第5話 銀座地下の緋い冠
銀座の夜は、南港の夜とは違っていた。
南港の夜は、風が冷たく、鉄と潮と錆の匂いがした。人の気配はまばらで、倉庫の壁も、フェンスの影も、何かを隠すためにそこにあるようだった。
銀座の夜は、反対だった。
隠すのではなく、見せる。
光る看板。磨かれたガラス。閉店後も明るいショーウィンドウ。通り過ぎるタクシーのヘッドライト。ブランドショップの前で写真を撮る観光客。遅い食事を終えた人々。歩道を掃く店員。警備員。酔客。誰もが誰かの視界に入っている。
だからこそ、隠せるものがあった。
人の多い場所では、人は他人を見ているようで見ていない。高価な服、派手な髪、急ぐ足音、笑い声。視線は光に吸われ、意識は情報の多さに薄まる。
この街では、目立つことと見つかることは同じではない。
黒瀬玲央は、そのことをよく知っていた。
今夜の彼は、女ではなかった。
しかし、瀬尾圭一でもなかった。
銀座の裏通りを歩く玲央は、黒いタートルネックに濃紺のジャケットを合わせ、細い銀縁の眼鏡をかけている。髪は自然に整え、顔の印象は大きく変えていない。ただし、眉の角度と肌の質感を少し変え、目元の疲れを意図的に足している。
名前は、朝倉紘一。
三十二歳。美術専門誌の外部編集者。財団関係者への取材経験があり、展示準備室に出入りしても極端には不自然ではない。人当たりは柔らかいが、押しが弱い。会話では相手を立てる。自分の意見を言う前に「個人的には」と前置きする。美術の専門用語は使うが、深く踏み込みすぎない。
朝倉紘一は、女装ではない。
だが、黒瀬玲央でもない。
玲央は、ガラスに映る自分を横目で見た。
白河レイカのような華はない。佐伯真理のような曖昧さもない。瀬尾圭一のような弱々しさもない。朝倉紘一は、表に出る仕事をしているが、主役ではない男だった。展示の裏側にいて、作品よりも人の話を聞く。目立たないが、完全には消えない。
ナナセは、この人物を「崩れても会話で保つ仮面」と呼んだ。
ウィッグを外されて死ぬ仮面ではない。
化粧を拭われて壊れる仮面でもない。
少し汗をかいても、眼鏡がずれても、声が落ちても、朝倉紘一は朝倉紘一として残る。完璧な別人ではなく、玲央に近い別人。だからこそ、危険で、だからこそ強い。
耳の奥で、ナナセの声がした。
「玲央、歩き方」
「分かってる」
「少し足が早い」
「銀座でゆっくり歩きすぎると不自然だ」
「でも焦って見える」
玲央は足の運びを半拍だけ遅くした。
「これで?」
「まし」
「厳しいな」
「今さら」
通信の向こうで、紙をめくる音がした。
ナナセは作業部屋に残り、地図と監視情報を照合している。アヤメも同じ部屋にいるはずだった。表向きは待機。実際には、黙って待っているような女ではない。ナナセが見張っているとはいえ、何を考えているか分からない。
「アヤメは」
玲央が聞くと、ナナセは少し間を置いて答えた。
「今のところ、椅子に座ってる」
「今のところ?」
「さっきから、三回立った」
「何をしてる」
「棚のウィッグを見てる」
玲央は、ふと昨夜のアヤメを思い出した。
長い黒髪のウィッグを外した彼女。華やかな女怪盗の輪郭が消え、短い地毛のまま作業灯の下に立っていた姿。素顔を完全に見たわけではない。化粧は残っていた。だが、仮面が一つ外れたことは確かだった。
アヤメは、ウィッグを外しても死ななかった。
玲央も、女装ではない仮面で南港を歩いても死ななかった。
それが、この数日で起きた小さな変化だった。
けれど、小さな変化は、ときに大きな崩壊の前触れでもある。
玲央は、銀座の裏通りへ入った。
目的地は、旧東都銀行銀座支店。
現在は御影財団の関連会社が所有し、表向きには「展示資料準備室」として使われている。地上階には小さなギャラリー準備用の事務所があり、地下には旧銀行時代の金庫室を改装した保管庫がある。
アヤメは、そこを「第四保管庫」と呼んだ。
緋の冠は、昨夜、南港修復室からそこへ移された可能性が高い。
白い星の欠片に続く、二つ目の鍵。
玲央は、ジャケットの内側に手を触れた。
盗みのための具体的な道具は持っていない。今夜も目的は確認と接触だった。だが、状況によっては緋の冠そのものに近づく必要がある。ナナセには「確認だけ」と言われている。だが、緋の冠が目の前にあって、御影に再び隠されると分かっていたら、自分は本当に手を出さずにいられるのか。
玲央自身にも分からなかった。
「玲央」
ナナセの声。
「分かってる。確認だけ」
「言う前に答えたね」
「言われると思った」
「分かってるならいい」
旧銀行の建物は、表通りから少し入った場所にあった。
石造りの外壁。古い柱。改装されているが、銀行だったころの重厚さが残っている。夜間のため正面入口は閉じられているが、横手の通用口には明かりがあった。出入りする人影は少ない。警備員が一人。財団関係者らしきスーツ姿の男が二人。
そして、少し離れた場所に、見覚えのある車が停まっていた。
警察。
咲良がいる。
玲央は通り過ぎながら、反射的に車を見るのを避けた。
朝倉紘一は、警察を気にしない。
いや、少しは気にする。美術関係の編集者なら、財団周辺の騒ぎに興味を持つかもしれない。だが、怪盗のようには見ない。視線を一度だけ向け、すぐに外す。
玲央はその通りにした。
車の中には、咲良と森塚らしき影。
やはり来ていた。
ナナセが言う。
「咲良さん?」
「いる」
「無理に近づかない」
「分かってる」
「あと、アヤメさんが消えた」
玲央は足を止めかけた。
だが、止めなかった。
「何?」
「今、部屋にいない。窓も扉も確認したけど、非常階段側から出た可能性がある」
「見張ってたんじゃないのか」
「見張ってた。けど、あの人、見られてる状態で見えなくなるのが上手い」
玲央は奥歯を噛んだ。
やはり来る。
アヤメが待機するはずがない。
「通信は」
「持ってない。持たせてない」
「なぜ」
「信用してないから」
「正しい」
「でも、今は困る」
「どの姿で来ると思う」
ナナセは少し黙った。
「分からない。ただ、棚から短い黒髪のウィッグが一つ消えてる」
「女装か」
「たぶん。でも、以前のアヤメとは違う」
「どういう意味だ」
「長い黒髪の華やかな女じゃない。もっと地味で、動きやすい人物にする気だと思う」
玲央は、周囲を見た。
銀座の夜に、アヤメが紛れている。
どこかにいる。
しかも、以前のような赤いドレスの女ではない。こちらも仮面を変えてきている。
怪盗同士が、互いに変わり始めていた。
玲央は、通りの向こうにあるカフェの閉店作業を横目で見た。スタッフの中に、短い黒髪の女性がいる。違う。タクシーから降りたスーツの女性。違う。ビルの入口で電話をしている女。違う。
見えない。
アヤメは、見えないことを選んだ。
玲央は、旧銀行の通用口へ向かった。
朝倉紘一として、受付に立つ。
「失礼します。美術月報の朝倉です。御影財団の広報部、楠田様とお約束を」
警備員が名簿を見る。
玲央は、呼吸を浅くしない。
顔を上げすぎない。
嘘を堂々と言いすぎない。
朝倉紘一は、取材の約束をしているが、相手の都合で待たされることに慣れている男だ。偉そうにもしない。卑屈にもならない。
警備員は内線を取った。
数十秒。
長い。
だが、やがて警備員は受話器を置いた。
「三階の準備室へどうぞ。担当者が参ります」
「ありがとうございます」
第一関門は通った。
もちろん、本当の目的は三階ではない。
地下だ。
だが、正面から建物内へ入る口実は得た。
玲央は階段ではなく、案内されたエレベーターへ向かった。古い建物の改装エレベーター。内部には監視カメラ。玲央は壁の案内図を見るふりをして、地下階の表示を確認した。
地下二階。
資料保管庫。
地下三階。
設備区画。
第四保管庫とは書かれていない。
当然だ。
エレベーターは三階で止まった。
扉が開く。
廊下には、展示パネルや梱包材が置かれている。準備中の資料展示室という説明は嘘ではないらしい。壁には、御影財団の過去の活動を紹介するパネルが立てかけられている。
文化財保護。
地域貢献。
若手芸術家支援。
美しい言葉が並んでいた。
玲央は、その一つを見て立ち止まった。
写真の中に、父がいた。
黒瀬暁人。
五年前の修復プロジェクトの集合写真。小さく、端のほうに写っている。穏やかな顔で、白い手袋をはめている。隣には御影宗一郎。御影は笑っている。父も笑っている。
玲央は、喉の奥が冷たくなるのを感じた。
「玲央」
ナナセの声がした。
「大丈夫?」
「……父の写真がある」
「どこ」
「三階の展示パネル」
「撮れる?」
「今は無理だ」
廊下の奥から、人の足音がした。
玲央はすぐに朝倉紘一へ戻る。
現れたのは、財団の広報担当らしき女性だった。四十代前半。紺のスーツ。笑顔は丁寧だが、目は笑っていない。
「朝倉様ですね。お待たせいたしました」
「こちらこそ、夜分に恐れ入ります」
「取材資料の確認でしたね」
「はい。次号で御影財団の文化財保護活動を取り上げる予定でして」
玲央は、柔らかく話した。
彼女は楠田と名乗った。
楠田は玲央を会議室へ案内し、資料を並べた。御影財団の公開活動、展示会の予定、寄付事業、修復プロジェクト。どれも表向きの顔だった。
玲央は聞き役に徹した。
朝倉紘一は、話を引き出す男だ。
自分が話すより、相手に話させる。相手が言いたい言葉を先回りして促す。
「御影財団は、非公開の修復施設もお持ちだと伺っています」
玲央が自然に話を振ると、楠田の表情が少しだけ固まった。
「一般公開していない保管・修復設備はございます。ただ、安全管理上、詳細は申し上げられません」
「もちろんです。読者向けには、文化財保護の裏側として、可能な範囲で触れられればと」
「その点でしたら、広報用の資料をご用意できます」
「地下保管庫なども、歴史的建築の再利用として興味深いですね。旧銀行建築を活かしていると伺いました」
楠田は、ほんの一瞬だけ玲央を見た。
その一瞬で、踏み込みすぎたと分かった。
「どちらでそれを?」
玲央は、軽く困ったように笑った。
「建築関係の方からです。旧東都銀行の金庫室が残っているという話を聞きまして。もちろん、記事にする場合は御財団の確認を取ります」
楠田は笑顔を戻した。
「そうですね。建物の歴史としては興味深い部分です。ただ、現在使用中の区画もございますので」
「承知しています」
玲央は、無理に押さなかった。
情報は引き出しすぎると警戒される。
しかし、反応は取れた。
地下保管区画は存在する。
使用中。
そして、触れられたくない。
会議室の外で、かすかな物音がした。
玲央は反応しなかった。
だが、耳は拾っている。
廊下を歩く足音。軽い。ヒールではない。スニーカーか、柔らかい靴。財団職員にしては足取りが速い。警備員ではない。
アヤメか。
玲央は、朝倉紘一として楠田に質問を続けた。
「御影理事長は、修復師の育成にも力を入れていらっしゃるとか」
「ええ。文化財は、所有するだけでなく、次世代へ継承することが重要ですので」
所有するだけでなく。
継承。
美しい言葉。
だが、父の手帳にはこうあった。
御影は美を保存しているのではない。罪を保存している。
玲央は、笑顔を保った。
会議室の外の足音が遠ざかる。
通信の向こうで、ナナセが言う。
「玲央、三階の廊下に不審な動き。建物外カメラに短髪の女性が映った。たぶんアヤメさん」
「了解」
朝倉紘一の声では返せないため、玲央は咳払いで応じた。
楠田が気遣う。
「お茶をお持ちしましょうか」
「あ、いえ、大丈夫です。少し乾燥しているだけです」
楠田が立ち上がる。
「では、追加資料を取ってまいります。少々お待ちください」
「ありがとうございます」
楠田が会議室を出た。
扉が閉まる。
玲央はすぐに立ち上がった。
「ナナセ、地下への経路」
「三階の奥に非常階段。ただし、地下へ直接降りられるか不明。エレベーターは職員カードが必要」
「アヤメは?」
「三階廊下の東側。動いてる」
「勝手なことを」
「あなたも人のこと言えない」
玲央は会議室を出た。
廊下に人影はない。
足音を殺すのではなく、普通に歩く。朝倉紘一は、資料を探して廊下に出た。迷った編集者。そう見えればいい。
奥へ進む。
角を曲がる。
そこに、清掃スタッフ姿の女がいた。
短い黒髪。地味な作業着。マスク。手には清掃用具。目だけが笑っている。
アヤメだった。
玲央は小さく息を吐いた。
「待機の意味を知っているか」
アヤメは、清掃スタッフらしい少し高めの声で言った。
「もちろん。待ってから来たわ」
「言葉遊びをするな」
「あなたこそ、似合ってるわね。編集者」
「そっちは地味だな」
「褒め言葉として受け取るわ」
アヤメの変装は、確かに昨夜までと違っていた。
華やかさはない。視線を集めない。長い黒髪も、派手なドレスもない。顔もマスクで半分隠している。だが、動きは自然だった。清掃スタッフとして、見られずに動くことに特化している。
玲央は、少しだけ悔しさを覚えた。
やはり上手い。
「地下へ行く」
アヤメが言った。
「楠田が戻る。時間がない」
「だから急ぐ」
「盗らない。確認だけだ」
「あなたがそれを言うの?」
「ナナセに言われた」
「なるほど。説得力がある」
アヤメは清掃用具のカートを押し、廊下を進んだ。
玲央は少し距離を取って続く。
非常階段の前で、アヤメは周囲を確認した。実用的な手順を口にすることはない。ただ、彼女の動きには迷いがなかった。玲央は、それを見て確信した。アヤメはこの建物の構造をある程度知っている。
偶然ではない。
過去に来たことがあるのか。
あるいは、御影に関わる誰かから聞いたのか。
非常階段の扉が開く。
二人は階段を下りた。
地下へ降りるほど、空気が重くなる。古い銀行建築特有の冷たさ。コンクリートと金属の匂い。照明は明るいが、地上階のような柔らかさはない。
地下二階。
資料保管庫。
扉には職員以外立入禁止の表示。
アヤメは止まらない。
さらに下へ。
地下三階。
設備区画。
玲央は声を潜めた。
「第四保管庫はどこだ」
「地下二階と三階の間」
「間?」
「旧金庫室。今の階表示には出ない」
「なぜ知っている」
「あとで話す」
「今話せ」
「今は無理」
そのとき、上階から足音がした。
誰かが階段へ入ってきた。
玲央とアヤメは同時に動きを止める。
アヤメが清掃カートを壁際へ寄せる。玲央は書類を持った編集者として、携帯を確認するふりをする。地下階で編集者がうろついている時点で不自然だが、清掃スタッフと一緒にいることで、案内されているようにも見える。
足音が近づく。
現れたのは、御影側の男だった。
昨夜、南港で玲央の髪を掴んだ男ではない。だが、同じ種類の目をしている。さらに後ろから、財団職員が一人。
男は二人を見た。
「何をしている」
アヤメが先に答えた。
「清掃です。三階から地下階の巡回を」
声は自然だった。やや疲れた清掃員の声。華やかなアヤメとは別人。
男は玲央を見た。
「そっちは」
玲央は朝倉紘一の声で答える。
「広報の楠田さんに地下の建築部分を案内いただく予定で、こちらの方に場所だけ確認していました。すみません、立入禁止なら戻ります」
下手に強く出ない。
だが、弱すぎても怪しい。
相手が「戻れ」と言えば戻る。そういう人間に見せる。
男は目を細めた。
「名前は」
「朝倉です。美術月報の」
財団職員が後ろから言った。
「三階に来ている取材の方です」
男は、まだ疑っていた。
彼の視線が、玲央の顔から髪、眼鏡、手元へ移る。
髪を見ている。
南港での件が伝わっているのだろう。
女装怪盗は、ウィッグを使う。
御影側はそう読んでいる。
だが、玲央の髪は地毛だった。今夜も、ウィッグではない。髪型は整えているが、引けば痛むだけで外れない。
男が一歩近づいた。
玲央は身構えそうになり、抑えた。
朝倉紘一は、こういう男を前にすると戸惑う。だが、怪盗のように反応しない。
「失礼」
男の手が伸びた。
髪ではない。
眼鏡。
玲央の眼鏡に触れようとした。
その瞬間、アヤメが清掃カートをわざと少し動かした。車輪が金属音を立てる。男の視線がそちらへ流れる。
「すみません」
アヤメが頭を下げる。
その間に、玲央は半歩下がった。
男は不快そうに舌打ちした。
「三階へ戻れ。地下案内の予定はない」
「分かりました。失礼しました」
玲央は会釈した。
アヤメも清掃員として頭を下げる。
男と職員は地下三階へ下りていった。
二人はしばらく動かなかった。
足音が遠ざかる。
アヤメが小声で言った。
「今の、危なかったわね」
「余計な音を立てたな」
「助けたの」
「分かってる」
「なら、ありがとうは?」
「後で考える」
「かわいくない」
「朝倉紘一にかわいさは不要だ」
アヤメは、小さく笑った。
だが、笑っている時間はなかった。
階段の踊り場の壁に、小さな扉があった。通常の扉ではない。点検口のように見えるが、古い銀行建築の名残なのか、異様に厚い。
アヤメがその前で止まった。
「ここ」
「第四保管庫か」
「入口の一つ。今は使われていないはず」
「入れるのか」
「確認だけなら」
アヤメは、扉に耳を近づけた。
玲央は止めた。
「勝手に動くな」
「中の音を聞いてるだけ」
「その『だけ』が一番信用できない」
「あなたに言われると不思議ね」
玲央は通信でナナセに小さく伝えた。
「地下二階と三階の間に入口。点検扉のようなもの。アヤメが第四保管庫だと言っている」
ナナセが応じる。
「長居しないで。三階の楠田さんが戻って、あなたがいないことに気づいた」
「何分」
「少ない。あと、警察も建物内に入った」
「咲良か」
「たぶん」
玲央は、アヤメを見た。
「咲良が来る」
「早いわね」
「お前のせいでもある」
「あなたのせいでもある」
扉の向こうで、低い機械音がした。
何かが動いている。
保管庫内で移送ケースを開けているのか。
緋の冠。
目の前にある。
玲央の中で、焦りが膨らんだ。
アヤメも同じだった。
「見るだけ」
玲央が言う。
「分かってる」
「お前の『分かってる』は信用できない」
「あなたも同じ」
二人は、互いに睨んだ。
そして同時に扉へ向き直る。
アヤメは点検扉の小さな隙間を見つけた。そこから中の光がわずかに漏れている。玲央は身を寄せ、内部を覗いた。
広い空間ではない。
古い金庫室を改装したらしい重い壁。中央に保管台。数人の職員。赤い箱。箱の蓋は開いている。
その中に、緋の冠があった。
王冠ではない。髪飾りに近い。赤い宝石が連なり、細い金属の輪が光を受けている。派手ではないが、異様な存在感があった。血の色ではない。夕焼けに近い赤。古い記憶が固まったような赤だった。
そして、冠の内側。
小さな印が見えた。
円の中に三本線。
白い星の欠片と同じ印。
間違いない。
玲央は息を止めた。
「ある」
アヤメが小さく言った。
「緋の冠」
中では、職員が何かを確認していた。御影側の男もいる。さらに、赤い箱の横に、別の小さなケースが置かれている。部品を外すためか、あるいは逆に隠すためか。
玲央は、奥歯を噛んだ。
目の前にある。
二つ目の鍵が。
ここで確認だけして帰るのか。
本当に?
父の手帳に残された手がかりが、御影の手でまた隠されようとしている。今見逃せば、次に見つけられる保証はない。
アヤメの手が、扉にかかった。
玲央はその手首を掴んだ。
「何をする」
「取り戻す」
「確認だけだ」
「御影に渡す気?」
「今ここで動けば全員に見つかる」
「それでも」
「それでも、じゃない」
アヤメの目が鋭くなった。
「あなたは父親の手がかりを目の前にして、見逃せるの?」
玲央の手に力が入った。
痛いところを突く。
アヤメは続けた。
「私は見逃せない。御影に奪われたものを、また御影の手の中へ戻すなんてできない」
「感情で動くな」
「感情で動かない怪盗なんている?」
「いるべきだ」
「あなたは違う」
玲央は、何も言えなかった。
その通りだった。
玲央も感情で動いている。父を追う感情。御影への怒り。自分を証明したい欲。仮面を守りたい恐怖。全部が混ざっている。
だからこそ、動いてはいけない。
今動けば、父のためではなく、自分の怒りのために動くことになる。
ナナセの声が耳に入る。
「玲央、戻って。咲良さんが地下へ向かった」
咲良。
さらに時間がない。
玲央はアヤメの手首を離さなかった。
「戻る」
「嫌」
「戻る」
「私は行く」
アヤメが手を振りほどこうとした。
その瞬間、点検扉の向こうで職員が振り向いた。
気づかれた。
玲央は反射的にアヤメを引いた。
だが、遅い。
扉の向こうから声が飛んだ。
「誰だ!」
中の男たちが動く。
アヤメは玲央を睨んだ。
「ほら、迷うから」
「お前が動こうとしたからだ」
「言い争いは後ね」
「その言葉、嫌いになりそうだ」
二人は階段へ向かった。
上へ戻るか、下へ逃げるか。
上には咲良。
下には御影側。
地下の踊り場は、あっという間に挟まれる場所になる。
玲央は判断した。
「下」
「正気?」
「上は咲良。下のほうがまだ動ける」
「御影側がいる」
「警察よりは予測できる」
「あなた、刑事さんをどれだけ怖がってるの」
「お前よりは怖い」
「傷つくわ」
二人は地下三階へ走った。
だが、玲央は朝倉紘一を捨てきらない。走り方を完全に怪盗へ戻すと、後で映像を見られたときに線がつながる。だから、崩れた朝倉紘一として走る。焦った編集者。迷い込んだ男。逃げるが、慣れていない。
アヤメも清掃スタッフの仮面を保っている。
だが、二人とも半分崩れていた。
地下三階の廊下に出る。
前方から、昨夜の御影側の男が現れた。
玲央の髪を掴んだ男。
男は玲央を見て、すぐに目を細めた。
「お前」
バレた。
正確には、断定ではない。だが、疑いは十分。
男が近づく。
玲央は止まる。
アヤメは清掃カートを押していた。彼女は、それを男の前に倒した。金属音が響く。中の清掃用具が散る。
その隙に、二人は横の廊下へ入った。
背後で怒号。
上からは咲良の声。
「止まりなさい!」
地下の空気が一気に緊迫した。
玲央は、アヤメと並んで走った。
今度は、本当に逃げている。
朝倉紘一も、清掃スタッフの女も、輪郭が崩れ始めていた。
アヤメのマスクが片側だけ外れかける。玲央の眼鏡がずれる。ジャケットの袖が引っかかり、ボタンが飛ぶ。だが、二人は止まらない。
廊下の先は、古い設備室だった。
玲央は扉を押し開ける。
中は暗い。配管、古い制御盤、使われていない棚。通り抜けられるかは分からない。
アヤメが言う。
「こっち」
「なぜ分かる」
「昔の銀行建築は、金庫裏に保守通路がある」
「詳しいな」
「元古美術商の娘をなめないで」
彼女は初めて、自分の過去を少しだけ武器として口にした。
玲央は従った。
保守通路は狭い。二人で並んでは通れない。アヤメが先に入り、玲央が続く。背後から足音が迫る。咲良か、御影側か、あるいは両方か。
狭い通路の中で、アヤメの短い黒髪のウィッグが配管に引っかかった。
「っ」
彼女が小さく声を漏らす。
玲央は止まった。
「髪」
「分かってる」
アヤメは自分で外そうとしたが、焦りでうまくいかない。固定ピンが絡んでいる。
背後の足音が近づく。
玲央は、迷わなかった。
「触るぞ」
アヤメの目が、一瞬だけ大きくなった。
玲央は続ける。
「許可を取った」
アヤメは唇を噛んだ。
「……早く」
玲央は、彼女のウィッグの引っかかった部分を外した。乱暴にはしない。ナナセに教えられた通り、固定を無理に引かず、絡んだ部分だけを解く。数秒。だが、長く感じた。
外れた。
アヤメのウィッグは完全には取れなかったが、位置が大きくずれた。地毛が見え、清掃スタッフの仮面は半分崩れた。
アヤメは、息を詰めていた。
玲央は言った。
「動ける」
アヤメは頷いた。
「行く」
二人は通路を抜けた。
出口の先は、地下一階の古い倉庫室だった。地上へ続く階段が見える。上がれば、裏口へ出られるかもしれない。
だが、階段の下に咲良が立っていた。
先回りされた。
玲央は足を止めた。
アヤメも止まる。
咲良は、息を少しだけ乱していた。だが、目は鋭い。銃は抜いていない。代わりに、二人の姿を正面から見ている。
崩れた朝倉紘一。
ウィッグのずれた清掃スタッフ。
咲良の視線が、玲央の顔、眼鏡、髪、足元へ流れる。
次に、アヤメの髪、マスク、手元へ。
「黒瀬玲央」
咲良が言った。
玲央は黙った。
「月城アヤメ」
アヤメも黙った。
咲良は、一歩近づく。
「二人とも、もう演じなくていい」
玲央は、静かに答えた。
「何の話でしょう」
朝倉紘一の声だった。
だが、もう完全ではない。
咲良は、わずかに首を振った。
「声だけでは無理です。あなたの左足、昨夜の瀬尾圭一と同じ癖が出ています。白河レイカのときも、佐伯真理のときも、同じだった」
玲央の内側が冷える。
咲良は続ける。
「顔を変えても、服を変えても、髪を変えても、動きは残る。黒瀬玲央さん」
名前を呼ばれた。
今度は、逃げようのない距離で。
アヤメが小さく笑った。
「刑事さん、怖いわね」
咲良はアヤメを見る。
「あなたもです。華やかな変装をやめて清掃スタッフにしたのはいい判断です。でも、右手の中指を曲げる癖が残っている。昨夜、倉庫でも出ていました」
アヤメの笑みが消えた。
咲良は、二人を見た。
「今なら、話を聞けます。御影財団が何を隠しているのか、あなたたちが何を追っているのか」
玲央は、咲良の背後を見た。
階段。
その上から、御影側の男たちの足音が近づく。
咲良も気づいた。
状況は単純ではない。
警察に捕まるか。
御影側に捕まるか。
あるいは、もう一度逃げるか。
アヤメが低く言った。
「どうする?」
「逃げる」
「刑事さんの前で?」
「御影に捕まるよりはいい」
咲良が声を強めた。
「動かないで」
だが、その瞬間、上階で大きな音がした。
警備員と御影側の人間が揉めたらしい。森塚の声も聞こえる。現場の統制が崩れる。
アヤメが動いた。
彼女は、完全に崩れたウィッグを自分の手で外した。
短い地毛が現れる。
清掃スタッフの女が、そこで死んだ。
だが、アヤメ自身は死ななかった。
彼女は外したウィッグを咲良の足元へ投げた。咲良の視線が一瞬だけ下がる。ほんの一瞬。
玲央は、その一瞬を使った。
アヤメと反対方向へ動く。
咲良はすぐに追おうとしたが、御影側の男たちが階段から現れ、進路を塞いだ。
咲良が叫ぶ。
「邪魔をしないで!」
地下倉庫に、怒号が響く。
玲央とアヤメは、別々の方向へ走った。
示し合わせたわけではない。
だが、同じ判断だった。
一緒に逃げれば、片方が捕まったときにもう片方も巻き込まれる。別々に逃げれば、どちらかは残る。白い星の欠片は作業部屋にある。緋の冠はまだ御影の手の中。どちらか一人でも逃げれば、続きはある。
玲央は、地下倉庫の奥へ走った。
眼鏡が落ちかける。
彼は、それを外した。
朝倉紘一が死ぬ。
だが、黒瀬玲央は走る。
廊下を抜け、古い搬入口へ出る。鉄扉がある。重い。だが、完全には閉まっていない。玲央は体を滑り込ませ、外へ出た。
銀座の裏通り。
地上の光が眩しかった。
人々は何も知らずに歩いている。地下で何が起きたかなど、誰も知らない。笑い声。タクシーの音。遠くの店の音楽。
玲央は、壁にもたれて息を整えた。
髪も顔も乱れている。ジャケットのボタンも飛んでいる。朝倉紘一ではもうない。だが、黒瀬玲央として完全に露出しているわけでもない。
中途半端なまま、生き残った。
耳の通信が乱れる。
ナナセの声がした。
「玲央、聞こえる?」
「ああ」
「無事?」
「たぶん」
「アヤメさんは?」
「別れた」
「捕まった?」
「分からない」
玲央は、裏通りの先を見た。
そこに、短い地毛の女が一瞬だけ見えた。
アヤメ。
彼女は振り返らなかった。
だが、歩きながら片手を上げた。
逃げ切ったらしい。
その手に何かを持っているかは、見えなかった。
玲央は、はっとした。
まさか。
緋の冠を盗ったのか。
いや、あの状況で本体を持ち出すのは無理だ。だが、何かを取った可能性はある。彼女は、保管庫の前で見ただけでは終わらない女だ。
ナナセが言う。
「すぐ戻って。咲良さんが周辺を固める前に」
「分かってる」
玲央は、朝倉紘一の残骸を整えた。眼鏡をかけ直し、髪を撫で、ジャケットの乱れを隠す。完全には戻らない。だが、銀座の夜に紛れる程度には戻す。
歩き出す。
走らない。
怪盗としてではなく、事件に巻き込まれた編集者のように。
地下ではまだ、咲良と御影側が対峙しているだろう。
緋の冠は御影の手元に残ったのか。
それとも、アヤメが何かを奪ったのか。
玲央には分からない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
咲良は、もう玲央の名前を呼んだ。
黒瀬玲央。
仮面の奥にある名前を。
その事実は、どんな盗品より重かった。
*
作業部屋に戻ったのは、深夜を過ぎてからだった。
玲央が扉を開けると、ナナセがすぐに立ち上がった。
「顔」
「またそれか」
「怪我の確認」
ナナセは玲央の顎をつかみ、顔を左右に向けた。頬に擦り傷。髪の乱れ。首元に薄い赤み。大きな怪我はない。
「地毛、また引っ張られた?」
「今回は眼鏡を狙われた」
「眼鏡なら替えがきく」
「俺は替えがきかないんだが」
「知ってる。だから見てる」
ナナセは手を離した。
そのとき、窓側から声がした。
「おかえり」
アヤメだった。
すでに戻っていた。
短い地毛のまま、椅子に座っている。清掃スタッフの衣装は脱ぎ、ナナセが貸したらしい黒い上着を羽織っていた。顔の化粧もかなり落としている。女怪盗アヤメの輪郭は薄い。
玲央は彼女を見た。
「何を取った」
アヤメは微笑んだ。
「挨拶より先にそれ?」
「何を取った」
アヤメは、机の上に小さな赤い破片を置いた。
緋の冠ではない。
冠の内側にあった装飾部品の一部。白い星の欠片と似た大きさの、小さな赤い金属片。
玲央の目が見開かれる。
「いつ」
「あなたが咲良さんに名前を呼ばれて固まっていたとき」
「お前……」
「確認だけ、とは言われたけれど、触るなとは言われていない」
ナナセが冷たく言った。
「言った」
「聞こえなかったことにしたわ」
「最悪」
アヤメは少し肩をすくめた。
「でも、取れた」
玲央は、赤い欠片を見た。
表面には、やはり三本線の印。
白い星の欠片と対になる、二つ目の鍵。
緋の冠そのものは御影の手に残った。
だが、鍵は奪った。
アヤメはやってのけた。
腹が立つ。
無茶だ。
勝手すぎる。
だが、成果は成果だった。
玲央は椅子に座り、深く息を吐いた。
「咲良に名前を呼ばれた」
ナナセの表情が変わった。
アヤメも笑みを消した。
「黒瀬玲央と?」
「ああ」
「確定したの?」
「おそらく。少なくとも、咲良の中ではもう繋がっている」
ナナセは唇を結んだ。
「なら、次から黒瀬玲央の生活圏も危ない」
「分かってる」
「工房も、ここも、いずれ辿られる」
「分かってる」
「分かってるなら、対策する」
「ああ」
アヤメは、赤い欠片を見つめていた。
「咲良さんは、御影と違う」
玲央が見る。
「何が」
「あの人は、捕まえるために仮面を剥がす。御影は、壊すために剥がす」
玲央は何も言わなかった。
確かにそうかもしれない。
咲良は怖い。
だが、御影側の人間に髪や眼鏡を掴まれたときの嫌悪とは違う。咲良は暴く。御影は踏みにじる。その差は、玲央にも分かった。
ナナセは、白い星の欠片が入った箱を出した。
「赤い欠片も入れる」
「鍵は三人で」
玲央が言う。
「そう」
アヤメは、赤い欠片を渡した。
ナナセはそれを丁寧に箱へ入れる。
白い星。
緋の冠。
二つの欠片が、同じ箱の中に並んだ。
残るは、青の涙と黒の翼。
父の手帳の線は、少しずつ現実になっている。
だが、その代償として、玲央の正体は咲良に近づかれた。
アヤメは仮面を一つ外した。
ナナセの作業部屋も危険に近づいた。
御影は、さらに強く動くだろう。
玲央は、箱の中の二つの欠片を見た。
小さな金属片。
けれど、そこには人の人生が絡みついている。
父の失踪。
アヤメの家族。
御影の罪。
咲良の執念。
そして、自分の仮面。
玲央は静かに言った。
「次は青の涙か」
アヤメが頷く。
「でも、その前に御影が動く」
ナナセも同意した。
「咲良さんも動く。次は、こっちが追うだけじゃ済まない」
玲央は、鏡を見た。
そこには、朝倉紘一の残骸をまとった黒瀬玲央が映っていた。
女装怪盗レオナは、一度死んだ。
瀬尾圭一も、朝倉紘一も、役目を終えた。
だが、そのたびに玲央自身が少しずつ表へ出てくる。
それが良いことなのか、悪いことなのか、まだ分からない。
ただ、もう完全な仮面の中には戻れない。
咲良は名前を呼んだ。
アヤメは素顔の一部を見せた。
ナナセは共犯者として深く関わった。
そして御影は、こちらを敵として認識した。
銀座地下の夜は終わった。
だが、地下で見た緋い光は、玲央の目から消えなかった。
それは冠の光ではない。
警告の色だった。
次に動けば、もう後戻りはできない。
玲央は、箱の蓋が閉まる音を聞きながら、そう理解した。




