第1話 白い手袋の女
黒瀬玲央は、鏡の中にいる女を見ていた。
その女は、黒い髪を低い位置で結い、耳元に真珠のイヤリングを垂らしている。肌は薄く整えられ、頬には血色を足しすぎない程度の紅が置かれていた。目元はきつくない。けれど、弱くもない。目尻をわずかに下げた化粧は、穏やかさと用心深さを同時に見せるためのものだった。
年齢は三十代半ば。夫を亡くして数年、遺産と孤独を持て余しながら、慈善事業と美術品の蒐集に慰めを見いだしている女。
今夜、玲央が演じる人物だった。
鏡台の前には、いくつもの道具が並んでいる。ファンデーション、口紅、アイシャドウ、輪郭を整えるためのパウダー。ウィッグ用のブラシ。細いピン。白い手袋。補正用のパッド。腰回りの線を調整するための下着。姿勢を固定するコルセット。
それらは、玲央にとって武器であり、鎧であり、逃げ道でもあった。
ナナセは、背後で腕を組んでいた。
「きつくない?」
「いつも通りだ」
玲央は低く答えた。いや、低く答えかけて、すぐに喉の奥で声を変えた。
「大丈夫よ」
鏡の中の女が、少しだけ微笑んだ。
柊ナナセは、その微笑みを見て、眉をひそめた。
「その顔、嫌い」
「ひどいな。今日の出来は悪くないだろ」
「出来が良すぎるから嫌なの」
ナナセは玲央の背中に回り、ウィッグの後頭部を指先で軽く押さえた。固定にずれはない。首筋のラインも自然に落ちている。玲央の地毛はすべて隠れ、耳のそばに流した後れ毛が、計算された無防備さを作っていた。
「あなた、鏡を見るとき、自分の顔じゃなくて、完成した変装のほうを見てる」
「変装を見るのは当然だ」
「違う。あなたは、黒瀬玲央が消えているかどうかを確認してる」
玲央は返事をしなかった。
ナナセは深く息を吐き、玲央の肩口を整えた。黒のドレスは、派手ではない。喪服に見えない程度に光沢があり、社交の場で沈みすぎない程度に品がある。鎖骨の見え方、肩の落ち方、袖の長さ。すべてが、今夜の役に合わせられていた。
玲央は立ち上がった。
コルセットが腹部を締め、歩幅を自然に小さくする。胸元と腰回りの補正は、ただ体型を変えるためだけではない。重心をずらし、肩の使い方を変え、歩き出す前の沈黙までも変える。玲央は一歩、二歩と歩いた。靴音は短く、硬すぎず、迷いすぎない。
「もう一度」
ナナセが言った。
玲央は部屋の入口まで歩き、振り返った。顔だけを向けるのではなく、肩を少し遅らせる。視線を合わせすぎない。相手が自分を見る時間を、半拍だけ長くする。
「こんばんは。御影様からご招待いただきました、白河レイカと申します」
声は女のものだった。
高いだけではない。細いだけでもない。上品な柔らかさの裏に、聞き返されることを許さない芯がある。玲央は、声を変えるとき、ただ音程を上げるのではなかった。息の量、言葉の置き方、語尾の消し方まで変える。だから、誰も気づかない。
誰も、とは言い切れない。
今夜の会場には、警察がいる。
それも、ただの警察ではない。警視庁捜査二課の氷見沢咲良。近年続く美術品盗難事件を追う刑事で、変装犯の分析を専門にしている女だった。
玲央は鏡に戻り、白い手袋をはめた。
「咲良さん、来るんだってね」
ナナセが言った。
「来るだろうな。御影財団が主催する宝飾展だ。警備も報道も厚い。警察が顔を出さないほうがおかしい」
「なら、やめたら?」
「それはできない」
「どうしても?」
「あの宝石が必要だ」
玲央は、鏡台の横に置かれた小さな写真立てを見た。そこには、若い男と少年が写っていた。男は穏やかに笑い、少年はぎこちなくピースをしている。撮影されたのは十年以上前。少年は玲央だった。男は、玲央の父だった。
黒瀬暁人。
美術品修復師。五年前、ある鑑定調査を最後に姿を消した。
世間では、海外へ逃げたとも、借金から身を隠したとも言われた。だが玲央は信じていなかった。父は逃げる人間ではない。少なくとも、何も言わずに玲央だけを残す人間ではなかった。
そして半年前、玲央は父の手帳を見つけた。
そこには、御影財団の名前と、今夜展示される宝石の名が記されていた。
“硝子の女神に至る鍵。白い星を追え。”
白い星。
それが、今夜の標的だった。
正式名は「アルビオンの星」。十九世紀の欧州で作られたとされる白色の宝石で、財団が海外のオークションを通じて入手したものだという。だが玲央は、その来歴が偽装されていると見ていた。宝石そのものより、宝石の台座に刻まれた小さな印が重要だった。
父が残した手帳に描かれていた印と、同じもの。
「玲央」
ナナセの声が、思考を引き戻した。
「盗む理由があるのは分かる。でも、盗めば盗むほど、あなたは戻れなくなる」
「もう戻る場所なんてない」
「それ、便利な言い訳だよ」
玲央は笑わなかった。
ナナセは鞄を差し出した。中には身分証、招待状、化粧直しの道具、緊急時の予備品が入っている。もちろん、すべて偽物だった。ただし、会場の人間が疑うほど粗いものではない。
「今回、派手なことはしないで」
「約束はできない」
「そこは、嘘でも『分かった』って言うところ」
「分かった」
「今のは嘘でしょ」
「君がそう言えと言った」
ナナセは呆れたように目を細めた。
「ほんと、口だけは達者」
「顔も声も達者だ」
「そういうところが嫌い」
「知ってる」
玲央は鞄を受け取り、部屋を出た。
古い雑居ビルの階段を下りるころには、黒瀬玲央の歩き方は消えていた。踵の着き方が変わる。視線の高さが変わる。人とすれ違うときの肩の引き方が変わる。
夜の街は、雨上がりだった。
路面にはネオンが滲み、タクシーのライトが伸びている。玲央は黒のコートを羽織り、ホテルへ向かった。今夜の会場は、湾岸地区に建つ高級ホテル「グラン・ミラージュ」。上層階の大ホールで、御影財団主催の宝飾展が開かれている。
入口には、報道陣と招待客が集まっていた。
玲央は車寄せでタクシーを降りると、まず立ち止まった。急がない。招待客は急がない。急ぐのはスタッフと警備員だけだ。白河レイカは、急ぐ必要のない女でなければならない。
ドアマンが傘を差し出した。
「いらっしゃいませ」
「ありがとう」
玲央は軽く会釈し、ロビーへ入った。
大理石の床。磨かれた柱。天井から下がる巨大な照明。香水と花と、わずかな雨の匂い。ピアノの生演奏が遠くから聞こえる。ロビーにいる者たちは、互いを値踏みしながら、値踏みしていない顔をしていた。
玲央は受付へ向かった。
受付の女性が、招待状を確認する。
「白河レイカ様ですね。お待ちしておりました」
「御影様によろしくお伝えください」
「かしこまりました」
玲央は微笑み、会場へ入った。
第一関門は通過した。
だが、本番はここからだった。
会場内には、展示ケースが円を描くように配置されていた。中央に最も大きなケースがあり、そこに「アルビオンの星」が収められている。透明な台座に載せられた白い宝石は、照明を受けて冷たく輝いていた。宝石というより、氷のかけらに近い。美しいが、温度がない。
玲央はシャンパンを受け取り、視線だけで会場を測った。
警備員は目立つ位置に四人。私服らしき人間が少なくとも三人。展示ケースのそばには財団職員。出入口付近にはホテル側のスタッフ。報道陣は決められた範囲から出られない。
その中に、一人だけ空気の違う女がいた。
パンツスーツ姿。髪は後ろでまとめ、化粧は薄い。招待客ではない。スタッフでもない。誰かと談笑するでもなく、展示品を見るでもなく、会場全体を見ている。
氷見沢咲良。
写真で見た通りの女だった。
玲央は視線を外した。見すぎてはいけない。怪しい者ほど、警察を見る。普通の招待客は、警察の存在など気にしない。
白河レイカは、まず宝石を見る。
玲央は中央のケースへ歩いた。
「美しいでしょう」
背後から声がした。
玲央はゆっくり振り返った。
白髪交じりの男が立っていた。穏やかな笑みを浮かべ、胸元には財団の徽章を着けている。御影宗一郎。御影財団の理事長であり、今夜の主催者だった。
「ええ。まるで、雪の中に閉じ込められた星のようです」
「詩的な表現をなさる」
「亡くなった夫が、宝石よりも、それにまつわる物語を好む人でしたので」
玲央は少し目を伏せた。
白河レイカは未亡人だ。その設定を、会話の中で自然に置く。相手に質問させるのではなく、相手が勝手に納得するだけの情報を落とす。
御影は、気の毒そうな表情を作った。
「それは……失礼いたしました」
「いいえ。昔の話です」
「今夜の展示が、少しでも慰めになればよいのですが」
「十分に」
玲央は微笑んだ。だが、胸の奥では別の感情が動いていた。
御影宗一郎。
この男が、父の失踪に関わっているのか。
証拠はない。だが、父の手帳に何度もこの名が出てくる以上、無関係とは考えにくい。玲央は男の手を見る。年齢のわりに爪が整っている。指輪は控えめだが高価。自分が文化人であることを演じる手だった。
「白河様は、こうした展示にはよく?」
「夫がいたころは。最近は、あまり」
「では、今夜お越しいただけて光栄です」
御影は玲央の目を見た。
一瞬、探るような光があった。
玲央は、それを受け流した。疑われているわけではない。御影は誰に対しても、こういう目をする男なのだろう。人を見るのではなく、価値を見る目。使えるか、使えないか。買えるか、売れるか。
不快だった。
そのとき、会場の端で小さなざわめきが起きた。
玲央は視線を向けない。白河レイカなら、すぐには反応しない。御影が先にそちらを見た。
「失礼。少し」
「どうぞ」
御影が離れた。
玲央はシャンパンを口元へ運ぶふりをしながら、会場の反射を見た。展示ケースのガラス、壁面の装飾、銀のトレー。直接見なくても、情報は拾える。
ざわめきの中心にいたのは、赤いドレスの女だった。
背が高い。長い黒髪を片側に流し、口元には余裕のある笑みを浮かべている。周囲の男たちは、彼女を見ていた。女たちも見ていた。ただ美しいからではない。彼女は、自分が見られることを知っている人間の立ち方をしていた。
玲央の指が、グラスの脚をわずかに強く握った。
誰だ。
招待客リストには、あの女に該当する人物はいなかったはずだ。
赤いドレスの女は、御影に近づき、親しげに挨拶した。御影は一瞬だけ戸惑ったように見えたが、すぐに笑みを作った。つまり、完全な部外者ではない。少なくとも、御影がその場で拒絶できない人物を演じている。
女は、玲央を見た。
ほんの一瞬。
だが、その視線は明らかに玲央を捉えていた。
玲央の背中に、冷たいものが走った。
あれは、ただの招待客ではない。
赤いドレスの女は、グラスを受け取ると、中央のケースへ歩いた。玲央の隣に立つ。香水は控えめで、甘さよりも木の香りに近い。
「きれいね」
女が言った。
「ええ」
「でも、こういうものは、ケースの中にあると少し退屈」
玲央は横目で女を見た。
「宝石は守られているから美しいのでは?」
「違うわ。奪われるかもしれないから、美しいのよ」
その言葉で、玲央は確信した。
同業者だ。
女は玲央の手元を見た。白い手袋。細く整えられた指先。玲央は動かない。
「白河レイカさん、だったかしら」
「そうですが」
「私は月城アヤメ」
その名も、招待客リストにはなかった。
「お会いできて嬉しいわ」
「初対面ですわね」
「そうね。顔を合わせるのは初めて」
顔を、合わせるのは。
玲央は声を落とした。
「何のご用でしょう」
「挨拶よ。今夜は、あなたと同じものを見に来たの」
「宝石を?」
「宝石の向こう側にあるものを」
玲央は表情を変えなかった。
月城アヤメは、笑った。
「緊張しないで。今夜は、あなたを邪魔しに来たわけじゃないの」
「では、何をしに?」
「見物」
「見物?」
「怪盗レオナがどれほどのものか」
その名を聞いた瞬間、玲央はグラスを落としそうになった。
怪盗レオナ。
警察も報道も、まだその名を知らない。玲央自身が内心で使っているだけの、仮の名だった。盗みに入るとき、女性の姿を使う自分を、玲央はそう呼んでいた。外に出したことはない。
なのに、この女は知っている。
「人違いでは?」
「そういう返し、嫌いじゃないわ」
月城アヤメはケースの中の宝石を見つめた。
「白い星。御影財団。五年前の鑑定記録。黒瀬暁人」
父の名前。
玲央の呼吸が、わずかに止まった。
そのわずかな変化を、アヤメは見逃さなかった。
「やっぱり」
玲央は、表情を保ったまま尋ねた。
「あなたは誰?」
「今は月城アヤメ。それ以上は、あなたが自分で調べなさい」
アヤメは一歩近づいた。周囲から見れば、二人の女性が親しげに囁き合っているだけに見える距離だった。
「今夜、あなたが盗めるかどうかで、私の態度を決めるわ」
「試験官のつもり?」
「ライバルのつもり」
その言葉を残し、アヤメは離れた。
玲央は追わなかった。追えば目立つ。今は、目的を優先すべきだ。
だが、計画はすでに変わっていた。
想定外の怪盗。咲良の存在。御影の視線。予定通りに進めばいい状況ではない。
それでも、玲央は引けなかった。
父の名を知る女が現れた以上、今夜の宝石には間違いなく何かがある。
玲央は会場を移動し、壁際の展示へ向かった。絵画の前で足を止める。隣にいた老紳士が、絵の来歴について話しかけてきた。玲央は相槌を打ちながら、時間を待った。
宝石展の途中には、御影の挨拶がある。
その数分間、招待客の視線は演壇へ集まる。警備も完全に展示から離れるわけではないが、人の流れは変わる。展示ケースの前にできる空白。それを利用する。
もちろん、実際にはそれだけで盗めるわけではない。今夜のケースは特別製で、警備も厳重だ。だが玲央の狙いは、宝石そのものをその場で完全に持ち去ることではない。
必要なのは、台座の刻印を確認すること。
そして可能なら、台座の一部に隠された情報を回収すること。
宝石は、象徴にすぎない。
やがて、会場の照明が少し落ちた。
御影宗一郎が演壇へ上がる。
「皆様、本日は御影財団主催『失われた星々の宝飾展』にお越しいただき、誠にありがとうございます」
拍手が起きた。
玲央も拍手した。白い手袋が、乾いた音を立てる。
御影の声はよく通った。文化財保護。次世代への継承。芸術の公共性。言葉は立派だった。だが玲央には、そのすべてが薄い膜のように聞こえた。美しい言葉ほど、裏に何かを隠せる。
玲央は少しずつ位置を変えた。
人の流れに逆らわない。誰かの死角に入るのではなく、誰から見ても自然な場所へ移動する。怪しい動きとは、隠れる動きだけではない。不自然に目立たない動きもまた怪しい。玲央は、招待客として自然に見える速度で、中央ケースへ近づいた。
咲良は、演壇ではなく会場を見ていた。
玲央は気づいていた。
あの刑事は、御影の挨拶など聞いていない。人を見ている。拍手のタイミング。視線の泳ぎ方。足の向き。誰が展示に意識を残しているか。
やりにくい相手だ。
玲央は、ケースの近くで足を止めた。ちょうど、老婦人がハンカチを落とした。玲央はそれを拾う。
「落とされましたよ」
「あら、ありがとう」
老婦人が微笑む。
玲央は微笑み返す。その動きの中で、ケースの下部を見た。
刻印。
あった。
台座の縁、装飾に紛れるように、小さな印が彫られている。父の手帳にあったものと同じだ。円の中に、三本の線。硝子の女神に至る鍵。
間違いない。
玲央の鼓動が速くなった。
その瞬間、視界の端で赤が揺れた。
月城アヤメだった。
アヤメは、玲央の動きを読んでいたかのように反対側からケースに近づいていた。彼女は誰かと会話をしながら、手元だけを静かに動かす。細い指。赤いネイル。まるで展示品を指し示しているだけの動作。
次の瞬間、会場の一角でグラスの割れる音がした。
小さな悲鳴。視線がそちらへ流れる。
玲央は動いた。
だが、アヤメも同時に動いた。
二人の動きは、ほとんど鏡合わせだった。表向きは、驚いた招待客がケースのそばで身を引いたように見える。実際には、その一瞬の中で、二人は同じものへ手を伸ばしていた。
玲央の指先が台座の縁に触れる。
アヤメの指が、その上から玲央の手首を押さえた。
白い手袋と赤い爪が、展示ケースの影で交差する。
「早いのね」
アヤメが囁いた。
「邪魔をしないと言ったはず」
「見物とは言ったけど、手を出さないとは言ってない」
玲央は笑顔のまま、手首を返した。アヤメの指を外す。だが、アヤメはさらに踏み込んだ。近すぎる。香水の匂いが濃くなる。
周囲から見れば、二人の女性がケースの前で軽くぶつかっただけだ。
「失礼」
玲央は言った。
「こちらこそ」
アヤメは笑った。
その瞬間、玲央の首筋に冷たい感触が走った。
アヤメの指が、ウィッグの固定位置に触れていた。
玲央の背中が強張る。
この女、分かっている。
玲央は反射的に身を引いた。アヤメの指先が、黒髪の一房をかすめる。固定ピンの一本が外れかけた。ウィッグ全体がずれたわけではない。だが、玲央には十分すぎるほど危険な感覚だった。
「危ないわね」
アヤメが囁く。
「その髪、ずいぶん繊細」
玲央は微笑みを保った。
「女性の髪に触れるなんて、失礼ですわ」
「女性、ね」
アヤメの目が細くなる。
玲央は息を整えた。
ここで怒れば負けだ。焦れば負けだ。白河レイカは、怒鳴らない。逃げない。取り乱さない。
玲央は、外れかけた髪の一房を自然に耳へかける仕草で押さえた。
「御影様のお話、まだ続いていますわ」
「退屈だもの」
「退屈な話を退屈そうに聞かないのが、社交の礼儀です」
「あなた、いい女を演じるのが上手ね」
「演じる?」
「ええ。とても」
アヤメは一歩下がった。
その手には、何もないように見えた。
だが玲央には分かっていた。
台座の縁に隠されていた小さな金属片が、消えている。
取られた。
玲央は胸の奥が冷たくなるのを感じた。アヤメは玲央を妨害しただけではない。目的の一部を先に奪った。
御影の挨拶が終わり、拍手が戻ってくる。
咲良の視線が、こちらへ向いた。
まずい。
玲央とアヤメの接触は、普通の招待客同士の接触に見えたはずだ。だが、咲良は普通に見ない。違和感を見る。
玲央は、すぐに会場を離れる判断をした。
だが、その前に、アヤメが玲央の耳元で囁いた。
「次は、髪だけじゃ済まないかも」
「宣戦布告?」
「挨拶よ」
アヤメは優雅に去っていった。
玲央は数秒遅れて、別方向へ歩き出した。中央ケースから離れ、壁際の廊下へ向かう。トイレへ行く女性客の動線。そこを使う。
背後で、咲良が動いた。
玲央は振り返らない。
振り返れば、追われていると認めることになる。
廊下に出る。照明が少し暗い。会場の音が遠ざかる。玲央は歩幅を変えない。白河レイカは走らない。だが、曲がり角を過ぎた瞬間、玲央は速度を上げた。
スタッフ用の扉が見える。
入る。
その前に、背後から声が飛んだ。
「白河さん」
玲央は止まった。
振り返る。
氷見沢咲良が、数メートル後ろに立っていた。
「少し、お話を伺っても?」
玲央は、白河レイカの顔で微笑んだ。
「私に、何か?」
「先ほど、展示ケースの前で赤いドレスの女性と接触されていましたね」
「ええ。少しぶつかってしまって」
「お知り合いですか」
「いいえ。初対面です」
「そのわりには、ずいぶん親しげに見えました」
「女性同士ですもの。男性には分からない距離感もありますわ」
咲良の表情は変わらなかった。
「私は女です」
「失礼。警察の方だとは存じ上げませんでした」
「警察だとは名乗っていません」
玲央は、心の中で舌打ちした。
早い。
この女は、会話の綻びを拾う。
玲央は目を伏せた。
「では、私の早とちりですね。会場に警備の方が多いので、そう思い込んでしまいました」
「なるほど」
咲良は一歩近づいた。
玲央は逃げない。ここで逃げれば終わる。
「白河レイカさん」
「はい」
「招待客名簿には、あなたのお名前がありました。ただ、財団側の紹介者が不明瞭です」
「夫の関係です。私は詳しく存じません」
「亡くなったご主人の?」
「ええ」
「お名前は?」
玲央は答えた。
「白河秋人」
架空の名だ。設定上の夫。職業、没年、趣味、交友関係まで作ってある。
咲良はそれを聞き、わずかに目を細めた。
「秋人さん、ですか」
「何か」
「いえ」
咲良は、玲央の首元を見た。
外れかけたウィッグの位置。
玲央は、それを悟らせないために軽く髪へ触れた。自然な仕草。だが、自然に見せようとする仕草ほど、見る者が見れば不自然になる。
「髪、乱れていますよ」
咲良が言った。
玲央は笑った。
「先ほど、少しぶつかりましたので」
「直しましょうか」
「結構です」
即答だった。
一瞬、沈黙が落ちた。
玲央は、返事が速すぎたことに気づいた。白河レイカなら、やんわり断る。玲央は、触られる危険に反応してしまった。
咲良は、その反応を見ていた。
「失礼しました。女性の髪に不用意に触れるものではありませんね」
「ご理解いただけて嬉しいです」
「ただ」
咲良の声が、低くなった。
「あなたの髪は、少し重心が不自然です」
玲央の喉が、細く締まった。
咲良は続ける。
「髪型そのものではありません。首を動かすとき、髪の流れと頭の動きがわずかに遅れる。普通は気づかない程度です。でも、先ほど赤いドレスの女性に触れられたあと、その差が大きくなった」
玲央は笑みを保った。
「刑事さんというのは、女性の髪型にもお詳しいのですね」
「仕事柄」
「それで、私が何か悪いことをしたと?」
「まだ、何も」
「では、失礼しても?」
玲央は会釈し、歩き出そうとした。
咲良が言った。
「怪盗レオナ」
玲央は止まらなかった。
止まれば終わる。
だが、心臓が強く鳴った。
「最近、そう呼ぶべき犯人がいるのではないかと、私は考えています」
咲良は背後から続けた。
「女性に変装して、美術品や宝飾品の現場に現れる。目撃者は、いつも違う女性を証言する。けれど、歩行の癖と手の使い方が一致している」
玲央は、扉の前で立ち止まった。
「面白いお話ですね」
「あなたは、どう思いますか」
「物騒な世の中だと思います」
「そうですね」
咲良は一歩近づく。
「だから、気をつけてください。今夜は怪盗が来るかもしれません」
玲央は振り返り、白河レイカとして完璧に微笑んだ。
「ご忠告、感謝いたします」
扉を開け、廊下の奥へ入った。
扉が閉まる。
その瞬間、玲央は表情を消した。
咲良は、もうかなり近いところまで来ている。正体を見抜いたわけではない。だが、変装の存在には気づいている。ウィッグのずれまで見抜かれたのは痛かった。
玲央は人気のない廊下を進み、角を曲がった。
そこで、赤いドレスの女が待っていた。
「遅かったわね」
アヤメは壁にもたれ、余裕の顔で立っていた。
玲央は低い声を出しかけ、すぐに白河レイカの声へ戻した。
「それを返して」
「何を?」
「台座から取ったもの」
「あら。見ていたの」
「返せ」
今度は、玲央の地声に近かった。
アヤメは笑った。
「声、戻ってる」
玲央は一歩近づいた。
「月城アヤメ。それも偽名だろ」
「もちろん」
「お前は何者だ」
「あなたと同じ。仮面で生きてる怪盗」
アヤメは、赤いドレスの胸元から小さな金属片を取り出した。薄い板状の部品。そこには、父の手帳と同じ印が刻まれている。
玲央は手を伸ばした。
アヤメは引いた。
「だめ。これは私が先に取った」
「それは俺に必要なものだ」
「俺?」
アヤメの目が光った。
しまった。
玲央は一瞬だけ言葉を失った。
アヤメは、楽しそうに玲央の周囲を歩いた。
「完璧な未亡人が、焦ると『俺』になるのね」
「黙れ」
「声も落ちた。肩も戻った。歩幅も男に戻りかけている。怪盗レオナ、あなた、案外かわいいところがあるのね」
玲央は、アヤメの手首を掴もうとした。
アヤメは身をひねってかわした。赤いドレスの裾が翻る。次の瞬間、彼女の指が玲央の首元へ伸びた。
玲央は防いだ。
しかし、アヤメの狙いは首ではなかった。
ウィッグの留め具。
細いピンが一本、抜かれた。
玲央の髪がわずかに浮いた。
危険なずれだった。正面から見れば、まだ分からない。だが、近距離なら分かる。後頭部を見られれば終わる。
玲央はアヤメの腕を押さえた。
「悪趣味だな」
「怪盗同士の挨拶よ」
「人の変装を崩すのが?」
「変装は守るものじゃない。剥がされても演じ続けるもの」
アヤメは玲央の手を外し、身を引いた。
「あなたは、仮面が少しずれるだけで動揺する。まだ未熟」
「返せ」
「嫌」
アヤメは金属片を握ったまま、廊下の奥へ走った。
玲央は追った。
白河レイカの歩き方は、もう捨てていた。ヒールの音が硬く響く。コルセットが呼吸を邪魔する。補正具の重みが、動きの邪魔をする。変装は潜入には向いている。だが、追跡には向かない。
それでも、玲央は走った。
廊下の角を曲がる。非常口の表示が緑に光る。アヤメの赤いドレスが、その先で翻る。玲央は手を伸ばした。あと少し。
背後から扉が開く音がした。
「止まりなさい!」
咲良の声。
最悪だった。
玲央は一瞬で判断した。アヤメを追えば、咲良に捕まる。咲良を振り切れば、アヤメに逃げられる。
アヤメは振り返り、笑った。
「また会いましょう、レオナ」
そして非常階段へ消えた。
玲央は歯を食いしばった。
咲良の足音が近づく。
玲央は反対方向へ走った。スタッフ用の通路を抜け、リネン室の前を過ぎる。ホテルの構造は頭に入れてある。だが、細部まで具体的に使う余裕はない。今は、とにかく人の流れに戻る必要があった。
玲央は小さな控室に入った。
扉を閉め、鏡を見る。
ウィッグがずれていた。
後頭部の固定が甘い。メイクも、アヤメとの接触で頬の一部が乱れている。白河レイカとして会場に戻るには危険すぎる。
玲央は鞄を開け、最低限の修正をした。指が少し震えていた。こんな失敗は久しぶりだった。いや、失敗ではない。まだ捕まっていない。だが、目的の金属片は奪われた。咲良には疑われた。アヤメには弱点を見られた。
完敗ではない。
だが、勝利でもない。
玲央はウィッグを押さえ、深く息を吐いた。
鏡の中の白河レイカが、少し崩れている。目元の柔らかさが消え、黒瀬玲央の苛立ちが滲んでいた。
「……何が、完璧だ」
小さく呟いた。
そのとき、廊下の向こうから咲良の声が聞こえた。
「この周辺を確認して。黒いドレスの女性です。髪型が乱れている可能性があります」
時間がない。
玲央は鞄から薄いスカーフを取り出し、髪を隠すように巻いた。喪失感のある未亡人から、体調を崩した招待客へ設定を切り替える。顔色を悪く見せるために、唇の色を少し落とす。声も変える。先ほどより弱く、疲れた声へ。
白河レイカは、まだ死んでいない。
玲央は扉を開けた。
廊下に出た瞬間、ホテルスタッフと目が合った。
「お客様、大丈夫ですか」
「少し、人に酔ってしまって……」
「医務室へご案内しましょうか」
「いいえ、少し外の空気を吸えば」
玲央は弱々しく微笑んだ。
スタッフは疑わなかった。むしろ心配そうに道を譲った。
玲央は歩いた。
咲良の足音が、背後の廊下に近づいてくる。
玲央は振り返らない。
ロビーへ出る。人が多い。安全でもあり、危険でもある。玲央はコートを受け取り、ゆっくりと出口へ向かった。
そのとき、背後から咲良の声がした。
「白河さん」
玲央は止まった。
またか。
今度こそ、逃げきれないかもしれない。
玲央は振り返った。
咲良が立っている。息は乱れていない。目だけが鋭い。
「お帰りですか」
「ええ。少し体調が優れなくて」
「先ほど、スタッフ通路に入られましたね」
「道に迷いました」
「招待客が入る場所ではありません」
「だから、迷ったのです」
咲良は近づいてきた。
玲央は、スカーフの下でウィッグがずれていないことを祈った。
「髪を隠されたんですね」
「乱れてしまいましたので。人前で見苦しい姿を晒すのは恥ずかしいですから」
「見せていただけますか」
「お断りします」
「なぜ?」
「恥ずかしいからです」
咲良はじっと玲央を見た。
ロビーの喧騒が、遠く感じられた。
玲央は白河レイカとして立っている。だが、体の内側では黒瀬玲央が警戒している。コルセットが呼吸を浅くする。補正具が肩の動きを制限する。ウィッグの下で、汗が滲む。
咲良は言った。
「あなた、何かを隠していますね」
「誰にでも、隠したいことくらいあります」
「それは、犯罪に関わることですか」
「刑事さんは、初対面の女性にずいぶん失礼なことをお聞きになるのですね」
咲良の視線が、玲央の白い手袋に落ちた。
「その手袋、外していただけますか」
「嫌です」
「理由は?」
「手荒れがひどいので」
「そうですか」
咲良は、それ以上踏み込まなかった。
だが、逃がしたわけでもない。
「では、お気をつけて」
「ありがとうございます」
玲央は会釈し、外へ出た。
ホテルの車寄せには、雨の匂いが残っていた。タクシーが一台、滑るように近づく。玲央は乗り込んだ。
ドアが閉まる。
車が動き出す。
玲央は、ようやく息を吐いた。
タクシーの窓に、白河レイカの顔が映っている。スカーフで髪を隠し、唇の色を落とした、疲れた女。
だが、その目だけが玲央だった。
携帯端末が震えた。
ナナセからの連絡かと思った。
違った。
差出人不明。
画面には、短い文章が表示されていた。
――今夜は引き分け。次は、あなたの仮面を全部剥がす。
添付された写真が一枚。
そこには、小さな金属片が写っていた。台座から抜き取られた、父の手帳と同じ印を持つ部品。
玲央は奥歯を噛んだ。
次の瞬間、もう一通、別のメッセージが届いた。
今度は、見慣れた番号ではない。だが、文面を見れば誰か分かった。
――白河レイカ様。今夜のお話の続きを、いずれ聞かせてください。警視庁捜査二課、氷見沢咲良。
玲央は画面を見つめた。
アヤメには、仮面の弱点を見られた。
咲良には、仮面の存在を疑われた。
御影には、まだ届いていない。
そして父の手がかりは、ライバルに奪われた。
タクシーは夜の湾岸道路を走る。濡れたアスファルトに街の光が流れていく。玲央は窓の外を見た。硝子に映る顔は、女でも男でもない。白河レイカでも、黒瀬玲央でもない。崩れかけた仮面が、そこにあるだけだった。
玲央はスカーフを外し、ずれたウィッグに手をかけた。
少し力を入れれば、簡単に外れる。
黒い髪が、膝の上に落ちた。
その下から現れた自分の髪を、玲央はしばらく見ていた。
素顔に戻ったはずなのに、戻った気がしなかった。
「月城アヤメ……」
玲央はその名を呟いた。
もちろん偽名だろう。
だが、次の標的は決まった。
アルビオンの星ではない。御影でもない。まずは、あの赤いドレスの怪盗を追う。
父の手がかりを奪った女。
自分の変装を崩した女。
そして、怪盗レオナの名を知っていた女。
タクシーの中で、玲央は白い手袋を外した。指先に残った化粧粉が、薄く光っている。
今夜、白い手袋の女は敗れた。
だが、黒瀬玲央はまだ終わっていない。
硝子の街の向こうで、ホテルの灯りが小さくなっていく。
その光は、まるで盗み損ねた星のように、いつまでも玲央の目に焼きついていた。




