第7話:ハイ・エルフ、空飛ぶ配達員に受領印を押す
大図書館での充実した休日を終え、私は心地よい足取りで我が家――『ひだまりパン亭』へと戻ってきた。
明日からの仕事に向けてエプロンをきゅっと結び直そう、なんて考えていたのだが、店の正面の大通りに差し掛かったところで、何やら周囲が異様に騒がしいことに気がついた。
「おい、上から来るぞ!」「進路をあけろ!」
街の人々が慌ただしく空を見上げ、道を開けていく。
一体何ごとだろうと私も釣られて視線を上空へ向けた瞬間、凄まじい突風が私の金髪と尖った耳を激しくなびかせた。
「ひゃああっ!?」
バサッバサバサバサッ!!
大きな影が太陽の光を遮り、大通りにゆっくりと舞い降りてくる。
鷲の頭と翼、 そして獅子の胴体を持つ、規格外の巨躯。エルフの故郷の森では、近づくことすら許されない最上級の危険魔獣――『グリフォン』だった。
「な、なんで魔獣がこんな街中に!? 警備隊は何してるの!? ヴォルフさん!ヴォルフさーーん!!」
私は腰を抜かしそうになりながら、近くの建物の物陰へと必死に身を隠した。
しかし、恐怖に震えながらそのグリフォンの様子を伺っていると、何だか様子がおかしい。その魔獣は獰猛に吠えることもなく、まるで訓練された優秀な猟犬のように器用にホバリングしながら、強靭な四肢でガッチリと掴んでいた巨大な木樽を、店の前にそっと着陸させ始めたのだ。
木樽の表面には、大きく『ひだまりパン亭・マルタ様宛』と書かれた紙が貼り付けられている。
「はいはい、ご苦労様。相変わらず早いねぇ」
店の奥から平然と現れたのは、仕入れに出ていたはずのマルタさんだった。
マルタさんはグリフォンの鋭い嘴や爪を怖がる素振りすら見せず、その太い首からぶら下がっている小さな木札を引っ掴むと、懐から取り出したインク付きの印章を、手慣れた動作でポンッ! と力強く押した。
「よし、受領印だよ。帰りも気をつけてね」
グルルゥ、とグリフォンは賢げな瞳を細めて喉を鳴らし、小さく頭を下げた。それから再び巨大な翼を広げて爆風を巻き起こし、あっという間にマルセークの青空へと飛び去っていった。残されたのは、土煙と、ずんぐりとした大きな木樽だけだ。
「……ま、マルタさん」
私は物陰からフラフラと変な姿勢で這い出し、開いた口が塞がらないまま、我が店の店主を見上げた。
「なんだいユウ、そんなとこで丸まって。仕入れから戻ったら、ちょうど特急便が届いてさ」
「と、特急便って……今の、ぐ、グリフォンですよね!? 国を滅ぼすこともあるっていう、あの飛行魔獣の王ですよね!?」
「何言ってるんだい。魔導石で作った『翻訳の輪』を嵌めて条件交渉すりゃ、あんなに賢くて力持ちの配達員は他にいないよ。お互いビジネスさ。彼らは高い知能を持ってるからね、無理やり隷属させてるわけじゃない。ちゃんとお給料を払って、誇り高く空の運送業をやってもらってるのさ。首都の問屋に朝イチで発注すれば、昼過ぎにはここサイディーンまで空輸してくれるんだから、便利な世の中さねぇ」
ミークロヴェレや魔導列車だけでもお腹いっぱいなのに、この国は高い知能を持つ魔獣とまで対等な契約を結び、最先端の物流インフラとして組み込んでいた。おそるべし、商人の国マルセーク。
しかし、と、グリフォンの飛び去った方角を見上げながら思う。彼らも、人間に滅ぼされるよりは共存を望んだのかもしれない。いくら飛行魔獣の王とは言え、多数の人間の弓手や魔導士に囲まれれば、討ち取られることもある。故郷の黄金樹の森にも、『群れた短か耳には気をつけろ』という警句がある。短命ゆえの繁殖力の高さは、馬鹿にできない。ううむ…。
「ほら、ユウ。ぼさっとしてないで、この樽を厨房に運ぶのを手伝っておくれ」
「あ、はい! ……お、重い……」
マルタさんに言われて木樽を傾けてみると、中に入っていたのは大量の小麦の粒だった。
私の鼻がクンと動く。間違いない、この間私が目利きをした『肥えた土地の小麦』と『痩せた土地の小麦』だ。マルタさんは私の見立てを信頼して、今度はそれぞれの個性を意図的に活かすために、分けて仕入れてくれたらしい。
自分の能力がこうしてお店の仕入れに直結している嬉しさに、私の長い耳が小さく震える。
――けれど、それ以上に。
私はマルタさんが腕にがっしりと抱えている、もう一つの小さな麻袋が気になって仕方がなかった。
その袋の隙間から漂ってくるのは、私の嗅覚を狂わせるほどに甘美で、ほろ苦く、そして濃厚な、あまりにも官能的な香り。これは、もしかしてもしかしなくても、麗しのカカオの香り……!
「ぎ、ぎぶみー、ちょこれーと……!」
私は我を忘れ、両手を幽霊のように前へ突き出しながら、麻袋めがけてフラフラと吸い寄せられた。よだれが垂れそうだった。
「どこで覚えてきたんだい、そんな言葉!」
パシィン、と私の額にマルタさんの軽い手刀が炸裂した。頭を軽くはたかれ、私は「あ痛っ」とようやく正気に戻る。
「あんたが言ってただろう。痩せた土地の小麦にチョコチップ混ぜたら、若い女の子に人気が出るかもってさ」
マルタさんは呆れたように笑いながらも、抱えた麻袋を少しだけ愛おしそうにぽんぽんと叩いた。
「……まあ、南の協商ギルド連合国からわざわざ輸入された高級もんだから、流石に安売りは出来ないけどね。これが上手くいって、貴族様の御用達にでもなるといいんだけどねぇ」
「マルタさん……。わざわざ私の思いつきのために、こんな高級なものを……」
胸の奥がじーんと熱くなる。
人間の世界において、カカオはまさに贅沢品の極みだ。大衆向けの『ひだまりパン亭』にとっては、かなりの大冒険に違いない。それを、新入りの、しかもどんくさい私のアイデアを信じて買ってきてくれたのだ。
「おいおいマルタ、そいつは本気かい?」
厨房の奥から、腕まくりをしたドリーが太い腕を鳴らしながら顔を出した。その突き出た牙が、珍しく緊張で少し強張っている。
「協商ギルドのチョコレートか。そりゃあ腕が鳴るねぇ。失敗したら俺の給料から天引きされちまう。おい尖り耳、さっさとそのカカオに一番合うハーブと小麦の配合を考えな!」
「はいっ! お任せください!」
私は元気よく返事をして、長い耳をピンと立てた。
ただ泥をすする覚悟で行き倒れていた私が、今や高級食材のチョコレートを使った新メニューの開発を任されている。
どんくさいハイ・エルフのパン屋ライフは、甘く、ほろ苦く、そしてグリフォンの翼に乗って、さらにとんでもない方向へと加速し始めるのだった。




