第3話 衣装部屋の共犯者
車内に、三つの沈黙があった。
一つは、運転席の柊ナナセの沈黙。
一つは、助手席の黒瀬玲央の沈黙。
そしてもう一つは、後部座席に座る月城アヤメの沈黙だった。
同じ沈黙でも、温度は違う。
ナナセの沈黙は、怒りを薄く伸ばしたものだった。ハンドルを握る指先は白くなっていない。呼吸も乱れていない。ただ、言葉を発すれば確実に相手を刺すと分かっているから、今は黙っている。そういう沈黙だった。
玲央の沈黙は、計算と苛立ちの混合物だった。旧湾岸倉庫で乱れた変装は、ほとんど役を保っていない。灰色のスーツは肩口が裂け、頬の化粧は半分落ち、短いウィッグは膝の上にある。佐伯真理という女は、もうどこにもいなかった。残っているのは、女を演じそこねた怪盗と、その演技の失敗を見られた男だけだった。
アヤメの沈黙は、表面だけなら余裕に見えた。
黒いロングコートの襟を指で整え、乱れた長髪のウィッグを片手で押さえながら、後部座席に優雅に座っている。だが、昨夜のホテルで見せた完璧な女怪盗の気配は、少しだけ薄れていた。玲央が根元に指をかけたせいで、髪の位置がわずかに浮いている。本人は平然としているが、鏡を見れば分かる程度には崩れている。
玲央は、バックミラー越しにアヤメを見た。
「その髪、外したらどうだ」
「嫌」
「もうずれてる」
「あなたほどじゃない」
「俺はもう外した」
「だから?」
「見苦しい」
「自分の顔を棚に上げてよく言うわね」
アヤメは薄く笑った。
「頬、半分落ちてるわよ。佐伯真理さん」
玲央は、窓に映る自分の顔を見た。
確かにひどかった。薄く作った頬の輪郭は崩れ、口元の色も落ち、眉の線だけが不自然に残っている。変装が完全に剥がれたわけではない。だが、だからこそ醜い。作った顔と素顔の境界が曖昧になり、どちらにも属していない。
玲央は乱暴に頬を拭った。
ナナセが短く言う。
「やめて。肌が荒れる」
「今それを言うか」
「言う。あなた、顔を雑に扱うと次の変装に響く」
「次がある前提か」
「あなたが止まるなら、ない」
「止まらない」
「知ってる」
ナナセは前を見たまま答えた。
その声に、諦めはなかった。怒りもあった。心配もあった。だが一番強かったのは、理解だった。玲央が止まらないことを、ナナセは知っている。知っているからこそ、止める言葉と、支える準備を同時に持っている。
アヤメはそのやり取りを興味深そうに聞いていた。
「いい相棒ね」
ナナセは即座に答えた。
「あなたに評価されたくない」
「嫌われてる?」
「当然」
「初対面なのに?」
「初対面で助手席の人間を半壊させて、後部座席に乗り込んで、怪しい部品を人質にしている人を好きになる理由がない」
「的確」
「褒めてない」
アヤメは楽しそうに肩をすくめた。
玲央は、後部座席へ手を伸ばした。
「欠片を渡せ」
「だから、条件があるって言ったでしょう」
「組む話なら断った」
「まだ正式には聞いていない」
「断る」
「では、欠片は渡さない」
アヤメは、黒いコートの内側に小さなケースをしまった。
ナナセの目が、バックミラー越しに鋭くなった。
「その部品が本当に必要なものか、こっちではまだ確認できない。偽物かもしれない」
「偽物を持って、御影の私兵に追われる趣味はないわ」
「あなた自身が御影側という可能性もある」
「それなら、さっき一緒に逃げない」
「敵同士が演技で逃げることもある」
「慎重ね」
「あなたが軽すぎるだけ」
ナナセは、車線を変えた。
後ろに追跡車は見えない。警察の車両も、今のところついてきていない。だが安心はできなかった。御影側の人間が何人いるか分からない。咲良たちがどの程度まで玲央の車両を追えているかも分からない。
ナナセは、工房へ向かっていなかった。
玲央はそれに気づいた。
「どこへ行く」
「工房には戻らない」
「なぜ」
「後ろの人を連れていけないから」
「なら、どこへ」
「昔使っていた作業部屋」
玲央は一瞬だけ考え、納得した。
ナナセには、工房とは別に、古い作業部屋がある。今はほとんど使っていないが、衣装の一時保管や、急な修理に使える最低限の道具は置いてある。場所を知っているのは、ナナセと玲央だけのはずだった。
「そこに連れていくのはいいのか」
「工房よりはまし。大事な型紙も、主要なウィッグも、取引記録もない」
「私は盗まないわよ」
アヤメが言った。
ナナセは冷たく返す。
「盗まない怪盗はいない」
「今のは少し傷ついた」
「その程度で傷つくなら、怪盗をやめたほうがいい」
車内に、また沈黙が戻った。
だが今度の沈黙は、さっきよりも少しだけ形が変わっていた。
敵同士というには近すぎる。
仲間というには遠すぎる。
利用し合うには、互いの弱点を見すぎている。
玲央は、膝の上のウィッグを見た。短い黒髪。佐伯真理のために作られたもの。たった一夜、いや、数時間しか生きなかった女の髪。
アヤメの指に崩された。
それを思うと、腹の底に熱が戻ってくる。
悔しさ。
怒り。
それ以上に、恐怖。
アヤメは、玲央が一番触れられたくない場所に、迷いなく触れてくる。ウィッグ。メイク。補正。声。姿勢。演じている女の輪郭そのもの。
怪盗としての技術を破ってくるのではない。
黒瀬玲央が隠れている場所を、直接剥がしに来る。
それが、昨夜からずっと玲央を苛立たせていた。
ナナセの車は、やがて湾岸から離れ、古い商業地区へ入った。深夜の道は空いている。飲食店の明かりも少なく、ビルの窓は黒い。車は細い路地を抜け、古い雑居ビルの裏手に止まった。
「降りて」
ナナセが言った。
アヤメは窓の外を見た。
「ここ?」
「不満なら降りたあと帰って」
「帰る足がないわ」
「知ってる」
ナナセはエンジンを切った。
「だから、余計なことをしたら本当に置いていく」
アヤメは、軽く両手を上げた。
「分かった。今夜は大人しくする」
「信用しない」
「いい判断」
玲央は車を降りた。
冷たい夜気が、崩れた化粧の上を撫でた。顔の半分が乾き、半分が重い。変装を落としたい。すぐにでも全部洗い流したい。だが、先に確認するべきことがある。
アヤメも降りた。
相変わらずウィッグを外さない。黒い髪の根元を指で押さえ、平然と立っている。
玲央は言った。
「その状態でよく平気だな」
「平気じゃないわ」
「そうは見えない」
「平気じゃないから、平気な顔をしているの」
その言葉だけは、妙に本音に聞こえた。
玲央は黙った。
ナナセはビルの裏口を開け、二人を中へ入れた。古い階段を上がる。照明は弱く、壁にはひびが入っている。三階の奥に、鉄製の扉があった。ナナセは鍵を開け、先に中へ入る。
「何も触らないで」
アヤメに向けた言葉だった。
部屋の中は、工房より狭かった。
だが、空気は似ていた。布の匂い。糊の匂い。古い木製棚。裁断台。簡易鏡。壁際には数体のトルソーが並び、布をかけられている。衣装部屋というより、衣装部屋の亡霊のような場所だった。
アヤメは部屋を見回した。
「いい場所ね」
「褒めても何も出ない」
「職人の部屋は好きなの。嘘を作る場所なのに、道具は正直だから」
ナナセは、一瞬だけアヤメを見た。
その言葉には、軽薄さがなかった。
だが、だからといって信用はしない。
「玲央、先に顔」
ナナセが洗面台を指した。
「分かってる」
「分かってない。今、あなたは話を優先しようとしてる」
「欠片が先だ」
「顔が先。崩れた状態で鏡も見ずに話をすると、あなたは感情で動く」
玲央は反論できなかった。
ナナセは、アヤメへ振り返った。
「あなたも」
「私も?」
「その髪、ずれてる。見苦しい」
玲央が小さく笑いそうになった。
アヤメは目を細めた。
「人の髪に失礼ね」
「人のウィッグを引っ張る人に礼儀を語られたくない」
「私は彼の髪を少し整えただけ」
「固定ピンが曲がってる。整えるって言わない」
アヤメはしばらくナナセを見ていたが、やがて肩をすくめた。
「分かったわ。直して」
ナナセは即答した。
「嫌」
「今、あなたもって言ったじゃない」
「洗面台を使っていいと言っただけ。直すとは言ってない」
アヤメは玲央を見た。
「あなたの相棒、容赦ないわね」
「知ってる」
玲央は洗面台へ向かった。
鏡の前に立つ。
そこには、佐伯真理の死体のような顔があった。
頬の化粧は落ち、眉は片方だけ残り、唇は乾いている。ウィッグを外したせいで地毛が出ているが、首元や耳周りには変装の痕跡が残っていた。完全な男の顔でも、女の顔でもない。途中でやめた絵のようだった。
玲央は、クレンジングを手に取った。
指が止まる。
落とせば、黒瀬玲央に戻る。
ただそれだけのことなのに、毎回、少しだけ躊躇する。変装を解くとき、玲央はいつも、自分が負けたような気分になる。役を終えただけなのに、何かを剥奪されたように感じる。
昨夜は、その剥奪を他人にされた。
アヤメに。
咲良に見られかけながら。
それがまだ、体のどこかに残っている。
「玲央」
ナナセの声がした。
「洗って」
「分かってる」
玲央は顔を洗った。
冷たい水が、化粧を溶かして流していく。頬の線が消える。眉が消える。唇の色が消える。佐伯真理が排水口へ流れていく。
タオルで顔を拭くと、鏡の中には黒瀬玲央がいた。
二十六歳の男。
怪盗レオナ。
父を探す息子。
そして、素顔では何者にもなりきれない人間。
玲央は鏡から目をそらした。
洗面台を出ると、アヤメが部屋の中央に立っていた。長い黒髪のウィッグはまだつけている。ただし、根元のずれを自分で直そうとして、余計に不自然になっていた。
ナナセがそれを見て、顔をしかめた。
「下手」
「うるさいわね」
「それでよく人の変装に触れたね」
「私は自分で直すのが苦手なの」
「致命的」
「だから、普段は崩されないようにしているの」
玲央は、タオルを首にかけたまま言った。
「外せばいい」
「嫌だと言ったでしょう」
「なぜ」
「あなたに言う理由はない」
「なら、こっちも信用しない」
「最初からしてないでしょ」
「さらにしない」
「子どもみたい」
玲央は一歩近づいた。
「お前は、父のことをどこまで知っている」
アヤメの表情が少しだけ変わった。
余裕の膜が薄くなる。
ナナセは二人の間に立った。
「その前に、ルールを決める」
「ルール?」
玲央とアヤメが同時に言った。
ナナセは作業台の上を片づけながら、淡々と続けた。
「ここは私の部屋。ここでは、勝手に相手のウィッグやメイクや衣装に触らない。揉めるなら外。道具を壊したら弁償。嘘をつくのは勝手だけど、部屋の位置や中の物について外に漏らしたら、二度と入れない」
アヤメは面白そうに言った。
「怪盗に対して、部屋の規則?」
「怪盗だから必要」
「あなた、強いわね」
「強くない。迷惑が嫌いなだけ」
ナナセは、作業台に三つの椅子を置いた。
「座って。話すなら座って話す。立ったままだと、どちらかがすぐ動く」
玲央は不満そうにしたが、座った。
アヤメも少し遅れて座った。だが、姿勢は崩さない。背筋を伸ばし、脚をそろえ、手を膝に置く。その所作は、やはり女として完成されている。少なくとも表面上は。
ナナセは、最後に自分も座った。
三人の間に、作業灯の白い光が落ちる。
「まず、欠片を見せて」
ナナセが言った。
アヤメは警戒する。
「渡すとは言ってない」
「見せてと言った。渡せとは言ってない」
「あなた、言葉に細かい」
「職人だから」
アヤメは少し考え、ケースを取り出した。
透明なケースの中に、小さな金属片が入っている。昨夜、アルビオンの星の台座から外されたものだ。表面には、円の中に三本線の印。肉眼ではただの装飾に見えるが、ナナセはそれを見た瞬間、眉を寄せた。
「ただの金属じゃないね」
「分かるのか」
玲央が尋ねる。
「衣装とは関係ないけど、表面の加工が変。装飾なら、もっと見える部分をきれいにする。でもこれは、見える面より裏側のほうに細かい溝がある」
「記録媒体の断片だと、この女は言った」
玲央がアヤメを指す。
アヤメは訂正しなかった。
「正確には、記録を隠すための鍵。これ一つでは意味がない。いくつかの部品が合わさって初めて、硝子の女神に隠された情報へ辿り着ける」
「硝子の女神とは何」
ナナセが尋ねる。
「御影財団が表に出していない美術品。女神像と呼ばれているけれど、実際には小さな彫像らしい。素材は硝子、あるいは硝子に似た特殊な透明材。そこに、御影が盗品取引の記録を隠した」
「らしい、ばかりだな」
玲央が言う。
「私も全部知っているわけじゃない」
「なら、なぜそんなものを追っている」
アヤメは、少しだけ視線を落とした。
「御影に奪われたものを取り戻すため」
「何を奪われた」
「家」
「家?」
「家族と、名前と、人生」
部屋の空気が、わずかに冷えた。
アヤメの声は淡々としていた。大げさな悲劇の語り方ではない。むしろ、言い慣れすぎている。何度も心の中で繰り返し、感情の角が削れた言葉だった。
玲央は黙った。
ナナセも、すぐには口を挟まなかった。
アヤメは続けた。
「私の家は、古美術商だった。父は御影財団に品を納めていた。でも、ある取引のあと、贋作を売った疑いをかけられた。店は潰れ、父は病み、母は離れた。私は名前を変えた」
「御影の罠だったと?」
「そう」
「証拠は」
「それを探している」
「硝子の女神にある?」
「あると聞いた」
「誰に」
アヤメは答えなかった。
玲央は目を細める。
「そこを隠すなら、信用できない」
「信用しなくていいと言ったでしょう」
「話が進まない」
「進める気があるなら、あなたも話しなさい」
「何を」
「黒瀬暁人の手帳」
玲央の表情が硬くなった。
ナナセが玲央を見る。
手帳の存在は、ナナセも知っている。だが、内容のすべてを知っているわけではない。玲央は、父に関するものを一人で抱え込みがちだった。
玲央はしばらく黙ったあと、ポケットから小さな手帳を取り出した。
古びた革表紙。
何度も読み返したせいで、角が擦り切れている。
アヤメの視線が、そこに固定された。
「それが」
「ああ」
玲央は、手帳を開いた。
数ページには、修復記録のようなメモが書かれている。作品名、素材、寸法、欠損箇所。だが途中から、記述の性質が変わる。御影財団。白い星。硝子の女神。欠片。三本線。五年前の日付。
ナナセが、作業灯を少し寄せた。
アヤメは、手帳を覗き込む。
その瞬間、玲央は手帳を引いた。
「近い」
「見えないわ」
「近い」
「警戒しすぎ」
「お前が言うな」
ナナセがため息をついた。
「私が読む」
玲央は一瞬ためらったが、手帳をナナセへ渡した。
ナナセは慎重にページをめくる。指先の扱いが丁寧だった。布や紙を扱う職人の手つきだ。
「……『白い星は鍵の一つ。三本線の印。残りは、緋の冠、青の涙、黒の翼』」
アヤメが反応した。
「緋の冠」
「知ってるのか」
玲央が聞く。
「名前だけ。御影が保有する宝飾品の一つ。表には出していないはず」
ナナセは続きを読んだ。
「『硝子の女神は器ではない。記憶そのものを守る墓。御影は、美を保存しているのではない。罪を保存している』」
部屋が静かになった。
玲央は、何度も読んだ文章なのに、他人の声で聞くと別の重みを感じた。
父は、何を見たのか。
何を知ったのか。
なぜ消えたのか。
「次」
アヤメが言った。
ナナセはページをめくる。
「『もし私に何かあれば、玲央には知らせるな。あの子は仮面を持たない。追えば壊れる』」
玲央の顔から、血の気が引いた。
ナナセが読むのを止める。
アヤメも黙った。
玲央は手帳を奪うように取った。
「そこは関係ない」
声が低かった。
ナナセは静かに言う。
「玲央」
「関係ない」
「お父さんは、あなたを巻き込みたくなかったんだと思う」
「分かってる」
「分かってない顔をしてる」
「その言い方、やめろ」
ナナセは口を閉じた。
玲央は手帳を握ったまま、目を伏せる。
仮面を持たない。
追えば壊れる。
父は、そう書いていた。
だが今の玲央はどうだ。
仮面しか持っていない。
追っている。
そして、もう壊れ始めているのかもしれない。
アヤメが、ふと低い声で言った。
「親は、子どもを守ろうとして、肝心なことを隠す」
玲央は彼女を見た。
「経験談か」
「そう」
「家族は?」
アヤメは、少しだけ笑った。
「その質問に答えるほど、まだ仲良くないわ」
「そうか」
「でも、一つだけ言える。御影は、人の家族を壊すのが上手い」
その言葉には、飾りがなかった。
玲央は、初めてアヤメの怒りを見た気がした。
綺麗なドレスの奥に隠れていたもの。
女怪盗としての余裕の下に沈んでいたもの。
御影への怒り。
それだけは本物かもしれない。
ナナセは、机の上に白い紙を広げた。
「整理する」
彼女はペンを持ち、四つの単語を書いた。
白い星。
緋の冠。
青の涙。
黒の翼。
そして中央に、硝子の女神。
「白い星の欠片は、アルビオンの星の台座にあった。残り三つも、御影財団が持つ何かに隠されている可能性が高い。硝子の女神は、その四つを集めた先にある」
玲央は頷く。
「父はそこまで掴んでいた」
アヤメが続ける。
「でも、御影に気づかれた」
ナナセが最後に言う。
「だから消えた、あるいは消された」
言葉にしてしまうと、逃げ場がなくなった。
玲央は、拳を握った。
「父は生きている」
ナナセは何も言わない。
アヤメも否定しない。
ただ、誰も肯定もしなかった。
それが現実だった。
玲央は立ち上がった。
「緋の冠を探す」
「待って」
ナナセが止める。
「今すぐ動ける状態じゃない。咲良さんも御影も、あなたたちを追ってる」
「だから急ぐ」
「違う。だから準備する」
「準備している間に、御影に隠される」
「無計画に動けば捕まる」
玲央は苛立った目でナナセを見た。
「なら、どうする」
ナナセは、作業部屋の壁にかかった布を一枚めくった。
そこには、衣装ではなく、古いホワイトボードがあった。表面は少し黄ばんでいるが、まだ使える。
「計画を作る。盗みの計画じゃなく、人物の計画」
「人物?」
「あなたは毎回、外見を作る。でも、昨夜も今夜も、崩されたのは外見じゃない。人物の芯が弱いから、少し触られただけで玲央に戻る」
玲央は黙った。
ナナセは続けた。
「白河レイカは未亡人としてよくできていた。でも、アヤメに挑発された瞬間、設定が飛んだ。佐伯真理は地味で動きやすかった。でも、父親の名前を出された瞬間、呼吸が変わった。次に必要なのは、壊されても立っていられる人物像」
アヤメが興味深そうに見た。
「面白いことを言うのね」
「あなたにも言ってる」
「私にも?」
「あなたも同じ。完璧な女怪盗を演じているけど、髪に触られた瞬間、初めて動揺した」
アヤメの表情が止まった。
ナナセは容赦なく続ける。
「あなたは人の仮面を剥がすのが得意。でも、自分の仮面を守ることには過敏。玲央と同じ」
「一緒にしないで」
「同じ」
アヤメの声が低くなった。
「違うわ」
ナナセは引かなかった。
「どこが?」
沈黙。
アヤメの指が、膝の上でわずかに動いた。
玲央は、それを見た。
緊張時の癖。
彼女にも、当然ある。
完璧に見える人間ほど、崩れた瞬間の癖は濃く出る。
アヤメはゆっくりと息を吐いた。
「あなた、職人より刑事に向いているんじゃない?」
「どっちも嫌」
「でしょうね」
空気が少しだけ緩んだ。
だが、安心できるほどではない。
ナナセはホワイトボードにもう一つ書いた。
“次の変装は、崩される前提で作る。”
玲央は、その文字を見た。
「崩される前提?」
「そう」
ナナセは言った。
「ウィッグが取れかけても、メイクが落ちても、補正が多少ずれても、その人物として逃げ切れる設計にする。完璧さに頼らない」
「それは変装として弱い」
「逆。強い。完璧な変装は、崩れた瞬間に終わる。でも、崩れ込みまで含めて人物を作れば、少し壊れても保つ」
玲央は反論しようとして、できなかった。
それは、昨夜と今夜の敗北への答えだった。
白河レイカも佐伯真理も、完成度は高かった。だが完成しているからこそ、崩れに弱かった。少しウィッグがずれ、少しメイクが落ちただけで、人物が死んだ。
ならば、最初から崩れる余地を作る。
乱れても不自然でない人物。
髪に触れられても、スカーフや帽子で誤魔化せる人物。
化粧が落ちても、疲労や汗で説明できる人物。
姿勢が乱れても、役の範囲に収まる人物。
ナナセの提案は、衣装の話ではない。
物語の設計だった。
「次の標的が緋の冠なら、華やかな場所とは限らない」
アヤメが言った。
「保管場所を探る必要がある」
「知っていることを出せ」
玲央が言う。
アヤメは、少し考えた。
「御影は、表向きの展示品と、裏の保管品を分けている。緋の冠は、おそらく後者。財団本部には置かない。あそこは警察が注目しすぎる」
「別の倉庫か」
「あるいは、修復工房」
玲央の目が動いた。
「修復工房?」
「御影財団には、提携修復工房がある。そこに一時保管と称して美術品を移すことがある」
「父も、そこに?」
「可能性はある」
玲央は手帳を開き、ページをめくった。
そこに、地名らしきメモがあった。
“南港修復室。第三保管棚。赤。”
玲央は、その文字を見て息を止めた。
「南港修復室」
ナナセが繰り返す。
アヤメは眉を寄せた。
「知っている。御影財団の非公開施設の一つ」
「なぜ先に言わなかった」
玲央が睨む。
「あなたが手帳を見せなかったから」
「……」
「お互い様ね」
玲央は言い返さなかった。
ナナセは新しい紙に書く。
南港修復室。
緋の冠。
第三保管棚。
赤。
「次はそこ」
玲央が言った。
「だから、すぐ動かない」
ナナセが即座に止める。
「まず情報を確認する。施設が現存するか、御影の管理下か、警察が張っているか。あと、咲良さんに玲央の名前がどこまで掴まれているか」
アヤメが言った。
「氷見沢咲良は、もうかなり近いわよ」
「なぜ分かる」
玲央が聞く。
「旧倉庫で、彼女はあなたを見た。崩れた変装も、足跡も、固定ピンも見られたはず。あの刑事なら、顔より先に動きで追う」
「知り合いか」
「一方的に知っているだけ」
「お前も追われたことが?」
「何度か」
アヤメは軽く言ったが、玲央にはそれが軽い事実でないことが分かった。
氷見沢咲良。
変装を顔で見ない刑事。
怪盗にとって、最も厄介な相手。
ナナセは、壁の時計を見た。
「今から朝まで休む。玲央は寝る。アヤメさんは、そこの椅子」
「床じゃないのね」
「一応客だから」
「扱いが雑」
「敵よりはまし」
アヤメは椅子に腰かけた。
「髪、外していい?」
ナナセが言った。
アヤメは一瞬黙る。
「嫌だと言ったでしょう」
「寝るなら外したほうがいい。ずれたまま押さえてると、地肌に負担がかかる。固定も傷む」
「心配してくれてるの?」
「道具の心配」
「ひどい」
アヤメは笑ったが、その笑いは少し硬かった。
玲央は、彼女を見た。
「外せない理由があるのか」
アヤメは、答えない。
ナナセは、無理に触れなかった。
「なら、そのままでもいい。ただし、寝ている間にずれても私は直さない」
「分かったわ」
アヤメは椅子にもたれた。
玲央は、部屋の隅の古いソファへ向かった。だが、横になる前に、アヤメを見た。
「欠片は」
「私が持つ」
「寝ている間に逃げる気か」
「逃げても、あなたは追ってくるでしょう」
「当然だ」
「なら、逃げる意味がない」
「信用できない」
「お互い様」
ナナセが割って入った。
「ケースを机の中央に置いて。三人の誰も持たない」
アヤメは不満げに眉を上げた。
「それ、あなたが持つのと同じでは?」
「違う。机の上なら、誰かが取れば全員分かる」
「寝てたら?」
「寝ない」
「あなた、寝ないの?」
「この状況で寝られると思う?」
ナナセは、ケースを置くように手を出した。
アヤメはしばらく迷ったが、最終的にケースを机の中央に置いた。
白い星の欠片が、作業灯の下で鈍く光った。
それは小さな金属片にすぎない。
だが、玲央にとっては父へ続く道だった。
アヤメにとっては復讐への道だった。
ナナセにとっては、玲央をさらに危険へ引き込む毒のようなものだった。
三人は、それぞれ違う感情で欠片を見た。
夜が深くなる。
*
咲良は、警視庁の一室で映像を見ていた。
窓の外は白み始めている。だが、部屋の中に朝の気配はなかった。蛍光灯の光。冷めたコーヒー。机に広げられた資料。ホワイトボードに貼られた写真。
黒瀬玲央。
月城アヤメ。
御影宗一郎。
黒瀬暁人。
そして、まだ名前の分からない運転手。
森塚が、資料の束を持って入ってきた。
「氷見沢さん、旧倉庫の車両ナンバー、一部照合できました。ただし、該当が多いです。車種と色で絞っています」
「運転手は?」
「映像が粗く、顔は不明です。短髪の女性に見えますが、断定できません」
「玲央の協力者ね」
「おそらく」
咲良は、旧倉庫で撮れた映像を止めた。
灰色のスーツ姿の人物。崩れたメイク。短いウィッグがずれ、地毛が見えかけている。完全な顔は分からない。だが、免許証写真の黒瀬玲央と重ねると、骨格の一部が合う。
女装変装。
高度な発声と所作。
衣装協力者の存在。
「黒瀬玲央の舞台関係の仕事、詳細は?」
「正式な所属はありません。ただ、過去に小劇場の裏方、衣装補助、音響補助として名前が出ています。継続的な収入は確認できません」
「衣装関係の交友は」
「柊ナナセという衣装職人が浮上しました。舞台衣装、特殊衣装、撮影用衣装を個人で受けています。黒瀬玲央と過去に同じ現場で働いています」
咲良は、顔を上げた。
「住所は」
「工房の所在地は確認中です。表向きの仕事場はありますが、昨夜以降、人の出入りは確認できていません」
「張って」
「令状は?」
「まだ入る必要はない。見るだけ」
「了解です」
森塚はメモを取った。
咲良は、次にアヤメの映像を見た。
月城アヤメ。
名前は偽名。顔もおそらく作っている。赤いドレスの女と、旧倉庫での黒いコートの女。髪型は同じだが、照明の下で見ると輪郭に差がある。長髪のウィッグ。顔の造形も、メイクでかなり調整している。
そして、玲央が彼女の髪に手を伸ばした瞬間。
映像は遠いが、確かにアヤメの反応が変わっている。
自分の変装に触れられた人間の反応だ。
「二人目の女装怪盗……」
森塚が呟いた。
咲良は即座に言った。
「まだ性別は断定しない」
「あ、すみません」
「ただ、可能性はある」
「黒瀬玲央と同じタイプですか」
「似ているけど、違う」
咲良は画面を見た。
「玲央は、人物を作って入り込む。アヤメは、視線を支配して入り込む。玲央は背景を作る。アヤメは空気を作る」
「怪盗にも流派があるんですね」
「冗談に聞こえるけど、実際にある」
咲良は、赤いドレスの女の画像を拡大した。
「この二人は敵同士。けれど、御影財団という共通の標的がある」
「では、御影を中心に捜査を進めますか」
「進めたい。でも、御影は正面から行くと固い」
「財団の顧問弁護士も動いています」
「でしょうね」
咲良は、御影宗一郎の写真を見た。
文化人の顔。
支援者の顔。
被害者の顔。
その下に何があるか。
咲良は、過去の苦い記憶を思い出した。
七年前。
ある変装犯が関わった詐欺事件で、咲良は判断を誤った。現場にいた女性を犯人と見た。証言も、状況も、それを示しているように見えた。だが実際には、その女性は変装犯に身分を利用された被害者だった。真犯人は、別人になりすまして現場を去っていた。
咲良は、被害者を疑い、真犯人を逃がした。
それ以来、顔を信用しなくなった。
名前も、服も、声も、涙も信用しない。
人間の動きだけを見る。
それでも、まだ足りない。
昨夜も今夜も、玲央とアヤメを逃がした。
「氷見沢さん?」
森塚の声で、咲良は現実へ戻った。
「すみません。少し」
「いい。南港方面の御影関連施設を洗って」
「南港ですか?」
「旧倉庫に御影側の人間が来た。湾岸方面に隠し施設がある可能性が高い」
「分かりました」
「あと、黒瀬暁人の失踪届、当時の担当記録を取り寄せて。事故、失踪、海外渡航、金融記録、全部」
「はい」
咲良は立ち上がった。
「御影財団が何を隠しているにせよ、怪盗二人が同じ方向を向いている。次に動くなら、御影の非公開保管品か修復施設」
「先回りしますか」
「する」
咲良は、ホワイトボードの前に立った。
そこに、一本の線を引く。
黒瀬暁人から、黒瀬玲央へ。
黒瀬暁人から、御影宗一郎へ。
御影宗一郎から、月城アヤメへ。
線はまだ細い。
だが、切れてはいない。
*
朝になっても、ナナセは寝ていなかった。
作業部屋の窓から薄い光が差し込むころ、玲央は短い眠りから目を覚ました。ソファの上で体を起こすと、首が痛い。眠ったというより、意識が落ちていただけだった。
作業台の上には、白い星の欠片がまだあった。
ナナセが机に突っ伏すようにして座っている。完全に寝てはいない。目を閉じているだけで、玲央が動くとすぐに顔を上げた。
「起きた?」
「ああ」
「ケースは誰も触ってない」
「アヤメは」
玲央が部屋を見回すと、アヤメは椅子に座ったまま眠っていた。
いや、眠っているように見えた。
黒い長髪のウィッグは、結局外していない。だが、夜の間に固定がさらに緩んだのか、少しずれている。顔のメイクも薄く崩れ、目元の線が柔らかくなっていた。
玲央は、静かに立ち上がった。
アヤメに近づく。
ナナセが小声で言った。
「触らない」
「分かってる」
「分かってない顔」
「その言い方、本当にやめろ」
玲央は、アヤメの前で足を止めた。
寝ているときの彼女は、昨夜ほど強くない。完璧な女怪盗でも、挑発的なライバルでもない。ウィッグを外せないまま眠る、仮面にしがみついた人間に見えた。
玲央は、自分を見ているようで不快だった。
アヤメの目が開いた。
「寝顔を見る趣味?」
「髪がずれてる」
「第一声がそれ?」
「外せばいい」
「しつこい男は嫌われるわよ」
「怪盗に好かれる必要はない」
アヤメは体を起こし、ウィッグを押さえた。
その仕草には、昨夜までの余裕がなかった。
ナナセは、温かい缶コーヒーを三本置いた。どこから買ってきたのか、玲央には分からなかった。おそらく、夜明け前に一度外へ出たのだろう。
「飲んで。話の続き」
アヤメは缶を受け取り、意外そうに見た。
「毒は?」
「入れるなら、もっと分かりにくくする」
「信用できる答えね」
「信用しないで」
玲央は缶を開けた。
甘い。
眠気が少しだけ薄れる。
ナナセは、昨夜のホワイトボードの前に立った。
「次の問題。南港修復室に行くとして、誰が何をするか」
「私は行く」
玲央が即答した。
「私も行く」
アヤメも続ける。
「二人とも却下」
ナナセが言った。
「なぜ」
玲央が眉をひそめる。
「二人とも今、咲良さんと御影に顔を見られてる。崩れた状態も見られた。次に似た変装をすれば、かなり危ない」
「顔は変える」
「顔だけじゃない。動きも追われてる」
アヤメが缶を揺らしながら言った。
「じゃあ、あなたが行く?」
「私は怪盗じゃない」
「でも衣装職人でしょう。施設に衣装関係者として入るとか」
「そんな都合よくいかない」
「都合よくいかせるのが怪盗」
「それが嫌い」
ナナセは、ホワイトボードに三つの役割を書いた。
調査。
接触。
退避。
「まずは盗みに入らない。調査だけ。施設の存在、警備の強さ、出入りする人間、御影との関係。緋の冠が本当にあるかを確認する」
「誰が」
「玲央」
「結局行くのか」
「ただし、女装で潜入しない」
玲央とアヤメが、同時にナナセを見た。
ナナセは続ける。
「今の玲央は、女性変装を読まれている。咲良さんにも、アヤメさんにも、御影にも。なら、次は黒瀬玲央に近い姿で行く」
「それでは怪盗レオナじゃない」
「だからいい」
「俺の顔は咲良に割れかけている」
「割れかけているから、逆に変装しすぎると目立つ。工事業者、配送員、財団職員、そういう実務系の男性に紛れるほうが自然な可能性もある」
アヤメが笑った。
「女装怪盗が、普通の男に変装するの?」
「悪いか」
玲央が睨む。
「悪くないわ。むしろ皮肉でいい。あなたは女になることで自分を隠してきた。次は、自分に近い男を演じる。難しそうね」
その通りだった。
玲央は、女性の変装には慣れている。声を変え、姿勢を変え、体型を変え、別人を作る。距離があるから演じられる。
だが、黒瀬玲央に近い男を演じるのは難しい。
近すぎる仮面は、仮面にならない。
ナナセは、玲央の反応を見ながら言った。
「あなたは、女になるのが得意なんじゃない。自分から遠い人物になるのが得意なの。だったら、自分に近い人物を作る練習も必要」
「今、それをやる必要があるのか」
「ある。咲良さんは女性変装を追っている。御影も、おそらく黒いドレスと灰色スーツの女を探す。なら、次に一番見落とされるのは、地味な男」
アヤメが缶を置いた。
「私は?」
「あなたは動かない」
「嫌」
「動くなら、髪を外してから」
アヤメの顔が固まった。
玲央はナナセを見た。
その条件は、わざとだ。
アヤメの弱点を確認するための一手。
アヤメは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「それは取引?」
「そう。こちらはあなたに信用を求めていない。でも、同行するなら最低限、崩れたときの対処を共有する必要がある。あなたが自分のウィッグ一つ外せないなら、現場で足手まとい」
「言うわね」
「事実」
アヤメの指が、黒髪の根元に触れた。
そのまま止まる。
玲央は、思わず息を殺した。
アヤメが、自分でウィッグを外そうとしている。
だが、彼女の指は動かない。
数秒。
十数秒。
その沈黙は、昨夜のどんな挑発より重かった。
アヤメは、結局手を下ろした。
「今は無理」
声は小さかった。
初めて聞く声だった。
女怪盗アヤメの声ではない。演技が薄くなった、人間の声。
ナナセは、責めなかった。
「分かった。なら、あなたは今回は待機」
「……」
「無理に外せとは言わない。でも、自分の仮面を外せない人は、他人の仮面に触る資格はない」
アヤメは何も言わなかった。
玲央は、胸の奥が少しざわつくのを感じた。
それは勝利感ではなかった。
むしろ、不快な共感だった。
ウィッグを外すだけ。
ただそれだけのことが、できない。
玲央には分かってしまう。
だから、余計に腹立たしい。
「南港修復室には、俺が行く」
玲央が言った。
ナナセは頷く。
「ただし、今日は行かない。まずは情報」
「いつ」
「明日以降」
「遅い」
「早すぎると読まれる」
ナナセは、机の上の欠片を見た。
「白い星の欠片は、ここに置く」
アヤメが反応する。
「それは困る」
「持って逃げるより安全」
「あなたたちを信用していない」
「こっちも同じ。でも、ここに置けば三人とも戻ってくる理由になる」
ナナセは、鍵付きの小さな金属箱を出した。
「箱に入れる。鍵は三つに分ける」
「三つ?」
「本鍵は私。番号は玲央。箱の場所はアヤメさん。三人そろわないと開けられない」
玲央が眉を上げた。
「面倒だな」
「面倒だからいい。裏切りにくい」
アヤメは、ナナセを見た。
「あなた、本当に怪盗じゃないの?」
「違う」
「向いているわよ」
「最悪の評価をありがとう」
ナナセは欠片を箱に入れた。
金属音が、小さく響いた。
蓋が閉まる。
白い星の欠片は、三人の共犯関係の中心になった。
玲央は、その音を聞きながら思った。
もう戻れない。
昨夜、ホテルでアヤメに部品を奪われたときから。
いや、父の手帳を開いたときから。
あるいは、初めて女の姿で盗みに入った夜から。
少しずつ、戻れない場所へ進んでいたのだ。
*
その日の夕方。
御影宗一郎は、財団本部の地下にいた。
一般の来客が入ることのない保管区画。温度と湿度が管理された部屋。無機質な照明。分厚い扉。監視カメラ。棚に並ぶ箱。
御影は、白い手袋をはめた職員の前に立っていた。
「緋の冠を移しなさい」
職員が顔を上げる。
「どちらへ」
「南港修復室から、第四保管庫へ」
「警察に動きを見られる可能性が」
「だから今日中に移す」
「承知しました」
御影は、棚の奥に置かれた赤い箱を見た。
緋の冠。
それは王冠ではない。小さな髪飾りに近い宝飾品だ。だが、そこに隠された部品は、御影にとって宝石以上の価値がある。
白い星の欠片は奪われた。
誰が持っているかはまだ確定していない。
だが、次に狙われるものは分かる。
黒瀬暁人の手帳。
それが息子の手に渡っているなら、いずれ緋の冠へ辿り着く。
御影は、静かに言った。
「黒瀬玲央は、生かして捕らえなさい」
「月城アヤメは」
御影の目が冷えた。
「あれは、必要ない」
「処分しますか」
「状況による」
御影は、白い手袋を外した。
「ただし、二人のどちらかが硝子の女神に近づく前に、必ず止めなさい」
「はい」
地下保管区画の扉が閉まる。
その音は、棺の蓋が閉じる音に似ていた。
*
夜。
作業部屋には、三人がまだいた。
玲央は、ナナセに用意された地味な男性用衣装を着ていた。作業会社の事務担当にも、施設点検の補助員にも見える。顔は大きく変えていない。ただ、髪型、眼鏡、眉の角度、姿勢を変えている。黒瀬玲央に近いが、黒瀬玲央ではない男。
鏡の中の人物は、玲央にとって奇妙だった。
女装よりも落ち着かない。
自分に近いからこそ、嘘の境目が見えにくい。
ナナセが背後から言った。
「名前」
「瀬尾圭一」
「年齢」
「二十九」
「職業」
「設備点検会社の現場補助。正社員ではなく契約。人の目を見るのが少し苦手。説明を求められると早口になるが、専門外のことはすぐ担当者に振る」
「好きなもの」
「缶コーヒー。古い腕時計。人の少ない駅」
「嫌いなもの」
「大きな声の上司。急な予定変更。湿った靴下」
ナナセは頷いた。
「いい。生活感がある」
アヤメが横から言った。
「湿った靴下って必要?」
「必要」
ナナセが即答する。
「人間は、格好いい設定より、くだらない不快感で本物に見える」
アヤメは感心したように笑った。
「やっぱり、あなた面白いわ」
「あなたに言われると不安」
玲央は、鏡の中の瀬尾圭一を見た。
白河レイカのような華はない。
佐伯真理のような曖昧さもない。
地味で、弱く、どこか頼りない男。
だが、この人物は崩れに強い。
汗をかいてもいい。眼鏡がずれてもいい。髪が乱れても、服が少し汚れてもいい。むしろ、そのほうが自然だ。
完璧でない人物。
それを演じることが、今の玲央には難しかった。
「玲央」
ナナセが言った。
「これができれば、あなたは少し強くなる」
「変装としてか」
「人間として」
玲央は答えなかった。
アヤメは椅子に座り、黒髪のウィッグを押さえている。まだ外していない。だが、先ほどから何度か、指が根元に触れては離れていた。
外そうとしている。
できない。
その繰り返し。
玲央は、それを見ないふりをした。
自分が見られたくないものは、他人も見られたくない。
その程度の礼儀は、玲央にもあった。
そのとき、ナナセの端末が震えた。
彼女は画面を見て、表情を変えた。
「まずい」
「何だ」
玲央が聞く。
「御影財団の保管品移送情報。南港修復室から、何かが今夜動く」
「緋の冠か」
「可能性が高い」
アヤメが立ち上がった。
「行く」
ナナセが止める。
「待って。これは罠かもしれない」
「でも、動かなければ緋の冠を見失う」
玲央は鏡を見た。
瀬尾圭一。
まだ完成していない。
だが、行くしかない。
「俺が行く」
ナナセは、しばらく玲央を見た。
そして言った。
「条件。盗らない。追わない。確認だけ」
「状況による」
「その返事は却下」
「……確認だけ」
「よし」
アヤメが言った。
「私は?」
ナナセは見る。
「待機」
「嫌」
「髪を外せないなら待機」
アヤメは言葉を失った。
玲央は、工具用の鞄を持った。中身は、見た目だけなら点検道具に見える。実際には、変装の補修品、最低限の連絡道具、応急用品が入っている。盗みの道具ではない。今夜の目的は、確認だ。
部屋を出る前、玲央はアヤメに言った。
「欠片を持って逃げるなよ」
「箱の中でしょう」
「場所を知っている」
「あなたが戻る理由をなくすほど、私は優しくないわ」
「意味が分からない」
「分からなくていい」
アヤメは、少しだけ笑った。
だが、その笑みには昨夜の棘がなかった。
玲央は扉へ向かった。
ナナセが背後から声をかける。
「玲央」
「何だ」
「瀬尾圭一」
玲央は一瞬遅れて振り返る。
ナナセは静かに言った。
「今夜、あなたは玲央じゃない。レオナでもない。瀬尾圭一。崩れてもいい人」
玲央は、短く頷いた。
「分かった」
扉が閉まる。
廊下へ出ると、夜の空気が冷たかった。
玲央は歩き出した。
ヒールではない靴音が、古い階段に響く。女の歩幅でも、怪盗の足取りでもない。少し猫背で、少し疲れた、地味な男の歩き方。
黒瀬玲央に近い男。
だからこそ、遠い男。
その仮面を被って、玲央は夜へ向かった。
作業部屋に残されたナナセは、扉を見つめていた。
アヤメは、椅子に座ったまま、長い髪の根元に指をかけている。
今度は、手を離さなかった。
数秒。
十数秒。
やがて、小さな音がした。
固定ピンが外れる音。
ナナセは振り返らなかった。
アヤメが、自分の手でウィッグを外す気配だけがした。
部屋の中に、長い沈黙が落ちる。
ナナセは、見ないまま言った。
「置く場所は、右の棚」
アヤメの声が、少し低く返ってきた。
「見ないの?」
「見られたくないでしょ」
「……優しいのね」
「違う。職人の礼儀」
アヤメは小さく笑った。
その笑いは、初めて女怪盗アヤメのものではなかった。
作業灯の下で、黒い長髪のウィッグが棚に置かれる。
仮面が一つ、静かに外された。
だが、その素顔を知る者は、まだ誰もいない。
*
同じころ。
氷見沢咲良は、南港方面へ向かう車の中にいた。
森塚が運転している。後部座席には資料の入ったファイル。咲良の手元には、御影財団関連施設の一覧がある。
「南港修復室、現在も稼働しているようです」
森塚が言った。
「表向きは?」
「美術品修復と保管。財団の関連会社が管理しています。ただ、今夜、非公開の移送車が出る可能性があります」
「情報源は」
「税関関係の知人から、財団名義の特殊輸送申請が出ていると」
「対象物は」
「記載なし。文化財扱いではなく、精密保管物扱いです」
咲良は窓の外を見た。
南港方面の道路は、夜でも物流車両が多い。倉庫、保管庫、修復施設。隠す場所には困らない。御影のような人間にとっては、表の美術館よりも、こうした中間地点のほうが都合がいい。
そして、怪盗もそれを嗅ぎつける。
「黒瀬玲央は来ると思いますか」
森塚が尋ねた。
「来る」
「女装で?」
咲良は少し考えた。
「分からない」
「分からない?」
「昨夜までの彼なら、女性変装で来た。でも、二度崩された。アヤメにも、こちらにも。協力者が優秀なら、次は変えてくる」
「男性のまま?」
「男性のまま、というより、別の男になる」
森塚は少し驚いたようだった。
「そんなことまで?」
「変装犯は、こちらが見たいものを見せる。女装怪盗だと思わせたあと、地味な男で来る。十分あり得る」
咲良は、端末に映る黒瀬玲央の写真を見た。
この男は、女になることで逃げてきた。
ならば、次は男で来るかもしれない。
逃げるためではなく、こちらの先入観を逆手に取るために。
咲良は呟いた。
「仮面を変えるだけでは、逃がさない」
車は、南港修復室へ向かって走り続けた。
夜の道路の先で、いくつもの思惑が同じ場所へ集まり始めていた。
白い星の次は、緋の冠。
玲央は父の真相を追う。
アヤメは仮面を一つ外す。
ナナセは共犯者として衣装部屋に残る。
咲良は靴跡を追う。
御影は罪を移す。
誰も、まだ知らなかった。
次の夜、緋の冠をめぐる移送現場で、怪盗レオナという名前そのものが、一度死ぬことになる。




