8話 泣かされている肖像
黒瀬玲央は、眠らなかった。
正確には、眠る必要があることは分かっていた。ナナセにも言われた。アヤメにも、珍しく「少し寝たほうがいい」と言われた。だが、布団に入って目を閉じるたびに、あの肖像画の青い目が浮かんだ。
青の涙。
海ではなく、目に宿る。
彼女は泣いていない。泣かされている。
父の手帳にあった言葉は、ただの比喩ではなかった。御影財団の小展示室で見た肖像画の目には、確かに何かがあった。青い顔料でも、ただの装飾でもない。白い星、緋の冠と同じ系統の何か。硝子の女神へ続く鍵の一つ。
けれど、それだけではない。
父は、あの肖像画を見て「彼女」と書いた。
作品ではなく、物ではなく、彼女。
そこに描かれた女性を、一人の人間として見ていた。
玲央は、机に置かれた父の手帳を開いた。
何度も読んだせいで、ページの端は柔らかくなっている。父の字は、最初のほうでは整っていた。修復師らしい、必要な情報を必要なだけ書く字だ。だが、御影財団の名が増えるにつれて、字の間隔が狭まり、線が細くなっていく。焦りを押し殺したような字だった。
“青の涙、海ではなく目に宿る。”
“彼女は泣いていない。泣かされている。”
その下に、さらに読みにくい文字がある。
玲央は作業灯を近づけた。
かすれている。インクが薄い。何かの拍子に水でも落ちたのか、紙がわずかに波打っている。
“名は――”
そこから先が読めない。
玲央は息を詰めた。
名。
肖像画の女性の名前だろうか。
父は、そこまで掴んでいたのか。
「まだ起きてる」
背後から声がした。
振り返ると、ナナセが立っていた。髪は少し乱れ、肩に薄いカーディガンを羽織っている。完全に起きているというより、眠れずに起きてきた顔だった。
「お前こそ」
「私は寝た」
「何分」
「数え方による」
「寝てないだろ」
「あなたよりは寝た」
ナナセは玲央の向かいに座った。
作業部屋は、深夜と朝の間の曖昧な時間に沈んでいた。外の街はまだ静かで、古い窓の向こうに薄い青が滲み始めている。夜明け前の色だった。
ナナセは手帳を見た。
「またそこ?」
「読めない字がある」
「見せて」
玲央は手帳を渡した。
ナナセは作業灯の角度を変え、拡大鏡を持ってきた。衣装の細かい縫い目を見るためのものだ。彼女は慎重にページを押さえ、かすれた文字を覗き込む。
「名は……その後、たぶん一文字か二文字。漢字じゃないかもしれない」
「外国人名?」
「可能性はある。肖像画自体が欧州由来と説明されていたなら」
「御影の説明を信じるならな」
「信じない。でも、完全な嘘とも限らない。嘘は本当を混ぜたほうが強い」
ナナセは、ページをしばらく見つめた。
「ここ、紙が少し削れてる」
「削れてる?」
「インクが消えたんじゃなくて、誰かがこの部分を意図的に擦った可能性がある」
玲央の表情が変わった。
「父が?」
「分からない。黒瀬さんが消したのか、誰かが後から消したのか。ただ、自然に薄くなっただけではなさそう」
玲央は手帳を取り返し、かすれた部分を見た。
名は――
その先が消されている。
誰かが、肖像画の女性の名前を隠した。
御影か。
父か。
あるいは、別の誰かか。
ナナセは椅子にもたれた。
「調べる必要があるね」
「ああ」
「でも、御影財団に直接近づくのは危険」
「分かってる」
「咲良さんに連絡する?」
その言葉で、玲央は動きを止めた。
机の端に置かれた咲良の名刺が目に入る。
氷見沢咲良。
警視庁捜査二課。
敵。
だが、御影を止めるためには接触する選択肢がある。昨夜、青の涙を取らなかったのも、御影の罠に乗らなかったからだ。咲良はそれを見ていた。少なくとも、玲央が作品を壊さなかったことは理解しているはずだった。
それでも、連絡すれば危険が増す。
玲央の位置を知らせることになる。
話をすれば、言葉のどこかから手帳や欠片の存在を推測されるかもしれない。
何より、咲良は刑事だ。
話が通じる相手でも、最後には捕まえる側にいる。
「まだ早い」
玲央は言った。
ナナセは反論しなかった。
「じゃあ、別ルートで調べる」
「別ルート?」
「肖像画の来歴。旧展覧会カタログ。御影財団が買い取る前の所有者。作者不詳なら、逆に展示歴や修復歴が残っている可能性がある。作品そのものを調べるより、周辺資料を洗う」
「図書館か」
「美術資料室、古書店、大学の紀要、オークション記録。御影が消しきれない外側の情報を拾う」
玲央は頷いた。
盗むのではない。
調べる。
怪盗としてではなく、修復師の息子として。
それは、昨夜から続く新しい道だった。
そのとき、部屋の奥でアヤメが起き上がった。
彼女は毛布を肩から落とし、眠そうに目を細めている。短い地毛のまま。化粧はほとんど落ちていた。まだ他人に素顔を見せることに慣れていないのか、視線を合わせる前に髪に触れる癖がある。
「図書館に行くなら、私も行く」
「起きてたのか」
玲央が言うと、アヤメは軽く肩をすくめた。
「起こされたの。あなたたち、深夜に調査会議をする声が静かすぎて逆に気になる」
「静かなら寝ろ」
「気になるものは気になるの」
アヤメは机へ近づき、父の手帳を覗き込んだ。
「名前が消されているのね」
「見えるのか」
「見えない。でも、二人の顔を見れば分かる」
アヤメは手帳のページを見つめた。
「肖像画の女性の名前を探す。いいわね。御影が隠したいのは、青の涙そのものだけじゃない。あの絵の女性が誰か、という情報かもしれない」
「お前は心当たりがあるのか」
「まだない。でも、古美術商の家で育つと、名前が消された作品ほど危ないと教わるの」
「どういう意味だ」
「作者不詳、来歴不明、モデル不明。そういう言葉は、単に分からないという意味のこともある。でも、ときには“分からないことにしている”という意味でも使われる」
アヤメの声は、いつもより低かった。
自分の家のことを思い出しているのだろう。
御影に奪われた家。
贋作の疑いをかけられた古美術商。
消された名前。
彼女にとって、それは他人事ではない。
ナナセは、三人の前に紙を置いた。
「今日の目的を決める」
彼女は項目を書き出した。
一、肖像画の過去の展示歴を探す。
二、青い目の女性肖像画に関する資料を探す。
三、御影財団が取得する前の所有者を探す。
四、黒瀬暁人が関わった修復記録を探す。
五、咲良にはまだ連絡しない。ただし、選択肢として残す。
アヤメが言った。
「外に出るなら変装は?」
ナナセは即答した。
「必要。ただし、薄く」
「薄く?」
「昨日までみたいな役を作り込まない。今日は潜入じゃなく調査。図書館や資料室で目立たなければいい。崩される危険より、咲良さんや御影側に生活圏を読まれる危険が大きい」
「つまり」
「玲央は大学院生風。美術史専攻。名前は森川怜」
「また近い名前だな」
「近いほうが反応が自然。ただし、黒瀬玲央とは結びつきにくい」
ナナセは玲央を見た。
「服は地味。眼鏡あり。髪はそのまま。メイクはほぼなし。少しだけ肌色を変える。体型補正は使わない」
「アヤメは?」
「古書店員か、研究補助員。名前は葵のままでいい」
「月島葵?」
「そう。昨日の役を薄めて使う。人物を使い捨てにしない。継続して使える仮面にする」
アヤメは、少しだけ驚いたようにナナセを見た。
「仮面を育てるの?」
「そう。毎回別人になるより、いくつかの人物を継続させたほうが崩れにくくなる」
玲央は、その言葉を聞いて考えた。
仮面を育てる。
これまで玲央は、役を使い捨てにしてきた。白河レイカも、佐伯真理も、瀬尾圭一も、朝倉紘一も、必要な場面のために作り、その場が終われば捨てた。壊れた役に戻ることはほとんどなかった。
だが、それは人物ではなく道具だったからだ。
ナナセは、神崎遥や月島葵を、道具ではなく継続できる人物として作ろうとしている。
そのほうが、崩れても戻れる。
玲央自身も、そうやって変わるべきなのかもしれない。
*
午前十時。
三人は別々に作業部屋を出た。
一緒に出れば目立つ。かといって、完全に時間をずらしすぎると互いの状況が掴みにくい。ナナセは工房へ戻り、外部から調査を支援する。玲央とアヤメは、都内の美術資料室と古書店を回る。
最初の目的地は、都立美術資料センターだった。
そこには、古い展覧会カタログ、海外オークション資料、美術雑誌のバックナンバー、修復記録の一部が保管されている。御影財団の内部資料ではない。だからこそ、御影が完全には消せない記録が残っている可能性があった。
玲央は、森川怜として受付に立った。
薄いグレーのシャツに、紺のカーディガン。眼鏡。手にはノートと資料申請書。大学院生としては少し疲れているが、資料室にいれば珍しくない程度の疲れ方。
アヤメは、少し離れた場所に立っている。
月島葵。
黒いジャケット。短い髪。手にはメモ用のタブレット。昨日の記録員よりも柔らかいが、相変わらず表情は硬い。
ナナセの声が通信で入る。
「二人とも、資料室では普通の会話をして。妙に距離を取りすぎない。逆に親しげにしすぎない」
「注文が多い」
玲央は小さく言った。
「森川怜は文句を小声で言うタイプ?」
「言わない」
「じゃあ言わない」
アヤメが横から小さく笑った。
受付を済ませ、閲覧席に向かう。
玲央はまず、御影財団の過去の展示記録を請求した。美術資料センターには、財団が出した展覧会パンフレットや図録の一部が残っている。公開展示に出ていない非公開作品でも、関連資料に断片的に触れられている可能性がある。
アヤメは海外オークション資料の索引を調べる。
青い目の女性肖像画。
作者不詳。
十九世紀末。
欧州。
御影財団。
条件は曖昧だ。
それでも、探すしかない。
資料室の空気は、静かだった。
ページをめくる音。キーボードを打つ音。遠くの棚で職員が資料を戻す音。宝飾展や銀座地下の緊迫感とは違う。ここでは誰も走らない。誰もウィッグを掴まない。誰もメイクを暴こうとしない。
だが、玲央には別の緊張があった。
調べることは、盗むことより難しい。
盗みは、対象が見えている。近づき、奪い、逃げる。もちろん危険だ。だが、目的は明確だ。
調査は違う。
何が見つかるか分からない。何も見つからないかもしれない。資料の山の中で、ただ時間だけが過ぎることもある。それでも手を動かす必要がある。
父は、こういう作業をしていたのだろうか。
玲央は、古い図録を開いた。
御影財団創立二十周年記念展。
所蔵品名品選。
支援修復プロジェクト記録。
そこには、華やかな作品写真と、美しい解説文が並んでいた。
御影宗一郎の挨拶文もある。
文化を未来へつなぐ。
失われた美を守る。
玲央は、その言葉を見るたびに、少し吐き気に近いものを感じた。
父の写真を探す。
黒瀬暁人。
何度か小さく名前が出てくる。修復協力者。技術監修。状態調査。だが、五年前を境に名前が消える。まるで、最初からいなかったように。
その消え方が、不自然だった。
「玲央」
ナナセの声。
「今、名前で呼ばないでくれ」
「ごめん。森川。御影財団の図録で、五年前の前後を重点的に見て。黒瀬さんの名前が消えた時期と、肖像画の取得時期が重なるかもしれない」
「分かった」
玲央は、五年前の図録を取り出した。
御影財団非公開所蔵品調査報告、抜粋版。
一般向けではないが、研究機関向けに配布された資料らしい。厚さは薄い。写真も少ない。だが、作品リストがあった。
玲央はページをめくる。
番号、作品名、推定年代、素材、旧所有者。
その中に、気になる項目があった。
《青衣の女》
作者不詳。
十九世紀末。
油彩、混合素材。
旧所有者欄は空白。
備考。
“眼部に特殊反射材。状態調査中。”
玲央は息を止めた。
これだ。
青衣の女。
昨日の肖像画だ。
彼女は青みを帯びた黒いドレスを着ていた。目に特殊な青の反射があった。
玲央は資料のページを静かに押さえた。
「見つけた」
ナナセの声が少し鋭くなる。
「作品名は?」
「《青衣の女》。作者不詳。十九世紀末。油彩、混合素材。眼部に特殊反射材。状態調査中」
「旧所有者は?」
「空白」
「空白……」
アヤメが隣へ来た。
彼女はページを見て、眉を寄せる。
「旧所有者が空白なのは不自然ね。非公開資料でも、普通は個人蔵、海外個人蔵、旧某家蔵くらいは書く」
「消している?」
「たぶん」
玲央は、さらに備考欄を見た。
小さな注記がある。
“調査担当:黒瀬暁人、E. S.”
「E. S.?」
玲央が呟く。
アヤメが反応した。
「共同調査者?」
「たぶん。父ともう一人」
「外国人名のイニシャルかもしれない。エリス、エミリア、エドワード、いくらでもある」
ナナセが通信で言った。
「そのページ、内容を控えて。写真は?」
「撮影禁止」
「じゃあ、書き写して」
玲央はノートに必要な情報を書き写した。
その手が少し震えた。
父の名前。
《青衣の女》。
青の涙。
そして、E. S.
父は一人で調べていたわけではない。
誰かがいた。
その誰かは、今も生きているのか。
御影はその存在を知っているのか。
玲央は、ページをめくった。
次のページに、作品の小さな白黒写真が載っていた。
粗い印刷だが、昨日の肖像画と一致する。
青い目は白黒では分からない。
だが、女性の顔は分かる。
玲央は、写真の下に小さく書かれた文字を見つけた。
“通称:泣かない女”
父の手帳の言葉が、頭の中で響いた。
彼女は泣いていない。泣かされている。
「泣かない女……」
アヤメが低く言った。
「御影らしい悪趣味な通称ね」
玲央は、写真を見つめた。
肖像画の女性は、泣いていない。
表情は静かだった。
だが、その静けさは、涙を流していないというだけで、悲しみがないという意味ではなかった。
泣かない女。
泣かされている女。
誰が、何をしたのか。
*
同じころ、咲良も《青衣の女》を調べていた。
警視庁の一室で、彼女は御影財団の過去資料と美術品登録情報を照合していた。森塚が横で端末を操作している。
「氷見沢さん、ありました。《青衣の女》。五年前の御影財団非公開所蔵品調査報告に記載。ただし、現行の財団所蔵品一覧には出てきません」
「削除された?」
「少なくとも公開リストからは消えています」
「旧所有者は」
「空白です」
「空白……」
咲良は、玲央たちが同じ資料に辿り着いている可能性を考えた。
彼らは青の涙を盗らなかった。
ならば、次に調べるのは肖像画の来歴だ。
黒瀬暁人の手帳を持っているなら、なおさら。
「黒瀬暁人の共同調査者は?」
森塚が資料を確認する。
「E. S. とだけ記載があります。財団側の記録ではフルネームなし」
「E. S.」
咲良はメモを取った。
「五年前、御影財団の調査に関わった人物で、イニシャルE. S.。国内外の修復師、美術史家、鑑定士を洗って」
「かなり広いですね」
「狭める。青い目、肖像画、十九世紀末、欧州美術、御影財団との接点」
「分かりました」
咲良は、資料の白黒写真を見た。
《青衣の女》。
通称、泣かない女。
奇妙な通称だった。
作品のタイトルではなく、誰かが付けた呼び名。
泣いていない女性に対して、あえて泣かない女と呼ぶ。
そこには、見ている側の感情が混じっている。
咲良は、ふと黒瀬玲央の顔を思い出した。
小展示室で、彼は作品に触れなかった。
父の名前で揺さぶられても、御影の挑発に乗らなかった。
それは、単に警察を警戒したからではない。あの瞬間、彼は作品を壊したくなかったのだろう。
怪盗としては矛盾している。
だが、修復師の息子としては自然だった。
森塚が言った。
「御影財団に任意で追加照会をかけますか」
「かける。ただし、正面から聞いても答えないでしょう」
「では?」
「別の角度から。五年前の黒瀬暁人失踪時の関係者リストと、E. S. を照合する」
咲良は、机の上の名刺入れを見た。
柊ナナセに渡した名刺。
連絡はまだない。
黒瀬玲央は、まだこちらに来ない。
来るとしても、ぎりぎりまで迷うだろう。
それでいい。
咲良は追う。
ただし、今回は捕まえるためだけではない。
御影が消した名前を探すために。
*
資料センターでの調査は、午後まで続いた。
玲央とアヤメは、別々の棚を調べ、必要な情報だけを共有した。直接大声で話すことはできないため、短いメモや視線でやり取りする。ナナセは通信越しに整理役を務めた。
《青衣の女》。
通称、泣かない女。
御影財団非公開所蔵。
五年前、黒瀬暁人とE. S. が状態調査。
眼部に特殊反射材。
旧所有者空白。
そこまでは分かった。
しかし、肝心の女性の名前は見つからない。
資料のどこにも、モデル名はなかった。
作者名もない。
旧所有者もない。
あるのは、作品そのものと、御影財団の管理番号だけ。
意図的に消されている。
アヤメは、海外オークション資料の束を閉じた。
「国内資料だけでは限界ね」
「海外?」
「たぶん。御影が海外から買ったことにしているなら、どこかに似た作品の取引記録があるはず。でも、作品名が変えられている可能性がある」
「《青衣の女》ではない?」
「ええ。青いドレスの女、青い眼の肖像、泣かない女、あるいは全然別の名前」
玲央は、疲れた目でノートを見る。
「E. S. を追うほうが早いか」
「そうね。共同調査者なら、作品の本当の来歴を知っている可能性がある」
「E. S.……」
玲央は、父の手帳の消された部分を思い出した。
名は――
そこに書かれていたのは、肖像画の女性の名かもしれない。
あるいは、E. S. の名かもしれない。
ナナセが通信で言った。
「一度、場所を変えて。長く同じ資料室にいると目立つ」
「分かった」
玲央は資料を返却し、閲覧席を立った。
アヤメも少し遅れて立つ。
資料室を出る直前、玲央は背後を振り返った。
誰かに見られている気がした。
だが、そこには閲覧者が数人いるだけだった。年配の研究者、学生らしき人、職員。御影側らしき人間も、警察らしき人間も見えない。
気のせいか。
いや、気のせいで済ませるべきではない。
玲央は、自然に歩きながら周囲を確認した。
アヤメが小声で言う。
「つけられてる?」
「分からない」
「分からないときは、つけられてると思うほうがいい」
「経験則か」
「ええ」
二人は外へ出た。
午後の光が眩しい。
資料室の静けさから出ると、街の音が急に大きく感じられた。車の音、人の声、信号の音。玲央は目を細める。
次の目的地は、古書店街だった。
美術図録や古い展覧会資料を扱う専門店がある。公的な資料室にないものが、そこに流れている可能性があった。
玲央とアヤメは、少し距離を取って駅へ向かった。
地下鉄の入口に入る前、玲央はガラスに映る背後を見た。
男が一人。
黒いコート。
目立たない顔。
だが、歩幅がこちらに合わせられている。
御影側か。
玲央は、アヤメへ視線を送った。
彼女も気づいていた。
ナナセに小声で伝える。
「尾行の可能性」
「人数は?」
「一人。確定ではない」
「撒こうとしないで。今日は逃走劇にしない。人の多い場所を通って、古書店には直接行かない」
「了解」
玲央は、地下鉄へは入らず、横断歩道を渡った。
アヤメも別方向から同じ流れに乗る。
黒いコートの男は、一瞬だけ迷った。
その迷いで、確信に近づく。
尾行だ。
玲央の中で、怪盗としての反射が目を覚ましそうになる。
細い路地へ入る。
角を使う。
人混みで切る。
そういう選択肢が頭に浮かぶ。
だが、今日は違う。
逃走劇にしない。
ナナセの言葉を思い出す。
森川怜は、尾行を撒く怪盗ではない。資料調査に来た院生だ。急に路地へ消えれば不自然になる。だから、自然に人の多い書店へ入る。
玲央は、大型書店に入った。
美術書の棚へ向かう。
アヤメも少し遅れて別の入口から入る。
黒いコートの男は、入口付近で立ち止まった。
入るか、待つか。
男は入ってきた。
玲央は、美術書の棚で本を手に取った。
アヤメは、少し離れた場所で雑誌を開いている。
ナナセが言う。
「そのまま普通に。店内カメラがある。相手も無茶はしにくい」
「御影側なら?」
「それでも、ここでは動きにくい」
玲央は、本のページをめくりながら背後の気配を拾う。
黒いコートの男は、棚の向こうにいる。
近い。
だが、手は出せない。
玲央は、ふと棚の背表紙に目を止めた。
十九世紀肖像画の修復。
欧州私蔵作品の来歴研究。
青色顔料の歴史。
偶然か。
いや、ただの美術書の棚だ。
しかし、その中に一冊、気になる本があった。
『失われた肖像画たち――名を消されたモデルの記録』
玲央は手に取った。
古い本ではない。研究者向けというより一般書に近い。だが、索引に目を通した瞬間、指が止まった。
“泣かない女”という項目があった。
玲央はページを開く。
そこには、短い記述があった。
――通称「泣かない女」と呼ばれる青い眼の女性肖像画は、二十世紀初頭に欧州の個人コレクションに存在したとされる。モデル名については諸説あるが、近年では日本人女性を描いた可能性を指摘する研究もある。
日本人女性。
玲央は息を止めた。
昨日見た肖像画の女性は、欧州の女性に見えた。
だが、油彩の描き方、衣装、目の色で印象は変えられる。もしモデルが日本人女性だったなら、御影財団が隠す理由はさらに複雑になる。
続きを読む。
――一部資料では、モデルの名を「サワ」と記す。ただし原資料の所在は不明であり、作品自体も現在は所在不明とされる。
サワ。
名は――
父の手帳の消された部分。
サワ。
玲央の手が震えた。
アヤメが近づいてくる。
「何か見つけた?」
玲央は本を少し傾け、該当箇所を見せた。
アヤメの目が細くなる。
「サワ……日本人女性」
「モデル名かもしれない」
「肖像画の女性が日本人なら、御影が旧所有者を空白にする理由があるかもしれない」
「なぜ」
「海外由来の美術品として売買したい場合、本当の来歴が都合悪いことがある。特に、戦前から戦後にかけて人の移動や財産の移動が絡むと」
玲央は本を閉じた。
購入するべきか。
だが、今ここで買えば、尾行者に見られる。
ナナセが通信で言った。
「タイトルを覚えて。買わない。別経路で入手する」
「分かった」
そのとき、黒いコートの男が近づいてきた。
棚の向こうから、ゆっくりと。
玲央は本を戻した。
アヤメは別の本を手に取る。
男は、二人のすぐ近くを通り過ぎるふりをした。
その瞬間、低い声が聞こえた。
「御影様が、資料探しは無駄だと」
玲央は反応しなかった。
森川怜は、その声が自分に向けられたものだと気づかない。
アヤメも反応しない。
男は続けた。
「青の涙は、こちらが持っている。名前を掘っても、死者は戻らない」
玲央の手が、本の背に触れたまま止まる。
死者。
誰のことだ。
肖像画の女性か。
父か。
御影は、父が死んだと示唆しているのか。
反応するな。
玲央は、自分に言い聞かせる。
男は通り過ぎた。
だが、去り際にアヤメの横で足を止めた。
「月城の家も、名を掘り返されるのは困るでしょう」
アヤメの顔から血の気が引いた。
ほんの一瞬。
だが、玲央には分かった。
その言葉は、彼女の奥に刺さった。
男は何事もなかったように棚を離れた。
ナナセの声が鋭くなる。
「二人とも、動かない。今は動かない」
玲央は、本棚を見つめた。
アヤメは、手にした本を閉じた。
彼女の指が、わずかに震えている。
玲央は小声で言った。
「出るぞ」
「ええ」
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫な顔はできる」
アヤメは、月島葵として歩き出した。
玲央も続く。
大型書店を出る。
黒いコートの男は、追ってこなかった。
伝言だけだったのだ。
御影は見ている。
資料を探していることも、アヤメの過去を掘られると困ることも、すべて分かったうえで脅してきた。
玲央は、歩道で立ち止まった。
ナナセが言う。
「今日はここまで。すぐ戻って」
「まだ古書店が」
「だめ。相手に補足された。これ以上は危険」
玲央は反論しようとした。
だが、アヤメの顔を見てやめた。
彼女は平気な顔をしている。
だが、平気ではない。
長い黒髪の仮面を外してから、アヤメは強く見せるための道具を少し失った。その分、刺さった傷が見えやすくなっている。
「戻る」
玲央は言った。
*
作業部屋に戻ったアヤメは、しばらく何も言わなかった。
椅子に座り、手を膝の上に置き、床の一点を見ている。月島葵の役はもう終わっているはずなのに、彼女はまだその硬い姿勢を保っていた。
ナナセは何も聞かなかった。
まず、玲央から情報を聞き取る。
《青衣の女》。
通称、泣かない女。
特殊反射材。
調査担当、黒瀬暁人とE. S.
大型書店で見つけた本。
モデル名の可能性、サワ。
日本人女性説。
御影側の男からの伝言。
月城の家。
そこまで聞いて、ナナセはようやくアヤメを見た。
「話せる?」
アヤメは少し笑った。
「職人さんは、聞き方がずるいわね」
「話せないなら、今は聞かない」
「話さなかったら?」
「必要になるまで待つ」
「それもずるい」
アヤメは、短い髪に触れた。
しばらくして、静かに話し始めた。
「月城という名前は、本名じゃない」
「知ってる」
玲央が言うと、アヤメは少し睨んだ。
「そこは黙って聞くところ」
「悪い」
アヤメは視線を落とした。
「私の家は、月城ではなく、月沢だった。月沢古美術。小さな店だったけど、父は目利きとして知られていた。御影財団とも取引があった」
月沢。
玲央はその名を覚えた。
「ある年、父は御影から作品の鑑定を頼まれた。詳しいことは聞かされていなかったけれど、青い目の女性肖像画に関する資料も扱っていたと思う」
玲央の身体が強張る。
「《青衣の女》か」
「たぶん。私は当時、まだ子どもだったから、断片的にしか覚えていない。でも、青い目の絵、泣かない女、外国の絵なのに日本の名前が出てくる、そんな話を聞いたことがある」
「なぜ今まで言わなかった」
「思い出したくなかったから」
アヤメの声は、静かだった。
玲央は、それ以上責められなかった。
「父は、その後、贋作を本物として売った疑いをかけられた。店は信用を失い、取引先は離れた。御影は助けるふりをして、重要な資料を持っていった。父は最後まで、御影に嵌められたと言っていた」
ナナセが静かに聞く。
「証拠は?」
「ない。だから私は探している」
アヤメは、玲央を見た。
「あなたの父親と、私の父親は、同じ絵に関わっていた可能性がある」
部屋の空気が重くなる。
黒瀬暁人。
月沢古美術。
《青衣の女》。
サワ。
E. S.
御影宗一郎。
線が増えていく。
ただし、まだ中心は見えない。
玲央は、父の手帳を開いた。
「E. S. は、お前の父親ではないのか」
「父の名前は月沢英司。E. T. になる。違う」
「母親は?」
「さゆり。S. T.」
「違うか」
ナナセが言った。
「E. S. は、サワという名前と関係があるかもしれない」
「E. Sawa?」
玲央が呟く。
「エミ、エリ、エリカ、エイ……名前はいくらでもある。でも、サワが姓なら、E. S. になる」
アヤメが顔を上げる。
「サワという女性が、肖像画のモデルであり、E. S. がその関係者?」
「あるいは、同一人物」
ナナセはホワイトボードに書いた。
サワ。
E. S.
日本人女性説。
泣かない女。
月沢古美術。
黒瀬暁人。
御影財団。
玲央は、それを見て言った。
「次に調べるべきは、サワという名前とE. S. だな」
「それと、月沢古美術の過去」
ナナセが言う。
アヤメは少し顔を曇らせた。
ナナセは続ける。
「無理に話さなくていい。でも、御影はそこを突いてくる。こちらが知らないままだと、また刺される」
アヤメは、長い沈黙のあとで頷いた。
「分かった。必要なことは話す」
玲央は、少しだけ驚いた。
アヤメが自分からそう言うのは珍しかった。
彼女は、仮面を外しても死ななかった。
次は、名前を少しだけ外そうとしている。
それは玲央にも分かった。
そのとき、ナナセの端末が鳴った。
画面を見た彼女の表情が変わる。
「非通知」
玲央とアヤメが同時に身構える。
ナナセは、スピーカーにせず電話を取った。
「はい」
数秒。
ナナセの顔がさらに硬くなる。
「……どちら様ですか」
また数秒。
ナナセは玲央を見た。
「咲良さん」
玲央の手が止まる。
ナナセは通話をスピーカーに切り替えた。
咲良の声が、部屋に流れた。
「突然すみません。柊さん。黒瀬玲央さんは、近くにいますか」
ナナセは答えない。
咲良は続けた。
「答えなくて構いません。ただ、伝えてください。《青衣の女》の移送申請が出ました。御影財団は、明日の夜までに作品を別施設へ移すつもりです」
玲央の心臓が強く打った。
青の涙を移す。
やはり御影は動いた。
咲良は、さらに言った。
「そして、共同調査者E. S. について、一つ分かったことがあります」
玲央は、思わず口を開きそうになった。
ナナセが手で制する。
咲良の声は冷静だった。
「E. S. は、沢絵里。五年前、御影財団の調査に関わった美術史研究者です。現在、所在不明。黒瀬暁人さんの失踪と同じ時期に、大学の研究職を辞しています」
沢絵里。
E. S.
サワ。
名は――
玲央の中で、消された文字が繋がる。
沢絵里。
そして、もう一つ。
肖像画のモデル名として出てきたサワ。
同じ姓。
偶然か。
咲良は言った。
「黒瀬さんがこれを聞いているなら、伝えます。御影より先に、沢絵里さんを見つける必要があります」
通話は、そこで切れた。
部屋は静まり返った。
ナナセは端末を置く。
玲央は、父の手帳を見た。
名は――
沢。
消された文字。
父は、沢絵里の名前を書こうとしていたのか。
それとも、肖像画の女性の名が沢だったのか。
アヤメが低く言った。
「沢絵里。聞いたことがある」
玲央とナナセが彼女を見る。
アヤメは、記憶を辿るように目を細めた。
「父が、一度だけその名を言っていた。御影に逆らった研究者だと」
「生きているのか」
玲央が聞く。
アヤメは首を振った。
「分からない。でも、御影が隠したい名前の一つなのは間違いない」
ナナセはホワイトボードに、大きく書いた。
沢絵里。
E. S.
所在不明。
黒瀬暁人と同時期に消える。
《青衣の女》と関係。
そして、その下にもう一行。
“青の涙の移送、明日の夜。”
玲央は、咲良の名刺を見た。
捨てなかった名刺。
その名刺から、情報が届いた。
警察を信用したわけではない。
咲良を味方にしたわけでもない。
だが、咲良は御影より先に情報を渡してきた。
それは事実だった。
玲央は、静かに言った。
「明日の夜、御影は青の涙を移す」
アヤメが頷く。
「その前に、沢絵里を探す必要がある」
ナナセも言う。
「でも、時間がない」
玲央は立ち上がった。
今度は、衝動ではなかった。
少なくとも、自分ではそう思った。
「沢絵里を探す。御影より先に」
「どうやって」
ナナセが尋ねる。
「父の手帳、月沢古美術の記録、咲良の情報。全部つなぐ」
アヤメも立ち上がった。
「月沢の古い帳簿なら、まだ残っているかもしれない」
「どこに」
アヤメは少しだけ笑った。
ただし、楽しそうではなかった。
「私が二度と戻らないと決めた場所」
玲央は何も言わなかった。
ナナセも黙っていた。
アヤメは、短い髪に触れた。
「月沢古美術の跡地。今は空き店舗になっているはず。そこに、父が隠した帳簿が残っているかもしれない」
御影は、資料探しは無駄だと言った。
死者は戻らないと言った。
月城の家も、名を掘り返されるのは困るだろうと言った。
つまり、そこに掘られたくないものがある。
玲央は、父の手帳を閉じた。
「行こう」
ナナセが言った。
「今日はもう遅い」
「明日の夜には青の涙が移る」
「だから、今から準備して、夜明け前に動く」
玲央はナナセを見た。
ナナセは続ける。
「今回は、アヤメさんの場所。アヤメさんが決める。玲央が先走らない」
玲央はアヤメを見た。
アヤメは、少しだけ困ったような顔をした。
それは、玲央が初めて見る表情だった。
「私が決めるの?」
「あなたの家の話だから」
ナナセが言う。
アヤメは、しばらく黙った。
やがて、小さく頷いた。
「分かった。私が案内する」
彼女の声は、いつものように余裕に満ちてはいなかった。
けれど、逃げてはいなかった。
長い黒髪の怪盗でも、赤いドレスの女でもない。
月沢の家に戻ろうとする一人の人間が、そこにいた。
玲央は、机の上の金属箱を見た。
白い星。
緋の冠。
そして、まだ手にしていない青の涙。
青の涙を得る前に、彼らは涙の理由を知らなければならない。
泣かない女は、なぜ泣かされているのか。
沢絵里は、何を知って消えたのか。
黒瀬暁人は、何を見て失踪したのか。
月沢古美術は、なぜ潰されたのか。
問いは増えるばかりだった。
だが、初めて問いの中心に人の名前が現れた。
沢絵里。
それは、青の涙へ続く名前だった。
夜は、また深くなっていく。
今度の仮面は、盗みに入るためのものではない。
過去へ戻るためのものになる。
アヤメが捨てた名前。
玲央が追う父の名前。
咲良が探す失踪者の名前。
御影が消したい名前。
すべてが、月沢古美術の暗い店跡へ向かって流れ始めていた。




