、青の鍵へ向かわせるため。


 施設を出るころには、雨はさらに強くなっていた。


 外の空気は冷たく、潮と雨の匂いが一気に戻ってくる。


 雨宮志乃は、建物の入口で一度立ち止まった。


 上層で待っていた鹿島美緒――アヤメが、少し離れた場所にいた。


 彼女は玲央を見た。


 その目で、何かを察したようだった。


 だが、声はかけない。


 今はまだ、雨宮志乃と鹿島美緒の距離を保つ。


 桐生芹奈が近づいてきた。


「雨宮さん」


「はい」


「お疲れさまでした」


「お疲れさまでした」


「下層は、いかがでしたか」


「確認事項が多い場所です」


「それだけ?」


「現時点では」


 桐生は笑った。


「あなたは、本当に記録と言葉を選ぶ方ですね」


「職務上、必要です」


「またお会いできそうな気がします」


 玲央は、雨宮志乃として答えた。


「必要があれば」


 その言葉を、白鳥澪も使った。


 言ったあとで気づいた。


 桐生も気づいたかもしれない。


 彼女の目が、ほんのわずかに鋭くなった。


「必要は、作られるものかもしれませんよ」


 桐生はそう言って去った。


 玲央は、雨の中で小さく息を吐いた。


 危ない。


 仮面が増えるほど、言葉の癖が混ざる。


 白鳥澪の返しを、雨宮志乃が使った。


 桐生は、それを拾う女だ。


 次はもっと注意しなければならない。


 咲良が隣に来た。


「車へ」


「はい」


「雨宮さんを、まだ解かないでください」


「五分ですか」


「今日は十分」


 咲良は言った。


「父親の声を聞いた直後です」


 玲央は、何も言えなかった。


     *


 車の中で、雨音だけが続いた。


 フロントガラスを叩く水滴。


 ワイパーの規則的な音。


 遠ざかる湾岸倉庫。


 玲央は、雨宮志乃のまま座っていた。


 咲良は隣で、今日の記録を整理している。


 森塚は前方で黙っていた。


 十分が過ぎても、玲央はしばらく雨宮志乃の姿勢を崩さなかった。


 崩したら、父の声が一気に押し寄せてくる気がした。


 父は、生きて証言できなければ記録が証言すると言った。


 それは、死を覚悟した言葉なのか。


 それとも、身を隠すことを選んだ者の言葉なのか。


 分からない。


 だが、父は玲央を見捨てたわけではなかった。


 知らせるな。


 それは拒絶ではなかった。


 守るための隔離だった。


 しかし、それでも痛い。


 守るために遠ざけられた者は、守られたことだけでは救われない。


 玲央は、低く言った。


「氷見沢さん」


「はい」


「父は、俺を信じていなかったんでしょうか」


 咲良は、すぐには答えなかった。


 ワイパーの音が二度、三度と続く。


「信じていなかったのではなく、恐れていたのだと思います」


「何を」


「あなたが真実に向かう強さと、その強さで自分を傷つける可能性を」


 玲央は窓の外を見た。


「結局、俺は来ました」


「はい」


「仮面を持って」


「一人ではなく」


 玲央は、咲良を見た。


 咲良は資料から目を離さずに続けた。


「黒瀬暁人さんの音声では、一人で来させるな、と言っていました。今のあなたは一人ではない。柊さん、月沢さん、そして不本意ながら私たち警察もいる」


「不本意なんですか」


「当然です」


 その返事があまりに咲良らしくて、玲央は少しだけ笑った。


 雨宮志乃の仮面が、そこで少し緩んだ。


 咲良は言った。


「水原という名を調べます。ただし、御影もあなたたちが追うことを見越している」


「沢絵里が生きている可能性は?」


「あります」


 咲良は明確に答えた。


「ただし、期待だけで動くのは危険です」


「分かっています」


「本当に?」


 玲央は少し笑った。


「その言い方、ナナセに似てきましたよ」


「不本意です」


「でしょうね」


 車は作業部屋の近くで止まった。


 玲央は降りる前に、雨宮志乃の帽子を外した。


 雨が少し、髪に触れた。


 冷たい。


 だが、ようやく息ができた。


     *


 作業部屋では、ナナセが待っていた。


 アヤメも戻っていた。


 扉を開けた瞬間、二人の視線が玲央へ向く。


 ナナセは何も聞かず、まずタオルを渡した。


「濡れてる」


「少し」


「座って」


 玲央は、言われた通りに座った。


 雨宮志乃のジャケットを脱ぎ、手袋を外す。


 その瞬間、身体から力が抜けた。


 ナナセは、ウィッグに触れる前に聞いた。


「外していい?」


 玲央は頷いた。


「ああ」


 ナナセは、慎重に雨宮志乃を外していった。


 作業帽。


 ウィッグ。


 薄いメイク。


 濃い青のジャケット。


 雨宮志乃が少しずつ消え、黒瀬玲央が戻る。


 アヤメは、鹿島美緒の姿を解きながら、黙って見ていた。


 すべてが終わってから、玲央は話し始めた。


 方舟の下。


 ARK-BELOW。


 A.K.処置記録。


 沢絵里保護記録。


 黒瀬暁人の音声。


 水原の名。


 父が言った言葉。


 玲央には知らせるな。


 あの子は、まだ仮面を持たない。


 一人で来させるな。


 記録を疑う者と、仮面を直す者がいることを願う。


 話し終えると、作業部屋は長く沈黙した。


 ナナセは、目を伏せた。


 アヤメは、机の端を軽く握っていた。


 やがて、アヤメが言った。


「月沢の名前は?」


「記録にあった。証人三名の一人として」


「父は、最後まで証人だったのね」


「ああ」


 アヤメは、短く息を吐いた。


 泣きはしなかった。


 ただ、月沢葵の顔に少し戻っていた。


 ナナセが、端末に映像データを取り込みながら言う。


「水原を調べる」


「沢絵里の保護名」


 玲央が言う。


「たぶん」


 ナナセは頷いた。


「青の鍵が開く、と音声にあった。青の涙、《青衣の女》の保全記録、そこに水原の名を開く手がかりがあるはず」


「青の涙は警察側にある」


「氷見沢さん経由で確認する」


 アヤメが言った。


「御影も同じ場所を見ている。沢絵里が本当に生きているなら、危険ね」


「だから先に見つける」


 玲央は言った。


 声は静かだった。


 しかし、迷いはなかった。


「父が隠した理由も、御影が見せた理由も、まだ分からない。でも、沢絵里が証言できるなら、硝子の女神の記録はただの過去じゃなくなる」


 ナナセが玲央を見る。


「玲央」


「何だ」


「今、追う理由が父親だけじゃなくなってる」


 玲央は少し黙った。


 その通りだった。


 最初は父のためだった。


 父が消えた理由を知りたかった。


 御影に奪われたものを取り返したかった。


 だが今は違う。


 サワ。


 沢絵里。


 月沢英司。


 北園家。


 黒瀬暁人。


 消された名前を戻すために動いている。


 父だけではない。


 それが、玲央を少し支えていた。


「父さんだけだったら、潰れてたかもしれない」


 玲央は言った。


「でも、今は名前が多すぎる」


 アヤメが静かに笑った。


「多すぎるから、潰れていられない?」


「そうかもしれない」


 ナナセは、ホワイトボードに新しい線を書いた。


 青の涙

 ↓

 水原

 ↓

 沢絵里

 ↓

 生きている証人?


 最後の疑問符が、部屋の中で妙に大きく見えた。


 生きている証人。


 もし沢絵里が生きているなら。


 もし彼女が、サワの名と硝子の女神の来歴を語れるなら。


 御影の「保管」は終わる。


 名前は、外へ出る。


 だが同時に、御影はそれを許さない。


 ナナセは言った。


「次の仮面を考える」


 玲央が苦笑する。


「もうか」


「水原を追うなら、病院、資料修復室、保護施設、あるいは地方の記録館。どこへ向かうかで変わる」


「また女性か」


「たぶん」


 アヤメが言う。


「今度は、どんな女?」


 ナナセは少し考えた。


「青の涙に近づくなら、医療ではなく、保存科学の女性研究員。あるいは、美術館の外部調査員。静かで、でも質問を止めない人」


 玲央は、椅子にもたれた。


「必要なだけ、だな」


「そう」


 ナナセは頷いた。


「必要なだけ」


 その言葉は、もう玲央を薄くしなかった。


 むしろ、戻る場所があることを思い出させた。


 仮面は逃げ場ではない。


 今は、誰かの名前へ近づくための道だった。


 机の上には、雨宮志乃が持ち帰った記録がある。


 父の声。


 沢絵里保護記録。


 水原という名。


 方舟の下。


 そして、玲央自身へ向けられた父の願い。


 一人で来させるな。


 玲央は、ナナセとアヤメを見た。


「一人では来なかった」


 小さく言った。


 二人は、何も言わなかった。


 だが、その沈黙は返事だった。


 外では、雨がまだ降っていた。


 方舟の下から戻った雨宮志乃は、もういない。


 けれど、彼女が守った記録は、作業部屋の机の上に残っている。


 黒瀬玲央は、その記録の前で、父の真実ではなく、次に守るべき生きた名前を見つめていた。


 沢絵里。


 水原。


 青の鍵。


 次の扉は、青い涙の向こうにある。


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