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8話 泣かされている肖像



 黒瀬玲央は、眠らなかった。


 正確には、眠る必要があることは分かっていた。ナナセにも言われた。アヤメにも、珍しく「少し寝たほうがいい」と言われた。だが、布団に入って目を閉じるたびに、あの肖像画の青い目が浮かんだ。


 青の涙。


 海ではなく、目に宿る。


 彼女は泣いていない。泣かされている。


 父の手帳にあった言葉は、ただの比喩ではなかった。御影財団の小展示室で見た肖像画の目には、確かに何かがあった。青い顔料でも、ただの装飾でもない。白い星、緋の冠と同じ系統の何か。硝子の女神へ続く鍵の一つ。


 けれど、それだけではない。


 父は、あの肖像画を見て「彼女」と書いた。


 作品ではなく、物ではなく、彼女。


 そこに描かれた女性を、一人の人間として見ていた。


 玲央は、机に置かれた父の手帳を開いた。


 何度も読んだせいで、ページの端は柔らかくなっている。父の字は、最初のほうでは整っていた。修復師らしい、必要な情報を必要なだけ書く字だ。だが、御影財団の名が増えるにつれて、字の間隔が狭まり、線が細くなっていく。焦りを押し殺したような字だった。


 “青の涙、海ではなく目に宿る。”


 “彼女は泣いていない。泣かされている。”


 その下に、さらに読みにくい文字がある。


 玲央は作業灯を近づけた。


 かすれている。インクが薄い。何かの拍子に水でも落ちたのか、紙がわずかに波打っている。


 “名は――”


 そこから先が読めない。


 玲央は息を詰めた。


 名。


 肖像画の女性の名前だろうか。


 父は、そこまで掴んでいたのか。


「まだ起きてる」


 背後から声がした。


 振り返ると、ナナセが立っていた。髪は少し乱れ、肩に薄いカーディガンを羽織っている。完全に起きているというより、眠れずに起きてきた顔だった。


「お前こそ」


「私は寝た」


「何分」


「数え方による」


「寝てないだろ」


「あなたよりは寝た」


 ナナセは玲央の向かいに座った。


 作業部屋は、深夜と朝の間の曖昧な時間に沈んでいた。外の街はまだ静かで、古い窓の向こうに薄い青が滲み始めている。夜明け前の色だった。


 ナナセは手帳を見た。


「またそこ?」


「読めない字がある」


「見せて」


 玲央は手帳を渡した。


 ナナセは作業灯の角度を変え、拡大鏡を持ってきた。衣装の細かい縫い目を見るためのものだ。彼女は慎重にページを押さえ、かすれた文字を覗き込む。


「名は……その後、たぶん一文字か二文字。漢字じゃないかもしれない」


「外国人名?」


「可能性はある。肖像画自体が欧州由来と説明されていたなら」


「御影の説明を信じるならな」


「信じない。でも、完全な嘘とも限らない。嘘は本当を混ぜたほうが強い」


 ナナセは、ページをしばらく見つめた。


「ここ、紙が少し削れてる」


「削れてる?」


「インクが消えたんじゃなくて、誰かがこの部分を意図的に擦った可能性がある」


 玲央の表情が変わった。


「父が?」


「分からない。黒瀬さんが消したのか、誰かが後から消したのか。ただ、自然に薄くなっただけではなさそう」


 玲央は手帳を取り返し、かすれた部分を見た。


 名は――


 その先が消されている。


 誰かが、肖像画の女性の名前を隠した。


 御影か。


 父か。


 あるいは、別の誰かか。


 ナナセは椅子にもたれた。


「調べる必要があるね」


「ああ」


「でも、御影財団に直接近づくのは危険」


「分かってる」


「咲良さんに連絡する?」


 その言葉で、玲央は動きを止めた。


 机の端に置かれた咲良の名刺が目に入る。


 氷見沢咲良。


 警視庁捜査二課。


 敵。


 だが、御影を止めるためには接触する選択肢がある。昨夜、青の涙を取らなかったのも、御影の罠に乗らなかったからだ。咲良はそれを見ていた。少なくとも、玲央が作品を壊さなかったことは理解しているはずだった。


 それでも、連絡すれば危険が増す。


 玲央の位置を知らせることになる。


 話をすれば、言葉のどこかから手帳や欠片の存在を推測されるかもしれない。


 何より、咲良は刑事だ。


 話が通じる相手でも、最後には捕まえる側にいる。


「まだ早い」


 玲央は言った。


 ナナセは反論しなかった。


「じゃあ、別ルートで調べる」


「別ルート?」


「肖像画の来歴。旧展覧会カタログ。御影財団が買い取る前の所有者。作者不詳なら、逆に展示歴や修復歴が残っている可能性がある。作品そのものを調べるより、周辺資料を洗う」


「図書館か」


「美術資料室、古書店、大学の紀要、オークション記録。御影が消しきれない外側の情報を拾う」


 玲央は頷いた。


 盗むのではない。


 調べる。


 怪盗としてではなく、修復師の息子として。


 それは、昨夜から続く新しい道だった。


 そのとき、部屋の奥でアヤメが起き上がった。


 彼女は毛布を肩から落とし、眠そうに目を細めている。短い地毛のまま。化粧はほとんど落ちていた。まだ他人に素顔を見せることに慣れていないのか、視線を合わせる前に髪に触れる癖がある。


「図書館に行くなら、私も行く」


「起きてたのか」


 玲央が言うと、アヤメは軽く肩をすくめた。


「起こされたの。あなたたち、深夜に調査会議をする声が静かすぎて逆に気になる」


「静かなら寝ろ」


「気になるものは気になるの」


 アヤメは机へ近づき、父の手帳を覗き込んだ。


「名前が消されているのね」


「見えるのか」


「見えない。でも、二人の顔を見れば分かる」


 アヤメは手帳のページを見つめた。


「肖像画の女性の名前を探す。いいわね。御影が隠したいのは、青の涙そのものだけじゃない。あの絵の女性が誰か、という情報かもしれない」


「お前は心当たりがあるのか」


「まだない。でも、古美術商の家で育つと、名前が消された作品ほど危ないと教わるの」


「どういう意味だ」


「作者不詳、来歴不明、モデル不明。そういう言葉は、単に分からないという意味のこともある。でも、ときには“分からないことにしている”という意味でも使われる」


 アヤメの声は、いつもより低かった。


 自分の家のことを思い出しているのだろう。


 御影に奪われた家。


 贋作の疑いをかけられた古美術商。


 消された名前。


 彼女にとって、それは他人事ではない。


 ナナセは、三人の前に紙を置いた。


「今日の目的を決める」


 彼女は項目を書き出した。


 一、肖像画の過去の展示歴を探す。


 二、青い目の女性肖像画に関する資料を探す。


 三、御影財団が取得する前の所有者を探す。


 四、黒瀬暁人が関わった修復記録を探す。


 五、咲良にはまだ連絡しない。ただし、選択肢として残す。


 アヤメが言った。


「外に出るなら変装は?」


 ナナセは即答した。


「必要。ただし、薄く」


「薄く?」


「昨日までみたいな役を作り込まない。今日は潜入じゃなく調査。図書館や資料室で目立たなければいい。崩される危険より、咲良さんや御影側に生活圏を読まれる危険が大きい」


「つまり」


「玲央は大学院生風。美術史専攻。名前は森川怜」


「また近い名前だな」


「近いほうが反応が自然。ただし、黒瀬玲央とは結びつきにくい」


 ナナセは玲央を見た。


「服は地味。眼鏡あり。髪はそのまま。メイクはほぼなし。少しだけ肌色を変える。体型補正は使わない」


「アヤメは?」


「古書店員か、研究補助員。名前は葵のままでいい」


「月島葵?」


「そう。昨日の役を薄めて使う。人物を使い捨てにしない。継続して使える仮面にする」


 アヤメは、少しだけ驚いたようにナナセを見た。


「仮面を育てるの?」


「そう。毎回別人になるより、いくつかの人物を継続させたほうが崩れにくくなる」


 玲央は、その言葉を聞いて考えた。


 仮面を育てる。


 これまで玲央は、役を使い捨てにしてきた。白河レイカも、佐伯真理も、瀬尾圭一も、朝倉紘一も、必要な場面のために作り、その場が終われば捨てた。壊れた役に戻ることはほとんどなかった。


 だが、それは人物ではなく道具だったからだ。


 ナナセは、神崎遥や月島葵を、道具ではなく継続できる人物として作ろうとしている。


 そのほうが、崩れても戻れる。


 玲央自身も、そうやって変わるべきなのかもしれない。


     *


 午前十時。


 三人は別々に作業部屋を出た。


 一緒に出れば目立つ。かといって、完全に時間をずらしすぎると互いの状況が掴みにくい。ナナセは工房へ戻り、外部から調査を支援する。玲央とアヤメは、都内の美術資料室と古書店を回る。


 最初の目的地は、都立美術資料センターだった。


 そこには、古い展覧会カタログ、海外オークション資料、美術雑誌のバックナンバー、修復記録の一部が保管されている。御影財団の内部資料ではない。だからこそ、御影が完全には消せない記録が残っている可能性があった。


 玲央は、森川怜として受付に立った。


 薄いグレーのシャツに、紺のカーディガン。眼鏡。手にはノートと資料申請書。大学院生としては少し疲れているが、資料室にいれば珍しくない程度の疲れ方。


 アヤメは、少し離れた場所に立っている。


 月島葵。


 黒いジャケット。短い髪。手にはメモ用のタブレット。昨日の記録員よりも柔らかいが、相変わらず表情は硬い。


 ナナセの声が通信で入る。


「二人とも、資料室では普通の会話をして。妙に距離を取りすぎない。逆に親しげにしすぎない」


「注文が多い」


 玲央は小さく言った。


「森川怜は文句を小声で言うタイプ?」


「言わない」


「じゃあ言わない」


 アヤメが横から小さく笑った。


 受付を済ませ、閲覧席に向かう。


 玲央はまず、御影財団の過去の展示記録を請求した。美術資料センターには、財団が出した展覧会パンフレットや図録の一部が残っている。公開展示に出ていない非公開作品でも、関連資料に断片的に触れられている可能性がある。


 アヤメは海外オークション資料の索引を調べる。


 青い目の女性肖像画。


 作者不詳。


 十九世紀末。


 欧州。


 御影財団。


 条件は曖昧だ。


 それでも、探すしかない。


 資料室の空気は、静かだった。


 ページをめくる音。キーボードを打つ音。遠くの棚で職員が資料を戻す音。宝飾展や銀座地下の緊迫感とは違う。ここでは誰も走らない。誰もウィッグを掴まない。誰もメイクを暴こうとしない。


 だが、玲央には別の緊張があった。


 調べることは、盗むことより難しい。


 盗みは、対象が見えている。近づき、奪い、逃げる。もちろん危険だ。だが、目的は明確だ。


 調査は違う。


 何が見つかるか分からない。何も見つからないかもしれない。資料の山の中で、ただ時間だけが過ぎることもある。それでも手を動かす必要がある。


 父は、こういう作業をしていたのだろうか。


 玲央は、古い図録を開いた。


 御影財団創立二十周年記念展。


 所蔵品名品選。


 支援修復プロジェクト記録。


 そこには、華やかな作品写真と、美しい解説文が並んでいた。


 御影宗一郎の挨拶文もある。


 文化を未来へつなぐ。


 失われた美を守る。


 玲央は、その言葉を見るたびに、少し吐き気に近いものを感じた。


 父の写真を探す。


 黒瀬暁人。


 何度か小さく名前が出てくる。修復協力者。技術監修。状態調査。だが、五年前を境に名前が消える。まるで、最初からいなかったように。


 その消え方が、不自然だった。


「玲央」


 ナナセの声。


「今、名前で呼ばないでくれ」


「ごめん。森川。御影財団の図録で、五年前の前後を重点的に見て。黒瀬さんの名前が消えた時期と、肖像画の取得時期が重なるかもしれない」


「分かった」


 玲央は、五年前の図録を取り出した。


 御影財団非公開所蔵品調査報告、抜粋版。


 一般向けではないが、研究機関向けに配布された資料らしい。厚さは薄い。写真も少ない。だが、作品リストがあった。


 玲央はページをめくる。


 番号、作品名、推定年代、素材、旧所有者。


 その中に、気になる項目があった。


 《青衣の女》


 作者不詳。


 十九世紀末。


 油彩、混合素材。


 旧所有者欄は空白。


 備考。


 “眼部に特殊反射材。状態調査中。”


 玲央は息を止めた。


 これだ。


 青衣の女。


 昨日の肖像画だ。


 彼女は青みを帯びた黒いドレスを着ていた。目に特殊な青の反射があった。


 玲央は資料のページを静かに押さえた。


「見つけた」


 ナナセの声が少し鋭くなる。


「作品名は?」


「《青衣の女》。作者不詳。十九世紀末。油彩、混合素材。眼部に特殊反射材。状態調査中」


「旧所有者は?」


「空白」


「空白……」


 アヤメが隣へ来た。


 彼女はページを見て、眉を寄せる。


「旧所有者が空白なのは不自然ね。非公開資料でも、普通は個人蔵、海外個人蔵、旧某家蔵くらいは書く」


「消している?」


「たぶん」


 玲央は、さらに備考欄を見た。


 小さな注記がある。


 “調査担当:黒瀬暁人、E. S.”


「E. S.?」


 玲央が呟く。


 アヤメが反応した。


「共同調査者?」


「たぶん。父ともう一人」


「外国人名のイニシャルかもしれない。エリス、エミリア、エドワード、いくらでもある」


 ナナセが通信で言った。


「そのページ、内容を控えて。写真は?」


「撮影禁止」


「じゃあ、書き写して」


 玲央はノートに必要な情報を書き写した。


 その手が少し震えた。


 父の名前。


 《青衣の女》。


 青の涙。


 そして、E. S.


 父は一人で調べていたわけではない。


 誰かがいた。


 その誰かは、今も生きているのか。


 御影はその存在を知っているのか。


 玲央は、ページをめくった。


 次のページに、作品の小さな白黒写真が載っていた。


 粗い印刷だが、昨日の肖像画と一致する。


 青い目は白黒では分からない。


 だが、女性の顔は分かる。


 玲央は、写真の下に小さく書かれた文字を見つけた。


 “通称:泣かない女”


 父の手帳の言葉が、頭の中で響いた。


 彼女は泣いていない。泣かされている。


「泣かない女……」


 アヤメが低く言った。


「御影らしい悪趣味な通称ね」


 玲央は、写真を見つめた。


 肖像画の女性は、泣いていない。


 表情は静かだった。


 だが、その静けさは、涙を流していないというだけで、悲しみがないという意味ではなかった。


 泣かない女。


 泣かされている女。


 誰が、何をしたのか。


     *


 同じころ、咲良も《青衣の女》を調べていた。


 警視庁の一室で、彼女は御影財団の過去資料と美術品登録情報を照合していた。森塚が横で端末を操作している。


「氷見沢さん、ありました。《青衣の女》。五年前の御影財団非公開所蔵品調査報告に記載。ただし、現行の財団所蔵品一覧には出てきません」


「削除された?」


「少なくとも公開リストからは消えています」


「旧所有者は」


「空白です」


「空白……」


 咲良は、玲央たちが同じ資料に辿り着いている可能性を考えた。


 彼らは青の涙を盗らなかった。


 ならば、次に調べるのは肖像画の来歴だ。


 黒瀬暁人の手帳を持っているなら、なおさら。


「黒瀬暁人の共同調査者は?」


 森塚が資料を確認する。


「E. S. とだけ記載があります。財団側の記録ではフルネームなし」


「E. S.」


 咲良はメモを取った。


「五年前、御影財団の調査に関わった人物で、イニシャルE. S.。国内外の修復師、美術史家、鑑定士を洗って」


「かなり広いですね」


「狭める。青い目、肖像画、十九世紀末、欧州美術、御影財団との接点」


「分かりました」


 咲良は、資料の白黒写真を見た。


 《青衣の女》。


 通称、泣かない女。


 奇妙な通称だった。


 作品のタイトルではなく、誰かが付けた呼び名。


 泣いていない女性に対して、あえて泣かない女と呼ぶ。


 そこには、見ている側の感情が混じっている。


 咲良は、ふと黒瀬玲央の顔を思い出した。


 小展示室で、彼は作品に触れなかった。


 父の名前で揺さぶられても、御影の挑発に乗らなかった。


 それは、単に警察を警戒したからではない。あの瞬間、彼は作品を壊したくなかったのだろう。


 怪盗としては矛盾している。


 だが、修復師の息子としては自然だった。


 森塚が言った。


「御影財団に任意で追加照会をかけますか」


「かける。ただし、正面から聞いても答えないでしょう」


「では?」


「別の角度から。五年前の黒瀬暁人失踪時の関係者リストと、E. S. を照合する」


 咲良は、机の上の名刺入れを見た。


 柊ナナセに渡した名刺。


 連絡はまだない。


 黒瀬玲央は、まだこちらに来ない。


 来るとしても、ぎりぎりまで迷うだろう。


 それでいい。


 咲良は追う。


 ただし、今回は捕まえるためだけではない。


 御影が消した名前を探すために。


     *


 資料センターでの調査は、午後まで続いた。


 玲央とアヤメは、別々の棚を調べ、必要な情報だけを共有した。直接大声で話すことはできないため、短いメモや視線でやり取りする。ナナセは通信越しに整理役を務めた。


 《青衣の女》。


 通称、泣かない女。


 御影財団非公開所蔵。


 五年前、黒瀬暁人とE. S. が状態調査。


 眼部に特殊反射材。


 旧所有者空白。


 そこまでは分かった。


 しかし、肝心の女性の名前は見つからない。


 資料のどこにも、モデル名はなかった。


 作者名もない。


 旧所有者もない。


 あるのは、作品そのものと、御影財団の管理番号だけ。


 意図的に消されている。


 アヤメは、海外オークション資料の束を閉じた。


「国内資料だけでは限界ね」


「海外?」


「たぶん。御影が海外から買ったことにしているなら、どこかに似た作品の取引記録があるはず。でも、作品名が変えられている可能性がある」


「《青衣の女》ではない?」


「ええ。青いドレスの女、青い眼の肖像、泣かない女、あるいは全然別の名前」


 玲央は、疲れた目でノートを見る。


「E. S. を追うほうが早いか」


「そうね。共同調査者なら、作品の本当の来歴を知っている可能性がある」


「E. S.……」


 玲央は、父の手帳の消された部分を思い出した。


 名は――


 そこに書かれていたのは、肖像画の女性の名かもしれない。


 あるいは、E. S. の名かもしれない。


 ナナセが通信で言った。


「一度、場所を変えて。長く同じ資料室にいると目立つ」


「分かった」


 玲央は資料を返却し、閲覧席を立った。


 アヤメも少し遅れて立つ。


 資料室を出る直前、玲央は背後を振り返った。


 誰かに見られている気がした。


 だが、そこには閲覧者が数人いるだけだった。年配の研究者、学生らしき人、職員。御影側らしき人間も、警察らしき人間も見えない。


 気のせいか。


 いや、気のせいで済ませるべきではない。


 玲央は、自然に歩きながら周囲を確認した。


 アヤメが小声で言う。


「つけられてる?」


「分からない」


「分からないときは、つけられてると思うほうがいい」


「経験則か」


「ええ」


 二人は外へ出た。


 午後の光が眩しい。


 資料室の静けさから出ると、街の音が急に大きく感じられた。車の音、人の声、信号の音。玲央は目を細める。


 次の目的地は、古書店街だった。


 美術図録や古い展覧会資料を扱う専門店がある。公的な資料室にないものが、そこに流れている可能性があった。


 玲央とアヤメは、少し距離を取って駅へ向かった。


 地下鉄の入口に入る前、玲央はガラスに映る背後を見た。


 男が一人。


 黒いコート。


 目立たない顔。


 だが、歩幅がこちらに合わせられている。


 御影側か。


 玲央は、アヤメへ視線を送った。


 彼女も気づいていた。


 ナナセに小声で伝える。


「尾行の可能性」


「人数は?」


「一人。確定ではない」


「撒こうとしないで。今日は逃走劇にしない。人の多い場所を通って、古書店には直接行かない」


「了解」


 玲央は、地下鉄へは入らず、横断歩道を渡った。


 アヤメも別方向から同じ流れに乗る。


 黒いコートの男は、一瞬だけ迷った。


 その迷いで、確信に近づく。


 尾行だ。


 玲央の中で、怪盗としての反射が目を覚ましそうになる。


 細い路地へ入る。


 角を使う。


 人混みで切る。


 そういう選択肢が頭に浮かぶ。


 だが、今日は違う。


 逃走劇にしない。


 ナナセの言葉を思い出す。


 森川怜は、尾行を撒く怪盗ではない。資料調査に来た院生だ。急に路地へ消えれば不自然になる。だから、自然に人の多い書店へ入る。


 玲央は、大型書店に入った。


 美術書の棚へ向かう。


 アヤメも少し遅れて別の入口から入る。


 黒いコートの男は、入口付近で立ち止まった。


 入るか、待つか。


 男は入ってきた。


 玲央は、美術書の棚で本を手に取った。


 アヤメは、少し離れた場所で雑誌を開いている。


 ナナセが言う。


「そのまま普通に。店内カメラがある。相手も無茶はしにくい」


「御影側なら?」


「それでも、ここでは動きにくい」


 玲央は、本のページをめくりながら背後の気配を拾う。


 黒いコートの男は、棚の向こうにいる。


 近い。


 だが、手は出せない。


 玲央は、ふと棚の背表紙に目を止めた。


 十九世紀肖像画の修復。


 欧州私蔵作品の来歴研究。


 青色顔料の歴史。


 偶然か。


 いや、ただの美術書の棚だ。


 しかし、その中に一冊、気になる本があった。


 『失われた肖像画たち――名を消されたモデルの記録』


 玲央は手に取った。


 古い本ではない。研究者向けというより一般書に近い。だが、索引に目を通した瞬間、指が止まった。


 “泣かない女”という項目があった。


 玲央はページを開く。


 そこには、短い記述があった。


 ――通称「泣かない女」と呼ばれる青い眼の女性肖像画は、二十世紀初頭に欧州の個人コレクションに存在したとされる。モデル名については諸説あるが、近年では日本人女性を描いた可能性を指摘する研究もある。


 日本人女性。


 玲央は息を止めた。


 昨日見た肖像画の女性は、欧州の女性に見えた。


 だが、油彩の描き方、衣装、目の色で印象は変えられる。もしモデルが日本人女性だったなら、御影財団が隠す理由はさらに複雑になる。


 続きを読む。


 ――一部資料では、モデルの名を「サワ」と記す。ただし原資料の所在は不明であり、作品自体も現在は所在不明とされる。


 サワ。


 名は――


 父の手帳の消された部分。


 サワ。


 玲央の手が震えた。


 アヤメが近づいてくる。


「何か見つけた?」


 玲央は本を少し傾け、該当箇所を見せた。


 アヤメの目が細くなる。


「サワ……日本人女性」


「モデル名かもしれない」


「肖像画の女性が日本人なら、御影が旧所有者を空白にする理由があるかもしれない」


「なぜ」


「海外由来の美術品として売買したい場合、本当の来歴が都合悪いことがある。特に、戦前から戦後にかけて人の移動や財産の移動が絡むと」


 玲央は本を閉じた。


 購入するべきか。


 だが、今ここで買えば、尾行者に見られる。


 ナナセが通信で言った。


「タイトルを覚えて。買わない。別経路で入手する」


「分かった」


 そのとき、黒いコートの男が近づいてきた。


 棚の向こうから、ゆっくりと。


 玲央は本を戻した。


 アヤメは別の本を手に取る。


 男は、二人のすぐ近くを通り過ぎるふりをした。


 その瞬間、低い声が聞こえた。


「御影様が、資料探しは無駄だと」


 玲央は反応しなかった。


 森川怜は、その声が自分に向けられたものだと気づかない。


 アヤメも反応しない。


 男は続けた。


「青の涙は、こちらが持っている。名前を掘っても、死者は戻らない」


 玲央の手が、本の背に触れたまま止まる。


 死者。


 誰のことだ。


 肖像画の女性か。


 父か。


 御影は、父が死んだと示唆しているのか。


 反応するな。


 玲央は、自分に言い聞かせる。


 男は通り過ぎた。


 だが、去り際にアヤメの横で足を止めた。


「月城の家も、名を掘り返されるのは困るでしょう」


 アヤメの顔から血の気が引いた。


 ほんの一瞬。


 だが、玲央には分かった。


 その言葉は、彼女の奥に刺さった。


 男は何事もなかったように棚を離れた。


 ナナセの声が鋭くなる。


「二人とも、動かない。今は動かない」


 玲央は、本棚を見つめた。


 アヤメは、手にした本を閉じた。


 彼女の指が、わずかに震えている。


 玲央は小声で言った。


「出るぞ」


「ええ」


「大丈夫か」


「大丈夫じゃないけど、大丈夫な顔はできる」


 アヤメは、月島葵として歩き出した。


 玲央も続く。


 大型書店を出る。


 黒いコートの男は、追ってこなかった。


 伝言だけだったのだ。


 御影は見ている。


 資料を探していることも、アヤメの過去を掘られると困ることも、すべて分かったうえで脅してきた。


 玲央は、歩道で立ち止まった。


 ナナセが言う。


「今日はここまで。すぐ戻って」


「まだ古書店が」


「だめ。相手に補足された。これ以上は危険」


 玲央は反論しようとした。


 だが、アヤメの顔を見てやめた。


 彼女は平気な顔をしている。


 だが、平気ではない。


 長い黒髪の仮面を外してから、アヤメは強く見せるための道具を少し失った。その分、刺さった傷が見えやすくなっている。


「戻る」


 玲央は言った。


     *


 作業部屋に戻ったアヤメは、しばらく何も言わなかった。


 椅子に座り、手を膝の上に置き、床の一点を見ている。月島葵の役はもう終わっているはずなのに、彼女はまだその硬い姿勢を保っていた。


 ナナセは何も聞かなかった。


 まず、玲央から情報を聞き取る。


 《青衣の女》。


 通称、泣かない女。


 特殊反射材。


 調査担当、黒瀬暁人とE. S.


 大型書店で見つけた本。


 モデル名の可能性、サワ。


 日本人女性説。


 御影側の男からの伝言。


 月城の家。


 そこまで聞いて、ナナセはようやくアヤメを見た。


「話せる?」


 アヤメは少し笑った。


「職人さんは、聞き方がずるいわね」


「話せないなら、今は聞かない」


「話さなかったら?」


「必要になるまで待つ」


「それもずるい」


 アヤメは、短い髪に触れた。


 しばらくして、静かに話し始めた。


「月城という名前は、本名じゃない」


「知ってる」


 玲央が言うと、アヤメは少し睨んだ。


「そこは黙って聞くところ」


「悪い」


 アヤメは視線を落とした。


「私の家は、月城ではなく、月沢だった。月沢古美術。小さな店だったけど、父は目利きとして知られていた。御影財団とも取引があった」


 月沢。


 玲央はその名を覚えた。


「ある年、父は御影から作品の鑑定を頼まれた。詳しいことは聞かされていなかったけれど、青い目の女性肖像画に関する資料も扱っていたと思う」


 玲央の身体が強張る。


「《青衣の女》か」


「たぶん。私は当時、まだ子どもだったから、断片的にしか覚えていない。でも、青い目の絵、泣かない女、外国の絵なのに日本の名前が出てくる、そんな話を聞いたことがある」


「なぜ今まで言わなかった」


「思い出したくなかったから」


 アヤメの声は、静かだった。


 玲央は、それ以上責められなかった。


「父は、その後、贋作を本物として売った疑いをかけられた。店は信用を失い、取引先は離れた。御影は助けるふりをして、重要な資料を持っていった。父は最後まで、御影に嵌められたと言っていた」


 ナナセが静かに聞く。


「証拠は?」


「ない。だから私は探している」


 アヤメは、玲央を見た。


「あなたの父親と、私の父親は、同じ絵に関わっていた可能性がある」


 部屋の空気が重くなる。


 黒瀬暁人。


 月沢古美術。


 《青衣の女》。


 サワ。


 E. S.


 御影宗一郎。


 線が増えていく。


 ただし、まだ中心は見えない。


 玲央は、父の手帳を開いた。


「E. S. は、お前の父親ではないのか」


「父の名前は月沢英司。E. T. になる。違う」


「母親は?」


「さゆり。S. T.」


「違うか」


 ナナセが言った。


「E. S. は、サワという名前と関係があるかもしれない」


「E. Sawa?」


 玲央が呟く。


「エミ、エリ、エリカ、エイ……名前はいくらでもある。でも、サワが姓なら、E. S. になる」


 アヤメが顔を上げる。


「サワという女性が、肖像画のモデルであり、E. S. がその関係者?」


「あるいは、同一人物」


 ナナセはホワイトボードに書いた。


 サワ。


 E. S.


 日本人女性説。


 泣かない女。


 月沢古美術。


 黒瀬暁人。


 御影財団。


 玲央は、それを見て言った。


「次に調べるべきは、サワという名前とE. S. だな」


「それと、月沢古美術の過去」


 ナナセが言う。


 アヤメは少し顔を曇らせた。


 ナナセは続ける。


「無理に話さなくていい。でも、御影はそこを突いてくる。こちらが知らないままだと、また刺される」


 アヤメは、長い沈黙のあとで頷いた。


「分かった。必要なことは話す」


 玲央は、少しだけ驚いた。


 アヤメが自分からそう言うのは珍しかった。


 彼女は、仮面を外しても死ななかった。


 次は、名前を少しだけ外そうとしている。


 それは玲央にも分かった。


 そのとき、ナナセの端末が鳴った。


 画面を見た彼女の表情が変わる。


「非通知」


 玲央とアヤメが同時に身構える。


 ナナセは、スピーカーにせず電話を取った。


「はい」


 数秒。


 ナナセの顔がさらに硬くなる。


「……どちら様ですか」


 また数秒。


 ナナセは玲央を見た。


「咲良さん」


 玲央の手が止まる。


 ナナセは通話をスピーカーに切り替えた。


 咲良の声が、部屋に流れた。


「突然すみません。柊さん。黒瀬玲央さんは、近くにいますか」


 ナナセは答えない。


 咲良は続けた。


「答えなくて構いません。ただ、伝えてください。《青衣の女》の移送申請が出ました。御影財団は、明日の夜までに作品を別施設へ移すつもりです」


 玲央の心臓が強く打った。


 青の涙を移す。


 やはり御影は動いた。


 咲良は、さらに言った。


「そして、共同調査者E. S. について、一つ分かったことがあります」


 玲央は、思わず口を開きそうになった。


 ナナセが手で制する。


 咲良の声は冷静だった。


「E. S. は、沢絵里。五年前、御影財団の調査に関わった美術史研究者です。現在、所在不明。黒瀬暁人さんの失踪と同じ時期に、大学の研究職を辞しています」


 沢絵里。


 E. S.


 サワ。


 名は――


 玲央の中で、消された文字が繋がる。


 沢絵里。


 そして、もう一つ。


 肖像画のモデル名として出てきたサワ。


 同じ姓。


 偶然か。


 咲良は言った。


「黒瀬さんがこれを聞いているなら、伝えます。御影より先に、沢絵里さんを見つける必要があります」


 通話は、そこで切れた。


 部屋は静まり返った。


 ナナセは端末を置く。


 玲央は、父の手帳を見た。


 名は――


 沢。


 消された文字。


 父は、沢絵里の名前を書こうとしていたのか。


 それとも、肖像画の女性の名が沢だったのか。


 アヤメが低く言った。


「沢絵里。聞いたことがある」


 玲央とナナセが彼女を見る。


 アヤメは、記憶を辿るように目を細めた。


「父が、一度だけその名を言っていた。御影に逆らった研究者だと」


「生きているのか」


 玲央が聞く。


 アヤメは首を振った。


「分からない。でも、御影が隠したい名前の一つなのは間違いない」


 ナナセはホワイトボードに、大きく書いた。


 沢絵里。


 E. S.


 所在不明。


 黒瀬暁人と同時期に消える。


 《青衣の女》と関係。


 そして、その下にもう一行。


 “青の涙の移送、明日の夜。”


 玲央は、咲良の名刺を見た。


 捨てなかった名刺。


 その名刺から、情報が届いた。


 警察を信用したわけではない。


 咲良を味方にしたわけでもない。


 だが、咲良は御影より先に情報を渡してきた。


 それは事実だった。


 玲央は、静かに言った。


「明日の夜、御影は青の涙を移す」


 アヤメが頷く。


「その前に、沢絵里を探す必要がある」


 ナナセも言う。


「でも、時間がない」


 玲央は立ち上がった。


 今度は、衝動ではなかった。


 少なくとも、自分ではそう思った。


「沢絵里を探す。御影より先に」


「どうやって」


 ナナセが尋ねる。


「父の手帳、月沢古美術の記録、咲良の情報。全部つなぐ」


 アヤメも立ち上がった。


「月沢の古い帳簿なら、まだ残っているかもしれない」


「どこに」


 アヤメは少しだけ笑った。


 ただし、楽しそうではなかった。


「私が二度と戻らないと決めた場所」


 玲央は何も言わなかった。


 ナナセも黙っていた。


 アヤメは、短い髪に触れた。


「月沢古美術の跡地。今は空き店舗になっているはず。そこに、父が隠した帳簿が残っているかもしれない」


 御影は、資料探しは無駄だと言った。


 死者は戻らないと言った。


 月城の家も、名を掘り返されるのは困るだろうと言った。


 つまり、そこに掘られたくないものがある。


 玲央は、父の手帳を閉じた。


「行こう」


 ナナセが言った。


「今日はもう遅い」


「明日の夜には青の涙が移る」


「だから、今から準備して、夜明け前に動く」


 玲央はナナセを見た。


 ナナセは続ける。


「今回は、アヤメさんの場所。アヤメさんが決める。玲央が先走らない」


 玲央はアヤメを見た。


 アヤメは、少しだけ困ったような顔をした。


 それは、玲央が初めて見る表情だった。


「私が決めるの?」


「あなたの家の話だから」


 ナナセが言う。


 アヤメは、しばらく黙った。


 やがて、小さく頷いた。


「分かった。私が案内する」


 彼女の声は、いつものように余裕に満ちてはいなかった。


 けれど、逃げてはいなかった。


 長い黒髪の怪盗でも、赤いドレスの女でもない。


 月沢の家に戻ろうとする一人の人間が、そこにいた。


 玲央は、机の上の金属箱を見た。


 白い星。


 緋の冠。


 そして、まだ手にしていない青の涙。


 青の涙を得る前に、彼らは涙の理由を知らなければならない。


 泣かない女は、なぜ泣かされているのか。


 沢絵里は、何を知って消えたのか。


 黒瀬暁人は、何を見て失踪したのか。


 月沢古美術は、なぜ潰されたのか。


 問いは増えるばかりだった。


 だが、初めて問いの中心に人の名前が現れた。


 沢絵里。


 それは、青の涙へ続く名前だった。


 夜は、また深くなっていく。


 今度の仮面は、盗みに入るためのものではない。


 過去へ戻るためのものになる。


 アヤメが捨てた名前。


 玲央が追う父の名前。


 咲良が探す失踪者の名前。


 御影が消したい名前。


 すべてが、月沢古美術の暗い店跡へ向かって流れ始めていた。


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