第4話 緋の冠は夜に動く
瀬尾圭一は、夜の南港を歩いていた。
正確には、黒瀬玲央が瀬尾圭一という男を歩かせていた。
女ではない。
未亡人でも、事務員でも、社交界の招待客でもない。今夜の玲央は、どこにでもいそうな地味な男だった。少しくたびれた作業用ジャケット。安物の眼鏡。癖のない黒髪。新品ではないスニーカー。手には工具鞄。背筋は伸ばしすぎず、視線はまっすぐ合わせすぎない。
瀬尾圭一、二十九歳。
設備点検会社の契約スタッフ。現場経験は浅いが、事務処理と雑用に慣れている。大きな声の人間が苦手。知らないことを聞かれると、まず謝る。缶コーヒーは甘いものしか飲まない。湿った靴下が嫌い。
ナナセが作った設定だった。
玲央は、その設定を歩幅に落とし込む。白河レイカのように視線を受け止めない。佐伯真理のように疲れを顔へ出しすぎない。地味な男は、地味であることを演じてはいけない。地味に見られようとする人間ほど、逆に目立つ。
ただ、目的地へ向かう。
少し急ぐ。
だが、走るほどではない。
それだけでいい。
耳の奥で、ナナセの声が聞こえた。
「玲央、呼吸が浅い」
玲央は小さく息を吐いた。
「瀬尾」
「はいはい。瀬尾さん、呼吸が浅い」
「分かってる」
「分かってる人の返事じゃない」
「いつもの言い方だな」
「いつものことをしてるから」
玲央は、倉庫街の角で立ち止まった。目の前には、御影財団関連会社が管理する南港修復室がある。外観は目立たない。古い物流施設を改装したような建物で、表の看板も小さい。美術品修復施設というより、精密機器の保管倉庫に近い。
周囲には、コンテナ、フェンス、作業車、貨物用の出入口。夜でも完全に無人ではないが、人通りは少ない。
「見える?」
ナナセが聞いた。
「見える。車両が二台。入口に警備員。財団の職員らしき人間が数人」
「移送準備中?」
「たぶん」
「盗らない。追わない。確認だけ」
「何度も聞いた」
「何度も言う必要があるから言ってる」
玲央は、軽く舌打ちしかけて、やめた。
瀬尾圭一は舌打ちしない。
瀬尾圭一は、不満があっても飲み込む男だ。
玲央は、工具鞄を持ち直し、修復室の裏手へ回った。
正面から入るつもりはない。だが、盗みに入るつもりもない。今夜の目的は、緋の冠が本当にここから移されるかを確認すること。そして、その移送先の手がかりを拾うことだった。
白い星の欠片。
緋の冠。
青の涙。
黒の翼。
父の手帳に残された四つの言葉のうち、白い星はすでに動いた。ならば、緋の冠も同じ仕掛けを持っている可能性が高い。御影が慌てて移すなら、そこに答えがある。
建物の裏手には、業者用の通路があった。玲央は壁際に立ち、端末を取り出すふりをして周辺を確認する。警備員は正面に集中している。だが、死角が多いということは、逆に警戒されているということでもある。
玲央は深追いしなかった。
瀬尾圭一は、無理をしない男だ。
無理をしない男として、通用する範囲で動く。
それが今夜の訓練でもあった。
「玲央」
ナナセの声が低くなった。
「警察車両らしきものが二本先の通りにいる。多分、咲良さん」
玲央は、眼鏡の位置を直した。
視線を動かしすぎないように、車体の反射を使って確認する。黒い車。ライトは消えている。運転席と助手席に人影。そこから修復室の正面が見える。
氷見沢咲良。
やはり来ていた。
玲央の背中に、細い緊張が走る。
女装ではない。
ウィッグも厚い化粧も使っていない。
だが、それで安全というわけではない。むしろ、今夜は別の意味で危ない。咲良に瀬尾圭一を見抜かれれば、黒瀬玲央そのものに近づかれる。
白河レイカを見破られるより、ずっと危険だった。
ナナセが言う。
「引く?」
「まだ」
「確認だけ」
「分かってる」
修復室の搬入口で動きがあった。
作業服姿の男たちが、細長い黒いケースを運び出している。大きくはない。だが、扱いは慎重だった。普通の荷物ではない。温度管理用の小型装置もついている。ケースの側面には番号札。赤い封印紙。
緋の冠。
玲央の鼓動が速くなった。
あれだ。
直感ではなく、状況がそう言っている。
今夜、御影は緋の冠を動かそうとしている。
玲央は、建物脇の古い掲示板の前に立った。点検業者が連絡待ちで立っているように見える位置。そこから搬入口が斜めに見える。
ケースを運ぶ職員の一人が、周囲を見回した。
玲央は、端末を見ているふりをした。
瀬尾圭一は、見ない。
見たいものほど見ない。
盗人の目は、見たいものへ吸い寄せられる。咲良はそれを見る。だから、玲央は見ないことを演じた。
だが、視界の端では拾っていた。
ケースは二台目の車両へ載せられる。財団職員が書類を確認する。警備員が周囲を警戒する。御影本人はいない。だが、御影側の私兵らしき男が一人いる。昨夜の倉庫で見た男と同じ種類の空気をまとっている。
ナナセが小声で言う。
「車両番号、見える?」
「少し待て」
「無理に近づかない」
「分かってる」
玲央は、端末を落とした。
故意に。
地面に落ちた端末が、滑って少し前へ行く。玲央は慌てたようにしゃがむ。瀬尾圭一なら、こういう小さな失敗をする。舌打ちせず、少しだけ情けない顔をする。
その低い姿勢から、車両の後部が見えた。
番号。
記憶する。
すぐに端末を拾う。
立ち上がる。
視線は車に残さない。
「見えた」
「送って」
「あとで」
「今」
「今送ったら不自然」
ナナセは一拍置いてから言った。
「正しい」
「珍しく褒めたな」
「調子に乗らない」
玲央は、建物脇から離れようとした。
確認は済んだ。
緋の冠らしきケースは移送車に載った。車両番号も記憶した。御影側の警戒も確認した。咲良が張っていることも分かった。
これ以上は危険だ。
瀬尾圭一は、ここで帰る。
玲央も、そうすべきだった。
だが、そのときだった。
搬入口から出てきた職員の一人が、玲央のほうへ歩いてきた。
中年の男。財団職員ではない。修復室側の管理者だろう。手には書類を持っている。顔には苛立ちが浮かんでいた。
「君」
玲央は、自分に向けられた声だと気づいた。
足を止める。
瀬尾圭一の顔を作る。
「はい」
「点検の人?」
来た。
玲央は一瞬で判断した。否定するか、肯定するか。下手に否定すれば、なぜここにいるのかを説明しなければならない。肯定すれば、中に入れられる可能性がある。
瀬尾圭一は、こういうとき、反射で謝る。
「あ、すみません。連絡待ちで」
「どこの会社?」
玲央は、事前に用意した社名を出した。実在するが、今夜ここに来る予定はない会社名ではない。こういう名は、使い方を間違えると現実の業者に迷惑がかかるため、玲央は曖昧に聞こえる略称だけを使った。
男は、書類を見ながら眉をひそめた。
「こっちは空調系を呼んだんだが」
「あ、はい。たぶん、担当者から連絡が」
「担当者?」
「僕は補助で……詳しいことは、上の者に確認しないと」
瀬尾圭一は、責任を取らない男だ。
だが、責任を取れないことを恥じている男でもある。
玲央は、その中途半端な弱さを声に混ぜた。
男は面倒そうにため息をついた。
「今、温湿度の表示が不安定なんだよ。移送前に確認しろと言われてる。来たなら見てくれ」
ナナセが通信で鋭く言った。
「断って」
玲央は黙った。
中に入れる。
緋の冠のあった保管室を見られるかもしれない。第三保管棚。赤。父の手帳にあった言葉と照合できる。
だが、ナナセとの約束は「確認だけ」だった。
ここで中へ入るのは、確認を超える。
同時に、瀬尾圭一としては断りにくい。
男は苛立っている。断れば印象に残る。入れば危険が増す。
玲央は、瀬尾圭一の判断をした。
「あの、僕だけだと判断できないと思うんですけど、表示確認くらいなら」
ナナセが小さく息を呑む。
「玲央」
玲央は応えなかった。
男が顎で入口を示す。
「早く」
「はい、すみません」
玲央は頭を下げ、修復室の中へ入った。
その瞬間、瀬尾圭一は予定外の物語へ踏み込んだ。
*
氷見沢咲良は、車の中からその場面を見ていた。
地味な男が、修復室の職員に声をかけられ、建物内へ入る。
普通なら気にしない。
夜間の移送作業中に、点検業者が出入りすることはあり得る。南港修復室のような施設なら、温湿度管理や空調設備の確認は重要だ。業者が呼ばれていても不自然ではない。
だが、咲良は違和感を覚えた。
男の存在感が薄すぎる。
薄い存在感は、ただの地味さとは違う。周囲に紛れようとしている人間の薄さだった。目立たないのではなく、目立たないように調整されている。
「森塚」
「はい」
「あの点検業者、確認して」
「今入った男性ですか?」
「そう」
森塚は双眼鏡を覗いた。
「二十代後半から三十代前半。作業着風のジャケット。工具鞄。眼鏡。顔は……普通ですね」
「普通すぎる」
「普通すぎる?」
「普通に見せるための普通」
森塚は困ったように見た。
「それ、かなり感覚的ですね」
「分かってる。だから確認する」
咲良は端末を操作し、南港修復室へ入る予定の業者リストを確認した。正式な提出はない。御影財団側からは「内部作業のみ」と説明されている。
「業者の予定はない」
咲良が言うと、森塚の顔が変わった。
「では、あの男は」
「少なくとも、予定された業者ではない」
「黒瀬玲央ですか?」
咲良はすぐには答えなかった。
顔は違う。
服装も違う。
女装ではない。
だが、先ほど端末を落とした動きが気になっていた。偶然落としたにしては、拾う角度がよすぎた。移送車の番号を見るための動きに見える。
そして、男が歩くときの左足。
ほんのわずかに、着地が浅い。
咲良はドアに手をかけた。
「行く」
「今ですか?」
「中で何か起きる前に確認する」
「令状は」
「任意確認。施設には移送作業の安全確認という名目で入る」
森塚は頷き、無線で応援に連絡した。
咲良は車を降りた。
夜風が頬を打つ。
修復室の搬入口では、緋の冠らしきケースを載せた車両がまだ出発していない。警備員が咲良たちに気づく。御影側の男も振り返る。
咲良は警察手帳を示した。
「警視庁です。移送作業について確認があります」
御影側の男の顔がわずかに固まった。
やはり、後ろ暗い。
咲良はそう判断した。
*
南港修復室の内部は、想像以上に静かだった。
外の港の音が、分厚い壁で遮られている。廊下には白い照明が並び、床は清潔に保たれていた。美術品修復の施設というより、病院の裏側に似ている。
玲央を案内した管理者は、苛立ちながら歩いていた。
「最近、表示が不安定でね。財団からは早く直せと言われるが、こっちも専門じゃない」
「大変ですね」
瀬尾圭一は、こういうとき薄い同情を見せる。
本気で同情しているわけではない。だが、相手が話し続ける程度には聞く。
「移送前に何かあると全部こっちの責任になる。やってられんよ」
「はあ」
「君、名前は」
「瀬尾です」
「瀬尾くんね。こっち」
管理者は廊下の奥へ向かった。
玲央は歩きながら、周囲の表示を読む。
第一修復室。
資料保管室。
温湿度管理盤。
第二保管区画。
そして、廊下のさらに奥に、第三保管区画。
手帳の言葉が蘇る。
南港修復室。
第三保管棚。
赤。
玲央は、内側で息を殺した。
第三保管区画。
そこに緋の冠があったはずだ。
管理者は、温湿度管理盤の前で止まった。
「この表示。さっきから微妙に跳ねる」
玲央は盤面を見た。
専門的なことは分からない。瀬尾圭一も分からない。だから、分からない人間として振る舞う。
「あの、僕、確認の写真だけ撮って、担当に送っていいですか」
「早くしてくれ」
「はい、すみません」
玲央は端末を取り出し、管理盤を撮るふりをした。
同時に、廊下の奥を画面に入れる。
第三保管区画の扉。
その横に赤いシールが貼られている。
赤。
第三保管棚。
緋の冠。
玲央の鼓動が強くなる。
さらに奥の廊下から、職員二人が出てきた。手には保護布。何かを移送し終えた後の動きだ。片方の職員が小さく言う。
「赤箱は出した。棚は空」
聞こえた。
赤箱。
棚は空。
緋の冠は、やはりここにあった。
そして、今は移送車の中だ。
玲央は端末を下ろした。
目的は達した。
すぐに出るべきだ。
だが、次の瞬間、廊下の手前から別の声が響いた。
「警察です。施設内を確認させていただきます」
咲良。
玲央の背中に冷たいものが落ちた。
早すぎる。
ナナセの声が耳に入る。
「玲央、咲良さんが入った。すぐ出て」
「分かってる」
「声」
玲央は瀬尾圭一の声へ戻した。
「分かりました」
管理者が振り返る。
「何か言った?」
「あ、いえ。担当から返信が」
「直せるのか」
「僕では判断できないので、一度持ち帰って」
「使えないな」
「すみません」
瀬尾圭一は謝る。
それが自然だ。
だが、咲良が近づいてくる。
廊下の角の向こうに、彼女の気配がある。足音は速すぎず、遅すぎない。迷いがない。
玲央は、工具鞄を持ち直した。
逃げれば終わる。
隠れても怪しい。
ならば、正面からすれ違う。
瀬尾圭一として。
玲央は、管理者に頭を下げた。
「一度、外で連絡を取ってきます」
「ああ、早く戻って」
「はい」
廊下を歩き出す。
角を曲がる。
咲良がいた。
パンツスーツ姿。髪を後ろでまとめ、薄い化粧。昨夜と同じ、対象を顔ではなく動きで見る目。
玲央は、目を合わせすぎない。
点検業者の男として、警察官に道を譲る。
「すみません」
小さく言って、横を通る。
咲良は足を止めなかった。
一瞬、通り過ぎた。
玲央は内心で息を吐きかけた。
だが、その背後で咲良の声がした。
「瀬尾さん」
玲央は止まった。
呼ばれた。
管理者が名前を言っていたからだ。
ここで反応しなければ不自然。
玲央は振り返る。
「はい」
咲良は、まっすぐ見ていた。
「点検業者の方ですか」
「はい。あの、補助ですけど」
「会社名は」
玲央は答えた。
咲良は、森塚に目配せする。森塚が端末で照会する。時間がない。
玲央は、瀬尾圭一として困った顔をした。
「あの、何か問題でしょうか」
「今夜、こちらに入る予定の業者はないと聞いています」
「え」
驚く。
瀬尾圭一なら、本当に驚く。
「いや、僕は連絡を受けて」
「誰から」
「上の者からです。僕、詳しいことは」
「その上の方に今電話してください」
玲央の喉が細くなる。
危険。
電話相手などいない。
ナナセに繋ぐことはできるが、咲良の前で架空の会社の上司を演じさせるには準備が足りない。
ナナセの声が耳に響く。
「玲央、時間を稼いで。こっちで番号を用意する」
玲央は、端末を取り出そうとして、手を滑らせた。
また落とす。
だが、今度は意図的ではないように見せる。焦りから落とした。瀬尾圭一ならあり得る。
「あ、すみません」
しゃがむ。
拾う。
咲良の靴が視界に入る。
彼女は動かない。
玲央は端末を拾い、立ち上がる。
「すみません、ちょっと電波が」
「ここは電波が入ります」
咲良の声は平坦だった。
追い詰められている。
玲央は、瀬尾圭一の困惑を深くする。
「あの、僕、本当に言われて来ただけで」
「身分証は」
玲央は、用意していた簡易的な作業証を出した。
咲良は受け取り、じっと見る。
顔写真。
名前。
会社名。
作りは悪くない。だが、咲良は紙面だけを見ていない。玲央の指、呼吸、視線を見ている。
「眼鏡を外していただけますか」
玲央の背中が、わずかに強張った。
なぜ眼鏡。
咲良は続ける。
「確認です」
眼鏡は顔の印象を変えるための重要な要素だった。外しても黒瀬玲央そのものになるわけではない。だが、顔の距離が近づく。
ナナセが小さく言う。
「拒否しない。瀬尾なら拒否できない」
玲央は、震えを抑えて眼鏡に手をかけた。
ゆっくり外す。
咲良の目が、玲央の顔を正面から見る。
一秒。
二秒。
三秒。
長い。
玲央は、目を泳がせた。
瀬尾圭一として。
警察官に見られて緊張している男として。
咲良は言った。
「どこかで、お会いしましたか」
玲央は、心臓が止まりかけた。
だが、声は瀬尾圭一で出す。
「え、いや……たぶん、ないと思います」
「そうですか」
「僕、人の顔を覚えるの苦手で」
「私も得意ではありません」
嘘だ。
この女は、顔を覚える必要がないほど、人の動きを覚える。
玲央は眼鏡を戻した。
その瞬間、搬入口のほうで騒ぎが起きた。
職員の声。
警備員の怒号。
誰かが「車を出せ」と叫ぶ。
御影側が動いた。
緋の冠を載せた車両を、警察の確認前に出そうとしている。
咲良の視線がそちらへ向いた。
玲央は動かない。
動いてはいけない。
逃げるなら今だ。
だが、瀬尾圭一は、警察の前で逃げない。
咲良は森塚に言った。
「搬入口へ」
「はい」
森塚が走る。
咲良も動こうとした。
その直前、彼女は玲央へ振り返った。
「瀬尾さん。ここにいてください。後で確認します」
「は、はい」
咲良は走った。
玲央は、その背中を見送った。
数秒。
廊下に人がいなくなる。
ナナセの声が飛ぶ。
「今。出て」
玲央は動いた。
走らない。
だが、急ぐ。
瀬尾圭一は、トラブルに巻き込まれたくない男だ。警察に「ここにいて」と言われても、上司に連絡するふりをして外へ出るくらいの弱さはある。
廊下を抜け、裏手の出入口へ向かう。
外の夜気が近づく。
あと少し。
だが、出入口の前に男が立っていた。
御影側の男。
昨夜の倉庫で見た男の一人ではない。だが、同じ種類の目をしている。
男は玲央を見て、低く言った。
「点検業者」
玲央は瀬尾圭一の顔で答える。
「はい。あの、外で連絡を」
「眼鏡を外せ」
玲央は動かなかった。
咲良に言われたときとは違う。
この男は確認したいのではない。
暴きたいのだ。
男は一歩近づいた。
「外せ」
玲央は後ろへ下がる。
「すみません、急いでるので」
男の手が伸びる。
眼鏡ではない。
髪。
玲央は反射的に避けた。
その動きで、瀬尾圭一が崩れる。
男の目が変わった。
「お前か」
何をどこまで知っているのか。
玲央は考える前に、横へ動いた。男の腕を避け、出入口へ向かう。だが、男は速い。肩を掴まれる。作業ジャケットの襟が引かれ、眼鏡がずれる。
瀬尾圭一の顔が崩れかける。
ナナセが叫ぶ。
「玲央!」
玲央は、男の足を避けるように体を沈め、肩を抜いた。荒い格闘ではない。逃げるための最小限の動き。だが、その瞬間、男の指が玲央の髪を引っかけた。
ウィッグではない。
今夜の髪は、玲央の地毛を整えたものだった。
だから外れない。
その代わり、痛みが走った。
玲央は奥歯を噛む。
男が驚いた。
髪が外れなかったからだ。
女装怪盗を想定していた男は、髪を剥がせば正体が出ると思っていた。だが今夜の玲央は、ウィッグをつけていない。
その一瞬の驚き。
玲央はそれを使った。
男の手から逃れ、扉を押し開ける。
外へ出た。
夜の空気。
搬入口では、移送車が動き出している。咲良たちが止めようとしている。御影側の警備員が対応している。現場は混乱していた。
玲央は裏手から離れる。
走りたい。
だが走らない。
瀬尾圭一は、混乱から逃げる。全力疾走ではなく、早足で逃げる。背中を丸め、電話をするふりをし、責任から離れる。
そのまま角を曲がる。
ようやく、ナナセの車が見えた。
助手席の窓が開く。
「乗って!」
玲央は乗り込んだ。
車が動き出す。
玲央は眼鏡を外し、深く息を吐いた。
左側の頭皮が痛い。髪を掴まれた感触が残っている。だが、ウィッグを取られる恐怖とは違った。痛い。腹が立つ。だが、瀬尾圭一は完全には死んでいない。
崩れたが、保った。
ナナセが運転しながら聞く。
「怪我は」
「髪を引っ張られた」
「地毛?」
「ああ」
「だから短くしろって言ったのに」
「今それを言うか」
「言う。地毛は替えがきかない」
玲央は思わず笑いそうになった。
笑える状況ではない。
だが、少しだけ息が抜けた。
「確認は?」
ナナセが聞く。
「緋の冠はあった。赤箱。第三保管区画。移送車に載った。車両番号も見た」
「咲良さんは?」
「かなり近い。瀬尾を疑った」
「バレた?」
「断定はされてない」
「でも疑われた」
「ああ」
「御影側は?」
「点検業者を疑っていた。女装怪盗だと思って髪を剥がそうとした」
「それで地毛を掴まれた」
「そうだ」
ナナセは、小さく息を吐いた。
「皮肉だけど、今夜は地毛でよかった」
「初めてお前の指示に逆らって助かった」
「そこは反省して」
「助かったのに?」
「助かったのと、危険だったのは両立する」
車は南港を離れていく。
玲央は後ろを見た。
遠くで、緋の冠を載せた移送車が別方向へ走り出している。警察車両の動きも見える。御影は、警察の前でも強引に移送を進めた。
それほど、隠したいものなのだ。
玲央は、車両番号をナナセへ伝えた。
ナナセは端末に入力する。
「追う?」
「追うなと言ったのはお前だ」
「聞くまでもなかったね」
「追いたい」
「知ってる」
「でも追わない」
ナナセは一瞬だけ玲央を見た。
「成長」
「馬鹿にしてるだろ」
「少し」
玲央は、シートにもたれた。
今夜は盗らなかった。
追わなかった。
確認だけした。
それでも、手に入れたものはある。
緋の冠は実在する。
南港修復室にあった。
御影は移した。
咲良は玲央に近づいた。
御影側は女装怪盗を警戒している。
そして、玲央は女装ではない変装で、一度だけ逃げ切った。
それは勝利ではない。
だが、敗北でもなかった。
*
作業部屋に戻ると、アヤメは窓際に立っていた。
長い黒髪のウィッグは、棚に置かれていた。
玲央は、扉のところで足を止めた。
アヤメは振り返らない。
作業灯の弱い光の中で、彼女の後頭部だけが見える。地毛は、思っていたより短かった。黒ではなく、暗い茶色に近い。長い髪で作っていた華やかな輪郭が消え、首筋が露出している。
だが、玲央は顔を見なかった。
ナナセが先に言った。
「戻った」
アヤメはゆっくり振り返った。
顔は、まだ薄く化粧が残っている。だが、ウィッグを外したことで印象が大きく変わっていた。昨夜の赤いドレスの女怪盗とは別人に近い。弱くはない。けれど、完璧でもない。
玲央は、その姿を見て、何も言わなかった。
アヤメの目が細くなる。
「何か言ったら?」
「何も」
「似合わないとか、女怪盗らしくないとか」
「言わない」
「なぜ」
「見られたくないものを見られた人間に、余計なことを言う趣味はない」
アヤメは、少し驚いた顔をした。
ナナセが、横から淡々と言う。
「玲央にも最低限の礼儀はある」
「最低限って言うな」
玲央はジャケットを脱ぎ、椅子に座った。
アヤメの視線が、玲央の髪へ向く。
「髪、乱れてる」
「掴まれた」
「ウィッグじゃないのに?」
「今夜は地毛だ」
アヤメは、小さく笑った。
「相手、驚いたでしょう」
「驚いた」
「あなたも、少しは学習するのね」
「お前に言われると腹が立つ」
「私も、少しは学習したわ」
アヤメは、棚に置かれた黒いウィッグを見た。
「外しても、死ななかった」
その言葉は、冗談の形をしていなかった。
玲央は、少し間を置いて答えた。
「そうだな」
ナナセは、二人の間に割って入るように、机に資料を広げた。
「感傷はあと。情報を整理する」
「雰囲気がないわね」
アヤメが言う。
「雰囲気で生きてるから二人とも危ない」
ナナセは、玲央が記憶した車両番号を書き出した。
「緋の冠は移送された。移送先を追う必要がある。ただし、警察も追っている可能性が高い。御影側は今夜のことで、玲央が男装、というか男性変装でも動く可能性に気づくかもしれない」
「女装怪盗レオナの看板が崩れたわね」
アヤメが言った。
玲央は黙る。
看板が崩れた。
その言葉は、不思議と悪くなかった。
怪盗レオナ。
女性に変装して盗む怪盗。
その名前は玲央を守っていた。同時に、閉じ込めてもいた。女装でなければ動けない。美しくなければ忍び込めない。完璧でなければ逃げられない。
今夜、その前提が少し崩れた。
玲央は女にならずに動いた。
完璧でない男として、咲良の前を通り、御影側の男から逃げた。
それは、玲央にとって奇妙な感覚だった。
仮面が一つ死んだ。
だが、自分は死んでいない。
「緋の冠は、御影の第四保管庫へ移される可能性がある」
アヤメが言った。
「第四保管庫?」
「御影が本当に隠したいものを置く場所。場所は分からない。でも、南港から直接行くなら、いくつか候補がある」
「知っているだけ出せ」
玲央が言う。
アヤメは頷き、地図を見た。
ナナセが端末で南港からの経路を出す。
三人は、机を囲んだ。
もう、ただの敵同士ではなかった。
信用はしていない。
だが、同じ机を見ている。
それだけで、関係は変わっていた。
*
咲良は、南港修復室の外で移送車が走り去るのを見ていた。
御影側は、警察の確認を受け流しながら、強引に車両を出した。表向きの手続きには穴がない。止めるには根拠が足りない。だが、怪しさだけは十分だった。
森塚が悔しそうに言う。
「追跡班を出しています。ただ、御影側も警戒しています」
「無理に止めなくていい。行き先を確認」
「はい」
咲良は、先ほどの点検業者の男を思い返した。
瀬尾圭一。
作業証の名前。
おそらく偽名。
黒瀬玲央かどうかは、断定できない。だが、動きが近い。左足の癖。緊張したときの指。謝り方に混ぜた逃げの呼吸。
ただし、昨夜までとは違っていた。
女装ではない。
ウィッグも、厚い化粧もない。
こちらの「怪盗レオナは女性に変装する」という前提を逆手に取った可能性がある。
咲良は、思わず薄く笑った。
「変えてきた」
森塚が聞く。
「何をですか?」
「仮面を」
咲良は、南港修復室の出入口を見た。
床には、落とされた細い毛が一本残っていた。御影側の男と揉み合ったときのものだろう。鑑識が回収している。
ウィッグの毛ではない可能性が高い。
地毛。
つまり、今夜の彼は剥がされる前提の仮面ではなかった。
咲良は考える。
黒瀬玲央は、変わり始めている。
それは危険でもあり、好機でもある。
人間は、変わるときに最も癖が出る。
新しい仮面は、まだ馴染んでいない。
そこに隙がある。
「森塚」
「はい」
「瀬尾圭一の作業証、映像から可能な限り復元して。会社名、顔、声。黒瀬玲央の記録と照合」
「了解です」
「それと、南港修復室の第三保管区画。赤い箱について調べて」
「赤い箱?」
「職員がそう言っていた」
「聞こえましたか?」
「少しだけ」
森塚は半ば呆れたように頷いた。
「本当に耳がいいですね」
「耳じゃない。聞く場所を決めているだけ」
咲良は、夜の道路を見た。
移送車はもう見えない。
だが、線は切れていない。
白い星の次は、緋の冠。
怪盗二人と御影財団は、同じものを追っている。
咲良は、その後ろを追う。
いや、追うだけでは足りない。
次は、先にいる必要がある。
*
深夜二時。
作業部屋の机の上には、地図とメモが広がっていた。
緋の冠の移送先候補は三つに絞られた。
一つは、御影財団の郊外保管庫。
一つは、関連会社名義の地下収蔵施設。
そしてもう一つは、旧銀行の金庫室を改装した第四保管庫。
アヤメは、三つ目を指した。
「本命はここ」
「根拠は」
玲央が問う。
「御影は、価値のあるものほど人目のある場所に隠す。完全な無人倉庫より、表向き別用途で使われている建物のほうを好む」
「経験則か」
「そう」
「場所は?」
「銀座」
ナナセが顔を上げた。
「銀座?」
「旧銀行の地下。表向きは財団の資料展示準備室。けれど実際は、非公開収蔵庫として使われている」
玲央は、机の上のメモを見た。
銀座。
華やかな街。
人目が多く、監視も多い。
そして、白河レイカのような女が自然に歩ける場所。
だが、今の玲央は、安易に女装で行くべきではないと分かっていた。
ナナセも同じことを考えたらしい。
「次、銀座なら変装設計を考え直す」
「また男か」
玲央が聞く。
「分からない。男、女、どちらでもない曖昧な立場。あるいは複数の人物を使う」
アヤメが言った。
「私も行く」
ナナセは、彼女の短い地毛を見た。
「ウィッグを外せたから?」
「そう」
「それだけで許可はしない」
「厳しいわね」
「あなた、現場で人の髪を引っ張る癖があるから」
「必要なら」
「必要でも、勝手にやらない」
アヤメは肩をすくめた。
「分かった。次は許可を取るわ」
「そういう問題じゃない」
玲央は、二人のやり取りを聞きながら、地図を見ていた。
銀座。
旧銀行。
第四保管庫。
緋の冠。
父の手帳に残された二つ目の鍵。
白い星の欠片は、三人を共犯にした。
緋の冠は、おそらく三人をさらに深い場所へ引き込む。
そして咲良は、もうすぐそこまで来ている。
玲央は、自分の髪に触れた。
御影側の男に掴まれた部分が、まだ痛い。
だが、その痛みは不思議と嫌ではなかった。
ウィッグを取られかけたときの恐怖とは違う。メイクを崩されたときの屈辱とも違う。
地毛を掴まれた。
痛かった。
逃げた。
それでも、自分は崩れきらなかった。
黒瀬玲央に近い仮面は、確かに危険だった。
だが、そこには新しい強さもあった。
ナナセが、玲央を見た。
「次、どうする?」
玲央は、銀座の地図を指で押さえた。
「緋の冠を確認する。必要なら、取り戻す」
「盗る、じゃなくて?」
アヤメが笑う。
玲央は、彼女を見た。
「父のものなら、取り戻す」
「御影のものではないと?」
「少なくとも、御影の罪を隠すためのものなら、あいつのものじゃない」
アヤメは、少しだけ目を伏せた。
「その理屈、嫌いじゃないわ」
ナナセは、ペンで地図に丸をつけた。
「じゃあ、第一区切り。今夜はここまで。玲央は寝る。アヤメさんも寝る。私は少し調べる」
「ナナセも寝ろ」
玲央が言う。
「あなたに言われたくない」
「正論」
「正論を言った人が正しい生活をしているとは限らない」
アヤメが小さく笑った。
作業部屋の空気は、昨夜よりわずかに変わっていた。
張り詰めた敵意だけではない。
警戒は残っている。嘘もある。隠し事もある。けれど、同じ地図を見て、同じ名前を追っている。
玲央は、ソファへ向かった。
横になる前、棚の上の黒いウィッグを見た。
アヤメの仮面。
机の上の眼鏡を見た。
瀬尾圭一の仮面。
鏡の中の自分を見た。
黒瀬玲央。
どれが本物なのかは、まだ分からない。
だが、今夜一つだけ分かったことがある。
仮面は、外れても終わりではない。
崩れても、歩ける。
それを知っただけで、玲央は少しだけ眠れる気がした。
遠く、夜の銀座へ向かって、緋の冠は運ばれていく。
御影はそれを隠そうとする。
咲良は追う。
アヤメは奪い返そうとする。
ナナセは衣装を作る。
そして玲央は、次の仮面を選ぶ。
怪盗レオナという名前は、今夜一度死んだ。
だが、黒瀬玲央の物語は、まだ終わらない。
次の夜、銀座の地下で、緋の冠は再び光る。
その赤い光は、誰の仮面を照らし、誰の素顔を暴くのか。
まだ、誰も知らなかった。




