表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/16

第5話 銀座地下の緋い冠

銀座の夜は、南港の夜とは違っていた。


 南港の夜は、風が冷たく、鉄と潮と錆の匂いがした。人の気配はまばらで、倉庫の壁も、フェンスの影も、何かを隠すためにそこにあるようだった。


 銀座の夜は、反対だった。


 隠すのではなく、見せる。


 光る看板。磨かれたガラス。閉店後も明るいショーウィンドウ。通り過ぎるタクシーのヘッドライト。ブランドショップの前で写真を撮る観光客。遅い食事を終えた人々。歩道を掃く店員。警備員。酔客。誰もが誰かの視界に入っている。


 だからこそ、隠せるものがあった。


 人の多い場所では、人は他人を見ているようで見ていない。高価な服、派手な髪、急ぐ足音、笑い声。視線は光に吸われ、意識は情報の多さに薄まる。


 この街では、目立つことと見つかることは同じではない。


 黒瀬玲央は、そのことをよく知っていた。


 今夜の彼は、女ではなかった。


 しかし、瀬尾圭一でもなかった。


 銀座の裏通りを歩く玲央は、黒いタートルネックに濃紺のジャケットを合わせ、細い銀縁の眼鏡をかけている。髪は自然に整え、顔の印象は大きく変えていない。ただし、眉の角度と肌の質感を少し変え、目元の疲れを意図的に足している。


 名前は、朝倉紘一。


 三十二歳。美術専門誌の外部編集者。財団関係者への取材経験があり、展示準備室に出入りしても極端には不自然ではない。人当たりは柔らかいが、押しが弱い。会話では相手を立てる。自分の意見を言う前に「個人的には」と前置きする。美術の専門用語は使うが、深く踏み込みすぎない。


 朝倉紘一は、女装ではない。


 だが、黒瀬玲央でもない。


 玲央は、ガラスに映る自分を横目で見た。


 白河レイカのような華はない。佐伯真理のような曖昧さもない。瀬尾圭一のような弱々しさもない。朝倉紘一は、表に出る仕事をしているが、主役ではない男だった。展示の裏側にいて、作品よりも人の話を聞く。目立たないが、完全には消えない。


 ナナセは、この人物を「崩れても会話で保つ仮面」と呼んだ。


 ウィッグを外されて死ぬ仮面ではない。


 化粧を拭われて壊れる仮面でもない。


 少し汗をかいても、眼鏡がずれても、声が落ちても、朝倉紘一は朝倉紘一として残る。完璧な別人ではなく、玲央に近い別人。だからこそ、危険で、だからこそ強い。


 耳の奥で、ナナセの声がした。


「玲央、歩き方」


「分かってる」


「少し足が早い」


「銀座でゆっくり歩きすぎると不自然だ」


「でも焦って見える」


 玲央は足の運びを半拍だけ遅くした。


「これで?」


「まし」


「厳しいな」


「今さら」


 通信の向こうで、紙をめくる音がした。


 ナナセは作業部屋に残り、地図と監視情報を照合している。アヤメも同じ部屋にいるはずだった。表向きは待機。実際には、黙って待っているような女ではない。ナナセが見張っているとはいえ、何を考えているか分からない。


「アヤメは」


 玲央が聞くと、ナナセは少し間を置いて答えた。


「今のところ、椅子に座ってる」


「今のところ?」


「さっきから、三回立った」


「何をしてる」


「棚のウィッグを見てる」


 玲央は、ふと昨夜のアヤメを思い出した。


 長い黒髪のウィッグを外した彼女。華やかな女怪盗の輪郭が消え、短い地毛のまま作業灯の下に立っていた姿。素顔を完全に見たわけではない。化粧は残っていた。だが、仮面が一つ外れたことは確かだった。


 アヤメは、ウィッグを外しても死ななかった。


 玲央も、女装ではない仮面で南港を歩いても死ななかった。


 それが、この数日で起きた小さな変化だった。


 けれど、小さな変化は、ときに大きな崩壊の前触れでもある。


 玲央は、銀座の裏通りへ入った。


 目的地は、旧東都銀行銀座支店。


 現在は御影財団の関連会社が所有し、表向きには「展示資料準備室」として使われている。地上階には小さなギャラリー準備用の事務所があり、地下には旧銀行時代の金庫室を改装した保管庫がある。


 アヤメは、そこを「第四保管庫」と呼んだ。


 緋の冠は、昨夜、南港修復室からそこへ移された可能性が高い。


 白い星の欠片に続く、二つ目の鍵。


 玲央は、ジャケットの内側に手を触れた。


 盗みのための具体的な道具は持っていない。今夜も目的は確認と接触だった。だが、状況によっては緋の冠そのものに近づく必要がある。ナナセには「確認だけ」と言われている。だが、緋の冠が目の前にあって、御影に再び隠されると分かっていたら、自分は本当に手を出さずにいられるのか。


 玲央自身にも分からなかった。


「玲央」


 ナナセの声。


「分かってる。確認だけ」


「言う前に答えたね」


「言われると思った」


「分かってるならいい」


 旧銀行の建物は、表通りから少し入った場所にあった。


 石造りの外壁。古い柱。改装されているが、銀行だったころの重厚さが残っている。夜間のため正面入口は閉じられているが、横手の通用口には明かりがあった。出入りする人影は少ない。警備員が一人。財団関係者らしきスーツ姿の男が二人。


 そして、少し離れた場所に、見覚えのある車が停まっていた。


 警察。


 咲良がいる。


 玲央は通り過ぎながら、反射的に車を見るのを避けた。


 朝倉紘一は、警察を気にしない。


 いや、少しは気にする。美術関係の編集者なら、財団周辺の騒ぎに興味を持つかもしれない。だが、怪盗のようには見ない。視線を一度だけ向け、すぐに外す。


 玲央はその通りにした。


 車の中には、咲良と森塚らしき影。


 やはり来ていた。


 ナナセが言う。


「咲良さん?」


「いる」


「無理に近づかない」


「分かってる」


「あと、アヤメさんが消えた」


 玲央は足を止めかけた。


 だが、止めなかった。


「何?」


「今、部屋にいない。窓も扉も確認したけど、非常階段側から出た可能性がある」


「見張ってたんじゃないのか」


「見張ってた。けど、あの人、見られてる状態で見えなくなるのが上手い」


 玲央は奥歯を噛んだ。


 やはり来る。


 アヤメが待機するはずがない。


「通信は」


「持ってない。持たせてない」


「なぜ」


「信用してないから」


「正しい」


「でも、今は困る」


「どの姿で来ると思う」


 ナナセは少し黙った。


「分からない。ただ、棚から短い黒髪のウィッグが一つ消えてる」


「女装か」


「たぶん。でも、以前のアヤメとは違う」


「どういう意味だ」


「長い黒髪の華やかな女じゃない。もっと地味で、動きやすい人物にする気だと思う」


 玲央は、周囲を見た。


 銀座の夜に、アヤメが紛れている。


 どこかにいる。


 しかも、以前のような赤いドレスの女ではない。こちらも仮面を変えてきている。


 怪盗同士が、互いに変わり始めていた。


 玲央は、通りの向こうにあるカフェの閉店作業を横目で見た。スタッフの中に、短い黒髪の女性がいる。違う。タクシーから降りたスーツの女性。違う。ビルの入口で電話をしている女。違う。


 見えない。


 アヤメは、見えないことを選んだ。


 玲央は、旧銀行の通用口へ向かった。


 朝倉紘一として、受付に立つ。


「失礼します。美術月報の朝倉です。御影財団の広報部、楠田様とお約束を」


 警備員が名簿を見る。


 玲央は、呼吸を浅くしない。


 顔を上げすぎない。


 嘘を堂々と言いすぎない。


 朝倉紘一は、取材の約束をしているが、相手の都合で待たされることに慣れている男だ。偉そうにもしない。卑屈にもならない。


 警備員は内線を取った。


 数十秒。


 長い。


 だが、やがて警備員は受話器を置いた。


「三階の準備室へどうぞ。担当者が参ります」


「ありがとうございます」


 第一関門は通った。


 もちろん、本当の目的は三階ではない。


 地下だ。


 だが、正面から建物内へ入る口実は得た。


 玲央は階段ではなく、案内されたエレベーターへ向かった。古い建物の改装エレベーター。内部には監視カメラ。玲央は壁の案内図を見るふりをして、地下階の表示を確認した。


 地下二階。


 資料保管庫。


 地下三階。


 設備区画。


 第四保管庫とは書かれていない。


 当然だ。


 エレベーターは三階で止まった。


 扉が開く。


 廊下には、展示パネルや梱包材が置かれている。準備中の資料展示室という説明は嘘ではないらしい。壁には、御影財団の過去の活動を紹介するパネルが立てかけられている。


 文化財保護。


 地域貢献。


 若手芸術家支援。


 美しい言葉が並んでいた。


 玲央は、その一つを見て立ち止まった。


 写真の中に、父がいた。


 黒瀬暁人。


 五年前の修復プロジェクトの集合写真。小さく、端のほうに写っている。穏やかな顔で、白い手袋をはめている。隣には御影宗一郎。御影は笑っている。父も笑っている。


 玲央は、喉の奥が冷たくなるのを感じた。


「玲央」


 ナナセの声がした。


「大丈夫?」


「……父の写真がある」


「どこ」


「三階の展示パネル」


「撮れる?」


「今は無理だ」


 廊下の奥から、人の足音がした。


 玲央はすぐに朝倉紘一へ戻る。


 現れたのは、財団の広報担当らしき女性だった。四十代前半。紺のスーツ。笑顔は丁寧だが、目は笑っていない。


「朝倉様ですね。お待たせいたしました」


「こちらこそ、夜分に恐れ入ります」


「取材資料の確認でしたね」


「はい。次号で御影財団の文化財保護活動を取り上げる予定でして」


 玲央は、柔らかく話した。


 彼女は楠田と名乗った。


 楠田は玲央を会議室へ案内し、資料を並べた。御影財団の公開活動、展示会の予定、寄付事業、修復プロジェクト。どれも表向きの顔だった。


 玲央は聞き役に徹した。


 朝倉紘一は、話を引き出す男だ。


 自分が話すより、相手に話させる。相手が言いたい言葉を先回りして促す。


「御影財団は、非公開の修復施設もお持ちだと伺っています」


 玲央が自然に話を振ると、楠田の表情が少しだけ固まった。


「一般公開していない保管・修復設備はございます。ただ、安全管理上、詳細は申し上げられません」


「もちろんです。読者向けには、文化財保護の裏側として、可能な範囲で触れられればと」


「その点でしたら、広報用の資料をご用意できます」


「地下保管庫なども、歴史的建築の再利用として興味深いですね。旧銀行建築を活かしていると伺いました」


 楠田は、ほんの一瞬だけ玲央を見た。


 その一瞬で、踏み込みすぎたと分かった。


「どちらでそれを?」


 玲央は、軽く困ったように笑った。


「建築関係の方からです。旧東都銀行の金庫室が残っているという話を聞きまして。もちろん、記事にする場合は御財団の確認を取ります」


 楠田は笑顔を戻した。


「そうですね。建物の歴史としては興味深い部分です。ただ、現在使用中の区画もございますので」


「承知しています」


 玲央は、無理に押さなかった。


 情報は引き出しすぎると警戒される。


 しかし、反応は取れた。


 地下保管区画は存在する。


 使用中。


 そして、触れられたくない。


 会議室の外で、かすかな物音がした。


 玲央は反応しなかった。


 だが、耳は拾っている。


 廊下を歩く足音。軽い。ヒールではない。スニーカーか、柔らかい靴。財団職員にしては足取りが速い。警備員ではない。


 アヤメか。


 玲央は、朝倉紘一として楠田に質問を続けた。


「御影理事長は、修復師の育成にも力を入れていらっしゃるとか」


「ええ。文化財は、所有するだけでなく、次世代へ継承することが重要ですので」


 所有するだけでなく。


 継承。


 美しい言葉。


 だが、父の手帳にはこうあった。


 御影は美を保存しているのではない。罪を保存している。


 玲央は、笑顔を保った。


 会議室の外の足音が遠ざかる。


 通信の向こうで、ナナセが言う。


「玲央、三階の廊下に不審な動き。建物外カメラに短髪の女性が映った。たぶんアヤメさん」


「了解」


 朝倉紘一の声では返せないため、玲央は咳払いで応じた。


 楠田が気遣う。


「お茶をお持ちしましょうか」


「あ、いえ、大丈夫です。少し乾燥しているだけです」


 楠田が立ち上がる。


「では、追加資料を取ってまいります。少々お待ちください」


「ありがとうございます」


 楠田が会議室を出た。


 扉が閉まる。


 玲央はすぐに立ち上がった。


「ナナセ、地下への経路」


「三階の奥に非常階段。ただし、地下へ直接降りられるか不明。エレベーターは職員カードが必要」


「アヤメは?」


「三階廊下の東側。動いてる」


「勝手なことを」


「あなたも人のこと言えない」


 玲央は会議室を出た。


 廊下に人影はない。


 足音を殺すのではなく、普通に歩く。朝倉紘一は、資料を探して廊下に出た。迷った編集者。そう見えればいい。


 奥へ進む。


 角を曲がる。


 そこに、清掃スタッフ姿の女がいた。


 短い黒髪。地味な作業着。マスク。手には清掃用具。目だけが笑っている。


 アヤメだった。


 玲央は小さく息を吐いた。


「待機の意味を知っているか」


 アヤメは、清掃スタッフらしい少し高めの声で言った。


「もちろん。待ってから来たわ」


「言葉遊びをするな」


「あなたこそ、似合ってるわね。編集者」


「そっちは地味だな」


「褒め言葉として受け取るわ」


 アヤメの変装は、確かに昨夜までと違っていた。


 華やかさはない。視線を集めない。長い黒髪も、派手なドレスもない。顔もマスクで半分隠している。だが、動きは自然だった。清掃スタッフとして、見られずに動くことに特化している。


 玲央は、少しだけ悔しさを覚えた。


 やはり上手い。


「地下へ行く」


 アヤメが言った。


「楠田が戻る。時間がない」


「だから急ぐ」


「盗らない。確認だけだ」


「あなたがそれを言うの?」


「ナナセに言われた」


「なるほど。説得力がある」


 アヤメは清掃用具のカートを押し、廊下を進んだ。


 玲央は少し距離を取って続く。


 非常階段の前で、アヤメは周囲を確認した。実用的な手順を口にすることはない。ただ、彼女の動きには迷いがなかった。玲央は、それを見て確信した。アヤメはこの建物の構造をある程度知っている。


 偶然ではない。


 過去に来たことがあるのか。


 あるいは、御影に関わる誰かから聞いたのか。


 非常階段の扉が開く。


 二人は階段を下りた。


 地下へ降りるほど、空気が重くなる。古い銀行建築特有の冷たさ。コンクリートと金属の匂い。照明は明るいが、地上階のような柔らかさはない。


 地下二階。


 資料保管庫。


 扉には職員以外立入禁止の表示。


 アヤメは止まらない。


 さらに下へ。


 地下三階。


 設備区画。


 玲央は声を潜めた。


「第四保管庫はどこだ」


「地下二階と三階の間」


「間?」


「旧金庫室。今の階表示には出ない」


「なぜ知っている」


「あとで話す」


「今話せ」


「今は無理」


 そのとき、上階から足音がした。


 誰かが階段へ入ってきた。


 玲央とアヤメは同時に動きを止める。


 アヤメが清掃カートを壁際へ寄せる。玲央は書類を持った編集者として、携帯を確認するふりをする。地下階で編集者がうろついている時点で不自然だが、清掃スタッフと一緒にいることで、案内されているようにも見える。


 足音が近づく。


 現れたのは、御影側の男だった。


 昨夜、南港で玲央の髪を掴んだ男ではない。だが、同じ種類の目をしている。さらに後ろから、財団職員が一人。


 男は二人を見た。


「何をしている」


 アヤメが先に答えた。


「清掃です。三階から地下階の巡回を」


 声は自然だった。やや疲れた清掃員の声。華やかなアヤメとは別人。


 男は玲央を見た。


「そっちは」


 玲央は朝倉紘一の声で答える。


「広報の楠田さんに地下の建築部分を案内いただく予定で、こちらの方に場所だけ確認していました。すみません、立入禁止なら戻ります」


 下手に強く出ない。


 だが、弱すぎても怪しい。


 相手が「戻れ」と言えば戻る。そういう人間に見せる。


 男は目を細めた。


「名前は」


「朝倉です。美術月報の」


 財団職員が後ろから言った。


「三階に来ている取材の方です」


 男は、まだ疑っていた。


 彼の視線が、玲央の顔から髪、眼鏡、手元へ移る。


 髪を見ている。


 南港での件が伝わっているのだろう。


 女装怪盗は、ウィッグを使う。


 御影側はそう読んでいる。


 だが、玲央の髪は地毛だった。今夜も、ウィッグではない。髪型は整えているが、引けば痛むだけで外れない。


 男が一歩近づいた。


 玲央は身構えそうになり、抑えた。


 朝倉紘一は、こういう男を前にすると戸惑う。だが、怪盗のように反応しない。


「失礼」


 男の手が伸びた。


 髪ではない。


 眼鏡。


 玲央の眼鏡に触れようとした。


 その瞬間、アヤメが清掃カートをわざと少し動かした。車輪が金属音を立てる。男の視線がそちらへ流れる。


「すみません」


 アヤメが頭を下げる。


 その間に、玲央は半歩下がった。


 男は不快そうに舌打ちした。


「三階へ戻れ。地下案内の予定はない」


「分かりました。失礼しました」


 玲央は会釈した。


 アヤメも清掃員として頭を下げる。


 男と職員は地下三階へ下りていった。


 二人はしばらく動かなかった。


 足音が遠ざかる。


 アヤメが小声で言った。


「今の、危なかったわね」


「余計な音を立てたな」


「助けたの」


「分かってる」


「なら、ありがとうは?」


「後で考える」


「かわいくない」


「朝倉紘一にかわいさは不要だ」


 アヤメは、小さく笑った。


 だが、笑っている時間はなかった。


 階段の踊り場の壁に、小さな扉があった。通常の扉ではない。点検口のように見えるが、古い銀行建築の名残なのか、異様に厚い。


 アヤメがその前で止まった。


「ここ」


「第四保管庫か」


「入口の一つ。今は使われていないはず」


「入れるのか」


「確認だけなら」


 アヤメは、扉に耳を近づけた。


 玲央は止めた。


「勝手に動くな」


「中の音を聞いてるだけ」


「その『だけ』が一番信用できない」


「あなたに言われると不思議ね」


 玲央は通信でナナセに小さく伝えた。


「地下二階と三階の間に入口。点検扉のようなもの。アヤメが第四保管庫だと言っている」


 ナナセが応じる。


「長居しないで。三階の楠田さんが戻って、あなたがいないことに気づいた」


「何分」


「少ない。あと、警察も建物内に入った」


「咲良か」


「たぶん」


 玲央は、アヤメを見た。


「咲良が来る」


「早いわね」


「お前のせいでもある」


「あなたのせいでもある」


 扉の向こうで、低い機械音がした。


 何かが動いている。


 保管庫内で移送ケースを開けているのか。


 緋の冠。


 目の前にある。


 玲央の中で、焦りが膨らんだ。


 アヤメも同じだった。


「見るだけ」


 玲央が言う。


「分かってる」


「お前の『分かってる』は信用できない」


「あなたも同じ」


 二人は、互いに睨んだ。


 そして同時に扉へ向き直る。


 アヤメは点検扉の小さな隙間を見つけた。そこから中の光がわずかに漏れている。玲央は身を寄せ、内部を覗いた。


 広い空間ではない。


 古い金庫室を改装したらしい重い壁。中央に保管台。数人の職員。赤い箱。箱の蓋は開いている。


 その中に、緋の冠があった。


 王冠ではない。髪飾りに近い。赤い宝石が連なり、細い金属の輪が光を受けている。派手ではないが、異様な存在感があった。血の色ではない。夕焼けに近い赤。古い記憶が固まったような赤だった。


 そして、冠の内側。


 小さな印が見えた。


 円の中に三本線。


 白い星の欠片と同じ印。


 間違いない。


 玲央は息を止めた。


「ある」


 アヤメが小さく言った。


「緋の冠」


 中では、職員が何かを確認していた。御影側の男もいる。さらに、赤い箱の横に、別の小さなケースが置かれている。部品を外すためか、あるいは逆に隠すためか。


 玲央は、奥歯を噛んだ。


 目の前にある。


 二つ目の鍵が。


 ここで確認だけして帰るのか。


 本当に?


 父の手帳に残された手がかりが、御影の手でまた隠されようとしている。今見逃せば、次に見つけられる保証はない。


 アヤメの手が、扉にかかった。


 玲央はその手首を掴んだ。


「何をする」


「取り戻す」


「確認だけだ」


「御影に渡す気?」


「今ここで動けば全員に見つかる」


「それでも」


「それでも、じゃない」


 アヤメの目が鋭くなった。


「あなたは父親の手がかりを目の前にして、見逃せるの?」


 玲央の手に力が入った。


 痛いところを突く。


 アヤメは続けた。


「私は見逃せない。御影に奪われたものを、また御影の手の中へ戻すなんてできない」


「感情で動くな」


「感情で動かない怪盗なんている?」


「いるべきだ」


「あなたは違う」


 玲央は、何も言えなかった。


 その通りだった。


 玲央も感情で動いている。父を追う感情。御影への怒り。自分を証明したい欲。仮面を守りたい恐怖。全部が混ざっている。


 だからこそ、動いてはいけない。


 今動けば、父のためではなく、自分の怒りのために動くことになる。


 ナナセの声が耳に入る。


「玲央、戻って。咲良さんが地下へ向かった」


 咲良。


 さらに時間がない。


 玲央はアヤメの手首を離さなかった。


「戻る」


「嫌」


「戻る」


「私は行く」


 アヤメが手を振りほどこうとした。


 その瞬間、点検扉の向こうで職員が振り向いた。


 気づかれた。


 玲央は反射的にアヤメを引いた。


 だが、遅い。


 扉の向こうから声が飛んだ。


「誰だ!」


 中の男たちが動く。


 アヤメは玲央を睨んだ。


「ほら、迷うから」


「お前が動こうとしたからだ」


「言い争いは後ね」


「その言葉、嫌いになりそうだ」


 二人は階段へ向かった。


 上へ戻るか、下へ逃げるか。


 上には咲良。


 下には御影側。


 地下の踊り場は、あっという間に挟まれる場所になる。


 玲央は判断した。


「下」


「正気?」


「上は咲良。下のほうがまだ動ける」


「御影側がいる」


「警察よりは予測できる」


「あなた、刑事さんをどれだけ怖がってるの」


「お前よりは怖い」


「傷つくわ」


 二人は地下三階へ走った。


 だが、玲央は朝倉紘一を捨てきらない。走り方を完全に怪盗へ戻すと、後で映像を見られたときに線がつながる。だから、崩れた朝倉紘一として走る。焦った編集者。迷い込んだ男。逃げるが、慣れていない。


 アヤメも清掃スタッフの仮面を保っている。


 だが、二人とも半分崩れていた。


 地下三階の廊下に出る。


 前方から、昨夜の御影側の男が現れた。


 玲央の髪を掴んだ男。


 男は玲央を見て、すぐに目を細めた。


「お前」


 バレた。


 正確には、断定ではない。だが、疑いは十分。


 男が近づく。


 玲央は止まる。


 アヤメは清掃カートを押していた。彼女は、それを男の前に倒した。金属音が響く。中の清掃用具が散る。


 その隙に、二人は横の廊下へ入った。


 背後で怒号。


 上からは咲良の声。


「止まりなさい!」


 地下の空気が一気に緊迫した。


 玲央は、アヤメと並んで走った。


 今度は、本当に逃げている。


 朝倉紘一も、清掃スタッフの女も、輪郭が崩れ始めていた。


 アヤメのマスクが片側だけ外れかける。玲央の眼鏡がずれる。ジャケットの袖が引っかかり、ボタンが飛ぶ。だが、二人は止まらない。


 廊下の先は、古い設備室だった。


 玲央は扉を押し開ける。


 中は暗い。配管、古い制御盤、使われていない棚。通り抜けられるかは分からない。


 アヤメが言う。


「こっち」


「なぜ分かる」


「昔の銀行建築は、金庫裏に保守通路がある」


「詳しいな」


「元古美術商の娘をなめないで」


 彼女は初めて、自分の過去を少しだけ武器として口にした。


 玲央は従った。


 保守通路は狭い。二人で並んでは通れない。アヤメが先に入り、玲央が続く。背後から足音が迫る。咲良か、御影側か、あるいは両方か。


 狭い通路の中で、アヤメの短い黒髪のウィッグが配管に引っかかった。


「っ」


 彼女が小さく声を漏らす。


 玲央は止まった。


「髪」


「分かってる」


 アヤメは自分で外そうとしたが、焦りでうまくいかない。固定ピンが絡んでいる。


 背後の足音が近づく。


 玲央は、迷わなかった。


「触るぞ」


 アヤメの目が、一瞬だけ大きくなった。


 玲央は続ける。


「許可を取った」


 アヤメは唇を噛んだ。


「……早く」


 玲央は、彼女のウィッグの引っかかった部分を外した。乱暴にはしない。ナナセに教えられた通り、固定を無理に引かず、絡んだ部分だけを解く。数秒。だが、長く感じた。


 外れた。


 アヤメのウィッグは完全には取れなかったが、位置が大きくずれた。地毛が見え、清掃スタッフの仮面は半分崩れた。


 アヤメは、息を詰めていた。


 玲央は言った。


「動ける」


 アヤメは頷いた。


「行く」


 二人は通路を抜けた。


 出口の先は、地下一階の古い倉庫室だった。地上へ続く階段が見える。上がれば、裏口へ出られるかもしれない。


 だが、階段の下に咲良が立っていた。


 先回りされた。


 玲央は足を止めた。


 アヤメも止まる。


 咲良は、息を少しだけ乱していた。だが、目は鋭い。銃は抜いていない。代わりに、二人の姿を正面から見ている。


 崩れた朝倉紘一。


 ウィッグのずれた清掃スタッフ。


 咲良の視線が、玲央の顔、眼鏡、髪、足元へ流れる。


 次に、アヤメの髪、マスク、手元へ。


「黒瀬玲央」


 咲良が言った。


 玲央は黙った。


「月城アヤメ」


 アヤメも黙った。


 咲良は、一歩近づく。


「二人とも、もう演じなくていい」


 玲央は、静かに答えた。


「何の話でしょう」


 朝倉紘一の声だった。


 だが、もう完全ではない。


 咲良は、わずかに首を振った。


「声だけでは無理です。あなたの左足、昨夜の瀬尾圭一と同じ癖が出ています。白河レイカのときも、佐伯真理のときも、同じだった」


 玲央の内側が冷える。


 咲良は続ける。


「顔を変えても、服を変えても、髪を変えても、動きは残る。黒瀬玲央さん」


 名前を呼ばれた。


 今度は、逃げようのない距離で。


 アヤメが小さく笑った。


「刑事さん、怖いわね」


 咲良はアヤメを見る。


「あなたもです。華やかな変装をやめて清掃スタッフにしたのはいい判断です。でも、右手の中指を曲げる癖が残っている。昨夜、倉庫でも出ていました」


 アヤメの笑みが消えた。


 咲良は、二人を見た。


「今なら、話を聞けます。御影財団が何を隠しているのか、あなたたちが何を追っているのか」


 玲央は、咲良の背後を見た。


 階段。


 その上から、御影側の男たちの足音が近づく。


 咲良も気づいた。


 状況は単純ではない。


 警察に捕まるか。


 御影側に捕まるか。


 あるいは、もう一度逃げるか。


 アヤメが低く言った。


「どうする?」


「逃げる」


「刑事さんの前で?」


「御影に捕まるよりはいい」


 咲良が声を強めた。


「動かないで」


 だが、その瞬間、上階で大きな音がした。


 警備員と御影側の人間が揉めたらしい。森塚の声も聞こえる。現場の統制が崩れる。


 アヤメが動いた。


 彼女は、完全に崩れたウィッグを自分の手で外した。


 短い地毛が現れる。


 清掃スタッフの女が、そこで死んだ。


 だが、アヤメ自身は死ななかった。


 彼女は外したウィッグを咲良の足元へ投げた。咲良の視線が一瞬だけ下がる。ほんの一瞬。


 玲央は、その一瞬を使った。


 アヤメと反対方向へ動く。


 咲良はすぐに追おうとしたが、御影側の男たちが階段から現れ、進路を塞いだ。


 咲良が叫ぶ。


「邪魔をしないで!」


 地下倉庫に、怒号が響く。


 玲央とアヤメは、別々の方向へ走った。


 示し合わせたわけではない。


 だが、同じ判断だった。


 一緒に逃げれば、片方が捕まったときにもう片方も巻き込まれる。別々に逃げれば、どちらかは残る。白い星の欠片は作業部屋にある。緋の冠はまだ御影の手の中。どちらか一人でも逃げれば、続きはある。


 玲央は、地下倉庫の奥へ走った。


 眼鏡が落ちかける。


 彼は、それを外した。


 朝倉紘一が死ぬ。


 だが、黒瀬玲央は走る。


 廊下を抜け、古い搬入口へ出る。鉄扉がある。重い。だが、完全には閉まっていない。玲央は体を滑り込ませ、外へ出た。


 銀座の裏通り。


 地上の光が眩しかった。


 人々は何も知らずに歩いている。地下で何が起きたかなど、誰も知らない。笑い声。タクシーの音。遠くの店の音楽。


 玲央は、壁にもたれて息を整えた。


 髪も顔も乱れている。ジャケットのボタンも飛んでいる。朝倉紘一ではもうない。だが、黒瀬玲央として完全に露出しているわけでもない。


 中途半端なまま、生き残った。


 耳の通信が乱れる。


 ナナセの声がした。


「玲央、聞こえる?」


「ああ」


「無事?」


「たぶん」


「アヤメさんは?」


「別れた」


「捕まった?」


「分からない」


 玲央は、裏通りの先を見た。


 そこに、短い地毛の女が一瞬だけ見えた。


 アヤメ。


 彼女は振り返らなかった。


 だが、歩きながら片手を上げた。


 逃げ切ったらしい。


 その手に何かを持っているかは、見えなかった。


 玲央は、はっとした。


 まさか。


 緋の冠を盗ったのか。


 いや、あの状況で本体を持ち出すのは無理だ。だが、何かを取った可能性はある。彼女は、保管庫の前で見ただけでは終わらない女だ。


 ナナセが言う。


「すぐ戻って。咲良さんが周辺を固める前に」


「分かってる」


 玲央は、朝倉紘一の残骸を整えた。眼鏡をかけ直し、髪を撫で、ジャケットの乱れを隠す。完全には戻らない。だが、銀座の夜に紛れる程度には戻す。


 歩き出す。


 走らない。


 怪盗としてではなく、事件に巻き込まれた編集者のように。


 地下ではまだ、咲良と御影側が対峙しているだろう。


 緋の冠は御影の手元に残ったのか。


 それとも、アヤメが何かを奪ったのか。


 玲央には分からない。


 だが、一つだけ確かなことがあった。


 咲良は、もう玲央の名前を呼んだ。


 黒瀬玲央。


 仮面の奥にある名前を。


 その事実は、どんな盗品より重かった。


     *


 作業部屋に戻ったのは、深夜を過ぎてからだった。


 玲央が扉を開けると、ナナセがすぐに立ち上がった。


「顔」


「またそれか」


「怪我の確認」


 ナナセは玲央の顎をつかみ、顔を左右に向けた。頬に擦り傷。髪の乱れ。首元に薄い赤み。大きな怪我はない。


「地毛、また引っ張られた?」


「今回は眼鏡を狙われた」


「眼鏡なら替えがきく」


「俺は替えがきかないんだが」


「知ってる。だから見てる」


 ナナセは手を離した。


 そのとき、窓側から声がした。


「おかえり」


 アヤメだった。


 すでに戻っていた。


 短い地毛のまま、椅子に座っている。清掃スタッフの衣装は脱ぎ、ナナセが貸したらしい黒い上着を羽織っていた。顔の化粧もかなり落としている。女怪盗アヤメの輪郭は薄い。


 玲央は彼女を見た。


「何を取った」


 アヤメは微笑んだ。


「挨拶より先にそれ?」


「何を取った」


 アヤメは、机の上に小さな赤い破片を置いた。


 緋の冠ではない。


 冠の内側にあった装飾部品の一部。白い星の欠片と似た大きさの、小さな赤い金属片。


 玲央の目が見開かれる。


「いつ」


「あなたが咲良さんに名前を呼ばれて固まっていたとき」


「お前……」


「確認だけ、とは言われたけれど、触るなとは言われていない」


 ナナセが冷たく言った。


「言った」


「聞こえなかったことにしたわ」


「最悪」


 アヤメは少し肩をすくめた。


「でも、取れた」


 玲央は、赤い欠片を見た。


 表面には、やはり三本線の印。


 白い星の欠片と対になる、二つ目の鍵。


 緋の冠そのものは御影の手に残った。


 だが、鍵は奪った。


 アヤメはやってのけた。


 腹が立つ。


 無茶だ。


 勝手すぎる。


 だが、成果は成果だった。


 玲央は椅子に座り、深く息を吐いた。


「咲良に名前を呼ばれた」


 ナナセの表情が変わった。


 アヤメも笑みを消した。


「黒瀬玲央と?」


「ああ」


「確定したの?」


「おそらく。少なくとも、咲良の中ではもう繋がっている」


 ナナセは唇を結んだ。


「なら、次から黒瀬玲央の生活圏も危ない」


「分かってる」


「工房も、ここも、いずれ辿られる」


「分かってる」


「分かってるなら、対策する」


「ああ」


 アヤメは、赤い欠片を見つめていた。


「咲良さんは、御影と違う」


 玲央が見る。


「何が」


「あの人は、捕まえるために仮面を剥がす。御影は、壊すために剥がす」


 玲央は何も言わなかった。


 確かにそうかもしれない。


 咲良は怖い。


 だが、御影側の人間に髪や眼鏡を掴まれたときの嫌悪とは違う。咲良は暴く。御影は踏みにじる。その差は、玲央にも分かった。


 ナナセは、白い星の欠片が入った箱を出した。


「赤い欠片も入れる」


「鍵は三人で」


 玲央が言う。


「そう」


 アヤメは、赤い欠片を渡した。


 ナナセはそれを丁寧に箱へ入れる。


 白い星。


 緋の冠。


 二つの欠片が、同じ箱の中に並んだ。


 残るは、青の涙と黒の翼。


 父の手帳の線は、少しずつ現実になっている。


 だが、その代償として、玲央の正体は咲良に近づかれた。


 アヤメは仮面を一つ外した。


 ナナセの作業部屋も危険に近づいた。


 御影は、さらに強く動くだろう。


 玲央は、箱の中の二つの欠片を見た。


 小さな金属片。


 けれど、そこには人の人生が絡みついている。


 父の失踪。


 アヤメの家族。


 御影の罪。


 咲良の執念。


 そして、自分の仮面。


 玲央は静かに言った。


「次は青の涙か」


 アヤメが頷く。


「でも、その前に御影が動く」


 ナナセも同意した。


「咲良さんも動く。次は、こっちが追うだけじゃ済まない」


 玲央は、鏡を見た。


 そこには、朝倉紘一の残骸をまとった黒瀬玲央が映っていた。


 女装怪盗レオナは、一度死んだ。


 瀬尾圭一も、朝倉紘一も、役目を終えた。


 だが、そのたびに玲央自身が少しずつ表へ出てくる。


 それが良いことなのか、悪いことなのか、まだ分からない。


 ただ、もう完全な仮面の中には戻れない。


 咲良は名前を呼んだ。


 アヤメは素顔の一部を見せた。


 ナナセは共犯者として深く関わった。


 そして御影は、こちらを敵として認識した。


 銀座地下の夜は終わった。


 だが、地下で見た緋い光は、玲央の目から消えなかった。


 それは冠の光ではない。


 警告の色だった。


 次に動けば、もう後戻りはできない。


 玲央は、箱の蓋が閉まる音を聞きながら、そう理解した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ