第五章 至高の魔法(4)
ジーニー・ルカは、常に、個人認証システムIDは不可侵と言った。
IDとは不思議なシステムだ。
個人を認証するばかりでなく、その資産、信用余力、権力、すべてを保証する。
共通通貨『クレジット』は、IDこそがその価値を裏打ちしている。
全知の魔人に、IDに対する不正を、幾度となく命令してきた。
彼は、必ず、不可能だ、と返した。
だから、迂回システムで信用情報を移転したり、旅券情報によるごまかしを使ったり、停止中のIDを隠れ蓑にしてみたり。
そんなトリックを使ってこなければならなかった。
絶対不可侵のID。
そして、そのIDは新連合が――。
そうだ、ラウリは何と言った?
自由圏は、IDとクレジットを拒否することで、新連合の支配から逃れていると言ったのではなかったか?
IDとクレジット。
新連合が、千年も前から運用してきたシステム。
僕の頭は、千年の時間を旅する。
アンビリアからの究極の一撃を受けた地球の国々。
純軍事的にも、経済活動の上でも、事実上支配された星となった地球。
みじめに地を這う存在に成り下がる地球人たち。
そんな時、それでも、対抗する力を欲する人々がいた。
自ら戦うことを選んだ人々がいた。
戦う自由を幸福と感じる人々がいた。
彼らは、民族やイデオロギーの対立を乗り越えるために核兵器を捨てるという大きな決断さえ成し、一つの新国家を築いた。
それと同時に、一つの統一システム。
IDを。
あらゆる不正から自らを守る鉄壁のシステムを。
そこに、どれだけの頭脳が犠牲に捧げられただろう。
果たして、IDは全知の魔人からさえ自らを守る最強のシステムとなった。
新連合は、そのシステムを、喜んで宇宙人たちに使わせた。
強固で便利なIDと、信用の高い通貨クレジットは、宇宙で共通の言語となった。
いつしか、宇宙はそれ無しでは成り立たなくなっていた。
軍事的な支配に甘んじた地球人の、最後の抵抗にして、大逆転の反攻だった。
それはまさしく、IDによる大侵略だった。
地球人は、IDという最強兵器で、宇宙を静かに支配していたのだ。
その真なる姿を見抜いていた、自由圏の国々を除いて。
すべての宇宙人たちは、IDという臍帯で、いまだ母なる地球につながれていたのだ。
***
我に返ると、コンラッドの真っ青な顔が僕の視界に飛び込んできた。
『オオサキ外交官殿……そのようなことが、あなたの一存でできるとは……思えません』
『私は本件に関して全権を任されています。証明が必要なら今すぐ、ロックウェル領域内のIDとクレジットを停止いたしましょう』
『お待ちを! どうぞお待ちを! ただいま、連合議会に確認を』
そう言って、コンラッドは画面から飛び出していった。
「……君の言った通りになった」
僕がセレーナに対してつぶやくと、
「ええ。地球はきっと私の味方をしてくれると思っていた。ここまでの英断を期待していたわけじゃないけれど。ありがとう、オオサキ外交官殿」
それに対して、母さんは軽くうなずいた。
『奥の手はいくつも用意しておくものです。私にはまだあと二つ、全権を任された奥の手がございました』
そんな秘密を、さらりと微笑みながら小さく漏らす母さんは、しかし、すぐに笑みを消した。
『しかし、これからが大変ですよ、殿下』
「大丈夫です。私には……頼りになる騎士がついています」
『……そのようですね』
セレーナが、僕を見つめる。
僕は思わず目線をそむけてうつむく。
彼女は僕のことをどう思ってるんだろう。
ずっとそばに置いてくれるのかな。
僕を……たとえば、たとえばの話だけど、その、夫のような存在として、そばに置いてくれたり、しないかな。
エミリアにとって一番大切な存在を、僕は、ただの恋心で、エミリアから奪ってしまってもいいのかな。
ああ、どうすればいいんだろう。
セレーナとの別れが近づいている。
そんな予感がする。
なんでもっと早く気付かなかったんだろう。
もっと早く気付いて、愛を告げて。それで彼女が馬鹿を言うなと蹴っ飛ばしてくれていれば。
彼女との時間はとても残り少ないはずで。
だったら、むしろなぜ最後まで、僕は気付かずにいられなかったんだろう。
こんな気持ちに気付かずにいれば、悩むことなんてなかったはずなのに。
僕は、馬鹿だ。
セレーナにもう何百回も言われて、さすがに自覚はしているけれど、自分をここまで馬鹿な男だと思ったのは、初めてだ。
目を上げると、優しい微笑みで僕を見つめているセレーナがいる。
「ああ、あ、あの、ちょっとお手洗いに」
僕は耐えきれずに立ち、彼女と視線を合わせないようにコントロールルームを出た。
***
僕はいつからセレーナが好きだったのかな。
分からない。
ずっと一緒にいて、悪態をつきあって。
そんな時も、彼女のことが好きだったのかな。
ジーニー・ルカが言った。
指を絡め合ってキスをしろ、と。
あのとき僕は、その耽美な妄想に、腰が浮くような気持ちになった。
だから、あいつめ、知ってたんだ。
知っててからかったんだ。
僕の気持ちを。
知能機械が、人間の恋を解するなんて。
冗談にしてもひどい。
いっそ、ジーニー・ルカに聞いてやろうか。
僕はいつからセレーナのことを好きだったんだ、って。
きっと彼は正しい答えを口にする。
ああ、でも、僕が知りたいのはそんなことじゃない。
セレーナは、僕をどう思っているか、だ。
思い出してみると。
僕を気遣う口調。
僕に向ける微笑み。
僕を信頼すると見つめる瞳。
全部、全部。
彼女も、僕に同じ気持ちを抱いていてくれたんじゃないか。
そうだ、そうに違いない。
……と思いたいんだけれど。
何もかもがそう見えてしまう僕は、たぶん、とっくに狂ってる。
手を清めるための簡易手洗い器に顔を突っ込んで乱暴に拭う。
せめて、この仕事が終わるまで、正気でいなくちゃ。
この気持ちを、できるだけ心の奥深くに秘めて。
そうしなくちゃ。
***
僕がトイレから管制室に戻ると、ちょうどコンラッドが戻ってきたところだった。
彼は、苦々しげに目の前のパネルを睨み付けた。
『……殿下』
彼の呼びかけに、セレーナは、微笑みで返した。
『我が国の結論が出ました。殿下は、エミリア王族の誇りにかけて、ファレンへの不当な試みを撤回すると約束されました。であれば、国運をかけてまで一戦を交える必要もありますまい』
それは、ロックウェル連合から地球新連合国への降伏宣言だった。
同時に僕らの勝利の宣言。
たった五人――いや、六人の子供が、宇宙すべてを相手に戦った戦争の、勝利。
「寛大な処置、感謝いたします、コンラッド閣下。次にお会いするのは、平和的な交渉のテーブルで、ということになりましょう」
『でしょうな。……どうぞお手柔らかに』
最後にコンラッドは苦笑いに似た表情を浮かべ、そして、通信線を強引に切った。
彼の最後の表情の意味は、結局よく分からない。彼なりに思うところがあるのだろうな。
『それでは殿下、私も失礼いたします』
母さんがパネルの中で再び一礼した。
「はい、オオサキ殿、ありがとうございました」
『もったいないお言葉。ただ、一つ』
「何でございましょう」
『殿下の留学先の担任の先生がカンカンに怒っているようです、せめて春の学期末考査を受けていただけますよう』
それだけ言って、母さんのパネルも真っ黒に戻った。
セレーナは、消えたパネルを見つめて、くすっと笑った。
「やっぱりこの宇宙には、教師を黙らせる権力なんて無いらしいわね」
「……だね」
僕も思わず口の端から笑みを漏らした。
前にも、彼女はそんなことを言ったな、なんて。
それからセレーナは、優しい笑みをすぐに厳しい表情に変え、ロッソの映っているパネルに目を向けた。
「……摂政様、私はすぐにでもエミリアに戻ります。その後のことは、そこでお話ししましょう」
『……はい、殿下』
敗北を悟ったロッソの顔も、パネルから消えた。
エミリアの町は、まだ白とオレンジのハンカチであふれかえっていた。
カノン基地の外側を映すモニターパネルの中に、オレンジの筆記体でドルフィンとしたためられた真っ白な宇宙船が近づいてくるのが見えてきたのは、その時だった。




