第9話:ハイ・エルフ、高級カカオの『壁』に頭を抱える
「王室御用達を目指すよ!」
マルタさんのあの高らかな宣言から数日。私たちは首都アルグスヴルクでの『開国記念祭』を前に、ここサイディーンの店舗で新商品のチョコチップパンを先行販売してみることにした。
エルフの目利き、オークの技、そして南の国の極上カカオ。完璧な調和を識った私たちは、期待に胸を膨らませて開店の時間を迎えたのだった。
――しかし、結果から言えば、売り上げは芳しくなかった。
「うーん……味は本当に、これまでに食べたどんなお菓子より最高なんだけどねぇ……」
そう言って、申し訳なさそうに去っていくのはコボルトの主婦さんだ。
カウンターの前に立っていても、お客さんたちの反応は判で押したように同じだった。店頭に出した試食用の一切れを口に含んだ瞬間、誰もが目を輝かせ、絶賛に近い感想を口にしてくれる。
「こんなに濃厚で気品のある香りは初めてだわ!」
「噛むたびにハーブの爽やかさが追いかけてきて、いくらでも食べられそう!」
そこまではいいのだ。味に関しては、間違いなく百点満点だった。
だけど、皆、最後に値札を見て一様に顔を引きつらせ、躊躇してしまう。
『特製カカオブレッド:一個・銅貨十枚』
この国マルセークの物価において、私たちがいつも出している普通の堅パンや白パンなら、銅貨二枚も出せば一斤が丸々買えてしまう。
つまり、このチョコパン一つのお金があれば、普通の主食としてのパンが五斤ほどは買えてしまう計算になるのだ。
「……やっぱり、大衆店で一つ銅貨十枚のパンは高すぎましたかね」
私はカウンターに突っ伏し、長い耳をペタリと寝かせて頭を抱えた。
「いや、通商ギルドの最高級カカオをわざわざグリフォン便で空輸させてるんだよ? これでも利益はギリギリ、原価を考えたらこれ以上はビタ一文下げられないんだよ……」
マルタさんもレジの横で、珍しく眉間に深い皺を寄せて腕を組んでいる。
「ちぇっ、さっき一人だけ、やたらと身なりのいい金持ちの好事家が『これは素晴らしい!』って二個ほど買って行ってくれたけどよ……。それ以外はさっぱり鳴かず飛ばずだぜ。これじゃあ仕込みの苦労が水の泡だ」
ドリーも厨房から粉まみれの顔を出し、突き出た牙を不満げに鳴らした。
どれだけ味が良くても、日々の暮らしを営む大衆の財布の紐は固い。
このままでは、来月の開国記念祭に乗り込んでも、一般の屋台の中に埋もれて大赤字を出すだけになってしまう。王室御用達なんて夢のまた夢だ。
夕暮れ時になり、客足も完全に途絶えた。
カウンターの上の棚には、形を保ったまま寂しく売れ残った漆黒の高級パンが、まだいくつも転がっている。
「マルタさん、これ……このままにしておいたら、明日には固くなって風味が落ちちゃいます。どうしましょう……」
「……そうだね。捨てるなんて絶対に嫌だよ。ユウ、ドリー、その売れ残りを今すぐ厨房に下げておくれ。細かくスライスするんだ」
「スライス、ですか?」
「ああ。一個丸ごと銅貨十枚じゃ手が出なくても、薄くスライスして一切れずつにすれば、値段をぐっと下げられる。銅貨一枚、いや、二枚くらいなら、いつもの常連さんだって『今日のご褒美』に買ってくれるかもしれないだろ? とりあえず、今日仕込んだ分の損を少しでも出さないように、スライス売りでしのぐのさ」
マルタさんの素早い決断に、私とドリーはすぐに動いた。
ドリーが大きなナイフを繊細に操り、漆黒のチョコパンを等間隔に美しくスライスしていく。私はそれを一枚ずつ、丁寧に清潔な油紙で包んでいった。
「よし、これを『一切れ・銅貨二枚』で、夕方の仕事帰りの人たちに売り出すよ!」
即席の看板を店頭に出し、私は再びカウンターに立って声を張り上げた。
丸ごと一個は買ってくれなくても、仕事終わりにちょっと甘いものが食べたいという職人や、子供へのお土産にと、スライスされたパンは少しずつ、けれど確実に街の人々の手に渡っていった。
夜になり、なんとかその日の在庫を全て売り切ることはできた。
けれど、レジの中の売上金を数えるマルタさんの表情は、決して明るくはなかった。
「ふぅ……。なんとか今日の損失はしのげたけどねぇ……」
マルタさんは深いため息をつき、帳簿を閉じた。
「スライスしてバラ売りにすれば、サイディーンの街じゃ細々と売れることは分かった。だけどユウ、ドリー。これじゃあ、お祭りの目玉商品にはならないし、王室御用達なんて絶対に無理だよ。お祭りの会場で、わざわざ一切れずつのバラ売りパンをちまちま売るなんて、みっともない真似できるかい」
「味は絶賛、だけど塊のままだと値段で手が出ない……」
私は売上金の入った小さな革袋を見つめながら、再び深い、深いため息をついた。
この高級カカオの『壁』を打ち破る劇的な打開策を見つけなければ、私たちの開国記念祭への挑戦は、始まる前に終わってしまう。
夜の『ひだまりパン亭』。
香ばしいはずの厨房には、どこか重苦しい沈黙が広がっているのだった。




