第16話 硝子の女神は名前を返す
青の涙は、まだ泣いていなかった。
警視庁の保全室で、《青衣の女》は静かに眠っていた。
黒い布に囲まれ、温度と湿度を管理された小さな室内。財団の展示室とは違い、余計な照明も、飾りも、来客の視線もない。そこにあるのは、作品を壊さずに確認するための機材と、数人分の緊張だけだった。
黒瀬玲央は、青井怜子として立っていた。
青井怜子。
三十五歳。
保存科学の外部研究員。
服装は薄い青灰色のジャケット、白いシャツ、細身の黒いパンツ。髪は肩につかない長さで、後ろへ軽く流している。化粧はほとんどない。目元を少しだけ鋭く整え、唇の色は抑えてある。
雨宮志乃が現場で傷みを見る女なら、青井怜子は光と素材を見る女だった。
感情ではなく、反射を見る。
声ではなく、波長を見る。
絵の表面ではなく、層を見る。
ナナセはそう説明した。
玲央は、鏡の前でその説明を何度も繰り返した。
青井怜子は、青の涙に近づくための仮面だった。
隣には氷見沢咲良が立っている。黒いスーツ、結んだ髪、感情を抑えた目。森塚は機材の記録を確認している。別室ではナナセが通信と映像解析を担当していた。アヤメは月沢葵として警察側の参考人扱いで待機している。
全員が、別の名前でここにいた。
だが、追っているものは同じだった。
沢絵里。
水原。
そして、黒瀬暁人の最後の音声。
青井怜子は、作品の前に立った。
《青衣の女》。
通称、泣かない女。
肖像画の女性は、今日も泣いていなかった。
青い目だけが、深く、静かに光っている。
かつて誰かが彼女に与えた、彼女自身のものではない青。
玲央は、その目を見つめた。
サワ。
欧州名、エリザ。
自分の名を奪われ、別の姿で残された女性。
父は、彼女を「泣かされている」と書いた。
それは正しかった。
「始めます」
青井怜子の声で、玲央は言った。
咲良が頷く。
「記録開始」
照明が落ちる。
青い目に、細い光が当てられる。
直接触れない。
削らない。
外さない。
ただ、角度と光で読む。
白い星、緋の冠、黒の翼は、欠片や影で名前を開いた。
青の涙は、目に宿る。
ならば、目は見るためではなく、見返すためにある。
ナナセの声が通信で聞こえた。
「角度、あと二度下」
玲央は装置を調整する。
青の中に、細い線が浮いた。
最初は模様にしか見えなかった。
だが、光を絞ると、線は文字になった。
MIZUHARA.
EREI SAWA.
BLUE KEY.
そして、その下に、日本語のような細い文字。
水原記録室。
房総、旧海浜療養所跡。
玲央は息を止めた。
水原。
名前ではなく、場所でもあった。
沢絵里は、水原という名で保護された。
そして、水原記録室にいる。
あるいは、いた。
「読めました」
青井怜子として、玲央は言った。
声は震えなかった。
咲良が近づく。
「内容は」
「水原記録室。房総、旧海浜療養所跡。沢絵里氏の保護記録に関係する表示です」
咲良の目が鋭くなる。
「現在の所有者は」
森塚が端末を操作する。
「廃止済みの民間療養施設です。現在は、関連法人が資料倉庫として管理。法人名は……水原保存研究所」
部屋の空気が変わった。
水原保存研究所。
沢絵里は、そこにいる。
御影も、おそらくそれを知っている。
咲良はすぐに指示を出した。
「保全要請。現地確認。御影財団の関係車両が向かっていないか照会して」
「はい」
玲央は、《青衣の女》を見た。
青の涙は、泣かなかった。
だが、道を示した。
水原へ。
沢絵里へ。
父の真実へ。
*
水原保存研究所は、海の近くにあった。
かつて療養所だった建物は、白い外壁のところどころが風に削られ、窓枠は古く、庭には背の低い松が並んでいた。海からの風が強く、建物の裏手には灰色の波が見える。
ここが、方舟の先。
ここが、青の涙の示した場所。
玲央は、青井怜子の姿のまま車を降りた。
咲良、森塚、数名の警察官、保存資料の外部確認員。アヤメは月沢葵として同行している。ナナセも今回は別車両で来ていた。表向きには衣装職人ではなく、資料梱包補助員として。
ナナセが現場に来るのは珍しい。
玲央は反対した。
危険だと言った。
だが、ナナセは一言で返した。
「仮面を直す者がいることを願うって、黒瀬さんが言ってた」
それで、何も言えなくなった。
建物の入口には、小さな表札があった。
水原保存研究所。
その下に、古いプレートがある。
旧水原海浜療養所。
門の前には、誰もいなかった。
だが、建物は無人ではない。
窓の奥に人の気配がある。
咲良が警察手帳を示し、呼び鈴を押した。
しばらくして、扉が開いた。
現れたのは、六十代ほどの女性だった。
白髪を後ろでまとめ、濃い緑のカーディガンを羽織っている。細い体だが、背筋は伸びていた。顔には深い疲れが刻まれている。それでも、目は澄んでいた。
玲央は、その目を見て分かった。
この人だ。
沢絵里。
水原絵里。
青の涙が示した証人。
女性は、咲良を見た。
次に、アヤメを見た。
そして最後に、青井怜子として立つ玲央を見た。
その目が、ほんのわずかに揺れた。
「黒瀬さんに、似ていますね」
その一言で、玲央の仮面が軋んだ。
青井怜子は、黒瀬暁人を知らない。
だが、玲央は父の息子だった。
咲良が一歩前へ出る。
「沢絵里さんですね」
女性は、静かに答えた。
「今は、水原絵里と名乗っています」
「お話を伺いたいことがあります」
「分かっています」
水原絵里は、扉を開けた。
「遅かったくらいです」
中は、療養所の名残を残した資料施設だった。
長い廊下。
白い壁。
古い木の床。
部屋のいくつかは、資料保管室に改装されている。棚には箱が並び、保存袋に入れられた紙資料、写真、古い器物が整理されていた。
水原絵里は、奥の閲覧室へ案内した。
そこには、一つの大きな机があり、その上に灰色の布で覆われたものがあった。
玲央は、その布から目を離せなかった。
水原絵里は、ゆっくり布を取った。
中にあったのは、古い硝子の破片だった。
硝子の女神の一部。
黒羽の間にあった女神像の背部と、形が合う。
水原絵里は言った。
「御影が保管している硝子の女神は、完全ではありません」
咲良が問う。
「欠片を、あなたが持っていたのですか」
「預かっていました。黒瀬暁人さんから」
玲央の喉が詰まる。
父は、硝子の女神を完全なまま御影に渡さなかった。
記録を分けた。
鍵を分けた。
証人を分けた。
水原絵里は、青井怜子の姿の玲央を見た。
「あなたは、玲央さんですね」
その名前を聞いた瞬間、青井怜子はほとんど崩れた。
咲良が、短く言った。
「黒瀬さん」
玲央は目を閉じた。
そして、ゆっくりウィッグの留め具に触れた。
ナナセが息を呑む気配がした。
玲央は、少しだけ迷った。
ここで仮面を外すべきか。
まだ御影が来るかもしれない。
まだ危険は終わっていない。
だが、この人の前で青井怜子を続けることは、違う気がした。
沢絵里は、父と一緒に証人だった人だ。
父が守ろうとした人だ。
そして、玲央に「似ていますね」と言った人だ。
玲央は、ウィッグを外した。
派手な動きではない。
静かに。
自分の手で。
青井怜子が消え、黒瀬玲央が現れる。
ナナセは何も言わなかった。
アヤメも黙っていた。
咲良は、その場を止めなかった。
「黒瀬玲央です」
玲央は言った。
水原絵里は、しばらく彼を見つめていた。
そして、深く頭を下げた。
「お父様を、長くお返しできませんでした」
玲央は、息が止まるかと思った。
「父は」
声が掠れる。
「父は、生きているんですか」
水原絵里は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、玲央の胸を締めつけた。
やがて彼女は、静かに言った。
「生きています」
世界が、音を失った。
窓の外の波の音も、風の音も、誰かの呼吸も、すべて遠ざかった。
生きている。
父が。
黒瀬暁人が。
玲央は、椅子の背に手を置いた。
立っていなければならなかった。
崩れてはいけない。
だが、足元が不安定だった。
水原絵里は続けた。
「ただし、ここにはいません。五年前、御影から私を逃がしたあと、暁人さんは別の場所へ移りました。御影に追われる私を隠すため、彼は自分の所在をいくつも偽装した。あなたに連絡しなかったのは、あなたを狙わせないためです」
「でも」
玲央の声が震えた。
「でも、俺は」
「恨んでいい」
水原絵里が言った。
「暁人さんも、それを覚悟していました。守ったから許されるとは思っていませんでした」
玲央は、何も言えなかった。
父は生きている。
だが、会えない。
すぐには。
それでも、生きている。
その事実だけで、怒りも安堵も混ざり合い、胸の中で形を失った。
ナナセが、静かに近づいてきた。
何も触れない。
ただ、近くに立つ。
仮面を直す者。
玲央は、その存在だけで少し呼吸を取り戻した。
アヤメが、水原絵里へ尋ねた。
「月沢英司を覚えていますか」
水原絵里は、アヤメを見た。
「あなたが、月沢さんの娘さん」
「月沢葵です」
アヤメは、自分の名をはっきり言った。
水原絵里の目が、少し潤んだ。
「英司さんは、最後まで証人でした。御影に屈しませんでした。月沢古美術が潰されたのは、彼が嘘をつかなかったからです」
アヤメの顔が歪みかけた。
だが、彼女は泣かなかった。
「父は、贋作を扱っていなかったんですね」
「扱っていません」
水原絵里は断言した。
「御影が、月沢さんを黙らせるために作った疑いです。その証拠も、ここにあります」
机の上に、資料が並べられた。
御影財団の内部文書。
月沢古美術への圧力記録。
《青衣の女》の来歴改変案。
サワ・エリザの名を削除する指示。
沢絵里を研究職から退けるための働きかけ。
そして、黒瀬暁人が保管していた照合記録。
咲良が、資料を一つずつ確認する。
森塚が記録する。
ナナセは、紙の状態を見て、必要なものから保存袋へ入れる。
玲央は、それを見ていた。
盗まない。
隠さない。
公的に記録する。
それが、御影への最も強い反撃だった。
*
御影が現れたのは、資料確認が進み始めたころだった。
外で車の音がした。
警察官が動く。
咲良が顔を上げる。
水原絵里は、驚かなかった。
「来ますね」
「予想していましたか」
咲良が聞くと、水原絵里は頷いた。
「青の涙が水原を開いた時点で、御影も分かっていたはずです」
入口の方で声がした。
御影宗一郎。
そして桐生芹奈。
数名の財団職員。
警察官が制止している。
咲良は立ち上がった。
「ここからは警察が対応します」
玲央も立ち上がろうとした。
咲良が鋭く言う。
「黒瀬さん」
止まれ。
その声だった。
玲央は動きを止めた。
水原絵里が言った。
「逃げません。もう」
その言葉は、玲央にも、アヤメにも、ナナセにも向けられていた。
御影は、閲覧室の入口に立った。
いつものように穏やかな顔で。
しかし、その目には、これまでにない冷たさがあった。
「沢先生。お久しぶりです」
水原絵里は、椅子から立ち上がらなかった。
「私は、水原絵里です」
「では、水原先生」
御影は微笑む。
「長い間、よく隠れていらっしゃいました」
「隠したのはあなたです。私は、生きて記録を守っていただけです」
咲良が前へ出る。
「御影宗一郎さん。この施設内の資料は、現在、警察の保全対象です。無断で触れないでください」
「もちろんです。私は所有権の確認に来ただけです」
「所有権?」
「水原保存研究所には、御影財団の委託資料が含まれています」
アヤメが静かに言った。
「また所有ですか」
御影の視線がアヤメへ移る。
「月沢さん。お父上の件は残念でした」
アヤメは、今度は揺れなかった。
「父は証人でした」
御影は微笑む。
「証人は、証言して初めて意味があります」
「だから私が証言します」
アヤメの声は低かった。
「月沢英司は、御影財団によって信用を壊されました。父の帳簿も、北園家資料も、ここにある記録も、それを示しています」
御影は、静かに笑った。
「あなたは怪盗では?」
「今は、月沢英司の娘です」
その言葉に、玲央は胸を打たれた。
アヤメは、自分の名で立っていた。
月城アヤメでも、桐原麗奈でもない。
月沢葵。
御影は、次に玲央を見た。
「黒瀬玲央くん。ようやく素顔ですか」
玲央は、青井怜子の衣装のまま、ウィッグを外した状態で立っている。
中途半端だった。
女性の衣装をまとい、素顔を晒している。
以前なら、それは敗北だった。
仮面を崩された姿。
見られたくない姿。
だが今は違う。
自分で外した。
自分の名前で立っている。
「素顔で話す必要がある相手だと思ったので」
玲央は言った。
御影は笑う。
「成長しましたね。暁人さんが見たら喜ぶでしょう」
「父は生きている」
玲央は言った。
その言葉を、自分の口で確かめるように。
御影の笑みが、わずかに薄くなった。
「そう聞きましたか」
「あなたより、水原さんの言葉を信じます」
「証人の言葉は、ときに都合よく変わります」
「だから記録がある」
玲央は、机の上の資料を指した。
「父は、記録を残した。沢絵里さんも、月沢英司さんも、北園家も。硝子の女神も、黒の翼も、青の涙も。あなたが消した名前は、全部残っていた」
御影の目が冷える。
「残っていたからといって、公にできるとは限りません」
咲良が言った。
「公にするかどうかは、司法手続きの中で判断されます。少なくとも、あなたが隠すことはできません」
御影は、咲良を見た。
「刑事さん。あなたは怪盗の言葉を信じすぎる」
「信じていません。記録を見ています」
咲良の返答は冷たい。
「黒瀬さんが何者であるかと、あなたが何を隠したかは別です」
御影は、しばらく黙った。
その沈黙が、初めて敗北に近く見えた。
だが、御影は崩れなかった。
彼は、ゆっくり息を吐き、玲央を見た。
「黒瀬玲央くん。君は仮面を増やしてここまで来た。女にも、研究者にも、配信者にも、記録係にも、技師にもなった。けれど、最後に残るのは犯罪者の名です」
玲央は頷いた。
「分かっています」
御影の目が細くなる。
「認めるのですか」
「俺は盗んだ。隠した。逃げた。だから、その責任は取ります」
ナナセが、少しだけ顔を上げた。
アヤメも玲央を見る。
玲央は続けた。
「でも、それとあなたの罪は別です。俺が怪盗だったことは、あなたが名前を消していい理由にはならない」
御影は、黙った。
初めて、完全に黙った。
その沈黙を、咲良は見逃さなかった。
「御影宗一郎さん。任意同行を求めます。拒否される場合、こちらは保全資料に基づき手続きを進めます」
御影は笑みを戻そうとした。
だが、戻りきらなかった。
桐生芹奈が一歩前へ出る。
「理事長、ここは」
御影は手で制した。
「分かっています」
彼は、最後に硝子片を見た。
「硝子の女神は、名前を守るための器でした」
水原絵里が言った。
「あなたは、それを罪の保管庫にした」
御影は、少しだけ目を閉じた。
「保管者は、時に嫌われるものです」
「保管者ではありません」
玲央が言った。
「あなたは、所有しようとしただけです」
その言葉に、御影は返さなかった。
警察官が近づく。
御影は抵抗しなかった。
桐生も、咲良に促され、事情聴取のため同行することになった。
終わりは、派手ではなかった。
叫びも、追跡も、崩れ落ちる演出もない。
ただ、記録が積み上がり、名前が戻り、御影はそれ以上黙らせることができなくなった。
それだけだった。
だが、それが一番強かった。
*
硝子の女神が完全な形を取り戻したのは、一週間後だった。
警察と専門家の立ち会いのもと、御影財団から保全された女神像に、水原絵里が預かっていた硝子片が合わせられた。白い星、緋の冠、青の涙、黒の翼の記録も照合され、硝子の女神の内部に隠された名前と来歴が正式に読み取られた。
そこには、すべてがあった。
サワ・エリザ。
明治期に欧州へ渡った日本人女性。
彼女が持ち帰った硝子の女神。
北園家の記録。
沢家の記録。
沢絵里の研究。
月沢英司の鑑定。
黒瀬暁人の修復。
御影宗一郎による来歴改変と隠蔽の痕跡。
硝子の女神は、美しい像ではなかった。
名前を守るための器だった。
そして、長く閉じ込められていた名前は、ようやく外へ出た。
月沢古美術の贋作疑惑は、再調査されることになった。
月沢英司の名誉回復には、時間がかかる。
だが、道は開いた。
アヤメは、月沢葵としてその手続きを進めることを選んだ。
怪盗月城アヤメとしてではなく。
月沢英司の娘として。
沢絵里は、水原絵里の名を残しつつ、研究者として証言することを決めた。
長く隠れていた彼女は、もう隠れないと言った。
咲良は、御影財団の捜査を続けた。
御影宗一郎の罪がどこまで法的に問えるかは、簡単ではない。古い記録、消えた証人、複雑な所有関係。時間はかかる。
それでも、もう御影だけが記録を握っているわけではなかった。
そして玲央は、白い星と緋の冠の欠片を咲良へ提出した。
取調室ではなかった。
警察署内の小さな会議室だった。
玲央は、黒瀬玲央としてそこに座った。
女装も、ウィッグも、メイクもない。
正面には咲良。
横にはナナセ。
少し離れて、アヤメ。
咲良は、提出された欠片を確認した。
「これで、あなたが持っていたものは全部ですか」
「はい」
「後で違うものが出てきたら、厳しく見ます」
「分かっています」
「怪盗レオナとしての件も、消えるわけではありません」
「分かっています」
咲良は、玲央を見た。
「それでも、証拠保全と事件解明に協力したことは記録します」
「記録」
玲央は少し笑った。
「最近、その言葉ばかりですね」
「大事ですから」
「はい」
玲央は、素直に頷いた。
咲良は少しだけ表情を緩めた。
「お父様とは、会う予定ですか」
玲央は、答える前に少し息を吸った。
「水原さんを通じて、連絡が来ました」
ナナセが横で静かに目を伏せる。
アヤメも、何も言わない。
「父は、まだ公には出られない。でも、会う場所を調整しているそうです」
「会いたいですか」
玲央は、少し考えた。
会いたい。
怒りたい。
問い詰めたい。
抱きしめたいのかもしれない。
殴りたいほど腹が立っているのかもしれない。
分からない。
だから正直に言った。
「分かりません」
咲良は頷いた。
「それでいいと思います」
玲央は、咲良を見た。
「刑事らしくないですね」
「刑事としてではなく、人として言いました」
会議室は、少しだけ静かになった。
*
三か月後。
小さな特別展示が開かれた。
題名は、「サワ・エリザと硝子の女神――消された名前の修復」。
主催は、複数の美術館、研究機関、警察の保全協力を受けた独立調査委員会。御影財団の名前は、主催から外れていた。
展示室の中央には、硝子の女神が置かれていた。
以前の黒羽の間とは違う。
明るく、静かで、誰でも見られる場所。
女神像の横には、丁寧な解説がある。
サワ・エリザ。
沢絵里。
月沢英司。
黒瀬暁人。
北園家。
それぞれの名前が、隠されずに記されていた。
《青衣の女》も展示された。
ただし、通称「泣かない女」ではなく、正式にこう記されていた。
《サワ・エリザの肖像》。
その目は、青かった。
だが、もう泣かされているようには見えなかった。
玲央は、展示室の隅に立っていた。
今日は変装していない。
黒瀬玲央として来ている。
隣にはナナセがいる。
少し離れた場所で、アヤメ――いや、月沢葵が、父の名が記された解説板を見ている。
咲良も会場にいた。
仕事の顔ではなく、来場者として。
水原絵里は、研究者として展示解説に参加している。
そして、展示室の奥に、一人の男が立っていた。
痩せた男だった。
髪には白いものが混じっている。
顔には疲れが刻まれている。
けれど、目は玲央の記憶の中と同じだった。
黒瀬暁人。
父だった。
玲央は、すぐには動けなかった。
父も、すぐには近づいてこなかった。
二人の間に、長い時間があった。
五年分の沈黙。
知らせるなという記録。
追えば壊れるという言葉。
仮面を持たなかった息子。
いくつもの仮面を持ってここまで来た息子。
暁人が、先に頭を下げた。
「玲央」
それだけだった。
玲央は、その声を聞いた瞬間、何かが胸の奥で崩れた。
怒りも、安堵も、悲しみも、全部が混ざった。
だが、倒れなかった。
隣にナナセがいた。
少し離れてアヤメがいた。
咲良がいた。
水原絵里がいた。
一人ではなかった。
玲央は、父の前へ歩いた。
「父さん」
声は、思ったより静かだった。
「聞きたいことが、山ほどある」
暁人は頷いた。
「ああ」
「怒ってる」
「ああ」
「でも、生きていてよかった」
暁人の目が揺れた。
「すまなかった」
玲央は、すぐには許さなかった。
許せなかった。
けれど、そこで背を向けることもしなかった。
「全部話して」
「ああ」
「今度は、隠さずに」
暁人は、深く頷いた。
「話す」
それが、二人の再会だった。
劇的な抱擁も、涙の和解もなかった。
だが、名前は戻った。
声も戻った。
それで十分だった。
*
展示室を出るころ、夕方の光がガラス扉に反射していた。
玲央は、ナナセと並んで歩いた。
アヤメが少し後ろから来る。
咲良は、出口近くで待っていた。
「黒瀬さん」
「はい」
「次に怪盗レオナとして動いたら、捕まえます」
玲央は苦笑した。
「今も捕まえる気でしょう」
「必要があれば」
「便利な言い方ですね」
「職務上、必要です」
ナナセが小さく笑った。
アヤメも、珍しく穏やかに言った。
「怪盗は廃業?」
玲央は少し考えた。
白河レイカ。
佐伯真理。
三枝真澄。
早乙女ミレイ。
七瀬リコ。
黒宮ゆゆ。
白鳥澪。
雨宮志乃。
青井怜子。
いくつもの女性の仮面。
それぞれが、どこかへ彼を連れていった。
逃げるための仮面だったものは、いつの間にか名前を守るための仮面になっていた。
玲央は言った。
「盗む怪盗は、終わりです」
咲良が目を細める。
「では?」
「まだ分かりません。でも、消されたものを見つける仕事は、続けたい」
ナナセが言った。
「変装は?」
玲央は少し笑った。
「必要なら」
アヤメが肩をすくめる。
「結局、必要なだけね」
「そうだな」
玲央は、展示室の中を振り返った。
硝子の女神が、光の中に立っている。
もう黒羽の間にはいない。
暗い方舟の下にもいない。
人の前に出て、名前を返している。
それで、物語は終わったのだと思った。
怪盗レオナの物語は。
だが、黒瀬玲央の物語は、ここから少し違う形で続くのかもしれない。
仮面を被ることは、嘘をつくことだけではない。
誰かの名前へ近づくために、誰かの視点を借りることでもある。
ただし、もう一つだけ違う。
今の玲央には、戻る場所がある。
仮面を直す者がいる。
記録を疑う者がいる。
同じように名前を取り戻した者がいる。
そして、長い沈黙の向こうから戻ってきた父がいる。
玲央は、白い手袋をポケットから取り出した。
最初の夜、白河レイカとしてはめていたものではない。
新しく、ナナセが作ったものだった。
盗むためではなく、資料を傷つけないための手袋。
玲央は、それを静かに握った。
ガラス扉の外には、夜が来ようとしていた。
かつてなら、夜は盗みの時間だった。
今は、少し違う。
夜は、まだ見えない名前を探しに行く時間でもある。
黒瀬玲央は、素顔のまま歩き出した。
硝子の女神は、もう泣いていなかった。
そして、彼もまた、仮面の奥へ逃げるだけの怪盗ではなくなっていた。
――完。




