第6話 女刑事の訪問
朝になっても、作業部屋の空気は夜のままだった。
窓の外では、街がいつも通り動き始めている。配送車が路地に入り、ビルの清掃員が歩道を掃き、通勤する人々が駅へ向かう。銀座の地下で起きたことなど、誰も知らない。緋の冠の内側から小さな赤い欠片が消えたことも、御影財団の保管庫で警察と財団側が衝突しかけたことも、黒瀬玲央という名前が刑事の口から呼ばれたことも。
外の世界は、何も知らない顔で朝を始めていた。
だが、作業部屋の中だけは違った。
机の中央には、小さな金属箱が置かれている。
中には、白い星の欠片と、緋の冠の欠片。
父の手帳に書かれていた四つの鍵のうち、二つがここにある。
黒瀬玲央は、箱を見つめていた。
眠っていない。
眠れなかった。
ソファに横にはなった。目も閉じた。だが、頭の中では何度も、咲良の声が再生された。
――黒瀬玲央。
仮名ではない。
女の名前でもない。
役の名前でもない。
自分の名前だった。
白河レイカでも、佐伯真理でも、瀬尾圭一でも、朝倉紘一でもない。黒瀬玲央。父が呼んでいた名前。公的書類に書かれている名前。消したいわけではないのに、怪盗として動くたびに奥へ押し込めてきた名前。
それを、氷見沢咲良は地下で呼んだ。
顔を暴かれるより重かった。
ウィッグを外されるより痛かった。
玲央は、自分の髪に触れた。
南港で掴まれたところは、まだ少し痛い。銀座で眼鏡を外されたときの緊張も、首の後ろに残っている。だが、それらはもう表面的な痛みだった。本当に残っているのは、名前を呼ばれた感覚だった。
作業台の向こうでは、ナナセが資料を整理していた。
彼女もほとんど寝ていないはずなのに、手の動きは正確だった。机に広げられた地図、メモ、手帳の写し、銀座地下で得た情報。すべてを分類し、不要な紙を片づけ、必要なものだけを残していく。
ナナセは、混乱した状況ほど静かになる。
それが玲央にはありがたくもあり、少し怖くもあった。
アヤメは、窓際の椅子に座っていた。
長い黒髪のウィッグはかぶっていない。
短い地毛のままだった。
顔の化粧も、昨夜より薄い。完全な素顔ではないが、女怪盗アヤメの華やかな輪郭はもうほとんど消えている。地味な上着を羽織り、片膝を抱えるように椅子に座っている姿は、昨夜の赤いドレスの怪盗と同一人物には見えなかった。
それでも、視線だけは鋭かった。
アヤメは、金属箱を見ている。
白い星と緋の冠。
二つの欠片。
玲央にとって父への道であるように、アヤメにとっても復讐への道だった。
ナナセが顔を上げた。
「状況を確認する」
玲央は小さく頷いた。
アヤメも視線だけを向ける。
ナナセは、ホワイトボードの前に立った。
「まず、良い情報。緋の冠の欠片は確保した。白い星の欠片と同じ印がある。これで、黒瀬さんの手帳にあった四つの鍵のうち、二つが実在すると確認できた」
黒瀬さん。
ナナセが玲央の父をそう呼ぶと、玲央は少しだけ胸が詰まった。
ナナセは続ける。
「次に悪い情報。咲良さんは、玲央を黒瀬玲央として認識した。アヤメさんの変装の癖もかなり掴んでいる。御影側も、女装だけを警戒していた段階から、玲央が男性変装でも動く可能性に気づいたはず」
「つまり、全部悪くなってる」
玲央が言うと、ナナセは即答した。
「そう」
「少しは否定しろ」
「否定する材料がない」
アヤメが小さく笑った。
「容赦ないわね」
「現実が容赦してくれないから」
ナナセは、赤いペンでホワイトボードに「咲良」「御影」「青の涙」「黒の翼」と書いた。
「次は青の涙。ただし、こちらから探しに行く前に、相手が動く可能性が高い。御影は欠片が二つ奪われたと気づく。咲良さんは玲央の周辺を調べる。アヤメさんも、過去を掘られる可能性がある」
アヤメの表情が少しだけ硬くなった。
「私の過去は簡単には出てこないわ」
「出てこないようにした人ほど、出てきたときに逃げ場がない」
ナナセの言葉に、アヤメは返さなかった。
玲央は、机の上の手帳を見た。
「青の涙について、父の手帳にはほとんど書いてない」
「『青の涙、海ではなく目に宿る』」
ナナセが、手帳の写しを読み上げた。
「意味不明ね」
アヤメが言った。
「海ではなく目に宿る。宝石ならサファイアか、青いガラスか、涙型の装飾品か」
「青い宝飾品なら御影はいくつも持っている」
「でも『目に宿る』が気になる」
ナナセは、ホワイトボードに「目」と書いた。
「絵画の目。彫像の目。仮面の目。あるいは、人の目」
玲央は眉をひそめた。
「人の目?」
「比喩としてはある。証人、目撃者、監視映像。青の涙が物体ではなく、誰かの記憶や証言を指す可能性もある」
アヤメは首を振った。
「でも、白い星も緋の冠も実物だった。青の涙も何かの品である可能性が高い」
「同意。ただ、品名そのものとは限らない」
ナナセは冷静にまとめる。
「今すぐ青の涙を追うのは危険。まず、咲良さんと御影の動きを見る」
「待つのか」
玲央の声は低くなった。
「待つ」
「待っている間に、御影に全部隠される」
「今動けば、咲良さんに捕まるか、御影に潰される」
「それでも」
「それでも、じゃない」
ナナセの声が強くなった。
部屋が静かになる。
玲央は、ナナセを見た。
ナナセも、まっすぐ玲央を見返している。
「玲央、昨日まではあなたの正体は曖昧だった。今日からは違う。黒瀬玲央として追われる。今までみたいに、女装を解いて別の顔で帰れば終わる段階じゃない」
「分かってる」
「分かってない」
「またそれか」
「何度でも言う。あなたは分かっているふりをして、危険を自分一人のものとして扱う。でも違う。私も巻き込まれている。アヤメさんもいる。欠片もここにある。あなたが捕まったら、私たちも終わる」
ナナセの言葉は淡々としていた。
だが、その奥には怒りがあった。
玲央は返事ができなかった。
アヤメが、珍しく口を挟まなかった。
ナナセは少し息を吐いた。
「今日は外に出ない。玲央は、少なくとも夕方までここにいる。アヤメさんも同じ」
「私も?」
アヤメが不満そうに言う。
「あなたも」
「私は待機が苦手なの」
「知ってる。だから見張る」
「あなた、私のこと嫌いでしょ」
「信用していないだけ」
「ほぼ同じよ」
「違う。嫌いなら追い出してる」
アヤメは、それを聞いて少しだけ表情を変えた。
意外だったのかもしれない。
玲央も同じだった。
ナナセは、誰にでも厳しい。だが、完全に切り捨てる相手にはそもそも口数を使わない。アヤメに対して文句を言うのは、まだこの部屋の中に置くつもりがあるということだった。
そのとき、ナナセの端末が震えた。
彼女は画面を見て、眉を寄せた。
「……まずい」
玲央が顔を上げる。
「何だ」
「私の工房に、警察が来てる」
空気が止まった。
玲央は立ち上がった。
「咲良か」
「たぶん。表の工房。ここじゃない」
「何人」
「近所の防犯カメラに映った範囲だと、二人。咲良さんと若い刑事」
「目的は」
「分からない。でも、玲央を探しているなら、当然来る」
アヤメが言った。
「この場所は?」
「まだ知られていないはず」
「はず、ね」
玲央は、すぐにジャケットを手に取った。
ナナセが止める。
「どこへ行く」
「工房に行く」
「だめ」
「ナナセの工房だ」
「だから私が行く」
「お前一人で咲良に会う気か」
「私の仕事場に警察が来てる。対応するのは私」
「俺のせいだ」
「そう。だから、これ以上悪化させないで」
玲央は言葉に詰まった。
ナナセは、棚から普通のコートを取った。変装用ではない。彼女自身の服だ。髪を整え、最低限の化粧をする。仕事場へ向かう衣装職人として、自然な姿。
「ナナセ」
玲央が呼ぶ。
彼女は振り返らない。
「咲良さんは、たぶん私を試す。嘘をつくなら、余計な嘘はつかない。聞かれたことにだけ答える」
「危ない」
「危ないのは前から」
「俺も行く」
「だめ」
「なぜ」
「咲良さんが一番見たいのはあなた。見たいものを自分から出す必要はない」
アヤメが静かに言った。
「私が行く?」
玲央とナナセが同時に見た。
アヤメは肩をすくめた。
「冗談よ。そんな顔しないで」
「今の状況で冗談を言うな」
玲央が言うと、アヤメは少しだけ笑った。
「緊張をほぐそうとしたの」
「逆効果だ」
「知ってる」
ナナセは、金属箱を棚の奥へしまった。
「二人はここにいて。絶対に外へ出ない。欠片にも触らない」
「俺を子ども扱いするな」
「信用の問題」
「さらに悪い」
ナナセは扉へ向かった。
出る直前、彼女は振り返った。
「玲央。あなたを守るためだけじゃない。私の場所を守るために行く。そこを間違えないで」
扉が閉まった。
作業部屋に、玲央とアヤメだけが残された。
沈黙。
玲央は扉を見つめたまま立っていた。
アヤメが言う。
「行きたい顔をしてる」
「行くべきだ」
「行ったらナナセさんの判断を無駄にする」
「分かってる」
「分かってない顔」
「お前まで言うな」
アヤメは少し笑った。
だが、その笑いはすぐに消えた。
「氷見沢咲良は、ナナセさんを傷つけるような人じゃないと思う」
「なぜ分かる」
「昨日、地下で見た。あの人は、私たちを捕まえるために見ている。でも、御影の人間みたいに踏みにじる目ではなかった」
「だから安全だと?」
「安全ではないわ。ただ、話ができる相手ではある」
玲央は、椅子に座った。
手が落ち着かない。
ナナセが咲良と会う。
自分のせいで。
それをここで待つしかない。
盗みに入るより苦痛だった。
*
柊ナナセの表の工房は、古いビルの四階にあった。
作業部屋とは違い、こちらは正式な仕事場だ。舞台衣装、撮影衣装、イベント用衣装。依頼者が来ることもあるため、入口には小さな看板が出ている。
ナナセが階段を上がると、扉の前に二人が立っていた。
氷見沢咲良。
そして森塚亮。
咲良は、ナナセを見て軽く会釈した。
「柊ナナセさんですね」
「はい」
「警視庁捜査二課の氷見沢です。少しお話を伺えますか」
ナナセは鍵を開けた。
「どうぞ。仕事場なので散らかっていますが」
工房の中は、整っていた。
正確には、散らかっているように見えて、すべての場所が決まっている。布、針、型紙、トルソー、ミシン、ウィッグのスタンド。咲良は室内に入ると、一瞬でそれを見た。
この部屋は、衣装を作る場所だ。
同時に、別人を作る場所でもある。
ナナセは、二人に椅子を勧めた。
「お茶は出せません。作業中なので」
「お気遣いなく」
咲良は座らなかった。
森塚も立ったままだ。
ナナセは、作業台のそばに立つ。
「黒瀬玲央さんをご存じですね」
咲良は、前置きを省いた。
ナナセは即答しなかった。
即答しないことは、否定ではない。
考えてから答える人間として自然な間を置く。
「知っています。以前、舞台関係の現場で一緒になりました」
「現在も交流がありますか」
「仕事の相談を受けることはあります」
「衣装の?」
「はい」
「女性用衣装も?」
「作ります。私の仕事なので」
咲良の視線が、ウィッグの棚へ向いた。
ナナセはそれを見ていた。
「特殊な変装用の衣装も作りますか」
「撮影や舞台で必要なら」
「胸部や腰回りの体型を変える補正具、ウィッグ、メイクに合わせた衣装も?」
「舞台では普通にあります」
「黒瀬玲央さんにも作ったことがありますか」
ナナセは、咲良の目を見た。
「守秘義務があります」
「犯罪捜査に関わる可能性があります」
「令状はありますか」
森塚が少し動いた。
咲良は表情を変えなかった。
「今日は任意でのお話です」
「では、依頼者の具体的な内容は話せません」
静かな応酬だった。
咲良は、ナナセを責めるような口調を使わない。ナナセも、感情的にならない。二人とも、相手が簡単には崩れないと分かっていた。
咲良は工房内を見回した。
「昨日の夜、銀座にいましたか」
「いいえ」
「黒瀬玲央さんがどこにいたか、ご存じですか」
「知りません」
「本当に?」
「少なくとも、あなたに答える義務のある形では知りません」
森塚が眉をひそめた。
ナナセは続ける。
「刑事さん。私は衣装職人です。役者や依頼者が何を演じるかに関わることもあります。でも、衣装を作ることと、相手の行動をすべて管理することは別です」
咲良は頷いた。
「その通りです」
意外な返答だった。
ナナセは少しだけ警戒を強める。
咲良は言った。
「私は、あなたを犯人扱いしに来たわけではありません」
「では、何をしに?」
「警告です」
「警告?」
「黒瀬玲央さんは、御影財団と関わる危険な事件に近づいています。昨夜、御影側と思われる人物が、彼ともう一人の人物を追っていました。彼の周辺にいるあなたも、危険に巻き込まれる可能性がある」
ナナセは黙った。
咲良の声は、脅しではなかった。
事実を置いているだけだった。
「黒瀬さんに伝えてください。これ以上一人で動けば、警察より先に御影側に捕まる可能性がある。そうなれば、私たちでも助けられない」
「黒瀬さんに会う前提なのですね」
「会うと思っています」
「なぜ」
「あなたは彼を切っていない」
ナナセは、咲良を見た。
咲良は続けた。
「この工房には、最近まで使われていた男性用と女性用の調整痕があります。急ぎで直したウィッグもある。ですが、重要なものはここにない。つまり、あなたには別の作業場所がある」
ナナセは表情を変えなかった。
だが、内心では警戒が跳ね上がった。
咲良は見すぎている。
棚の空き、道具の配置、布の残り、作業台の傷。
それらから、別の場所を推測したのだ。
「刑事さんは、衣装にも詳しいのですね」
「詳しくはありません。ただ、隠されたものを見る訓練はしています」
「それで、私に何を求めますか」
「黒瀬玲央さんに、話を聞かせてほしい。御影財団が何を隠しているのか。彼が何を追っているのか。私は知る必要があります」
「逮捕するために?」
「それも仕事です」
咲良は、そこで初めて少しだけ声を低くした。
「ですが、御影財団が本当に何かを隠しているなら、それも暴く必要があります。怪盗を捕まえることと、財団の罪を見逃さないことは矛盾しません」
ナナセは、この女が厄介だと改めて思った。
単純な敵ではない。
味方でもない。
正義を語るだけの人間なら、いくらでも拒絶できる。だが、咲良は現実を見ている。玲央が罪を犯している可能性も、御影が罪を隠している可能性も、同時に見ている。
ナナセは、少し考えてから言った。
「黒瀬さんに会ったら、伝えます」
「ありがとうございます」
「ただ、彼があなたを信用するかは別です」
「分かっています」
「たぶん、逃げます」
「それも分かっています」
咲良は、ようやく椅子に座った。
森塚が少し驚いた顔をする。
咲良はナナセに向かって、静かに言った。
「柊さん。あなたは、彼の変装を作っていますね」
ナナセは答えない。
「答えなくていいです。ただ、一つだけ言わせてください。変装は、本人を守ることもある。でも、本人が自分に戻れなくなることもある」
ナナセの指が、わずかに動いた。
咲良は、それを見逃さなかった。
「黒瀬玲央さんは、変装を解いたあとも、まだ何かを被っているように見えます」
「……刑事さんに、彼の何が分かるんですか」
ナナセの声に、初めて感情が混じった。
咲良は、すぐに答えなかった。
少し間を置き、言った。
「分かりません。だから話を聞きたい」
その答えは、ナナセの予想より誠実だった。
咲良は立ち上がった。
「今日はこれで失礼します。もし黒瀬さんに会ったら、警察より御影を恐れろ、と伝えてください」
「あなたではなく?」
「私も恐れたほうがいいでしょうね」
咲良は、わずかに自嘲するように言った。
そして名刺を一枚、作業台に置いた。
「連絡をお待ちしています」
二人が工房を出ていく。
扉が閉まったあと、ナナセはしばらく動かなかった。
咲良は、敵だ。
少なくとも、玲央を捕まえる立場にいる。
だが、御影とは違う。
その違いが、かえって難しかった。
*
作業部屋に戻ったナナセは、いつもより疲れて見えた。
玲央はすぐに立ち上がった。
「大丈夫か」
「うん」
「何を聞かれた」
「あなたのこと。衣装のこと。別の作業場所があることも、かなり見抜かれた」
玲央の顔が強張る。
「ここが?」
「まだ場所までは。でも、存在は疑ってる」
アヤメが低く言った。
「早いわね」
「早すぎる」
ナナセはコートを脱ぎ、椅子に座った。
それから、咲良の名刺を机に置いた。
「伝言。警察より御影を恐れろ」
玲央は名刺を見た。
氷見沢咲良。
警視庁捜査二課。
白い紙に印刷された名前。
地下で呼ばれた自分の名前と、机の上の咲良の名前が、妙に釣り合って見えた。
「咲良は、俺を逮捕したいのか」
「仕事としてはそう。でも、御影のことも追ってる」
「信用できるか」
「分からない」
ナナセは正直に言った。
「ただ、御影とは違う。あなたを壊そうとはしていない」
アヤメが頷いた。
「同感」
玲央は二人を見た。
「お前たちは、ずいぶん咲良を評価するんだな」
「評価ではない。区別」
ナナセが言う。
「敵にも種類がある。咲良さんは危険。でも、話が通じる可能性がある。御影は違う」
玲央は黙った。
そのとき、作業部屋の固定電話が鳴った。
三人が同時に動きを止めた。
この部屋の番号を知る者は限られている。
ナナセが受話器を取ろうとしたが、玲央が手で制した。
数回鳴る。
玲央が受話器を取った。
「……はい」
しばらく無音。
次に聞こえたのは、御影宗一郎の声だった。
「黒瀬玲央くん」
玲央の背筋が冷えた。
ナナセとアヤメが、表情を変える。
御影は、穏やかな声で続けた。
「お父上によく似てきましたね」
「何の用だ」
玲央の声は、もう仮面を被っていなかった。
御影は笑った。
「白い星と緋の冠。ずいぶん熱心に集めているようだ」
「父に何をした」
「それを知りたいなら、欠片を返しなさい」
「返すと思うか」
「返さなくても構わない。ただし、柊ナナセさんの工房や、月城アヤメさんの過去が、これ以上安全でいられるとは思わないことです」
ナナセの顔が強張る。
アヤメの目が細くなる。
御影は、こちらの三人をまとめて把握している。
玲央は受話器を握る手に力を込めた。
「脅しか」
「警告です。君たちは、触れてはいけないものに触れた」
「触れられたくないものだろ」
「言葉遊びはお父上譲りですね」
玲央の息が止まる。
「父は生きているのか」
沈黙。
御影は、すぐには答えなかった。
その間が、残酷だった。
「青の涙を探しなさい」
「何?」
「君たちが次に求めるものです。青の涙は、こちらから招待しましょう」
「罠だと分かっていて行くと思うか」
「行くでしょう。君は黒瀬暁人の息子だから」
玲央は、歯を食いしばった。
御影は最後に言った。
「明後日、御影財団の小展示室で、ある肖像画の非公開確認会があります。青の涙は、その目に宿っている」
電話が切れた。
玲央は、しばらく受話器を握ったままだった。
ナナセが静かに言う。
「玲央」
玲央は受話器を置いた。
「御影からだ」
「聞こえてた」
「青の涙。小展示室。肖像画の目」
ナナセはホワイトボードの「青の涙」の横に、新しい情報を書き足した。
肖像画。
目。
非公開確認会。
アヤメが低く言った。
「完全に罠ね」
「分かってる」
玲央が答える。
「でも行くんでしょう」
「行く」
ナナセは反論しようとして、止まった。
行くなと言っても無駄だと分かっていたからではない。
今回は、行かないという選択肢が本当に少ないからだった。
御影は、こちらを呼び出した。
玲央の父の名前を使い、ナナセの工房を脅し、アヤメの過去を握っていると示した。
逃げても、安全ではない。
行っても、危険。
どちらにせよ、戦うしかなかった。
アヤメは、棚に置かれた長い黒髪のウィッグを見た。
そして、自分の短い地毛に触れた。
「次は、こちらから仕掛けるしかないわね」
ナナセは、すぐに言った。
「仕掛けるなら、まず壊されても残る変装を作る」
玲央は、咲良の名刺と、御影からの電話を思い返した。
警察より御影を恐れろ。
御影は、玲央の父を知っている。
青の涙は肖像画の目に宿る。
次の舞台は、御影が用意した罠。
玲央は、机の上の二つの欠片を見た。
白い星。
緋の冠。
次は、青の涙。
そこに父の真実が近づいているのか、それとも御影が仕掛けた底なしの穴があるだけなのかは分からない。
だが、止まることはできなかった。
ナナセが静かに言った。
「第六話の結論、みたいな顔してる」
「何だそれ」
「あなたは今、行く理由だけを見てる。私は、戻る方法を考える」
玲央はナナセを見た。
アヤメも、少しだけ笑った。
「いい共犯者ね」
ナナセは即答した。
「共犯者じゃない」
「もう遅いわ」
ナナセは返事をしなかった。
否定できなくなっていることを、自分でも分かっていた。
作業部屋の外では、夕方の光がビルの壁を赤く染めていた。
それは緋の冠の赤とは違う。
もっと薄く、消えやすい赤だった。
やがて夜になる。
夜になれば、また仮面を選ばなければならない。
だが、今度の仮面は、ただ隠れるためのものではない。
壊されても、自分に戻れるための仮面でなければならなかった。
玲央は、咲良の名刺を裏返した。
そこには何も書かれていない。
だが、空白が妙に重く見えた。
連絡するべきか。
しないべきか。
警察に近づけば捕まるかもしれない。
御影に近づけば壊されるかもしれない。
どちらにしても、もう安全な場所はない。
玲央は、名刺を机の端へ置いた。
結論はまだ出さない。
だが、捨てもしなかった。
白い星と緋の冠の欠片が箱の中で眠る。
御影は青の涙へ招く。
咲良は玲央の生活圏へ踏み込む。
ナナセは自分の工房を守り、アヤメは素顔に近いまま次の罠を見据える。
怪盗レオナの物語は、もう華やかな盗みの物語ではなくなっていた。
仮面を被る者たちが、それぞれの素顔を守れるかどうかの物語になりつつあった。




