第2話 刑事、硝子の靴跡を追う
氷見沢咲良は、ホテルのロビーに残された雨の匂いを吸い込んだ。
深夜零時を過ぎたグラン・ミラージュの一階ロビーは、数時間前の華やぎが嘘のように静まり返っていた。大理石の床は磨かれ、散った花びらも、落とされたグラスの破片も、スタッフの手で片づけられている。だが、事件の匂いは消えていない。
人が嘘をついた場所には、必ず何かが残る。
咲良はそう考えていた。
指紋や足跡だけではない。視線の向き。会話の間。手袋の皺。歩幅の乱れ。衣服の不自然な張り。触れられたときの反応。本人が隠したつもりの癖。
それらは、証拠として提出できないことも多い。
けれど、捜査の入口にはなる。
「氷見沢さん」
背後から若い刑事が声をかけた。
捜査二課の後輩、森塚亮だった。まだ二十代後半で、スーツの着方に少し学生めいた硬さが残っている。だが、資料整理と映像確認の速さは優秀だった。
「会場内の監視映像、ホテル側から提出されました。展示ケース周辺、廊下、ロビー、車寄せまで一通りあります。ただ、スタッフ通路の一部は死角があります」
「分かった。赤いドレスの女は?」
「確認中です。招待客名簿には該当なし。ホテル側も、誰の同伴者か把握できていません」
「黒いドレスの女は?」
「白河レイカ名義で受付を通っています。招待状もありました。ですが、財団側の紹介者欄が曖昧です。事務局は『理事長周辺の招待客だと思った』と」
咲良は、薄く笑った。
「思った、ね」
「はい。御影財団側もホテル側も、互いに相手の確認だと思い込んだようです」
「典型的な穴ね」
咲良はロビーの中央に立ち、先ほど白河レイカが歩いた動線を思い返した。
黒いドレスの女。
スカーフで髪を隠した女。
体調を崩したように見せ、声を弱め、警察官からの接触を最低限に抑えた女。
白河レイカ。
おそらく偽名。
咲良は、最初に彼女を見た瞬間から違和感を覚えていた。
美しすぎたわけではない。目立ちすぎたわけでもない。むしろ逆だった。会場に溶け込みすぎていた。富裕層の未亡人という設定に、必要なものだけが置かれていた。黒いドレス、真珠のイヤリング、抑えた声、控えめな視線、過去に触れられたときの沈黙。
出来すぎていた。
現実の人間は、もっと余計なものを持っている。癖、好み、無駄な言葉、場違いな反応。白河レイカには、それが薄かった。
まるで誰かが「未亡人らしさ」を組み立てたようだった。
「森塚」
「はい」
「白河レイカの入館から退館まで、映像を時系列で並べて。顔認証には期待しない。歩行、手の動き、首の振り方、会話時の距離を見たい」
「分かりました」
「赤いドレスの女も同じ。二人が接触した場面は、角度違いで全部」
「了解です」
森塚はタブレットを操作しながら頷いた。
咲良は展示会場へ戻った。
中央ケースには、すでに「アルビオンの星」はなかった。展示は中止され、宝石は財団側の保管区画へ移されている。正確には、盗まれたわけではない。宝石そのものは無事だった。
だが、台座の一部が欠けていた。
財団側は、それを「装飾部品の脱落」と説明した。
咲良は信じていなかった。
展示ケースの中で、偶然、装飾部品だけが脱落する。しかも、その直前に正体不明の二人の女が接触している。
偶然として処理するには、都合がよすぎる。
ケースの前には鑑識がいた。白い手袋をした職員が、台座の写真を撮っている。
「どうですか」
咲良が尋ねると、鑑識員の一人が顔を上げた。
「ケース自体に大きな損傷はありません。無理にこじ開けた形跡もなし。台座の縁に小さな欠落があります。ただ、財団側が『展示前から緩んでいた可能性がある』と」
「都合のいい可能性ですね」
「同感です」
鑑識員は声を落とした。
「あと、ケース周辺から微量の化粧粉らしきものが出ています。展示客のものかもしれませんが、場所が少し気になります」
「どこですか」
鑑識員は、ケース下部の縁を指した。
咲良はしゃがんで見た。
展示ケースの下、招待客が普通に見る位置よりも低い場所。そこに化粧粉が付着していたという。誰かが顔を近づけたのか。あるいは、接触時に落ちたのか。
「色は?」
「薄いベージュ系です。通常のファンデーションに近いですが、一般的な客の顔から落ちる場所としては低い」
「手に付いていた可能性は?」
「あります。手袋越しに付着した可能性も」
咲良は、白河レイカの白い手袋を思い出した。
外すよう求めたとき、彼女は即座に拒否した。
手荒れがひどいから。
嘘としては悪くない。女性に手袋を外せと迫ることへの社会的な抵抗も利用している。咲良がその場で強制できないことを、あの女は分かっていた。
いや、あの女。
咲良はそこで思考を止めた。
まだ女と決まったわけではない。
むしろ、咲良の中では、別の仮説が形になりつつあった。
「氷見沢さん」
森塚が駆け寄ってきた。
「映像、まず該当部分だけ確認できます」
咲良はタブレットを受け取った。
画面には、展示会場の映像が映っている。御影宗一郎が演壇で挨拶をしている場面。その間、黒いドレスの白河レイカが中央ケースへ近づく。別方向から、赤いドレスの女が近づく。
二人は接触した。
一見すれば、軽くぶつかっただけだ。
だが、咲良は映像を止めた。
「ここ」
黒いドレスの女の肩が、ほんのわずかに上がっている。赤いドレスの女の手が、黒髪の後ろへ伸びている。手の動きは一瞬で、普通なら見逃す。だが、黒いドレスの女の首の反応が不自然だった。
髪を触られた女性の反応ではない。
もっと切迫している。
頭部そのものを押さえられた人間の反応だ。
「ウィッグですね」
森塚が言った。
咲良は目を細めた。
「断定はまだ早い。でも、可能性は高い」
映像を進める。
赤いドレスの女が離れる。黒いドレスの女は、髪を耳にかける仕草で後頭部を押さえている。自然に見せているが、動きの目的が髪を整えることではなく、固定位置の修正に見える。
「この赤い女も、分かって触っていますね」
「そう。偶然ではない」
「仲間ですか?」
「違うと思う」
咲良は即答した。
森塚が意外そうに見た。
「なぜです?」
「接触の直後、黒い女の呼吸が変わっている。仲間同士の合図ではなく、妨害された反応。それに、赤い女は去る前に一瞬だけ笑っている」
「挑発ですか」
「たぶんね」
咲良は映像を巻き戻した。
赤いドレスの女。
月城アヤメと名乗ったらしいが、それも偽名だろう。
背筋の伸ばし方、顎の角度、指の使い方。人に見られることを前提とした所作。だが、華やかに見せる動作の中に、警戒を解かない硬さがある。
この女もまた、作られている。
咲良は、画面を見つめたまま言った。
「二人とも、招待客を演じている」
「二人とも変装犯ということですか」
「少なくとも、普通の招待客ではない」
「では、怪盗レオナはどちらですか」
咲良は答えなかった。
怪盗レオナ。
咲良が勝手にそう呼んでいるだけの犯人像だった。
ここ半年、複数の美術品関連事件で、同一人物と思われる不審な女性が現れている。若い女性、老婦人、秘書、未亡人、販売員。目撃証言の人物像は毎回違う。年齢も服装も声も違う。普通なら別人と判断される。
だが、咲良は共通点を見つけていた。
歩行時、左足の着地がわずかに浅いこと。
緊張時、左手の親指を内側へ折ること。
そして、相手から距離を詰められた瞬間、肩ではなく首を守るように動くこと。
顔ではない。
名前でもない。
癖が同じだった。
怪盗レオナは、おそらく実在する。
ただし、それが女かどうかは、まだ分からない。
「白河レイカの映像、退館まで見せて」
咲良が言うと、森塚は別の映像を開いた。
スタッフ通路付近。
黒いドレスの女が、咲良と会話している。映像には音声がない。咲良は、自分自身の姿を画面越しに見た。そこに映る自分は、いつも通り硬い顔をしている。
白河レイカは、見事だった。
会話中、表情を崩さない。質問に即答しすぎた場面はあるが、すぐに補正している。体調不良を装ってからの切り替えも速い。あの短時間で、未亡人から病み上がりの招待客へ役をずらしている。
相当な訓練を積んでいる。
咲良は映像の一部を拡大した。
白河レイカの首元。
黒い髪がわずかに浮いている。スカーフで隠す前の場面では、後頭部の線に違和感がある。
「ウィッグの可能性がさらに高いですね」
森塚が言った。
「それだけじゃない」
咲良は画面を指した。
「ここ。腰の位置」
「腰ですか?」
「歩くとき、布の揺れ方と体の動きが一致していない。体型を作っている可能性がある」
「補正具ですか」
「胸、腰、姿勢。全部かもしれない」
森塚は少し困惑した顔をした。
「そこまでやりますか?」
「やる人間はやる。変装は顔だけじゃない。顔を変えても、体の動きが本人のままなら見破られる。逆に、体の使い方まで変えれば、顔が多少似ていても別人に見える」
「でも、そこまでして盗む理由は何でしょう」
「盗むためだけとは限らない」
咲良は、台座の欠落部分を見た。
宝石は無事だった。
盗まれたのは、宝石ではなく、台座の一部。
普通の怪盗なら、主役である宝石を狙う。だが、今夜の二人は違った。展示の価値ではなく、展示に隠された何かを狙っていた。
つまり、目的は金ではない。
「御影財団の資料を洗って。アルビオンの星の来歴、入手経路、修復履歴、関係した鑑定士や修復師。五年前まで遡って」
「五年前ですか」
「五年前」
咲良は短く言った。
白河レイカとの会話の中で、自分は一つの名前を投げた。
怪盗レオナ。
そして、彼女は止まらなかった。
だが、その前に、別の場面で名前を聞いたとき、明らかに反応していた。咲良が直接見たわけではない。映像上の小さな変化だ。赤いドレスの女と会話していた瞬間、白河レイカの呼吸が止まった。
あの女は、何かを聞かされた。
その何かは、おそらく事件の核心に近い。
「氷見沢さん」
森塚が資料をめくりながら言った。
「御影財団の過去の修復協力者に、黒瀬暁人という人物がいます。五年前に失踪扱い。美術品修復師です」
咲良は、森塚を見た。
「続けて」
「当時、御影財団の所蔵品調査に関わっていたようです。ただ、財団の公式記録では途中辞退。理由は体調不良とされています」
「失踪の時期は?」
「調査終了直前です」
「家族は?」
「息子が一人。黒瀬玲央。現在二十六歳。職業は……表向きはフリーの舞台関係スタッフとなっていますが、近年の収入記録が不自然に薄いです」
咲良は目を細めた。
舞台関係。
衣装、発声、立ち振る舞い、演技。
変装犯の背景としては、十分すぎる。
「黒瀬玲央の写真は」
「出します」
森塚が端末を操作し、運転免許証の写真らしき画像を表示した。
黒髪の男。細い輪郭。目元は鋭いが、表情は乏しい。写真だけでは、会場にいた白河レイカとは結びつきにくい。
だが、咲良は顔を見ていなかった。
首の角度。
肩の置き方。
左手の指。
「この男を調べて」
「任意ですか?」
「まずは周辺から。勤務先、交友関係、衣装関係の取引先。直接当たるのはまだ早い」
「泳がせますか」
「泳がせるというより、こちらがまだ水の深さを知らない」
咲良は端末を返した。
「赤いドレスの女も調べて。月城アヤメの名義は偽名だろうけど、会場での移動経路、車寄せ、防犯カメラ、タクシー、全部」
「了解です」
森塚が去った後、咲良は展示ケースの前に立った。
アルビオンの星。
白い星。
名前だけは美しい。
だが、今夜この宝石の周りに集まった人間は、誰一人として宝石そのものを見ていなかったように思えた。
御影は所有物として見ていた。
赤いドレスの女は標的として見ていた。
白河レイカは手がかりとして見ていた。
そして咲良は、事件として見ている。
本当に宝石を宝石として見ていたのは、会場の招待客だけだったのかもしれない。
咲良は自分の手を見た。
拳が少し固くなっていた。
また、変装犯だ。
過去の記憶が、喉の奥に上がってくる。
咲良はそれを押し戻した。
今は、感傷に浸る時間ではない。
*
黒瀬玲央は、朝方の工房で椅子に沈んでいた。
柊ナナセの工房は、昼と夜の区別が曖昧な場所だった。窓には厚いカーテンが引かれ、壁には衣装の型紙、布見本、ウィッグのスタンド、靴の箱が並んでいる。作業台には、昨夜使った化粧道具が広げられていた。
玲央は、白河レイカの残骸に囲まれていた。
外した黒髪のウィッグ。片方だけ曲がった固定ピン。白い手袋。ドレス。補正具。コルセット。胸元と腰の線を作るためのパッド類。それらは人の形を失うと、急に無言の物体に戻る。
さっきまで自分の体の一部だったものが、机の上に置かれている。
玲央は、その光景が嫌いだった。
変装中は、すべてが意味を持っている。胸元の線も、腰の厚みも、ウィッグの重さも、コルセットの圧迫も、声の置き方も、すべてが一人の人物を成立させるために働く。
だが、外した瞬間、それはただの道具になる。
すると、自分が何だったのか分からなくなる。
「で?」
ナナセは作業台の向こうで、曲がったピンを摘まんでいた。
「説明して」
「失敗した」
「見れば分かる」
「台座の部品を取られた」
「誰に」
「月城アヤメ」
「誰、それ」
「たぶん偽名。赤いドレスの女。怪盗だ」
「同業者?」
「そうだと思う」
「思う、じゃなくて」
ナナセはピンを机に置いた。
「その人、あなたのウィッグに触ったんでしょ。固定が一本外れてた。メイクも頬のところが崩れてた。襟元に相手の香水が残ってる。かなり近い距離でやり合ったはず」
玲央は答えなかった。
ナナセは、玲央の沈黙を肯定と受け取った。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「ない」
「補正具の固定部、少し歪んでる。走った?」
「少し」
「少しでこうはならない」
玲央は、ようやく顔を上げた。
「刑事に追われた」
「氷見沢咲良?」
「ああ」
「最悪」
「分かってる」
「分かってない。あなた、分かってる顔をして、だいたい分かってない」
ナナセは、ドレスをハンガーに掛けながら言った。
「咲良さんは普通の刑事じゃない。変装の見破り方を知ってる。顔じゃなくて、動きとか、服の歪みとか、そういうところを見る人でしょ」
「髪の重心を見られた」
「ほら」
ナナセは深くため息をついた。
「だから言った。あの会場は危ないって」
「行く必要があった」
「それで手がかりを奪われたなら、必要があったとは言いにくいね」
玲央は黙った。
その通りだった。
反論できない。
ナナセは、玲央を責めるだけではなかった。むしろ責め方は淡々としている。だからこそ刺さる。感情的に怒鳴られるより、ずっと逃げ場がない。
「月城アヤメは、父さんの名前を知っていた」
玲央が言うと、ナナセの手が止まった。
「黒瀬暁人さんの?」
「ああ」
「どこまで?」
「御影財団、五年前の鑑定記録、白い星。そのあたりまでは知っている」
「それ、あなたを誘ってるんじゃない?」
「だろうな」
「乗るの?」
「乗るしかない」
「そう言うと思った」
ナナセは椅子に座り、玲央を真正面から見た。
「でも、次からは条件を変える」
「条件?」
「私の作った衣装と補正具を、無理に使い潰さないこと。逃げる前提の仕事には、それ用の調整がいる。昨夜のドレスは社交用。走るためのものじゃない」
「分かった」
「あと、精神的に崩れた状態で変装しないこと」
玲央は目をそらした。
「崩れてない」
「崩れてる。ウィッグを取られかけただけで、あなたは玲央に戻った。白河レイカを維持できなかった」
「相手が悪かった」
「それもある。でも、根本は別。あなたは変装が崩れることを、正体がバレること以上に怖がってる」
玲央は、作業台の上の黒いウィッグを見た。
昨夜、アヤメに触れられた瞬間、体が固まった。
捕まる恐怖ではない。
盗みが失敗する恐怖でもない。
自分が作り上げた人物が、外側から壊される恐怖だった。
白河レイカが死ぬ。
その瞬間、黒瀬玲央が露出する。
それが怖かった。
「変装は技術だよ」
ナナセは言った。
「でも、あなたにとっては避難場所になってる。そこに逃げ込むのは、たぶん楽なんだと思う。でも、逃げ場所が壊されたとき、あなた自身が立っていられないなら、それは危ない」
「説教か」
「警告」
ナナセは短く返した。
玲央は笑おうとしたが、笑えなかった。
端末が震えた。
昨夜の差出人不明のメッセージと同じ番号だった。
玲央は画面を開く。
――白い星の欠片を返してほしければ、今夜二十二時、旧湾岸倉庫群へ。ひとりで。
ナナセが横から画面を覗いた。
「罠」
「だろうな」
「行くの?」
「行く」
「即答しないで」
「悩んでも同じだ」
「同じじゃない」
ナナセの声が少し強くなった。
「ひとりで来いって書いてある時点で、相手の条件に乗ってる。相手はあなたの正体に近いところまで来てる。咲良さんも動いてる。御影財団も何か隠してる。今、あなたは三方向から狙われてる」
「だから、先に動く」
「違う。だから、考えて動く」
ナナセは立ち上がり、壁に掛けてある別の衣装カバーを手に取った。
「行くなら、白河レイカは使わない」
「当然だ」
「派手な女もだめ。相手はあなたが女性変装で来ることを読んでる。逆に、地味すぎる変装も咲良さんに見られたら癖が出る」
「なら?」
「今夜は、女に見えることより、人物として破綻しないことを優先する」
ナナセは衣装カバーを開けた。
中に入っていたのは、灰色のスーツだった。地味な女性事務員のようにも、現場管理会社の担当者のようにも見える。スカートではなく、動きやすいパンツ型。髪は短めのウィッグ。補正も最小限。
「胸も腰も作り込みすぎない。コルセットも軽いものにする。声も高くしすぎない。三十代前半の、疲れた物流会社の事務担当。名前は……」
「佐伯真理」
玲央が言った。
ナナセは片眉を上げた。
「もう考えてた?」
「ああ」
「こういうときだけ準備がいい」
「褒めてるのか」
「呆れてる」
玲央は、灰色のスーツを見た。
白河レイカとは対照的だった。
華やかさはない。香水も不要。宝飾展の招待客のように見られる必要はない。むしろ、誰にも覚えられないことが重要な人物像。
ただし、地味な変装は難しい。
華やかな変装は、見る者の目を装飾に引きつけられる。だが、地味な変装は、動作の粗がそのまま出る。顔を作るより、生活感を作る必要がある。
「やれる?」
ナナセが尋ねた。
玲央は短く答えた。
「やる」
「違う。やれるか聞いてる」
玲央は少し黙った。
そして言った。
「今のままだと、危ない」
「分かってるならいい」
「だから、調整する」
ナナセは頷いた。
「今から三時間寝て。起きたら、歩き方から作り直す」
「寝られると思うか」
「寝て。寝不足で演技すると、まばたきが増える」
玲央は反論しかけて、やめた。
ナナセの言うことは、たいてい正しい。
玲央はソファへ移動し、横になった。目を閉じる。
だが、眠りはすぐには来なかった。
赤いドレスの女の指が、ウィッグの固定ピンに触れた感触が残っている。
咲良の声が、耳に残っている。
――あなた、何かを隠していますね。
隠している。
あまりにも多くのものを。
父のこと。盗みのこと。変装のこと。自分の名前のこと。
そして、素顔で生きる自信がないこと。
玲央は目を閉じたまま、奥歯を噛んだ。
月城アヤメ。
あの女は、玲央の仮面の端を剥がした。
次に会えば、もっと深く剥がしに来る。
それでも行くしかない。
父の手がかりは、あの赤い手の中にある。
*
同じころ、御影宗一郎は財団本部の上階にいた。
壁一面の窓から、朝の東京湾が見える。昨夜の雨は上がり、雲の切れ目から薄い光が差していた。執務室には、高価な絵画と古い時計が飾られている。どれも本物だったが、どれも御影にとっては所有物にすぎなかった。
机の上には、昨夜の報告書が置かれている。
アルビオンの星、本体異常なし。
展示台座、装飾部品一部欠落。
招待客二名に不審な動き。
警察、監視映像提出を要求。
御影は報告書を読み終えると、ゆっくりと紙を閉じた。
「白河レイカ」
その名を口にする。
もちろん、偽名だろう。
黒いドレスの女。喪失をまとったような表情。だが、目だけが違った。あの目は、蒐集家の目ではない。失ったものを探している者の目だった。
そして、赤いドレスの女。
月城アヤメ。
こちらも偽名。
御影は、窓際に立つ秘書へ目を向けた。
「昨夜の二人を調べなさい」
「警察も動いています」
「だからこそ、先に調べる」
「承知しました」
「台座の欠片は?」
「まだ見つかっておりません」
御影の目が、わずかに冷えた。
「見つけなさい。あれは、ただの装飾ではない」
「はい」
秘書が下がる。
御影は一人になると、机の引き出しを開けた。中には古い写真が入っていた。五年前に撮られたもの。修復作業室で、白い手袋をした男が美術品を調べている。
黒瀬暁人。
御影は写真の男を見下ろした。
「死んだ者は、黙っていればいいものを」
呟きは、部屋の中に静かに落ちた。
だが、御影自身も分かっていた。
黒瀬暁人が本当に死んだとは、まだ確認されていない。
だから厄介なのだ。
あの男が残したものが、今になって動き出している。
白い星。
硝子の女神。
そして、昨夜現れた二人の怪盗。
御影は写真を引き出しに戻した。
窓の外では、湾岸の倉庫群が朝靄の向こうに沈んでいる。
古い倉庫群。
すでに役目を終えた場所。
だが、隠すには都合がいい場所。
御影は、静かに笑った。
*
夜二十一時四十分。
旧湾岸倉庫群には、海風が吹いていた。
古い鉄骨の骨組みが、暗い空を切り取っている。使われなくなった倉庫の壁には錆が浮き、剥がれた塗装が風に震えていた。遠くには、まだ稼働している港の光が見える。だが、この一帯だけは、都市の明るさから取り残されたように暗い。
玲央は、佐伯真理の姿で歩いていた。
灰色のパンツスーツ。短めのウィッグ。薄い化粧。低めのヒール。胸元や腰の補正は最低限で、体型を大きく変えるのではなく、線を曖昧にするために使っている。コルセットも軽い。呼吸はしやすいが、その分、姿勢は自分で制御しなければならない。
白河レイカのような華はない。
だからこそ、玲央は慎重に歩いた。
疲れた事務担当者。現場に慣れているが、荒事には慣れていない。夜の倉庫に呼び出され、不満と警戒を抱えている女。
そう見えるように。
耳には小型の通信機が入っていた。
ナナセの声が聞こえる。
「聞こえる?」
「聞こえる」
「声、少し玲央に戻ってる」
玲央は息を整えた。
「聞こえるわ」
「よし。今のほうがいい」
「周辺は?」
「遠隔で見られる範囲だけだけど、人影は少ない。けど、完全に安全とは言えない」
「アヤメは?」
「まだ確認できない」
玲央は倉庫の前で足を止めた。
指定された場所は、三号倉庫だった。シャッターは半分だけ開いている。中は暗い。海風が通り抜け、古い金属の匂いがした。
「入る」
「待って」
ナナセの声が鋭くなる。
「何かいる?」
「倉庫の裏手に車。ライトは消えてる。人数までは分からない」
「警察?」
「不明。御影側の可能性もある」
「分かった」
「玲央、無理しないで」
「佐伯真理よ」
「そういう返しはいいから」
玲央は小さく笑った。
そして、倉庫の中へ入った。
内部は広かった。天井は高く、古いコンテナや木箱が積まれている。中央だけが不自然に空いていた。そこに、赤いドレスの女が立っていた。
月城アヤメ。
昨夜と同じ顔。同じ余裕。
ただし、今夜は赤いドレスではなく、黒いロングコートを羽織っていた。髪は長く、艶やかに見える。倉庫の暗さの中でも、彼女の存在は妙に浮かび上がっていた。
「こんばんは、佐伯真理さん」
アヤメが言った。
玲央は表情を変えなかった。
「今夜はその名前で呼ぶのね」
「あなたがそういう顔をしているから」
「欠片を返して」
「せっかち」
「雑談をしに来たわけじゃない」
「その声、昨夜より落ち着いてる。地味な女も悪くないわね」
アヤメはゆっくり歩いてくる。
玲央は距離を保った。
「近づかないで」
「また髪を取られるのが怖い?」
「必要なら、先にあなたの髪を取る」
アヤメは楽しそうに笑った。
「いいわね。昨日より怪盗らしい」
「欠片は」
アヤメはコートの内側から、小さなケースを取り出した。透明なケースの中に、例の金属片が入っている。
玲央の視線が、それに吸い寄せられた。
「これが何か、分かっているの?」
「父の手帳に同じ印があった」
「黒瀬暁人」
アヤメがその名を口にした瞬間、玲央の中で警戒が一段上がった。
「どこでその名を知った」
「私も、御影に奪われたものがある」
「答えになってない」
「答えを全部もらえると思っているの?」
アヤメはケースを指先で弄んだ。
「これは、硝子の女神の在処を示す鍵の一部。正確には、鍵というより、記録媒体の断片に近い」
「記録媒体?」
「御影が盗品取引の証拠を隠すために使った仕掛け。その一部が、アルビオンの星の台座に組み込まれていた」
「父はそれを調べていたのか」
「たぶんね」
「たぶん?」
「私は黒瀬暁人本人に会ったことはない。でも、彼が御影の不正に気づいたことは知っている」
玲央は一歩近づいた。
「父はどこにいる」
アヤメの表情から笑みが消えた。
「それは、私も知りたい」
倉庫の中に、海風が吹き込んだ。
沈黙が落ちる。
玲央はアヤメの目を見た。
嘘をついているのか。本当なのか。
判断できない。
アヤメは、玲央よりも演技が深い。表情だけでは読めない。声も、呼吸も、隙が少ない。少なくとも、普通の嘘つきではない。
「なぜ私を呼んだ」
玲央が尋ねた。
「あなたが黒瀬暁人の息子だから」
玲央の呼吸が止まった。
通信機の向こうで、ナナセが息を呑む気配がした。
佐伯真理の顔が、崩れそうになる。
玲央は必死に押さえた。
「何のこと?」
「今さら遅いわ。昨夜、あなたは『俺』と言った。今日の変装も上手だけど、黒瀬玲央であることまでは消せていない」
アヤメは近づいてくる。
「あなたは女を演じるのが上手。でも、女でいることに慣れているわけじゃない。正体を隠すために、女という仮面を選んでいる」
「黙れ」
「図星?」
「欠片を渡せ」
「力ずくで?」
アヤメは、ケースを胸元に引いた。
「やってみる?」
玲央は動いた。
会話は終わりだった。
アヤメの手首を狙う。だが、アヤメは予想していたように身をかわす。二人は倉庫の中央で交錯した。玲央は昨夜の失敗を思い出し、頭部を守りすぎないよう意識する。アヤメはそこを見て笑った。
「学習したのね」
「あなたほど悪趣味じゃないだけ」
「怪盗は悪趣味なくらいがちょうどいい」
アヤメの手が伸びる。
またウィッグか。
玲央は反応した。
だが、今度の狙いは違った。
アヤメの指は、玲央の頬をかすめた。薄いメイクの一部が、手袋に移る。玲央は身を引いたが、頬の輪郭補正がわずかに崩れた。
アヤメは、指先についた化粧を見た。
「今日は薄いのね。剥がし甲斐がない」
「ふざけるな」
「ふざけてない。変装を暴くのは、怪盗同士の会話よ」
玲央は踏み込み、アヤメのコートの袖を掴んだ。
今度はアヤメが少しバランスを崩した。玲央はケースを奪おうとする。指が届く。だが、アヤメは身を捻り、玲央の短いウィッグの襟足に指をかけた。
強く引かれたわけではない。
だが、固定が外れた。
短い髪がずれ、玲央の地毛が一部見えた。
通信機の向こうで、ナナセが叫んだ。
「玲央、下がって!」
玲央は下がらなかった。
むしろ、アヤメの手を掴み返した。
そのまま、アヤメの長い黒髪へ手を伸ばす。
アヤメの目が、初めてわずかに開いた。
玲央の指が、アヤメの髪の根元に触れた。
自然な髪ではない。
ウィッグだ。
玲央は、それを確信した。
アヤメは即座に身を引いたが、遅かった。玲央の指に、黒い髪の一房が絡む。固定の一部が緩み、アヤメの髪がわずかに浮いた。
今度は、アヤメの顔から笑みが消えた。
「あなたも、同じじゃないか」
玲央は低く言った。
「女を演じている」
倉庫の空気が変わった。
アヤメの手が、ケースを握る。
玲央は、自分のずれたウィッグを押さえた。頬のメイクも崩れている。佐伯真理は、もう半分死んでいた。
だが、アヤメも同じだった。
完璧な女怪盗の髪が、わずかにずれている。
その下に何があるのか、まだ見えない。
けれど、玲央は知った。
月城アヤメもまた、仮面の人間だ。
「面白い」
アヤメが言った。
声が、ほんの少し低くなっていた。
「今のは、少し効いたわ」
「欠片を返せ」
「嫌よ」
「なら、取る」
「できる?」
二人が再び動こうとした瞬間だった。
倉庫の外で、車のドアが閉まる音がした。
玲央とアヤメは同時に動きを止めた。
足音。
一人ではない。
ナナセの声が通信機に入る。
「玲央、裏手の車から三人降りた。たぶん御影側。警察じゃない」
玲央はアヤメを見た。
「あなたの仲間?」
「違う」
「信じろと?」
「信じなくていい。でも、今は敵が増えた」
倉庫の入口に、男たちの影が現れた。
黒い服。無言。手には細長いライト。警察の動きではない。警備会社とも違う。もっと荒い。だが、目的ははっきりしている。
玲央とアヤメを捕らえること。
男の一人が言った。
「御影様がお呼びだ」
アヤメが舌打ちした。
「人気者ね、私たち」
「冗談を言っている場合か」
「冗談を言わないと、やってられないの」
男たちが近づいてくる。
玲央は、自分のウィッグを押さえ直した。もう完全には戻らない。頬のメイクも崩れている。補正も乱れ、佐伯真理の輪郭が壊れかけている。
だが、逃げるには十分だ。
アヤメも髪を押さえ、コートを翻した。
「一時休戦」
「勝手に決めるな」
「じゃあ、ここで一緒に捕まる?」
玲央は答えなかった。
答える代わりに、近くの木箱を蹴った。積まれていた古い梱包材が崩れ、男たちの足元を乱す。アヤメはその隙に横へ走る。玲央も反対側へ動いた。
倉庫内に怒号が響く。
ライトの光が走る。
玲央はコンテナの影に入り、呼吸を整えた。コルセットが軽いことが救いだった。昨夜の白河レイカなら、ここまで動けなかった。
「玲央、右奥に非常口みたいな扉」
ナナセの声。
「分かった」
玲央は走った。
途中、アヤメと一瞬並ぶ。
「欠片!」
「あとでね」
「今渡せ」
「逃げ切れたら考える」
男が前に回り込んだ。
玲央は足を止める。アヤメが横から男の注意を引く。その一瞬で、玲央は男の脇を抜けた。二人は非常口へ向かう。
だが、扉の前にも一人いた。
玲央は間に合わないと判断した。
アヤメが先に動いた。
彼女は男の腕をかわし、肩口で押し返す。動きが鋭い。ドレス姿では見えにくかった身体能力が、今ははっきり見えた。玲央は扉を押し開ける。
外の冷たい空気が流れ込む。
二人は倉庫の外へ出た。
海風。
錆びた階段。
暗い路地。
遠くに港の光。
「こっち」
アヤメが言った。
「命令するな」
「じゃあ、別々に逃げる?」
玲央は短く息を吐き、アヤメの後を追った。
背後で男たちの足音が迫る。
旧倉庫群の間を走る。玲央のウィッグはもうかなりずれていた。頬のメイクも落ち、佐伯真理の顔は崩れている。アヤメの髪も乱れていた。二人とも、完璧な女ではいられなかった。
それでも、走るしかない。
角を曲がった先で、突然、強いライトが当たった。
「止まりなさい!」
玲央は目を細めた。
聞き覚えのある声。
氷見沢咲良だった。
最悪が、さらに重なった。
咲良は数人の刑事を連れていた。銃を向けているわけではない。だが、完全にこちらを警戒している。背後には御影側の男たち。前方には警察。
逃げ場が狭まる。
咲良の視線が、玲央の顔に止まった。
崩れたメイク。
ずれた短いウィッグ。
灰色のスーツ。
咲良の目が、次にアヤメを見る。
乱れた長い黒髪。
浮いたウィッグの根元。
黒いコートの下に隠された赤い衣装の名残。
咲良は一瞬で状況を理解したようだった。
「昨夜の黒いドレスと赤いドレス」
玲央は答えなかった。
アヤメも答えなかった。
咲良は言った。
「二人とも、その場を動かないで」
背後から御影側の男たちが迫る。
警察と男たちが鉢合わせる。
「あなたたちは?」
咲良が男たちを見る。
男たちは答えない。
沈黙。
その一瞬が、玲央とアヤメにとって唯一の隙だった。
アヤメが玲央の腕を掴んだ。
「走るわよ」
「触るな」
「文句はあと」
アヤメは、玲央を引いて横の細い通路へ飛び込んだ。咲良の声が飛ぶ。森塚らしき刑事が追おうとする。御影側の男たちも動く。現場は一気に混乱した。
玲央は、アヤメに腕を引かれながら走った。
途中で、玲央はアヤメの手を振りほどく。
「こっちだ」
今度は玲央が先に立つ。ナナセの指示が耳に届く。
「左、フェンスに切れ目。そこを抜ければ道路に出られる」
玲央は左へ曲がった。
フェンスの切れ目を抜ける。服が引っかかり、灰色のジャケットが裂けた。補正具の固定が少し緩む。ウィッグがさらにずれる。だが、止まらない。
アヤメも続く。
二人は道路へ出た。
そこには、一台の小型車が停まっていた。
ナナセだった。
運転席の窓が開く。
「早く!」
玲央は助手席へ飛び込む。アヤメも後部座席へ乗ろうとする。
玲央は振り返った。
「乗るな」
「置いていく気?」
「当然だ」
アヤメは笑った。
「欠片、いらないの?」
玲央は舌打ちした。
「乗れ」
アヤメが後部座席へ滑り込む。
ナナセは何か言いたげだったが、状況を優先した。車が発進する。倉庫群が後ろへ流れていく。遠くで咲良の声が聞こえた気がした。
玲央はシートに沈み、乱れたウィッグを外した。
灰色の短い髪が膝に落ちる。
頬のメイクも崩れ、鏡を見なくても佐伯真理が死んだことは分かった。
後部座席では、アヤメが長い黒髪を押さえていた。
玲央は振り返る。
「その髪も外したらどうだ」
「嫌よ」
「自分は人の変装を剥がすくせに」
「私はいいの」
「勝手だな」
「怪盗だから」
ナナセが運転しながら低い声で言った。
「後ろの人、誰」
「月城アヤメ」
「偽名でしょ」
「偽名だ」
アヤメが平然と答えた。
ナナセは一瞬だけバックミラーを見た。
「玲央、この人を工房には入れない」
「分かってる」
「あと、今すぐ降ろしたい」
「私も同感だ」
アヤメは後部座席で笑った。
「でも、降ろせない。これがあるから」
彼女は小さなケースを掲げた。
白い星の欠片。
玲央の視線が鋭くなる。
「渡せ」
「条件がある」
「まだ言うか」
「黒瀬玲央。あなた、私と組みなさい」
車内が静まり返った。
ナナセが、思わずブレーキを踏みかける。
玲央はアヤメを睨んだ。
「断る」
「早い」
「組む理由がない」
「あるわ。御影は私たち二人を狙っている。警察も動いている。あなたは父親の真相を知りたい。私は御影を潰したい。目的は違うけど、向いている方向は同じ」
「信用できない」
「信用なんていらない。利用すればいい」
「お前は私の変装を崩した」
「あなたも私の髪を掴んだ」
「まだ足りないくらいだ」
「いいわね。そういう目、嫌いじゃない」
玲央は、拳を握った。
ナナセが横から言った。
「玲央、乗らないで」
「分かってる」
「分かってない顔をしてる」
「してない」
「してる」
アヤメはケースを指先で回した。
「今すぐ答えなくていい。でも、これは預かっておく」
「ふざけるな」
「ふざけてない。あなたが私を追う理由を残しておくの」
「やっぱり降ろす」
玲央が身を乗り出した瞬間、後方からサイレンの音が聞こえた。
咲良たちだろう。
ナナセが舌打ちした。
「言い争いはあと。今は逃げる」
車は湾岸道路へ滑り込んだ。
夜の港が横に流れる。赤い警告灯が遠くで点滅している。玲央は助手席の窓に映る自分の顔を見た。メイクの崩れた男。いや、女装の崩れた怪盗。佐伯真理でも、白河レイカでもない。
黒瀬玲央が、そこにいた。
だが、後部座席の窓にも、もう一つ崩れた仮面が映っていた。
月城アヤメ。
長い髪を押さえたまま、涼しい顔で座っている。だが、その目の奥には、昨夜の余裕とは違う影があった。
彼女もまた、何かを隠している。
玲央は、それを見逃さなかった。
*
氷見沢咲良は、旧湾岸倉庫群の路上に立っていた。
逃げられた。
黒瀬玲央と思われる人物。
月城アヤメと名乗る人物。
そして、二人を回収した第三者。
全員を取り逃がした。
森塚が、悔しそうに戻ってくる。
「すみません。車両は見失いました」
「ナンバーは?」
「一部だけ。照会します」
「御影側の男たちは?」
「二人を確保しましたが、黙秘しています。身分証は偽造の疑いがあります」
咲良は倉庫の入口を見た。
そこには、争った痕跡が残っている。古い梱包材が崩れ、床には化粧粉のようなものが落ちていた。さらに、黒い繊維と、短いウィッグの毛らしきもの。
「鑑識を呼んで」
「はい」
「それと、御影財団に連絡。昨夜に続き、関係者と思われる人間が現場にいた。説明を求める」
「御影側は否定するでしょうね」
「否定させるために聞くの」
咲良は、倉庫の奥へ歩いた。
中央の床に、薄く足跡が残っている。雨上がりの湿気と倉庫内の埃が、靴底の跡を拾っていた。二種類。いや、三種類。
一つは、低めのヒール。歩幅が一定で、途中から乱れている。おそらく玲央。
一つは、細めの靴。動きが軽く、方向転換が鋭い。おそらくアヤメ。
もう一つは、男たちの靴跡。
咲良は、しゃがみ込んだ。
低めのヒールの足跡。
外見は女性用の靴だが、体重のかかり方が少し違う。つま先ではなく、足の外側に力が逃げている。慣れてはいるが、完全に自然ではない。
「硝子の靴跡、ね」
咲良は小さく呟いた。
森塚が聞き返す。
「何ですか?」
「何でもない」
咲良は立ち上がった。
黒瀬玲央。
月城アヤメ。
御影宗一郎。
黒瀬暁人。
線がつながり始めている。
だが、まだ全体は見えない。
見えるのは、仮面の端だけだ。
咲良は倉庫の出口へ向かった。
その途中、床に落ちている小さなものに気づいた。
細いピン。
ウィッグ用の固定ピンだった。昨夜、展示ケースの前で外れかけていたものと似ている。咲良は手袋をしたまま、それを証拠袋に入れさせた。
変装は、顔を隠す。
だが、崩れた変装は、本人以上に雄弁になる。
咲良は、夜の海風を浴びながら、遠くの道路を見た。
「次は逃がさない」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
黒瀬玲央にか。
月城アヤメにか。
それとも、過去に取り逃がした誰かにか。
答えは出なかった。
ただ、咲良の中で一つだけ確かなことがあった。
昨夜まで、怪盗レオナは輪郭のない影だった。
だが今夜、その影には名前がついた。
黒瀬玲央。
変装で女になり、盗みに入り、父の失踪を追う男。
そして、彼の前にはもう一人、同じように仮面を被った怪盗がいる。
事件は、単なる宝飾品盗難ではない。
五年前の失踪。
御影財団の闇。
硝子の女神。
白い星の欠片。
咲良は、証拠袋の中のピンを見た。
細く、小さく、頼りない。
けれど、仮面を留めていたものだ。
仮面は、必ずどこかから崩れる。
咲良はそう信じていた。
そして今夜、確かにその一部を見た。
硝子の靴跡は、まだ濡れた倉庫の床に残っている。
その跡を追えば、いつか素顔に辿り着く。
咲良は、夜明け前の倉庫街で、静かに捜査続行を命じた。




