第10話:ハイ・エルフ、トラウマワードに手刀を放つ
それからの数日間、私たちは高級なチョコチップパンを丸ごと一個で売るのを諦め、細かくスライスしたバラ売りパンとして店頭に出すことで、なんとか当座の損失をしのぐことにした。
通商ギルド連合国から仕入れた一級品のカカオだ。今ある在庫をそのまま開国記念祭の当日までもたせることは、鮮度的にも風味的にも絶対に出来ない。大衆相手の売れ行きこそ伸び悩んではいたけど、食べてくれた人たちの評価は驚くほど高いのだ。
「サイディーンの庶民の財布じゃ厳しくても、金持ちと貴族が腐るほどいる首都アルグスヴルクでなら、この塊のままで大々的に売り出せるかもしれない」
マルタさんの瞳の奥の野望は、まだ一ミリも消えてはいなかった。お祭りの本番でドカンと一発当ててやる。その執念と私のハーブの目利きを信じて、私たちはじっと爪を研いでいた。
*
そんな、ある日の午後のことだった。
カランカラン、とドアベルが鳴り、一人の男性が店に足を踏み入れてきた。
仕立ての良い豪奢な外套を羽織り、胸元にはキラリと光る銀のブローチ。やたらと身なりのいい、あからさまに上流階級のオーラを隠しきれていないお客さんだった。
「ふむ、ここがハーブパンで噂になっている『ひだまりパン亭』か。うむ、結構な店構えだ」
男は手にした高級そうな杖でトントンと床を叩きながら、物珍しそうに店内を見回した。
首都にでもいそうな大金持ちの登場に、私がカウンターの裏で少し緊張しながら長い耳を震わせた、その時である。
男の視線が、私に留まった。
男はパッと顔を輝かせ、信じられないものを見たという風に私を指さした。
「おお、これは見事なうすほそエルフ!」
「誰がうすほそエルフか!!」
バシィィィンッ!!!
考えるより先に、私の右手が閃いていた。
かつて、どんくさい私が進退窮まり、最後の手段として自分の身体を売ろうと娼館の門を叩いた際、「うすほそなお前の身体じゃダメだ」と冷酷に門前払いされた、あの屈辱のトラウマワード。それを初対面の男からド正面でぶつけられたのだ。
女としての最低限の尊厳にかけて、私はカウンターを乗り越えるほどの勢いで、男の脳天へと渾身の手刀を綺麗に叩き込んでいた。
「ぶふぉっ!?」
会心の一撃を食らった身なりのいい男は、高級そうな帽子をズレさせながら、その場によろめく。
と、その時だった。私たちのやり取りを後ろで見ていたマルタさんが、ガシャーン! と、珍しく手のお盆を床に落とした。その顔は幽霊のように真っ白になっている。
「ラ、ライル……陛下……!?」
「んー? ライル? 知らんなぁ。俺は通りすがりの反物問屋だ」
男は赤くなった頭をさすりながら、わざとらしく視線を泳がせて言った。
(――嘘だ。ぜってー嘘だ!!!)
私は心の中で全力のツッコミを炸裂させていた。
いくら私でも分かる。光の当たり方で淡く輝くその上着の生地、あれはエルフの森でも国宝級に扱われる、白銀の糸で縫製された服だ。軽い攻撃魔法なら自動で弾いてしまうような服を普段着にしているような奴が、しがない商人なんかであってたまるか。
……って、それよりも。
「へ、陛下ぁぁぁぁぁっ!?」
私の長い耳が、恐怖で真横にピンと突っ張った。
ライルって、確か数日前に私が図書館の歴史書で読んだ、この国マルセークの現国王、ライル・マキシマム陛下のことではなかろうか。
王室御用達を目指すと言ったその矢先に、私はこの国のトップの脳天に、渾身のチョップをぶち込んでしまったらしい。
終わった。私のパン屋ライフ、10話にして完全にお縄である――。




