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第7話 青の涙は肖像の目に



 御影宗一郎からの電話が切れたあと、作業部屋にはしばらく音がなかった。


 受話器を置いた玲央の手は、まだわずかに強張っていた。机の上には、咲良の名刺と、金属箱と、父の手帳がある。三つとも小さい。けれど、それぞれ別の重さを持っていた。


 名刺は、警察へ続く道だった。


 金属箱は、御影の罪へ続く道だった。


 手帳は、父へ続く道だった。


 その三つが同じ机の上にあることが、玲央には奇妙に思えた。自分が追っているものは父のはずだった。けれど、進めば進むほど、警察、御影、アヤメ、ナナセ、そして自分自身の仮面が絡み合っていく。


 単純な道ではなくなっていた。


 最初から単純ではなかったのかもしれない。


 ナナセはホワイトボードの前に立ち、御影の言葉を書き出していた。


 青の涙。


 肖像画。


 目に宿る。


 非公開確認会。


 御影財団小展示室。


 彼女の字は、いつも通り整っていた。急いでいても、怒っていても、ナナセの字は乱れない。それが玲央には少し不思議だった。自分なら、感情がすぐ線に出る。父の手帳の字もそうだった。落ち着いた記録の中に、ある日を境に焦りが混じり始めている。


 御影の名前が出てくるあたりから、父の字はわずかに小さくなっていた。


「罠ね」


 アヤメが言った。


 彼女は椅子の背に片腕を預け、短い地毛のまま机を見ている。長い黒髪のウィッグは棚に置かれていた。赤いドレスの女怪盗は、そこにはいない。いるのは、まだ名前を明かしていない一人の人間だった。


 それでも、アヤメはアヤメだった。


 声の置き方、目の鋭さ、相手の傷に触れるタイミング。仮面を外しても残るものがある。玲央はそれを、この数日で知り始めていた。


「分かりやすすぎる罠だ」


 玲央は言った。


「分かりやすい罠ほど、厄介なのよ」


 アヤメは指先で机を軽く叩く。


「こちらが罠だと分かったうえで来ることを、相手も分かっている。つまり、罠に気づいた程度では優位にならない」


「なら行かないという選択もある」


 ナナセが言った。


 玲央とアヤメが同時に彼女を見た。


 ナナセは二人の視線を受けても表情を変えない。


「一応、選択肢として出しておく。行かなければ、御影の用意した場には乗らない。ただし、御影はナナセの工房、玲央の生活圏、アヤメさんの過去を脅しに使っている。行かない場合、別方向から攻められる可能性が高い」


「実質、行くしかない」


 玲央が言う。


「そう。だから、行く前提で考える。ただし、御影の望む形では行かない」


 ナナセはホワイトボードに大きく書いた。


 “罠に入る。だが、罠の中で相手の想定から外れる。”


 玲央は、その文字を見た。


「具体的には?」


「まず、玲央が一人で行かない」


「それは分かる」


「アヤメさんも一人で動かない」


「不自由ね」


 アヤメが言う。


「自由に動いた結果、銀座で全員危なくなった」


「赤い欠片は取れたわ」


「結果が出たことと、危険だったことは両立する」


 ナナセの返しに、玲央は少しだけ笑いそうになった。


 それは自分がよく言われる言葉だった。


 アヤメは不満そうに頬杖をついた。


「あなた、本当に容赦ない」


「二人とも容赦するとすぐ無茶をするから」


 ナナセは、次の項目を書いた。


 “崩される前提の変装。”


「御影は、たぶん私たちの変装を崩しに来る。玲央ならウィッグ、メイク、体型補正、眼鏡、声。アヤメさんなら髪、マスク、衣装、名前。咲良さんは観察で見抜く。御影側は物理的に剥がしに来る」


「言い方」


 アヤメが眉をひそめる。


「事実」


 ナナセは淡々と続けた。


「だから、今回は“剥がされても致命傷にならない変装”にする。外せるものは、外されても人物が残るように。触られる可能性のある部分には、意味を持たせる」


「意味?」


 玲央が聞く。


「たとえば、帽子やスカーフなら、取られても髪型が成立していること。眼鏡なら、外されても顔が別人として保つこと。メイクなら、落ちても疲労や体調不良に見えること。体型補正は大きく変えすぎない。崩れた瞬間に別人になるものは使わない」


「完璧を捨てる変装か」


「違う。完璧に見せないことで保つ変装」


 ナナセは玲央を見る。


「特に玲央。あなたは作り込みすぎると強い。でも、作り込みすぎると崩れたとき弱い」


「何度も聞いた」


「何度も必要」


「分かってる」


「分かってる顔じゃない」


「その言い方、本当に定着させるな」


 アヤメが笑った。


 その笑いは少し柔らかかった。


 緊張が少しだけ薄れる。


 しかし、状況は軽くなっていない。


 青の涙。


 御影が指定した非公開確認会は、明後日の夜だった。場所は、御影財団が所有する小展示室。大規模な美術館ではなく、財団関係者や一部の寄付者向けに使われる半私的な展示空間だという。


 御影は、そこで肖像画を見せると言った。


 青の涙は、その目に宿っている。


 父の手帳にも、同じような言葉があった。


 “青の涙、海ではなく目に宿る。”


 ならば、肖像画の目に何かが隠されている。


 実物の青い宝石か。


 特殊な顔料か。


 記録媒体の一部か。


 あるいは、肖像画に描かれた人物そのものが鍵なのか。


 玲央には分からなかった。


 ただ、御影がこちらを招いたということは、何らかの意図がある。


 欠片を奪い返すためか。


 玲央たちを一網打尽にするためか。


 それとも、父の手帳を持つ玲央に何かを解かせるためか。


 ナナセは、新しい紙を広げた。


「役を決める」


「また女にするのか」


 玲央が尋ねる。


「今回は、それが問題」


 ナナセは少し考えた。


「御影は、玲央が女性変装を得意とすることを知っている。咲良さんも知っている。だから、女装で来ると読まれる可能性は高い」


「なら男か」


「それも読まれる。南港と銀座で男性変装を使ったから」


「じゃあ、何になる」


 ナナセは、玲央の顔をじっと見た。


「中性的な美術修復助手」


 玲央は眉を寄せた。


「中性的?」


「女性に見えるか、男性に見えるかをはっきりさせない。声も高くしすぎない。体型補正も最小限。衣装は作業用の白衣に近いロングジャケット。髪は短め。名前は、神崎遥」


 アヤメが目を細めた。


「性別を曖昧にするのね」


「そう。御影側が“女装を剥がす”つもりで来ても、剥がす対象が薄い。咲良さんが“男の癖”を見ても、人物設定がそれを吸収できる」


 玲央は、少し黙った。


 女性になる。


 男性になる。


 これまでの変装は、どちらかを選んできた。


 だが、今回は曖昧にする。


 それは、玲央にとって楽なのか、苦しいのか、すぐには分からなかった。


 アヤメが言った。


「面白い。黒瀬玲央に近くて、遠い」


「そう」


 ナナセは頷く。


「この役は、玲央の地声に近い声でも成立する。ウィッグがずれても、短髪の人として通る。メイクが落ちても、疲れた修復助手に見える。コルセットや大きな補正具を使わないから、動きも制限されない」


「胸パッドや腰の補正は?」


 玲央が確認する。


「使わない。ラインを消すインナーだけ。女性らしさを作るのではなく、性別を読ませにくくする」


 アヤメが玲央を見る。


「怪盗レオナから、だいぶ離れるわね」


「ああ」


 玲央は短く答えた。


 怪盗レオナ。


 女になって盗む怪盗。


 その名前は、もう何度も壊れかけている。


 白河レイカの黒髪を触られた夜。


 佐伯真理のメイクを崩された夜。


 瀬尾圭一として地毛を掴まれた夜。


 朝倉紘一として咲良に名前を呼ばれた夜。


 玲央は、女になることで隠れてきた。


 だが、今度は、隠れる場所そのものを変えなければならない。


「アヤメさんは」


 ナナセが言った。


 アヤメは少しだけ背筋を伸ばした。


「私?」


「あなたは、御影側に“華やかな女怪盗”としても、“清掃スタッフ”としても見られている。次は、そのどちらでもない役にする」


「男装?」


 玲央が言った。


 アヤメは少し笑った。


「似合うかしら」


「似合うかどうかではなく、必要かどうか」


 ナナセは、アヤメを観察する。


「あなたは視線を支配するのが上手い。だから、逆に視線を受け止める役が向く。小展示室の展示記録員。黒いスーツ。短い髪をそのまま活かす。化粧は薄く。名前は、月島葵」


「また月がつくの?」


「本名に近いか遠いかは知らない。でも、あなたは月の字に反応しない。使い慣れているはず」


 アヤメの顔から、笑みが消えた。


 ナナセは、そこを見た。


「図星?」


「あなた、刑事より怖いときがあるわね」


「職人だから」


「理由になってない」


 玲央は、アヤメを見る。


 月。


 月城アヤメ。


 月島葵。


 偽名の中に残る癖。


 アヤメは、自分でも気づいていないものをナナセに拾われている。


 それは玲央にもよく分かった。


 ナナセは、人を布のように見る。どこに力がかかり、どこが伸び、どこが裂けやすいか。身体だけでなく、人格の縫い目も見てしまう。


「私は何をすればいいの」


 アヤメが尋ねた。


「玲央と一緒に入る。ただし、恋人や夫婦の設定にはしない」


「誰も言ってないわよ」


「言う前に潰す」


 ナナセは即答した。


「関係が近すぎる設定は、崩れたときに不自然になる。二人は仕事上の関係。神崎遥が修復助手、月島葵が記録員。互いに顔は知っているが、親しくはない。協力はするが、距離を保つ」


「実態に近いわね」


 アヤメが言う。


「そのほうが崩れにくい」


「ナナセは?」


 玲央が聞いた。


「私は外部待機」


「来ないのか」


「行かない。私は衣装を作る。現場には向かない」


「でも御影は、お前のことも把握している」


「だからこそ、表に出ない。私が入れば、三人まとめて捕まる可能性が上がる」


 玲央は反論しかけて、やめた。


 ナナセの判断は正しい。


 正しいから腹が立つ。


 危険な場所に来てほしいわけではない。だが、自分たちだけで御影の用意した場に入ることに不安がある。ナナセがそばにいれば、変装が崩れても戻れる気がする。だが、それは甘えだった。


 ナナセは、玲央の顔を見て言った。


「戻る場所は作る。現場には行かない」


「分かった」


「分かってない顔だけど、今回はそれでいい」


「雑になってきたな」


 アヤメが笑った。


 作業部屋の空気がわずかに和らぐ。


 だが、すぐにナナセは作業に入った。


 布を出す。


 型紙を広げる。


 既存の衣装を崩し、調整する。


 玲央は採寸され、肩幅、首回り、腕の動き、歩幅を確認された。今回は体型を大きく変えない。むしろ、黒瀬玲央の身体のまま、神崎遥として見えるように調整する。白衣に近いロングジャケットは、性別を隠すというより、職能を前面に出すためのものだった。


 人は、白衣を見ると性別より職業を見る。


 ナナセはそう言った。


 アヤメには、黒いスーツが用意された。清潔で、動きやすく、記録員として不自然のないもの。短い地毛を活かすため、ウィッグは使わない。必要なら小さなヘアピンだけ。マスクも使わない。顔を隠しすぎると、逆に疑われる。


 アヤメは鏡の前で、しばらく自分を見ていた。


 長い黒髪も、赤いドレスもない。


 月城アヤメとしての武器を、かなり捨てている。


「落ち着かない?」


 ナナセが尋ねた。


「ええ」


「それでいい」


「いいの?」


「落ち着かないくらいが、役として自然。月島葵は、華やかな場が得意ではない記録員。緊張していていい」


 アヤメは鏡の中の自分を見た。


「私は、緊張している女を演じるのは嫌い」


「なぜ」


「弱く見えるから」


「弱く見えることと、本当に弱いことは違う」


 ナナセの言葉に、アヤメは黙った。


 玲央は、少し離れた場所からそのやり取りを聞いていた。


 アヤメは、弱く見えることを避ける。


 玲央は、素顔で見られることを避ける。


 似ている。


 似ているから、二人は互いに苛立つのかもしれない。


 準備は深夜まで続いた。


 衣装だけではない。


 人物の履歴も作る。


 神崎遥。


 二十八歳。美術修復を学んだが、まだ独立はしていない。財団の外部協力者の助手として、肖像画の状態確認に入る。専門知識はあるが、権限は弱い。強く意見は言わないが、作品を見るときだけ集中する。自分の性別を説明することに慣れておらず、聞かれたら少し困る。


 月島葵。


 三十歳。展示記録員。写真撮影と状態記録を担当する。表情は硬い。人付き合いは得意ではない。作品よりも記録手順を優先する。華やかな招待客には興味がない。誰かに容姿を褒められると、不自然に受け流す。


 ナナセは、それぞれの細かい癖まで決めた。


 玲央は、作品を見るときに右手を顎へ持っていきかけて、途中で止める。


 アヤメは、質問されると相手の目を一秒見てからメモへ視線を落とす。


 ふとしたとき、二人が怪盗として反応しないように、仕事人としての反応を先に身体へ入れる。


 それは、盗みの準備というより、舞台稽古に近かった。


 だが、舞台とは違う。


 失敗しても幕は下りない。


 失敗すれば、捕まる。


 あるいは、御影に壊される。


     *


 翌日。


 氷見沢咲良は、御影財団の資料を読んでいた。


 警視庁の会議室には、写真と書類が広がっている。南港修復室。銀座旧銀行。緋の冠。白い星。黒瀬暁人。黒瀬玲央。柊ナナセ。月城アヤメ。


 線は増えている。


 だが、全体像はまだ見えない。


 森塚が入ってきた。


「氷見沢さん。御影財団が明日、非公開の確認会を開くようです」


「何の?」


「肖像画です。詳細は非公開。ただ、財団関係者と修復関係者、数名の寄付者が入る予定です」


 咲良は顔を上げた。


「場所は」


「御影財団小展示室」


 咲良は、資料の中から一枚の写真を取り出した。


 御影財団が所有する小展示室。外部公開は限定的。警備は美術館ほど大きくないが、私的な管理が強い。御影が人を招くにはちょうどいい。


「黒瀬玲央は来る」


 咲良は言った。


 森塚は驚かなかった。


「やはり?」


「御影が呼んでいる可能性がある」


「なぜ分かるんですか」


「銀座のあと、御影は何かを奪われた。次に動くなら、玲央たちを誘い込む。非公開確認会は、その場として都合がいい」


「令状は難しいですね」


「難しい。でも、警戒はできる」


「財団側は警察を入れたがらないでしょう」


「表向きは美術品保護の助言という形にする」


 森塚は、少し苦い顔をした。


「また御影と正面からやり合うんですね」


「正面からではない。横から見る」


 咲良は、白い星と緋の冠の写真を並べた。


 どちらにも、円の中に三本線の印がある。


 そして、黒瀬暁人の手帳の写しの一部。咲良はまだ手帳そのものを持っていない。だが、過去の資料から、暁人が御影財団の非公開収蔵品を調査していたことは掴んでいる。


「青の涙」


 咲良が呟く。


 森塚が聞き返す。


「何ですか?」


「黒瀬暁人の調査メモに出てくる言葉。白い星、緋の冠、青の涙、黒の翼。白い星と緋の冠が実在するなら、次は青の涙」


「肖像画と関係が?」


「可能性は高い」


 咲良は立ち上がった。


「明日の確認会、私たちも行く」


「玲央たちを捕まえるためですか」


「それもある」


「それも?」


「御影が何を隠しているかを確かめるため」


 森塚は頷いた。


 咲良は、窓の外を見た。


 黒瀬玲央。


 月城アヤメ。


 柊ナナセ。


 三人の関係は、ただの犯罪仲間というには不安定だ。利用し合っている。警戒し合っている。だが、互いに壊れないよう支えているようにも見える。


 特にナナセ。


 あの衣装職人は、玲央の変装を作っているだけではない。玲央が崩れたあとに戻る場所を作っている。


 咲良は、彼女の工房での言葉を思い出した。


 ――刑事さんに、彼の何が分かるんですか。


 分からない。


 だから追う。


 顔を剥がすためではない。


 動機を知るために。


 そして、御影財団の奥にあるものへ辿り着くために。


     *


 非公開確認会の夜。


 御影財団小展示室は、静かな住宅街の一角にあった。


 大きな看板はない。白い壁と細い窓。外から見れば、小規模なギャラリーか、財団事務所の一部に見える。だが、入口には警備員が二人、内部には財団職員が配置されている。華やかな宝飾展や銀座の旧銀行とは違い、ここは閉じた空間だった。


 閉じた罠。


 玲央は、神崎遥として入口に立った。


 白に近い灰色のロングジャケット。内側は黒。髪は短く整え、軽く色を抑えている。化粧は薄い。顔の線を変えるというより、疲労感と中性的な印象を足す程度だった。胸元や腰回りを大きく変える補正はない。姿勢も、女らしくも男らしくも寄せすぎない。声は玲央に近いが、語尾だけ柔らかくしている。


 隣には、月島葵としてのアヤメがいた。


 黒いスーツ。短い髪。薄い化粧。手には記録用のファイル。彼女は視線を集めないように立っている。けれど、完全に消えるのではなく、記録員としてそこにいる。


 ナナセの声が通信で聞こえた。


「二人とも、呼吸」


 玲央は、小さく息を吐いた。


 アヤメも、ファイルを持つ手の力を抜いた。


「覚えてる?」


 ナナセが言う。


「罠に入る。罠の中で想定から外れる」


 玲央が答える。


「勝手に触らない。勝手に走らない。勝手に欠片を取らない」


 ナナセは続ける。


 アヤメが小さく笑った。


「私に言ってる?」


「両方」


「玲央にも?」


「特に玲央にも」


 玲央は、少しだけ眉を動かした。


 入口の警備員が二人を見る。


 玲央は、神崎遥の顔で書類を出した。


「修復確認の補助で参りました。神崎です」


 アヤメも続く。


「記録担当の月島です」


 警備員は名簿を確認した。


 御影が招いた場である以上、名簿には二人の名前があるはずだった。なければ、そもそも罠として成立しない。


 警備員は頷いた。


「どうぞ」


 扉が開く。


 二人は中へ入った。


 小展示室の内部は、白く静かだった。


 壁には数点の絵画がかけられている。中央には、布で覆われた大きめの額。おそらくそれが、青の涙に関わる肖像画だ。展示室の奥には、御影宗一郎が立っている。周囲には財団職員、寄付者らしき老夫婦、美術関係者が数名。


 そして、壁際に咲良がいた。


 玲央は、視線を止めなかった。


 神崎遥は、警察官を見て緊張するが、凝視はしない。


 咲良の隣には森塚。


 咲良は、玲央を見た。


 見た、というより、測った。


 性別を曖昧にした外見。


 薄いメイク。


 短い髪。


 補正具を使っていない身体の線。


 咲良の目が、それらを一つずつ通過する。


 玲央は、自分の内側が冷えるのを感じた。


 だが、神崎遥は怯えすぎない。


 修復助手は、警察より作品を見る。


 玲央は中央の額へ視線を向けた。


 御影が近づいてきた。


「神崎さん。月島さん。お待ちしていました」


 穏やかな声。


 慈善家の顔。


 玲央の父を知る男。


 ナナセの工房を脅した男。


 玲央は、神崎遥として軽く頭を下げた。


「本日はよろしくお願いいたします」


 アヤメも硬い表情で会釈する。


「記録を担当いたします」


 御影は、二人を見比べた。


 その目には、確信に近い楽しみがあった。


 彼は分かっている。


 神崎遥が黒瀬玲央であることを。


 月島葵が月城アヤメであることを。


 それでも、あえて名を呼ばない。


 仮面を被ったまま招き入れる。


 それが御影の趣味だった。


「今夜ご覧いただくのは、当財団が長く非公開としてきた肖像画です」


 御影は、中央の額へ向かった。


 室内の照明が少し落ちる。


 布が外される。


 肖像画が現れた。


 描かれていたのは、一人の女性だった。


 年齢は三十代ほど。青みを帯びた黒いドレスを着て、椅子に座っている。背景は暗く、顔だけが淡く浮かんでいた。表情は穏やかだが、どこか悲しげでもある。見る者を見返しているような目。


 その目が、青かった。


 絵画の中で、そこだけが異様に澄んでいた。


 宝石のような青。


 いや、涙のような青。


 玲央は息を止めた。


 青の涙。


 確かに、その目に宿っている。


 父の手帳の言葉は、比喩ではなかった。


 肖像画の目そのものが鍵だった。


 アヤメも、横でわずかに反応している。ファイルを持つ指が、少しだけ強くなった。


 咲良は壁際から、肖像画ではなく玲央たちを見ていた。


 御影が説明を始める。


「この作品は、長らく作者不詳とされてきました。ですが近年の調査で、十九世紀末に欧州で制作された可能性が高いと分かっています。特に注目すべきは、眼の部分に用いられた青色顔料です」


 玲央は、神崎遥として一歩前に出た。


「確認しても?」


「もちろん」


 御影は微笑む。


「そのためにお呼びしました」


 罠の中へ、さらに一歩。


 玲央は肖像画の前に立った。


 近づくと、青い目の異様さがよりはっきりした。絵具の青ではない。細かいガラス片か、鉱物の粉末が混ぜられているように見える。光の角度で、青がわずかに揺れる。


 アヤメが記録員として横に立ち、ファイルを開く。


「状態確認、開始します」


 声は硬い。


 だが、玲央には分かった。


 アヤメも気づいている。


 目の奥に、欠片がある。


 青の涙は、絵の目に埋め込まれている。


 御影の声が背後から聞こえた。


「神崎さん。どう思われますか」


 玲央は、神崎遥として答える。


「眼の部分だけ、層が違います。絵具ではなく、何か別素材が混じっている可能性があります」


「別素材」


「ガラス、あるいは鉱物片。かなり古い処理に見えます」


「取り出せますか」


 室内の空気が止まった。


 玲央は振り返らなかった。


 御影は今、玲央に言ったのではない。


 神崎遥に言ったのでもない。


 黒瀬玲央に言ったのだ。


 父が調べていたものを、お前の手で取り出してみろ。


 そう言っている。


 ナナセの声が通信に入る。


「玲央、乗らないで」


 アヤメの指も、ファイルの端を強く握っている。


 咲良が壁際で動いた。


 彼女も、今の言葉の危険さを察したのだろう。


 玲央は、ゆっくり振り返った。


「この場での処置は適切ではありません。作品への負荷が大きすぎます」


 神崎遥の声だった。


 御影の目が細くなる。


「では、専門の修復室なら?」


「状態調査が先です」


「慎重ですね」


「修復とは、壊さないための作業ですので」


 玲央は、自分で言いながら、父のことを思い出した。


 父なら、同じように答えただろうか。


 壊さないための作業。


 御影は美を保存しているのではない。罪を保存している。


 御影は笑った。


「黒瀬暁人さんも、同じことを言っていました」


 その瞬間、玲央の仮面が軋んだ。


 神崎遥の呼吸が乱れかける。


 ナナセの声。


「玲央」


 アヤメが、ファイルを閉じる音を少し大きめに立てた。


 その音で、玲央は戻った。


 神崎遥へ。


「黒瀬先生をご存じなのですか」


 玲央は尋ねた。


 あえて、神崎遥として。


 御影は満足そうに言った。


「ええ。優秀な修復師でした」


「でした?」


「今は、いらっしゃらない」


 玲央の手が、わずかに動いた。


 咲良の視線がそこへ向く。


 御影は続ける。


「彼は、この肖像画にも強い関心を示していました。特に眼の青に」


「それで?」


 玲央の声に、少しだけ黒瀬玲央が混じった。


「彼は、知りすぎた」


 室内の空気が変わった。


 寄付者たちは、何の話か分からず戸惑っている。財団職員は表情を硬くしている。咲良は一歩前へ出た。


 御影は、それでも穏やかだった。


「神崎さん。作品を見る者は、ときに作品の奥にあるものまで見てしまう。ですが、見たものをすべて口にするべきではない。黒瀬暁人さんは、その点で少し不用意でした」


 玲央は、もう答えられなかった。


 神崎遥が崩れる。


 父の名。


 知りすぎたという言葉。


 御影の笑み。


 全部が玲央の内側を直接叩いてくる。


 アヤメが、玲央の前に半歩出た。


 月島葵としてではなく、アヤメとして。


「記録を中断します。作品の安全確認が必要です」


 御影がアヤメを見る。


「月島さん。あなたは記録員でしたね」


「はい」


「記録するだけなら、黙っていてください」


 その声は穏やかだった。


 だが、鋭く冷たい。


 アヤメの目が細くなる。


 彼女もまた、仮面が剥がれかけている。


 御影は、二人を順に見た。


「今夜は、あなたがたに選んでもらおうと思いまして」


「何を」


 玲央が言った。


 もう神崎遥の声ではなかった。


 御影は微笑む。


「青の涙を取るか。黒瀬暁人の真実を聞くか。それとも、警察の前で自分の名前を守り続けるか」


 咲良が声を上げた。


「御影さん。これ以上、関係者を挑発する発言は控えてください」


「挑発?」


 御影は、咲良へ向き直る。


「私は作品確認の場を設けただけです。刑事さんこそ、ずいぶん物騒な見方をなさる」


「昨夜、銀座の保管庫で何が起きたか、説明していただく必要があります」


「説明はすでに」


「不十分です」


 咲良と御影の視線がぶつかる。


 その瞬間、展示室の照明が一度だけ揺れた。


 玲央は反射的に肖像画を見た。


 青い目が、暗がりの中で強く光った。


 違う。


 光ったのではない。


 目の奥で、何かが反射した。


 青の涙の欠片。


 そこにある。


 アヤメも見ていた。


 二人の視線が一瞬だけ合う。


 取るか。


 取らないか。


 ナナセの声が通信で響く。


「取らない。今は取らない。御影はそれを待ってる」


 玲央は奥歯を噛んだ。


 分かっている。


 ここで手を出せば、御影の思うつぼだ。咲良の前で作品に触れれば、言い逃れできない。御影は、玲央に盗ませようとしている。あるいは、壊させようとしている。


 父の名前で揺さぶり、青の涙を見せ、警察の前で選ばせる。


 悪趣味な罠だった。


 だからこそ、乗ってはいけない。


 玲央は、肖像画から一歩下がった。


「状態確認は中止します」


 御影の目が、わずかに変わった。


「なぜ?」


「作品の安全が確保できないからです」


「安全?」


「この場は、作品確認に適していません。関係者の発言も、環境も、安定していない。これ以上の確認は、正式な修復室で行うべきです」


 玲央は、神崎遥として言った。


 半分は演技。


 半分は本心だった。


 壊さないための作業。


 父なら、そう言ったはずだ。


 御影は、黙って玲央を見た。


 咲良も見ている。


 アヤメも、少し驚いた顔をしていた。


 玲央は続ける。


「少なくとも、私の権限ではこれ以上触れません」


 弱い立場の修復助手。


 権限がない。


 責任を取れない。


 それは逃げでもあった。


 だが、今は正しい逃げだった。


 御影は、小さく笑った。


「お父上より、賢い」


 玲央の仮面が再び軋む。


 だが、今度は崩れなかった。


 咲良が前に出た。


「作品確認は中止。異論はありますか」


 御影は咲良を見た。


「警察が決めることではありませんが」


「この場で関係者間のトラブルが起きる可能性があります。安全確保のためです」


 御影は、数秒黙った。


 やがて、穏やかに頷いた。


「よろしい。今夜はここまでにしましょう」


 布が肖像画にかけられる。


 青い目が隠れる。


 玲央は、胸の奥に残った熱を押さえた。


 取らなかった。


 青の涙を目の前にして、取らなかった。


 それは敗北のようで、少しだけ勝利でもあった。


 御影が望んだ形では動かなかった。


 罠に入ったが、罠の中心には踏み込まなかった。


 ナナセの声が小さく聞こえた。


「戻って」


 玲央は、アヤメに目配せした。


 二人は会場を出ようとする。


 そのとき、御影が背後から言った。


「黒瀬玲央くん」


 今度は、はっきりと。


 会場の空気が凍った。


 玲央は止まった。


 振り返らない。


 御影は続けた。


「君は、父親より長く迷えるといいですね」


 玲央は、ゆっくり振り返った。


 神崎遥の顔ではなかった。


 黒瀬玲央の目だった。


 咲良がその間に入るように動く。


 アヤメが玲央の袖を軽く引いた。


 無理にではない。


 ただ、戻れという合図だった。


 玲央は、御影を見たまま言った。


「父は迷ったんじゃない」


 声は静かだった。


「あなたの罪を見たんだ」


 御影の笑みが、初めてわずかに消えた。


 玲央はそれ以上言わなかった。


 言えば崩れる。


 だから、引いた。


 アヤメとともに展示室を出る。


 廊下に出た瞬間、膝が少しだけ重くなった。


 アヤメが低く言った。


「よく耐えたわね」


「うるさい」


「褒めてるの」


「なおさらうるさい」


 アヤメは少し笑った。


 だが、その笑いもすぐに消えた。


「でも、青の涙は取れていない」


「分かってる」


「御影は次に移すわ」


「だろうな」


「どうする?」


 玲央は、廊下の先を見た。


 展示室の外には、夜がある。


 罠から出た。


 だが、青の涙はまだ中にある。


 取らなかったことは正しかった。


 それでも、次に取る方法を考えなければならない。


 ナナセの声が通信で入る。


「二人とも、外へ。今夜は終わり」


「終わってない」


 玲央が言う。


「今夜は終わり。続きは、戻ってから考える」


 アヤメが玲央を見る。


「職人さんの言う通り」


「お前がそれを言うのか」


「私も少し学習したの」


 玲央は、短く息を吐いた。


 二人は小展示室を出た。


 外の空気は冷たかった。


 夜空には月が出ていた。


 白い星、緋の冠、青の涙。


 三つ目の鍵は、見つけた。


 だが、まだ手にしていない。


 玲央は、展示室の白い壁を振り返った。


 その奥に、青い目の肖像画がある。


 父が見たもの。


 御影が隠したもの。


 そして、玲央が今夜あえて触れなかったもの。


 触れなかったことが、こんなにも重いとは思わなかった。


     *


 展示室の中で、咲良は御影と向き合っていた。


 客は帰され、職員も最小限になっている。


 肖像画には布がかけられている。


 御影は、まだ穏やかな顔をしていた。


「刑事さん。今夜は残念でしたね」


「何がですか」


「彼を捕まえる機会だったのでは?」


 咲良は答えなかった。


 御影は続ける。


「黒瀬玲央。怪盗レオナ。女性にも男性にも、曖昧な人物にもなれる。実に興味深い」


「あなたは、彼を挑発して作品に触れさせようとした」


「証拠は?」


「今はありません」


「では、印象論ですね」


 御影は笑った。


 咲良は、その笑みを見ても表情を変えなかった。


「黒瀬暁人さんについて、改めて話を聞かせていただきます」


「何度でも。彼は優秀な修復師でした。そして、ある日突然、姿を消した」


「本当に?」


「少なくとも、私の知る限りでは」


「あなたの知る限りは、狭そうですね」


 御影の目がわずかに冷える。


 咲良は一歩も引かなかった。


「今夜、黒瀬玲央さんは作品に触れなかった。あなたの想定から外れましたね」


「何のことやら」


「次にあなたが動くとき、私も動きます」


「警察とは、いつも後から来るものです」


「今回は、そうならないようにします」


 御影は、咲良をじっと見た。


「あなたもまた、仮面を剥がすのがお好きなようだ」


「仕事です」


「剥がした下に何もなかったら?」


「そのときは、何もないことを確認します」


「残酷ですね」


「あなたほどではありません」


 咲良はそう言い、展示室を出た。


 廊下で森塚が待っていた。


「玲央たちは?」


「外へ出ました。追いますか?」


 咲良は少し考えた。


「今は追わない」


「いいんですか?」


「今捕まえても、御影の核心には届かない。玲央たちは青の涙を見た。でも取らなかった。次に御影が動く」


「それを待つ?」


「待つだけじゃない。先に読む」


 咲良は、肖像画の置かれた展示室を振り返った。


「青の涙は、あの絵の目にある」


「押収しますか?」


「今の根拠では難しい。だが、保全の名目で動ける可能性はある」


「御影が移す前に?」


「そう」


 咲良は歩き出した。


 黒瀬玲央は、今夜、作品に触れなかった。


 それは意外だった。


 父の名で揺さぶられても、青の涙を目の前にしても、彼は手を出さなかった。


 変わっている。


 咲良はそう感じた。


 ただ逃げる怪盗ではなくなっている。


 ならば、自分も捜査の仕方を変えなければならない。


     *


 作業部屋に戻った玲央は、椅子に座るなり深く息を吐いた。


 ナナセは何も言わず、まず通信機を外させた。


 次に、ロングジャケットの肩や袖を確認する。引っ張られた形跡はない。髪も乱れているが、崩壊はしていない。メイクも薄く落ちているだけで、神崎遥の輪郭はまだ残っている。


 ナナセは、少しだけ安心したように見えた。


「今回は、壊れてない」


 玲央は疲れた声で言った。


「壊れかけた」


「でも戻った」


「戻れたのか」


「戻った」


 ナナセは短く言った。


 その断定が、少しだけ玲央を落ち着かせた。


 アヤメも、月島葵の黒いスーツを脱がずに椅子に座っている。彼女も疲れているようだった。華やかなアヤメより、無表情な月島葵のほうが、彼女には負担だったのかもしれない。


「青の涙は見えた」


 アヤメが言った。


「肖像画の目の中。あれは間違いない」


 ナナセは頷き、ホワイトボードに書いた。


 青の涙=肖像画の青い目。


 欠片未回収。


 御影の罠。


 玲央は、父の手帳を開いた。


 “青の涙、海ではなく目に宿る。”


 その横に、小さな線が引かれていた。


 今まで気づかなかった。


 線の先に、かすれた文字がある。


 “彼女は泣いていない。泣かされている。”


 玲央は、その一文を読み上げた。


 部屋が静かになった。


「彼女」


 ナナセが言った。


「肖像画の女性?」


「たぶん」


 アヤメが顔を上げる。


「泣いていない。泣かされている。どういう意味?」


「分からない」


 玲央は手帳を握る。


「でも、父はあの肖像画を見ていた。あの目の青が、ただの鍵じゃないことに気づいていたのかもしれない」


 ナナセは考える。


「青の涙は、欠片であると同時に、肖像画の女性に関する何かを示している可能性がある」


「人物を調べる必要があるわね」


 アヤメが言う。


「作者不詳。モデル不詳。でも、御影が隠しているなら、来歴に何かある」


 玲央は頷いた。


「次は、青の涙を盗る前に、肖像画の女性を調べる」


 ナナセが、少し驚いたように玲央を見た。


「盗る前に?」


「今夜、取らなくてよかった。あれを無理に外せば、作品を壊したかもしれない」


 自分で言って、玲央は少し戸惑った。


 以前の自分なら、こう考えただろうか。


 目的のために盗る。


 必要なら変装を使って近づく。


 証拠を得る。


 父に近づく。


 それだけだった。


 だが、今夜は違った。


 肖像画の目を見たとき、玲央は父の言葉を思い出した。修復とは、壊さないための作業。父が守ろうとしたものを、自分が壊すわけにはいかない。


 御影は、玲央に盗ませようとした。


 壊させようとした。


 父と同じものを見せ、父と違う選択をさせようとした。


 それに乗らなかった。


 それは、玲央にとって初めての種類の勝利だった。


 アヤメは、少しだけ不満そうだった。


「でも、御影は移すわ」


「移させない方法を考える」


「警察を使う?」


 その言葉に、部屋の空気が変わった。


 ナナセは咲良の名刺を見た。


 玲央も見る。


 警察。


 咲良。


 敵。


 だが、御影を止めるためには、使えるかもしれない。


 いや、使うという言い方は違う。


 協力ではない。


 接触。


 情報の交換。


 玲央は、名刺に手を伸ばした。


 触れた。


 だが、まだ取らなかった。


「今は、まだ」


 玲央は言った。


 ナナセは頷く。


「今すぐ決めなくていい。ただ、選択肢には入れる」


 アヤメは、少しだけ肩をすくめた。


「怪盗が刑事に連絡するなんて、面白いわね」


「面白くない」


 玲央が言う。


「でも、必要になるかもしれない」


「それを認めるようになっただけ、進歩じゃない?」


「黙れ」


 アヤメは笑った。


 今度の笑いには、棘が少なかった。


 夜は深くなっていた。


 青の涙はまだ手に入っていない。


 だが、三人は新しい情報を得た。


 肖像画の女性。


 泣いていない。泣かされている。


 御影が隠す罪は、美術品取引だけではないのかもしれない。


 玲央は、ロングジャケットを脱いだ。


 神崎遥が終わる。


 だが、今回は終わらせるのが怖くなかった。


 ウィッグも、大きな補正具もない。薄いメイクを落とせば、黒瀬玲央に戻るだけだ。戻ることが、以前より少しだけ嫌ではなかった。


 鏡の前で顔を洗う。


 水が、薄い化粧を流す。


 神崎遥が消える。


 黒瀬玲央が残る。


 玲央は鏡を見た。


 まだ、頼りない顔だった。


 父を追うには弱く、御影と戦うには脆く、咲良から逃げるには迷いが多い。


 だが、今夜は逃げなかった。


 取らなかった。


 壊さなかった。


 それだけは確かだった。


 作業部屋に戻ると、ナナセが金属箱を閉じていた。


 白い星と緋の冠の欠片が眠る箱。


 青の涙は、まだそこに加わっていない。


 アヤメは窓の外を見ていた。


 月が雲に隠れている。


 玲央は、父の手帳を机に置いた。


 次にするべきことは、青の涙を盗ることではない。


 肖像画の女性を知ること。


 父がなぜ「泣かされている」と書いたのかを知ること。


 そして、御影が何を隠したのかを知ること。


 怪盗の仕事ではない。


 修復師の息子の仕事だった。


 玲央は、咲良の名刺をもう一度見た。


 まだ電話はしない。


 けれど、捨てない。


 その選択が、今夜の結論だった。


 青の涙は、まだ肖像の目に宿っている。


 涙は盗まれるのを待っているのではない。


 誰かに、見つけられるのを待っている。


 玲央は、初めてそう思った。


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